犬石考
第1部 各項目(寺社名所)記事の検討
1 奈良坂 【独自】<(省諸説)>
南都北の入口をいふ。此町を奈良坂村ともなづく。
類似の記事は見当たらない。記事が短く、現地取材で十分得られる情報であるから、【名所図会】のオリジナルと考えられる。なお、平家物語に出てくる「奈良坂」について【趾跡考】のように、「油坂」と比定する説があるが、触れていない。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
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【趾跡考】
奈良坂<油坂町辺り坂新屋と謂ふ>
俗に般若坂と謂ふ。平城坂と曰ふ。然らず、此の辺り率川坂本、坂上、往古奈良坂を指すは必定なり。平家物語云ふ、奈良坂般若坂、追手捕手たる、是なり。…
奈良坂<油坂町辺り坂新屋と謂ふ>
俗に般若坂と謂ふ。平城坂と曰ふ。然らず、此の辺り率川坂本、坂上、往古奈良坂を指すは必定なり。平家物語云ふ、奈良坂般若坂、追手捕手たる、是なり。…
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
奈良坂
親ぞ見ぬ風は夕べにこの手柏のまねく三ケ月
奈良坂
親ぞ見ぬ風は夕べにこの手柏のまねく三ケ月
【八重桜】
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2 般若野 【独自】<引用・(取材)>
奈良坂より佐保川の石橋までをいふ。又般若路ともなづく。
<平家物語云>南都にも老少きらはず七千余人、なら坂般若路二ヶ所の道をほり切掻楯逆茂木を引て待かけたり。去程に平家は四万余騎を二手に分て奈良坂般若路二ヶ所の城郭に押寄ると云々。


この項も類似の記事は見当たらない。「般若野」は【坊目拙解】が引用するように「般若野五三昧」として『保元物語』に出てくる地名であり、悪左府の墓がある川上恵比須社の辺りを指すのかと思われる。
記事は、平家物語の引用を除けば短く、現地取材で十分得られる情報であるから、【名所図会】のオリジナルと考えてもよいか。
なお、【旧跡幽考】にある「酒野在家」という語は挿絵の中に登場している(般若=酒の隠語からのしゃれか)。
また、平家物語の引用には一部脱落があり、般若路は般若寺と表記する本のほうが多い。
記事は、平家物語の引用を除けば短く、現地取材で十分得られる情報であるから、【名所図会】のオリジナルと考えてもよいか。
なお、【旧跡幽考】にある「酒野在家」という語は挿絵の中に登場している(般若=酒の隠語からのしゃれか)。
また、平家物語の引用には一部脱落があり、般若路は般若寺と表記する本のほうが多い。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
墓所 火葬場なり。
…
〇保元物語に云う、…其の所は添上郡川上村般若野五三昧にて大道より東一町余入る。
墓所 火葬場なり。
…
〇保元物語に云う、…其の所は添上郡川上村般若野五三昧にて大道より東一町余入る。
【趾跡考】
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【奈良曝】
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【旧跡幽考】
奈良坂般若路<附酒野在家>
奈良坂般若路の二つの道さだかならず。今の大道と其の東に伊賀よりの通路あり。もし是らにや。酒野在家もさだかならず。むかし平家ならをさめぬべきよし聞へありし程に…
奈良坂般若路<附酒野在家>
奈良坂般若路の二つの道さだかならず。今の大道と其の東に伊賀よりの通路あり。もし是らにや。酒野在家もさだかならず。むかし平家ならをさめぬべきよし聞へありし程に…
【八重桜】
