隼人石 -隼人説考-
26 十二支像説への疑問
結局のところ「隼人石」に彫られたものは何なのでしょうか。
明治末期以降、「十二支像説」が通説となっていますが、全く異論がないわけではありません。たとえば、細呂木千鶴子氏は、
➀中国・新羅における十二支像の作成年代
中国・統一新羅で獣頭人身像を確認できるのは8世紀半ばからであり、聖武天皇皇太子の死(728年)より後である。
➁「北」の文字の存在
「子」自体が北を示すのであり、わざわざ文字を添えているのは不自然であり、類例もない。
➂裸形であること
中国・統一新羅の獣頭人身像は文服または武服を着ており、裸形はきわめて少ない。
➃獣頭が曖昧であること
中国・統一新羅の獣頭人身像はそれぞれの動物の特徴をよく表し、見分けが容易につくのに対して隼人石の顔部分はどれもよく似ている。
以上4点の疑問を呈したうえで、聖武天皇の時代に、初めて葬儀に方相士が設置されたことを挙げ、陵墓の四方四隅の邪を払う方相氏の代理として、宮門の警護に当たった隼人の像を置いたのではないかと推理されています。
また、福山敏男氏は、「隼人石は新羅の十二支神像からの系統を引いてはいるにしても、さほど純粋に外来形式を守っていない。その間に、天皇の宮廷をまもる隼人たちの踊りの姿が入りこみ、重なって、日本独特の十二支神像の姿がここに生まれたものではあるまいか。」と十二支像に隼人舞の姿が重なったものとし、「江戸後期以来の隼人説にも、弊履のように捨て去り難いものがあるように思われてくる。」と考えておられます。
さらにまた、斎藤忠氏は『隼人石の数について』の中で、第2石を酉、第3石を午と考え、「新羅の十二支像のある墓制の影響を受けながらも、これを四個に、すなわち東・西・南・北の方位にあわせた子・卯・午・酉像のみにしたことに、日本の当時の大陸文化受容の一形式があらわれているのである。いわば大陸文化を縮小したのである。」と、推理されています。
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