隼人石 -隼人説考-
24 大皇后派
一方、大皇后派はそのルーツを『大和志』に見ることができます。秋成の『山づと』は、『大和志』(文中では『輿地志』)を参照しながら旅をしていることが何度か書かれていますし、北浦定政の『大和御陵考遺稿』も、
と『大和志』を引き合いに出しています。
大皇后派がこだわったのは、隼人石のある地名です。地元の人が「だいこくの尾(芝)」と呼ぶからには、隼人石があるのは大皇后藤原宮子とゆかりの地であると推理したのでしょう。
地理的矛盾は解消された一方、地名にこだわった上に火葬地としたことで御陵との関係は薄れてしまい、隼人説の根拠である「宮墻を守る」ということに関してはやや説得力を欠いてしまいました。事実、幕末の山陵研究家である北浦定政は像の正体として隼人を挙げていませんし、蒲生君平の消極的な態度もこのあたりに原因があるのかもしれません。
ところで、元明帝派と大皇后派とにはもう一つ相違点があります。元明帝派が、獣頭人身の説明として「犬衣」や「狗装」を着していると考えたのに対して、大皇后派は秋成の「音鳴き」くらいでほとんど説明がありません。
秋成が「音鳴き」を出してきたのは万葉歌の影響であろうと先に書きましたが、「音鳴き」では像が獣頭である説明にはなっていません。獣頭の理由を説明するには人間が「犬」の格好をしたのだという犬衣や狗装の方が、格段に説得力があります。この点にも元明帝派が受け入れられた原因があるのではないでしょうか。
さて、『大和名所図会』の「犬衣」について、福山敏男氏は「これは、『犬吠を発する』の誤記ではあるまいか。あるいはまた貞幹のいう『狗装』を『犬衣を着す』と書きかえたものであろうか。」と推測されていますが、案外、籬島が『延喜式』の「大衣」を「犬衣」と誤読したのを、うっかり弘賢あたりが狗装などと言い換えたせいですっかり定着し、覚峰の「狗のかぶりして杖つき犢鼻褌したるかたちなり」を参考にした伴信友に至って「隼人の狗吠して奉仕るときには、狗の仮面を被る例なりける」などという史実めいた表現になったのではないかと想像します。
『延喜式』では、吠声の際の服装が「横刀・木綿の鬘・緋肩巾」と決められており、平安期まで「狗吠」の衣装が変わらなかったとすれば、狗の仮面をつけることもなければ、裸で仕えたこともなかったはずです。このあたりからも「隼人」が江戸時代の人々には常ならぬ野蛮な種族か何かのように思われていたことがうかがえます。
なお、『大和志』と『駿台随筆』は、「狐を彫刻した巨石」という誤りを共有しています。年代を考えると『大和志』が『駿台随筆』に影響された可能性がありますが、室鳩巣がなぜ、大皇后を採ったのかは不明です。
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