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3 善城寺 【八重桜】<取材・(石造)>
奈良坂村西側にあり。又作禅定寺。いにしへ東大寺乾の一院なり。礎石今多く残れり。今林小路町霊岸院の末となる。本尊に弥陀釈迦薬師を安置す。共に雲慶康慶の両作。又、薬師仏一躯春日仏師稽文会の作。今一村の草堂として祈祷所となる。
この項については【八重桜】が参考にされたと思われる(下線を施している。以下同様)。ただし、【八重桜】にない情報もあり、そこに注目すると、籬島が現地で取材していることがうかがわれる。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
善城寺
同所に在り。
善城寺
同所に在り。
【趾跡考】
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【奈良曝】
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【旧跡幽考】
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【八重桜】
善城寺
般若寺を北へ行奈良坂といふ所の西側の草堂是なり、本此寺東大寺のいのゐの一院にしていにしへは大寺なりしかいつの頃よりかかやうに零落せり。本尊は阿弥陀釈迦薬師の三尊にて雲慶康慶両作なり、今一体のやくしは春日仏師稽文会か作なり。…
善城寺
般若寺を北へ行奈良坂といふ所の西側の草堂是なり、本此寺東大寺のいのゐの一院にしていにしへは大寺なりしかいつの頃よりかかやうに零落せり。本尊は阿弥陀釈迦薬師の三尊にて雲慶康慶両作なり、今一体のやくしは春日仏師稽文会か作なり。…
4 春日社 【独自】<引用・(取材)>
善城寺の内にありて鎮守とす。祭神天押雲命、左天児屋根命、右八幡宮。共に春日社と称す。延喜式神名帳曰奈良豆比古神社一座云々。土人、生土神(うぶすなしん)とす。例祭九月九日。
【八重桜】と重なる部分はあるが、表現に差異があり、引用したとまでは言い難い。現地取材で得た情報に『延喜式』の引用を配したのだろうと推測される。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
奈良豆比古神社
鍬靫〇奈良坂村に在り。今は八幡と称す。傍に寺有り。北明山善城寺と称す。
奈良豆比古神社
鍬靫〇奈良坂村に在り。今は八幡と称す。傍に寺有り。北明山善城寺と称す。
【坊目拙解】
奈良神社三座
西福寺境内に在り。奈良坂春日社と号す。
奈良神社三座
西福寺境内に在り。奈良坂春日社と号す。
【趾跡考】
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【奈良曝】
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【旧跡幽考】
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【八重桜】
※善城寺の記事の中に
またひがし向の鎮守の三社は、天児屋根尊幷天押雲命と御父子、また八まん大ぼさつを祝ひ奉る。
※善城寺の記事の中に
またひがし向の鎮守の三社は、天児屋根尊幷天押雲命と御父子、また八まん大ぼさつを祝ひ奉る。
5 函石 【独自】<(引用)・省由来・取材・尊王・石造・貞幹>
春日社左側にあり。是即元明帝の碑石なり。いにしへは蔵宝山雍良峯にあり。此所に来事、時代詳ならず。土人、佐保姫神影向石とてこれを崇む。高サ三尺横幅一尺三寸計。銘曰◆大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲 太上天皇之陵是其所也 養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日己酉葬◆此碑銘、東大寺要録に載たり。碑を建る事は遺詔によりてなり。続日本紀に見へたり。




