犬石考

第3部 犬石の成立過程

 「犬石」という呼び名を籬島に教えたのは誰か。
 『名所図会』が現地取材を重視していたことを考えると、地元の人々が「犬石」と呼んでいた可能性もあるが、明治に入るまで稲荷社を祭っていたことから、地元では一貫して「狐」という認識であったと考えられ、地元説は成立しないであろう。
 地元の人々でないとすると、有力候補としては、①隼人説発案の上田秋成、②秋成と隼人説について語り合った木村蒹葭堂、③『廣大和名勝志』の作者である植村禹言、④『大和名所図会』の執筆を依頼した高芙蓉、⑤『河内名所図会』の協力者であり隼人石について書き残した覚峰阿闍梨(麦飯仙)、⑥『京之水』校合を依頼された藤貞幹、の6名があげられるだろう。
 一人ずつ検証してみよう。
 まず、③植村禹言については、そもそも籬島との面識がなかったようであり、「奈保山東陵」の項で、「…七疋狐ト云ハ元明帝火葬ノ地ナリ。第(一文字欠)巻佐保山ノ條<擁良岑>ニ詳也。…刻字碑ノコト七疋狐ト云コト、既前巻に詳ニ出ス。合見ルベシ。」と書いているところを見ると、隼人説についても知らなかったのではないかと考えられる。
 続いて、①上田秋成、②木村蒹葭堂については、やはり籬島との接点が見当たらないうえ、石の呼び名も「七狐の石碑」と『山づと』では紹介しており、像の正体を隼人だと推理した二人が「犬石」という呼び名を使った可能性は低いと思われる。
 ⑤の覚峰阿闍梨の場合、籬島との交流を『河内名所図会』完成の10年以上前から続いていたと考えなければならない点でかなり厳しいと思われる。確かに覚峰阿闍梨は『奈保山山陵隼人石人考』という隼人石に関する考察を残しているが、むしろ籬島から覚峰阿闍梨が話題の提供を受けたと考える方が自然であろうと思われる。籬島の話があいまいであったからこそ、自ら調べて書き残したのではなかろうか。
 ④高芙蓉には多少可能性がある。『山づと』の中で秋成は「京の近藤某」から隼人石の拓本を見せられたと書いているが、この近藤某が高芙蓉であるかもしれないからである。もし、秋成に拓本を見せたのが芙蓉なら、秋成が直接あるいは間接に、隼人説を伝えている可能性が高いと思われる。芙蓉自身が隼人説に懐疑的であったなら、芙蓉から聞いた籬島も懐疑的になっておかしくない。ただ、近藤某が芙蓉である確証はなく、さらに芙蓉が『名所図会』作成初期に亡くなっていることを考えると可能性は低いというべきだろう。
 ということで、可能性が最も高いのは、⑥の貞幹となるだろう。貞幹は元明陵碑とのかかわりから隼人石にも関心を持っていたはずで、秋成や蒹葭堂から隼人説を聞いた可能性はかなり高いと思われる。『好古小録』での隼人石の素気ない紹介の仕方は、そのような事情があったと仮定すると納得がいく。『名所図会』の「函石」に関する記事の力の入れようから推測するに、もともとは「函石」について貞幹にアドバイスを求めたのではないか。貞幹は「函石」と「隼人石」を一体のものととらえていたので、「隼人石」についても同時にアドバイスしたのではないかと思われる。そのため、「隼人石」に関するヒントは、さらに簡略化され、籬島には理解しにくいものとなったのではなかろうか。
 しかし、貞幹は『好古小録』で「隼人図」という名称を用いているので、「犬石」の呼び名は離島に始まるものと考えられる。どうして籬島は「犬石」という呼び名を採用したのか。貞幹が籬島にアドバイスする際に、断片的な情報しか与えなかったと考えれば、その中の「犬」が「石」と結びついて、「犬石」が誕生したという推理は成り立ちそうである。館山をはじめ全国に犬石伝説が存在するうえに、奈良にも聖徳太子の愛犬、雪丸を葬ったと伝えられる「犬塚」があり、『名所図会』は挿絵入りで紹介している。なので、籬島が「犬石」という名称を思いついても不思議ではない。一方で、隼人と犬の関係については、古代神話に通じていないとすぐには結びつかない。そのために籬島に生じた隼人説への懐疑が、隼人との関係を示したような名称を使わなかった理由ではなかろうか。
 以上のように、「犬石」の名称は、貞幹からのヒントをもとに籬島が作り出した名称であったと考えるに至った。その際、籬島の心中には文献上で伝承されている「七疋狐」という名称を正してやろうとの野心、さらには知識人として認められたいとの願望があったのではないかと想像する。


藤貞幹『集古図』(国立国会図書館 https://dl.ndl.go.jp/pid/2590915/1/19)
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