隼人石 -隼人説考-

21 治定しきれない陵墓

 さらに、治定を難しくするのが、火葬・薄葬の導入です。天皇の火葬は持統帝から始まり、元正帝で一旦途切れます。特に元明帝は、厳しく薄葬を命じ、火葬の後そのまま埋葬し、御陵は自然のままの山を利用せよと命じました。

丁亥、太上天皇、右大臣従二位長屋王、参議従三位藤原朝臣房前を召し入れて、詔して曰はく「朕聞く、「万物の生、死すること有らずといふこと靡し」と。此れ則ち天地の理にして、奚ぞ哀れび悲しむべけむ。葬を厚くし業を破り、服を重ねて生を傷ふこと、朕、甚だ取らず。朕、崩るの後は、宜しく大和国添上郡藏宝山の雍良岑に竃を造りて火葬すべし。他所に改むること莫れ。諡号は、其の国其の郡の朝庭に馭宇しし天皇と称して、後世に流伝ふべし。又、皇帝、万機を摂り断ること、一ら平日と同じくせよ。王侯、卿相及び文武の百官、輙く職掌を離れて、喪の車に追ひ従ふこと得ざれ。各々、本司を守り事を視ること恒の如くせよ。其の近く侍る官并せて五衛府は、務めて厳しく警めを加へ、周衛伺候して、以て不虞に備へよ。」

庚寅、太上天皇又詔して曰はく「喪の事に須ゐる所は、一事以上、前の勅に准へ依れ。闕失を致すこと勿れ。其の轜車、霊駕の具に、金玉を刻み鏤め、丹青を絵き餝ること得ざれ。素き薄を是れ用ゐ、卑謙に是れ順へ。仍て丘の体鑿つこと無く、山に就き竃を作り、棘を芟り場を開き、即ち喪所と為せ。又、其の地には、皆常葉の樹を殖ゑ、即ち刻字の碑を立てよ」と。

乙酉、太上天皇を大和国添上郡椎山陵に葬る。喪の儀を用ゐず。遺詔に由りてなり。  ※原文は漢文
(『続日本紀』元正養老5年)

 ところで、『続日本紀』の記事には矛盾があります。記述通りに読めば、元明帝は自分の死後、藏宝山雍良岑(さほやまよらがみね)で火葬しそのまま埋葬せよと遺勅し、その通り椎山陵(ならやまりょう)に埋葬されたとなります。すると、藏宝山雍良岑と椎山陵とは同じ場所を指すことになりますが、それにしては地名が違いすぎます。この矛盾のせいで元明帝は改葬されたのではないかという疑惑が生まれてしまい、結果、一時は今のウワナベ古墳が元明陵とされてしまうのです。
 また、山を削ったりするなという遺詔も混乱に拍車をかけました。それでなくても佐保山奈保山の辺りは小山が多く存在します。堀もなく特別な形も持たない陵墓がどこにあるかを決めるのは、至難の業となったのでした。特に困難を極めたのが、太皇大后藤原宮子の佐保山西陵と元明天皇の奈保山東陵でした。ちょうど隼人石に深く関わる場所にあたります。
 元明天皇の奈保山東陵は、「函石」が考定されたことによって治定につながりましたが、佐保山西陵は現在も治定されていません。


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