この項も類似の記事はない。記事の中で「東大寺要録」に触れているが、碑文は「東大寺要録」とは多少の異同がある※。また石の大きさについても違いがある。函石については藤貞幹に『奈保山御陵碑考証』(1769年)があり、【名所図会】の碑文とほぼ一致しており、籬島はこの『奈保山御陵碑考証』を参考にしたのではないかと思われる。善城寺の挿絵では「角石」となっているものが、函石のことだと思われる。
※「大倭国御谷郡平城之宮馭峯八側 太上天皇之陵是其所也 養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉撥十三日乙酉葬」(『東大寺要録』)
※「大倭国御谷郡平城之宮馭峯八側 太上天皇之陵是其所也 養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉撥十三日乙酉葬」(『東大寺要録』)
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
佐保姫神石
本宮傍に在り。
佐保姫神石
本宮傍に在り。
【趾跡考】
佐保媛神石<奈良坂村春日社近傍に在り>
伝曰く、昔日佐保山上に在りて佐保姫神と号す。未だ其の濫觴詳らかならず。而るに松永久秀多門城郭を築く砌、山外に捨てて後、神石奈良坂春日社辺りに遷す。云々
佐保媛神石<奈良坂村春日社近傍に在り>
伝曰く、昔日佐保山上に在りて佐保姫神と号す。未だ其の濫觴詳らかならず。而るに松永久秀多門城郭を築く砌、山外に捨てて後、神石奈良坂春日社辺りに遷す。云々
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
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【八重桜】
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6 般若寺 【旧跡幽考】<(引用)・省諸説・省由来・取材・(尊王)・石造・(貞幹)>
般若寺町東側にあり。聖武帝の御建立にして勅書の大般若経を地底に納め其上に十三重の塔を立給ひしより般若寺と称す。
本尊文殊大士<忍性律師の作なり> 十三重石塔婆<二十五菩薩石像> 観音堂<本堂の後にあり。此堂は延徳二年の火災を免れ、いにしへのまゝなり>
当寺いにしへは真言宗たりしが文永の頃より律宗となる。什宝に大塔宮御身をかくさせ給ひて危難をのがれさせ給ひし大般若経の唐櫃あり。委は太平記に見へたり。又、寺内に古代造立の石灯爐あり。今石匠般若寺形とてこれを模範とす。今存在の灯爐の旨趣別記に書すは民家に移して此寺になし。
本尊文殊大士<忍性律師の作なり> 十三重石塔婆<二十五菩薩石像> 観音堂<本堂の後にあり。此堂は延徳二年の火災を免れ、いにしへのまゝなり>
当寺いにしへは真言宗たりしが文永の頃より律宗となる。什宝に大塔宮御身をかくさせ給ひて危難をのがれさせ給ひし大般若経の唐櫃あり。委は太平記に見へたり。又、寺内に古代造立の石灯爐あり。今石匠般若寺形とてこれを模範とす。今存在の灯爐の旨趣別記に書すは民家に移して此寺になし。
細部の表現に差異はあるものの、この項は【旧跡幽考】を参考にしたと思われる。しかしながら、【旧跡幽考】が開基について諸説併記する(他書を見るとさらに諸説あることがわかる)のに対して、【名所図会】は聖武帝のみ紹介する。最後の石灯籠については、籬島は作庭に関して興味を持っており(籬島には『築山庭造伝後編』という著作もある)、その関連で追加したのだろうと思われる。
【名勝志】
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【名所記】
般若寺
