犬石考

第2部 見えてきた編集方針 ~フィールドワーカー・籬島~

○案内書より地誌寄り
  ①地域ごとの編集
  ②俗説の否定【反俗説】
  ③霊験譚の排除【反霊験】
  ④諸書の引用【引用】

 項立てについては、もとにした『廣大和名勝志』(以下『名勝志』)が採用する町別の分類形態を緩やかに踏襲し、ある程度の地理的なまとまりを意識して編集されている。案内書に見られる「道順」についての意識はあまり見られないし、紹介される寺社名所の数も多く、現地を歩きながら参考にすることより、自宅で思いを馳せるよすがとすることを目指していると思われる。
 また、内容的にも地誌的な学術性を目指す傾向がうかがえる。
 例えば、21玄昉松の項では、眉目塚に玄昉の目と眉が納められているという俚諺を紹介して「俗説にして信ずるに足らず」と一蹴している。このような態度は『名勝志』をはじめ多くの学術重視の地誌がとるものである。同じように20尼池の項では、他書が紹介する、身投げした尼の幽霊や祟りについて『大和名所図会』(以下『名所図会』)は一切触れない。読物的な魅力を優先するなら霊験譚や怪異譚は格好の材料であろうから、『名所図会』がそれらを排除したのは、単なる娯楽的案内書ではないという姿勢を示したかったのだろうと推測される。この姿勢は挿絵の掲載基準にも見られ、風俗図(人物の大絵)の題材として、巷間に流布する怪奇譚、神秘譚の類は排除されている(木越 俊介『知と奇でめぐる近世地誌』2023年)。
 さらに、4春日社をはじめ多くの項で、著名な書物から引用を行っている。『名勝志』と同様に、文献を重視する当時の学問の傾向を取り入れたのであろうと推測される。もしかすると『名勝志』を引き継いだ際に、禹言が参照した書物も一緒に引き継いだのではなかろうか。
 序文にある「児女子の目をよろこばしむるのみならんや、実に風流の好士をして、おとがひをとかしむべし。」という一節は、清原宣條のリップサービスに過ぎないのではなく、一定、編集方針として意識されていたのかもしれない。

○古刹から市井の住居跡まで【市井】

 『名所図会』は、観光名所となる古刹だけでなく、序文に言う「故家、遺俗、流風」といった、案内書なら省略してしまいがちな市井の伝承の地や事物も取り上げている。これも地誌を標榜する姿勢の表れであろう。調査対象とした範囲では、13俊恵屋敷、14珠光之茶室、24塩瀬宗二跡、25百万辻子などが該当する。就中、13俊恵屋敷、14珠光之茶室は他書には見られない「故家、遺俗、流風」であることから、何らかの編集方針やこだわり、例えば、現地取材の重視などがあったのかもしれない。
 なお、『名所図会』に和歌や俳句、漢詩などの詩歌に対する強い関心が見られることは、籬島が俳諧師であることと関連付けて多く指摘されるところであるが、調査範囲では和歌、茶の湯、学問、芸能とジャンルはばらばらであり、詩歌へのこだわりはそれほど感じられない。

○学術性より簡潔さ
  ①由来・来歴の省略【省由来】
  ②諸説の切り捨て【省諸説】

 しかしながら、『名所図会』には地誌を目指す傾向が認められるとはいえ、学術的な精確さと相反する姿勢も散見する。
 例えば、18初宮明神では参考にしたと思われる『奈良坊目拙解』(以下『坊目拙解』)が取り上げる「初宮」の命名由来を省略しているし、7笠卒塔婆では、『和州旧跡幽考』(以下『旧跡幽考』)の記事を参考にしながら、笠卒塔婆の作者について諸説あることを省略している。籬島が作者を学術的に特定できた可能性もなくはないが、他の項でも諸説の省略がいくつか見られることから、恣意的な取捨選択が行われたのではないかと思われる。
 このような省略は、一つの項に対する説明をできるだけ簡略化し、全体のボリュームダウンを図るという出版上の都合もあっただろうと考えられるが、文献主義的な学術的態度からは離れてしまっていると言わざるを得ない。 また、著名な書物からの引用についても、もとにした本が粗雑であったのか、間違いが少なくなく『名勝志』や『坊目拙解』ほどの厳密さには程遠い。
 そもそも、参考にした案内書や地誌の選択に一貫性が認められず、引用・参考の仕方にもずさんさを感じるところではあるが、簡潔に要点をまとめ、すっぱりと言い切る潔さによって、『名所図会』が、諸説を併記したうえで自説を述べる本格的な地誌と比べ、格段に読みやすいのは確かである。

