隼人石 -隼人説考-

25 元明陵の鬼石

 さて、隼人石を最初に紹介した林宗甫はなぜ、石の所在地を元明帝陵だとしたのでしょうか。そこには、次のような『今昔物語集』の記事が関係していると思われます。

今昔、元明天皇の失給へりける時、陵取らむが為に、大織冠の御一男定恵和尚と申ける人を差して、大和国へ遣しけり。 然れば、吉野の郡蔵橋山の峰、多武の峰の岸重れるが後に峰有り。前へに七の谷、向て有り。定恵和尚、此れを見給て、「哀れ、微妙かるべき止事無き地かな。但し、天皇の御墓所にては、左右は下れり。□□の人、有らじ。前々も狭きに依て、取らざりける也けり」とて、取らざりぬ。 然て、其の麓に、戌亥の方に広き所有り。其れを取りつ。軽寺の南也。此れ、元明天皇の檜前の陵也。石の鬼形共を廻□池辺陵の墓様に立て、微妙く造れる石など、外には勝れたり。 … 後略 …
(『今昔物語集』巻31第35話 元明天皇陵点定恵和尚語 第卅五)

 この記事には人物関係や場所に矛盾があり、現在では「元明」は「欽明」の間違いであり、「石の鬼形共」は「猿石」として知られる謎の石造物を指すと考えられています。
 しかし、「猿石」が発見されたのは1702年の事であり、「猿石」の存在を知らなかった宗甫は、この『今昔物語集』の記事から、元明陵には何らかの石造物があると考え、地元で「狐石」と呼ばれていたものを「元明陵の鬼石」に当てはめたと推測されます。

 ところで、「猿石」は好古家や国学者にも注目され、荒木田久老や藤貞幹が自説を展開しています。

それゆ欽明天皇の御陵にまうづ。これは平田村より岡へゆく道の北なり。のぼりてをがみまつる山上はことことく礫石(さゝれいし)をもておほへり。その山の中ほどに石にて彫たる人あり。ひとつは男の形(すかた)はかまをかかげて、陰処(ほと)をあらはせり。ひとつは女の形(すかた)左右の手して胸乳(むなち)をかくして、こも陰処(ほと)をあらはせり。男女ともにあたまにかぶれるものなど今の世にはめなれぬさま也。ひとつは法師に、ひとつは猿に似たり。すべて四ツ皆高さは四尺まりもあらん。いとあやしきもの也。こはいかなるゆゑともしらねど、もしは鈿女(うずめの)命のなしませしわざをきにならひてかゝるをかしき人わらへなる形をゑりて御陵におきてみたまをおき奉れるいにしえ人の所為(しわざ)にや。いにしへしぬぶ人等、是かならずかならずゆきて見るべきもの也けり。
(荒木田久老『やまと河内旅路の記』1782年)
往年 欽明帝陵ノ辺ノ田間ヨリ石人四躯ヲ掘出ス。一ハ一石三面、一ハ一石四面、一ハ一石三面、一ハ一石二面、後土人此ヲ陵上ニ列ス。俗呼テ七福神ト称ス。固ヨリ意義ナシ。亦其形製何ノ意アルコトヲシラズ。或云、古昔石工ノ戯ニ鐫ル所ナラント。或ハシカラム。
(石造物の詳細な写生図 下図参照)
此石人列立ノ正中ニアリ。俗下平田村ノ山王権現ト称ス。
(藤貞幹『好古日録』1796年)
図13

 特に『大和名所図会』が長文の解説文をつけて紹介したため、世間の耳目を集めました。

欽明天皇陵
平田村にあり。俗に梅山といふ。…(中略)…此陵を御経山ともいふ。此山に石仏の四体あり。内三体は背にも一面づゝあつて両面の像也。又二体は膝の傍にも面貌の如きのものあり。是を数れば四躯九面なり。元禄十五年十月五日平田村池田といふ所にして掘出せし石像なり。面貌猿の面なりとて掘出しの山王権現と称す。是妄談俗説にして伝ずるに足らず。同郡高取山の奥壷阪寺奥院五百羅漢の石像あり。これは其始め高取山に塁を城(きづき)しとき高山にして大石運送に人多く死す故に石塁成就しがたし。数多の石工これを嘆き、壺阪の観音に立願し、終に功を成せり。此即大悲擁護の力とて其願を満しめんため数百の石工各一体二体を彫造し、巨巌の面に羅漢を彫たるもあり。然則ば此四駆も其時彫造せしもの必せり。但背の方に面貌あるは初て造りかけしを指置(さしをき)、石をとりなをし造るといへども、なをその意に叶はざるは、その儘に打捨置しものならん。能々石像を見るに半造にして悉く仏体成就のものにあらず。然るを平田村池田の土中に久しく埋れありしを元禄中穿出し此梅山にすへ置き種々の因縁を伝ふるものならん。
(秋里籬島『大和名所図会』1791年)

 それぞれの石の様子などを詳細に挙げ、その用途を詮索しますが、どれも『今昔物語集』や「隼人石」との関係については触れていません。
 どうやら「猿石」発見後も「元明陵の鬼石」は訂正されず、むしろ「元明陵の狐石」を経て「元明陵の隼人石」へと変化して受け継がれ、定説化していったものと思われます。

 一方で、国学者はそもそも「隼人石」にあまり興味を持っていなかったのでしょう。研究対象となる文献に登場しないのですから当然です。伴信友にしても「隼人の狗吠」の傍証として紹介しているのであって、隼人石自体が関心の対象ではありません。
 本居宣長や鈴屋門流も全く無視しているようです(宣長は晩年、七疋狐を訪ねていますが、隼人石についての言及はありません)。荒木田久老は1782年(天明2年)の大和河内の旅で、すぐ近くまで来ていたのに、隼人石についての記述はありません(『やまと河内旅路の記』)。
 江戸においては屋代弘賢が紹介したので一定広まったようですが、『集古十種』でも隼人石が「大和国奈良佐保山碑」と誤って紹介されているように、検証は進まなかったのでしょう。


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