人皇第四十五代聖武天わう天平七年に此般若たい(台)にみゆきなり、国家ちんごをいのらんがため堂を立、僧舎をかまへ、丈六の文殊大士のさうをきざみ、金堂にあんちし、十三級の石たふ高さ五丈、台基(だいき)三丈八尺につくり、おのおの重ごとに仏しやりほつけ等のきやうをおさめ、又しん筆のこんしこんでいの大はんにや経一部ひそかにおさめ給ふ。
般若寺
人皇第四十五代聖武天わう天平七年に此般若たい(台)にみゆきなり、国家ちんごをいのらんがため堂を立、僧舎をかまへ、丈六の文殊大士のさうをきざみ、金堂にあんちし、十三級の石たふ高さ五丈、台基(だいき)三丈八尺につくり、おのおの重ごとに仏しやりほつけ等のきやうをおさめ、又しん筆のこんしこんでいの大はんにや経一部ひそかにおさめ給ふ。
【大和志】
般若寺
般若坂町。正堂十三層石塔。寺記に云ふ、延喜中僧正観賢建つ。中古荒廃し、沙門忍性衆縁を募り、丈六の文殊大士の像を安置す。貞観五年九月令を国に下して、百姓ら慎みて般若寺山内十町を伐損すること勿れと。元亨中親王護良此に難を避く。
般若寺
般若坂町。正堂十三層石塔。寺記に云ふ、延喜中僧正観賢建つ。中古荒廃し、沙門忍性衆縁を募り、丈六の文殊大士の像を安置す。貞観五年九月令を国に下して、百姓ら慎みて般若寺山内十町を伐損すること勿れと。元亨中親王護良此に難を避く。
【坊目拙解】
般若寺
律宗 西大寺末寺 寺領三十石 坊舎妙積(寂)院 妙光院
〇本堂文殊師利菩薩
草創は聖徳太子、其の後天平七年聖武皇帝の勅願なり。而る後観賢僧正中興の開基なり。
治承四年十二月二十八日、平重衡が為に兵火せしめ、文永年中西大寺興生菩薩再興、同じく忍性律師文殊像を安置し是に於いて律宗と為る。
般若寺
律宗 西大寺末寺 寺領三十石 坊舎妙積(寂)院 妙光院
〇本堂文殊師利菩薩
草創は聖徳太子、其の後天平七年聖武皇帝の勅願なり。而る後観賢僧正中興の開基なり。
治承四年十二月二十八日、平重衡が為に兵火せしめ、文永年中西大寺興生菩薩再興、同じく忍性律師文殊像を安置し是に於いて律宗と為る。
【趾跡考】
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【奈良曝】
般若寺
知行三十石。此寺あるゆへにはんにやじとて南中北町の町あり。寺はひがしがわに二階門有門なり。此前の通り京海道なり。大塔宮(おほたうのみや)かゝれたまひし般若経有。佐保川近所なり。
般若寺
知行三十石。此寺あるゆへにはんにやじとて南中北町の町あり。寺はひがしがわに二階門有門なり。此前の通り京海道なり。大塔宮(おほたうのみや)かゝれたまひし般若経有。佐保川近所なり。
【旧跡幽考】
般若寺
般若寺は聖武天皇の御建立。勅書の大般若経を地底に納めさせそのうへに十三重の塔をたて給ひしにより般若寺と号せりといふ説あり。然ども和州般若寺は観賢僧正の開基と釈書に見えたり。当寺文殊大士は忍性律師、諸人に衆縁をむすばしめむとて丈六の文殊菩薩をつくり、此寺にすへ給ひしなり。<釈書>
▲開山観賢僧正 …
▲炎上 …
▲むかしは真言たりしが文永年より此かた律宗たり。宝物に大塔の宮御身をかゝさせ給ひてあやうき御いのちをのがれさせ給ひし大般若経、同櫃あり。くはしくは太平記にあり。
▲禁制 …
般若寺
般若寺は聖武天皇の御建立。勅書の大般若経を地底に納めさせそのうへに十三重の塔をたて給ひしにより般若寺と号せりといふ説あり。然ども和州般若寺は観賢僧正の開基と釈書に見えたり。当寺文殊大士は忍性律師、諸人に衆縁をむすばしめむとて丈六の文殊菩薩をつくり、此寺にすへ給ひしなり。<釈書>
▲開山観賢僧正 …
▲炎上 …
▲むかしは真言たりしが文永年より此かた律宗たり。宝物に大塔の宮御身をかゝさせ給ひてあやうき御いのちをのがれさせ給ひし大般若経、同櫃あり。くはしくは太平記にあり。
▲禁制 …
【八重桜】
法性山般若寺