○文献より取材【取材】

 一方で、籬島なりの学術性へのこだわりも感じられる。
 例えば、3善城寺は、『奈良名所八重桜』(以下『八重桜』)を参考にしながら、『八重桜』にはない情報が多く入っている。これらの情報は現地に足を運ばなければ得られないものであり、この現地で仕入れた情報こそ、籬島がこだわったものではないかと思われる。他にも、16威徳井では、他書が「従弟井」と表記し、その表記に沿って解説をするのに対して『大和名所図会』だけが「威徳井」という名称で取り上げている。付近には「威徳井屋」という宿屋が存在しており、現地では「威徳井」が優勢だったのかもしれない(現存する井桁にも「威徳井」とある)。同じように他書と項目名が異なるものとして、5函石(他は「佐保姫神石」)や8藤原頼長墓(他は「悪左府墓」)、21玄昉松(他は「眉目塚」)なども挙げられる。文献によって受け継がれてきたことよりも現地での取材を籬島が重んじた証左ではなかろうか。11阿閦寺は、そのような態度が若干ゆき過ぎた例としてみることも可能であろう。他書がすべて、阿閦寺は法華寺の付近にあったが今はその跡を残すだけの廃寺であるとし、光明皇后と関連させて紹介しているのに対して、『名所図会』だけが般若寺付近の現存する寺(浄福寺?)を阿閦寺として紹介している。この間の事情は『坊目拙解』の「阿閦如来」の記事が参考になる。村井古道が「妄談」として一蹴した現地の人々の言葉を、籬島は文献より現地取材を優先して取り上げたのではないかと想像される(あるいは『庁中漫録』の記事にあるように、般若寺近くに阿閦寺があったとする旧記があったのかもしれない)。
 籬島が調査旅行を行った際は、行く先々で大いに歓迎されたことだろう。全国的な旅行ブームの中、さらなる旅行者誘致に躍起になっている地元の人々は、絵図物の第一人者である籬島へ進んで情報を提供したことと思われる。籬島にしてみれば、既存の書物からでは知りえなかった多くの情報に接し、文献の誤りを正すという野心を抱いてもおかしくない。16威徳井の「然れども撰集になし。後人考あるべし。」という但し書きには、籬島の得意げな顔が見え隠れするように思われる。今風に言えば籬島はフィールドワーク重視の研究スタイルであったと言えそうである。

