隼人石 -隼人説考-

27 隼人石は謎だらけ

 そもそも、隼人石には次のような基本的な疑問点がいくつかあります。

 ➀立像と踞像、全身像と半身像が混在すること
 ➁作成当初の像の数
 ➂聖武天皇皇太子との関係

➀に関しては、中国や統一新羅においても例がないようです。黒川真道氏は、複数の陵に置かれていた十二支像が散逸し、残ったものを全て奈保山に集めたため、立像と踞像が混在したという仮説を立てておられます。しかし、現在まで他の場所で同様の石像物は見つかっておらず、仮説の域を出ていません。

➁について、当初の石の数は4つ以上であったろうと考える傍証がいくつか存在します。たとえば、谷森善臣は次のようなエピソードを残しています。

大沢尚友云、南都ノ旧族松延長兵衛家イミジク衰ヘテ先年土蔵ヲ売ルコトアリケルニ同所三条ナル小嶋屋平右衛門ト云モノ其土蔵ヲ買得テ己ガ家地ニ運取トテ壊チタルニ其蔵ノ台石垣ノ石ノ中ニモノノ像(カタ)彫(エリ)タル石アリ。奇シミテ洗ヒ見ルニ初ハ何ノ像トモ見エワカレザリシガ、サマザマニモノシテ、狐ノ像ト見ナシテ<像上に東ノ字ヲ彫タリ>カノ平右衛門甚ク悦ビ己ガ家庭ニ小祠ヲ建テ其石ヲ稲荷ノ神トイツキ祭テ今モ在リト聞伝ヘタリ。按フニ、カノ七疋狐山上ナル隼人ノ像彫タル石トマタク同物ノ古ク零(ハグ)レテカク土蔵ノ石垣ニ積入ラレタルモノナルベシ。七疋狐ノ像上ニハ北ノ字アリ。コノ像上ニハ東ノ字アリト云ヘルモ、モト同地ニ在リシモノナルコトノ一ノ証ナラズヤト云ヘリ。
(谷森善臣『諸陵説』1855年)

今後も民家の石垣などから隼人石が発見されないとは言い切れません。
また、同じく谷森が記録した『南都街坊事跡考』には次のようなエピソードもあります。

古老云、佐保山に今在る隼人の神石、むかしは此の村春日社の傍に在しなり。これは松永久秀佐保山に城を築しとき、神石を恐て、こゝに捨させしものならん。のちに土人旧地へはこびもどせり。
(谷森善臣『諸陵説』1855年より引用)

この石はいわゆる「函石」のことだろうと推測されますが、松永久秀が多聞城築城の際に石を供出させたとき、隼人石も混じった可能性は十分考えられると思われます。(林宗甫が2石を見落としたように、摩滅した隼人石はただの石にしか見えなかったと思われます。あるいは、いわゆる呪術的な力で城を守る「転用石」として使った可能性もあります。また、高取城の猿石には、欽明帝陵から運ばれたとの伝承があります。)
 とはいえ、12個そろっていたかはわかりません。ましてや、黒川真道氏が考えるように複数セットあったとは考えにくい状況です。

➂については、➁に示したように隼人石が移動させられた可能性があるとすると、聖武天皇皇太子との関係も怪しくなってきます。そもそも、この地が聖武天皇皇太子の那富山墓と治定されたのは、谷森善臣の次のような記述が大きく影響したと思われます。

然るに松下見林・並河永等が筆記にようらうが峯と大こくが芝と七疋狐と云所とをひとつに混して、この狗石もようらうが岑の筥石も一所に在しものゝごと述(イ)へるは、土人の物語などを打ぎゝに記したりしものにて、その地勢に委しからざりしより起りたる誤なるを、成によくその地形を知得ては、ようらうが峯に在し物の零出むには、その山つゞきなどへこそ、持行も為べかめれ。岑をこえ谷をわたりて大こくが芝、七疋狐などへ持運ぶべき理なきことを知りぬべければ、猶此狗石はもとより大こくが芝<大皇大后藤原宮子媛の佐保山西陵なるべし>、或は七疋狐の山<今按に聖武天皇の皇太子の那富山御墓にはあらざるか>に建られたりし石にして、元明天皇御陵に関係るべき物にあらざることを熟(ウマ)く心得べきこと也かし。
(谷森善臣『山陵考』1867年 ※勤王文庫. 第3編 (山陵記集))

 これを見る限り、谷森も確かな根拠を持っていたわけではなく、一つのアイデアに過ぎなかったようです。
 もし隼人石が聖武天皇皇太子と無関係であるならば、細呂木氏が指摘する年代の矛盾は解消されるかもしれませんが、一方で隼人石の由来に関する大きな手掛かりを失うことになります。


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