笠卒塔婆より北へ行き、右手にある寺、此れなり。そのかみ聖徳太子の御師匠三論宗の恵灌法師の住み給ひし聖跡たるゆゑに聖武天皇御震筆の紺紙金泥の五部大乗経を納められ御建立有りし寺なり。二階門の額は弘法大師のかゝせられしと。醍醐寺の聖宝僧正の御弟子観賢僧正なども住み給ふとかや。かく目出度き寺なれども、治承にやけしより後、とりたつる人なふして八十余年の星霜をへし所に仁皇八十九代亀山院の御宇文永年中に西大寺の興正菩薩再興し給ひしより此のかた律宗と成て、戒法を持(たもち)、本尊と申は行基僧正の作らせ給ふ大聖文殊の霊像なり。…又、堂の前には数度の火災をのかれし十三重の石塔有。…さて又人皇九十五代のみかと後醍醐天皇第二の皇子比叡山延暦寺の座主大塔尊雲法親王護良公、山門合戦の後、ふかく此の寺にしのひ、世の天変をうかゝひおはしまけるを一条院家の二条法眼の先祖、大勢にて尋ねきたり、さがし奉りし時、宮、大般若経のからひつにかくれさせ給ひ、急ぎ難をのかれ有し大般若経六百巻、同しくからひつ今の世まて有とかや。
法性山般若寺
笠卒塔婆より北へ行き、右手にある寺、此れなり。そのかみ聖徳太子の御師匠三論宗の恵灌法師の住み給ひし聖跡たるゆゑに聖武天皇御震筆の紺紙金泥の五部大乗経を納められ御建立有りし寺なり。二階門の額は弘法大師のかゝせられしと。醍醐寺の聖宝僧正の御弟子観賢僧正なども住み給ふとかや。かく目出度き寺なれども、治承にやけしより後、とりたつる人なふして八十余年の星霜をへし所に仁皇八十九代亀山院の御宇文永年中に西大寺の興正菩薩再興し給ひしより此のかた律宗と成て、戒法を持(たもち)、本尊と申は行基僧正の作らせ給ふ大聖文殊の霊像なり。…又、堂の前には数度の火災をのかれし十三重の石塔有。…さて又人皇九十五代のみかと後醍醐天皇第二の皇子比叡山延暦寺の座主大塔尊雲法親王護良公、山門合戦の後、ふかく此の寺にしのひ、世の天変をうかゝひおはしまけるを一条院家の二条法眼の先祖、大勢にて尋ねきたり、さがし奉りし時、宮、大般若経のからひつにかくれさせ給ひ、急ぎ難をのかれ有し大般若経六百巻、同しくからひつ今の世まて有とかや。
7 笠卒塔婆 【旧跡幽考】<省諸説・省由来・石造・(貞幹)>
般若寺の南、興善院町東側にあり。石柱を左右に立る。左に諸行無常、右に如来涅槃の文を鐫。岩渕勒操の建らるゝなり。
この項も【旧跡幽考】を参考にしていると思われる。ただし、名称の由来と作者について諸説あることを割愛し、作者については岩淵寺勒操作と決めつけている。このような諸説の切り捨てによる決めつけは、他の項目でも散見される。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
〇笠卒塔婆二基(般若寺の小項目として記載)
般若寺南方東側、人家の間の路傍に在り。
〇南一基、面梵字図の如し。〇〇…〇〇以上八字横面北向の文一行十六字
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
〇北一基、面梵字南方の図の如し。
横面南向の文一行十六字
如来証涅槃乗断施生死如有空心聴常得無楽
以上一行二十字有之。
〇笠卒塔婆二基(般若寺の小項目として記載)
般若寺南方東側、人家の間の路傍に在り。
〇南一基、面梵字図の如し。〇〇…〇〇以上八字横面北向の文一行十六字
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
〇北一基、面梵字南方の図の如し。
横面南向の文一行十六字
如来証涅槃乗断施生死如有空心聴常得無楽
以上一行二十字有之。
【趾跡考】
笠卒塔婆<般若寺町東側に在り>
笠卒塔婆石二基<或は三間卒塔婆と曰ふ>
左文 諸行無常是生滅法
右文 如来證涅盤(槃?)
古記云ふ、岩淵寺勒操作なり。或は曰く中川寺根本成身院実範造立なり。
源平盛衰記曰、…
笠卒塔婆<般若寺町東側に在り>
笠卒塔婆石二基<或は三間卒塔婆と曰ふ>
左文 諸行無常是生滅法
右文 如来證涅盤(槃?)
