隼人石 -隼人説考-

23 元明帝派

 元明帝派のポイントは隼人石が陵上または陵辺に建てられているという点にあります。元明帝派の集大成というべき伴信友の『比古婆衣』で、詳しく見てみましょう。

大和の国添ノ上ノ郡、奈保山の元明天皇の陵<土人、王塚といへり>今そのわたりの字を、大奈閉(オホナベ)山といふ。其陵辺に建てたる、犬石と呼ふもの三基あり。みな自然(オノヅカラ)なる石の面を平らけて、狗頭の人形を陰穿(ヱリ)たり。頭は狗の仮面なるべし。身中(ムクロ)みな貫(ヌ)き装束(ヨソヒ)て、狗の状(サマ)を表せりと見ゆ。もとは朱をさしたりと見えて、ところところに剥(ハ)げ遺(ノコ)れりとぞ。其狗人、一枚(ヒトツ)は立像(タテルカタチ)にて、楚(シモト)とおぼしきものを杖(ツ)けり。上に北ノ字あり。二枚(フタツ)は踞(ウツクマレルカタチ)なり。此(コレ)も手のさま、楚を持たらむとは見ゆれど慥(サダカ)ならず。石の長(タケ)、立像なるとは短(ヒキ)し。此狗石、昔は七基ありしとて、土人、大奈閉の七匹狐とも呼ひならへるを、いつのころにか四基は亡(ウセ)て、今三基存(ノコ)れりといふを、おのれ既(ハヤ)く其像の図を得、後にその立像を摺(スリ)うつしたるをも得て蔵(モテ)り。狐ともしもいへるは、其形を然(シカ)見なしたる里俗のさかしらなり。其狗人の像、かくごとし。
 立像、長二尺六寸許
※図は省略(第1石と第2石、第3石)
按ふに、こは、そのかみ朝廷の大儀に、隼人の狗吠して奉仕るときには、狗の仮面(オモテ)を被(カフ)る例(タメシ)なりけるから、やがて其像を石に摸(ウツ)して、陵ノ域(メグリ)に殉(シタガヒ)置しめ給へるものなるべし。 … 中略 … さて今遺(ノコ)れる立像の上に、北ノ字あるは、そのかみ陵域の四面に、それと同じ状(サマ)なるを建られて、その方位を標(シル)したりけむを、後に東西南の三基は亡(ウ)せたるなるべく、踞像も旧(モト)四基ありて、四隅に建られたりけむが、二基は亡(ウ)せたりしなるべし。そは隼人の宮墻を衛(マモ)れる意(ココロ)にて、陵の四方四隅に建られたりしものにぞあるべき。 … 中略 … そもそも此天皇の遺詔に陵の作りざま、又その陵に刻字の碑を立(タツ)べきよしなど、前の御世御世に例なき事どもを詔(ノタマ)ひおきてさせ給へる事、続日本紀に見え、すなはち其陵碑も、今に存(ア)るに准へておもひ奉るに、<続日本紀養老五年十月丁亥の記事 …省略>此犬石も遺詔によりて立てられたりしものなるべし。
(伴信友『比古婆衣』1861年)

 隼人が犬の仮面をかぶり吠声して宮中を守る姿を写し、陵墓の守備をするのが隼人石の役割であれば、死者のすぐ近くになければ意味がありません。そして、このような新奇なことを行うとすれば元明帝が最もふさわしいという連想から、元明帝派の説が出来上がっていることがわかります。そのため、大奈閉と七疋狐とがかなり離れているにもかかわらず、地名に関しては強引に(あるいは現地の地理に暗かったため)混同してしまったのだと推測されます。


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