○好古趣味と尊王思想
  ①天皇陵【尊王】
  ②石造物【石造】
  ③藤貞幹への接近【貞幹】

 「風流の好士をして、おとがひをとかしむ」ため、一種の学術性を重視しようとする姿勢を指摘したが、取り上げた項目にも「風流の好士」を意識したものが見られる。
 まず気が付くのが、天皇陵、古墳の扱いの多さである。元禄の修陵以来、好古家たちの中で古墳への関心が高まっており、『名所図会』もその傾向に対応しているのではないかと考える。
 さらに、石造物や伝説を持つ石についての言及が目立つ。凡例の四番目に「…新建の碑銘の類はここに漏らし侍る。奇賀風流なるものをえらんで載す。」とあり、籬島が意識的に石造物や伝説を持つ石を取り上げようとしたことがうかがえる。これも「好古」への目配りの一事例と見なせるのではないかと考える。
 5函石は、これら「尊皇」と「石造物」との両方への関心が交差した、つまり、「好古」の象徴的な項であるといえるだろう。他書ではほとんど取り上げていないこの碑石をわざわざ項立てするだけでなく、碑文を全文紹介し、挿絵も載せており、かなり力が入っている。
 ところで、碑文の内容について、記事内では『東大寺要録』を挙げているが、文言が一部相違しており、藤貞幹の『奈保山御陵碑考証』(1769年)のそれとほぼ一致する。おそらく籬島は『奈保山御陵碑考証』を参考に、その中で紹介されている『東大寺要録』の権威だけを借りたのだろうと考えらえる。
 籬島は、『名所図会』の執筆時期に、京都御所の建物や由来などを図解した『京之水』も執筆しており、内容の校合を貞幹に依頼している。貞幹は、後日、友人の立原甚五郎宛ての手紙の中で、依頼を断った旨を書いているが、ただ、いくつかの指摘はしたようで、訂正されずそのまま出版されているとも語っている。何らかの理由から、表立っては援助しないが、内々ではアドバイスを送るという微妙な関係が二人にはあったのではないかと思われる。
 従って、『京之水』校合のついでに『廣大和名勝志』の欠損箇所の項立てや内容について貞幹に相談していたとしてもおかしくないだろう。5函石だけでなくその所在地の3善城寺、4春日社を取り上げたのも、貞幹からのアドバイスがあったのではあるまいかと想像される。5函石の碑文の、貞幹の名は表に出さず、しかし内容的にはしっかり参考にするという紹介の仕方は、二人の微妙な関係を反映しているのではなかろうか(籬島は、『河内名所図会』の協力者であった覚峰阿闍梨を同書内でほめちぎっており、貞幹の名を出さなかったのはやはり何らかの事情があったと思わせる)。
 さらに想像をたくましくすれば、文献よりも現地取材を重んじる『名所図会』の態度は、現物の観察にこだわり、文献に基づいた通説を批判的に検証した貞幹の研究態度に影響されたものではないかと思われる。
 ただし、貞幹のアドバイスはかなり断片的であったり、ほのめかす程度のことであったりしたのだろうか。先に紹介したように『京之水』には貞幹の指摘が生かされなかったり誤解されたりしたと思われる個所がいくつかあるし、5函石の碑文にも1箇所、間違いがある。貞幹によって丁寧な指摘が行われたのであれば、籬島もそれなりに訂正をしたであろうと思われるので、貞幹はヒントだけ与えて、後は籬島に委ねたのではないかと推測する。
 さて、なぜ貞幹が表立った協力をしなかったのかは手紙でも明かされていないが、籬島に好古家との接点があまりなかったことが関係しているのかもしれない。当時の知識人・好古家の中心に位置した大阪のコレクター木村蒹葭堂のもとには延べ9万人が訪れたと言われるが、その中に籬島の名前は見当たらない。『名所図会』完成の依頼をした高芙蓉も蒹葭堂サロンの一員だが、籬島とは親しく交友したような形跡はない。そもそも芙蓉は『名所図会』出版前の、天明4年(1784年)には亡くなっており、籬島や『名所図会』にあまりかかわっていなかったのではなかろうか。どうも籬島は絵図物をヒットさせてはいたが、知識人とは認められず、その立ち位置は当時の学術集団の本流から外れたところにあったようである。その理由は、籬島が一介の俳諧師に過ぎず、学問上の師匠と呼べるような人物を持たなかったからかもしれないし、また、彼を抱えた書肆吉野家為八という野心家の影響であったかもしれない。いずれにせよ、籬島は学術的な後ろ盾を貞幹に求めたが、貞幹としては自らの立場ゆえ、素性のはっきりしない者に簡単に手を貸すわけにいかず、ヒントをさりげなく示すにとどめたのかもしれない。

<参考>

『大和名所図会』序文<清原宣條>
……
ここに秋里湘夕なる者ありて、名所、古跡、故家、遺俗、流風までくまなくたづねとりて、ひとつ画にうつしこまやかにことがきして若干巻とし、大和図会と名づく。ゆゑに児女子の目をよろこばしむるのみならんや、実に風流の好士をして、おとがひをとかしむべし。梓にゑるの後、正木のかつらながくつたわり、松の葉のときはに、この巻の世におこなはれんことをこひねがふことにこそ。
  寛政辛亥春    伏原正二位清原宣條卿 佩蘭主人
『大和名所図会』凡例
一 域内十五郡に封境小大あり。広大なるは一郡二巻に亘り、狭少なるは五郡一巻に縮めたるあり。其の群界は囲卦の上に細書して標(みちしるべ)とす。
一 図中に大厦の寺院は、草創より一千有余歳を歴るもの多し。時世の移変の随ひ、国郡騒擾の時、あるいは荒廃し、あるいは回禄に及ぶものもまた多し。ここにおいて、図画は今時の景勝をあらはし、由縁は旧記をもつて書す。いはゆる興福寺・薬師寺のごときこれなり。
一 図画の間々に人物の大絵あり。古歌のこころを画するは、その地の風色をあらはさんが為なり。また事実を画するは、童蒙の見安からん便とす。春日野・良弁杉などこれなり。
一 新建の堂社、新建の碑銘の類はここに漏らし侍る。奇賀風流なるものをえらんで載す。

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