古記云ふ、岩淵寺勒操作なり。或は曰く中川寺根本成身院実範造立なり。
源平盛衰記曰、…
【奈良曝】
笠卒塔婆
興善院町よりは北にあり。ひがしがわに同しやうなる長(たけ)たかき石弐つ両方にあるを云。弘法大師の作とも云。又は中の川寺の実範上人の作ともいへり。両方の石東と西とへかたふきあれども二十四年さきの地震にもたをれずいにしへよりつゝがなくあることそふしぎなれ。此ひがしにいさゝかなる草堂あり。此通りは山城海道也。
笠卒塔婆
興善院町よりは北にあり。ひがしがわに同しやうなる長(たけ)たかき石弐つ両方にあるを云。弘法大師の作とも云。又は中の川寺の実範上人の作ともいへり。両方の石東と西とへかたふきあれども二十四年さきの地震にもたをれずいにしへよりつゝがなくあることそふしぎなれ。此ひがしにいさゝかなる草堂あり。此通りは山城海道也。
【旧跡幽考】
三間卒塔婆
平野の三間卒塔婆と<威裏記>いふこれなり。石の柱を左右にたてその頂上に石の蓋(おゝひ)ありしより俗に笠卒塔婆といふ。左の柱には諸行無常の文、右には如来涅槃の文をえりつけたり。石淵寺の勒操(ごんそう)のたてをかれしとも。中川寺の実範(じつはん)のたてられしともいふ。
三間卒塔婆
平野の三間卒塔婆と<威裏記>いふこれなり。石の柱を左右にたてその頂上に石の蓋(おゝひ)ありしより俗に笠卒塔婆といふ。左の柱には諸行無常の文、右には如来涅槃の文をえりつけたり。石淵寺の勒操(ごんそう)のたてをかれしとも。中川寺の実範(じつはん)のたてられしともいふ。
【八重桜】
※善鐘寺の記事の中に(笠卒塔婆)
扨、坂を上り北へ一町半程行き、笠卒塔婆有。是は弘法大師の御弟子中川寺の実範上人のつくり給ふと云伝ふる。
※善鐘寺の記事の中に(笠卒塔婆)
扨、坂を上り北へ一町半程行き、笠卒塔婆有。是は弘法大師の御弟子中川寺の実範上人のつくり給ふと云伝ふる。
8 藤原頼長墓 【趾跡考】<引用・(石造)>
今詳ならず。編年集成曰左大臣従一位藤原頼長保元七年七月十一日謀逆の時流矢に中(あたつ)て同十四日奈良坂に於て死す。年三十七。又宇治悪左府ともいふ。今、洛東聖護院の南に左府墳あり。此霊を勧請する物ならん。世人誤りて桜塚といふ。都名所図会に見へたり。
この項の前半は大部分が『(歴代)編年集成』の引用であるが、引用も含めて【趾跡考】を参考にしているのではないかと思われる。また、後半は自著の宣伝になっている。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
藤原頼長墓
般若寺村に在り。又石門標有り。幸前院町に在り。高さ丈余り。相伝ふ、僧実範建て以て墓道を示す。俗に笠卒塔婆と呼ぶ。
藤原頼長墓
般若寺村に在り。又石門標有り。幸前院町に在り。高さ丈余り。相伝ふ、僧実範建て以て墓道を示す。俗に笠卒塔婆と呼ぶ。
【坊目拙解】
墓所 火葬場なり。
興善院町巽方北山十八間戸東方に在り。般若寺墓所と謂ふは是なり。
〇往昔、般若寺五三昧と称す、其の余風なり。今按ずるに此の墓所東阪村辺より般若寺笠卒塔婆辺に至るまで悉く化野五三昧の古跡なり。今変わりて民屋と為る。
〇保元物語に云う、悪左府頼長公南都に落ち、保元元年七月十四日流矢に中り平城に薨す。年三十七。般若野に葬す。同月二十五日実験使下向し其の屍を掘り出し、実否を糺す。云々。其の所は添上郡川上村般若野五三昧にて大道より東一町余入る。玄円律師実済得業の墓、猶東方曲れる松本に在り。云々。
〇今此の墓所その旧跡を知らず。宇治大臣悪左府保元元年七月十四日流矢に中る。痛手と雖も興福寺南大門前に到来して、竟に以て薨ず。故に後人其の所を謂ひて左府森と名づく。今の馬道の上楠樹、則ち是なり。是に於いて般若野五三昧に仮葬するなり。当辺、大道変改今以て之を討ち難し。俗に川上村夷宮と云ふ。左府頼長霊祠と曰ふも不可なり。
墓所 火葬場なり。
興善院町巽方北山十八間戸東方に在り。般若寺墓所と謂ふは是なり。
〇往昔、般若寺五三昧と称す、其の余風なり。今按ずるに此の墓所東阪村辺より般若寺笠卒塔婆辺に至るまで悉く化野五三昧の古跡なり。今変わりて民屋と為る。
〇保元物語に云う、悪左府頼長公南都に落ち、保元元年七月十四日流矢に中り平城に薨す。年三十七。般若野に葬す。同月二十五日実験使下向し其の屍を掘り出し、実否を糺す。云々。其の所は添上郡川上村般若野五三昧にて大道より東一町余入る。玄円律師実済得業の墓、猶東方曲れる松本に在り。云々。
〇今此の墓所その旧跡を知らず。宇治大臣悪左府保元元年七月十四日流矢に中る。痛手と雖も興福寺南大門前に到来して、竟に以て薨ず。故に後人其の所を謂ひて左府森と名づく。今の馬道の上楠樹、則ち是なり。是に於いて般若野五三昧に仮葬するなり。当辺、大道変改今以て之を討ち難し。俗に川上村夷宮と云ふ。左府頼長霊祠と曰ふも不可なり。
【趾跡考】
悪左府墓<般若寺五三昧と謂ふ。今其の所を知らず>
保元物語曰、…
歴代編年曰、左大臣従一位藤原頼長、保元二年二月二日左大臣如元、去年辞退之故也。同七月十一日謀反、中流矢。同十四日於奈良坂死亡。三十七。
悪左府墓<般若寺五三昧と謂ふ。今其の所を知らず>
保元物語曰、…
歴代編年曰、左大臣従一位藤原頼長、保元二年二月二日左大臣如元、去年辞退之故也。同七月十一日謀反、中流矢。同十四日於奈良坂死亡。三十七。
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
悪左府墓
◆所にいひつたへて今の大道より十町あまりひがし、ゑびすの宮は、かの左府の墓(つか)のあとなりといふ。今の大道は奈良坂。かのゑびすの宮のほとりは般若路にや。さだかにしらず。◆
悪左府<頼道>は、みやこのいくさにながれ矢にあたり給ひて大和路におち給ひしが、保元元年七月十四日御とし三十七にてうせさせ給ひしかば、こゝに葬したりき。同二十五日実否の実験とて死かばねをほり しけるその所は添上郡川上村般若野の五三昧なり。大道より東に入事一町あまり玄因律師実 得業の墓(つか)の猶ひがしゆるめる松のもとゝ保元物語に見えたり。其後治承二年中宮御産の御いのりに太政大臣正一位を遺り給ひけり。<平家物語>延宝七年迄凡五百二十四年か。
悪左府墓
◆所にいひつたへて今の大道より十町あまりひがし、ゑびすの宮は、かの左府の墓(つか)のあとなりといふ。今の大道は奈良坂。かのゑびすの宮のほとりは般若路にや。さだかにしらず。◆
悪左府<頼道>は、みやこのいくさにながれ矢にあたり給ひて大和路におち給ひしが、保元元年七月十四日御とし三十七にてうせさせ給ひしかば、こゝに葬したりき。同二十五日実否の実験とて死かばねをほり しけるその所は添上郡川上村般若野の五三昧なり。大道より東に入事一町あまり玄因律師実 得業の墓(つか)の猶ひがしゆるめる松のもとゝ保元物語に見えたり。其後治承二年中宮御産の御いのりに太政大臣正一位を遺り給ひけり。<平家物語>延宝七年迄凡五百二十四年か。
【八重桜】
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9 千坊坂 (【坊目拙解・趾跡考・巡覧記】)<(省由来)・(取材)・(石造)>
般若寺町の南にあり。これより東北伊賀国に至る。山中に鳴川村あり。此所癩人坂の石あり。往来人これに腰をかくる時は其徒に入るとぞ。
前半は現地取材によるものと思われる。「癩人坂の石」という語は他書では見かけない。地元での呼び方なのかもしれない。最後の一文は【坊目拙解】【趾跡考】及び【巡覧記】に類似の表現がある。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
(北山十八間戸の一記事として)
円形石数基大道東傍に在り。俗に乞丐(カツタイカ)石と云ふ。俗諺に若夫、斯の石上に蹲居する時は癩者が族徒と為ると。此に於いて行人斯の石を慄れ、暫時も此の辺りに彳せず。云々。是亦童蒙の謬説なり。当初般若野五三昧の五輪石塔婆の円形分散して此に存するのみ。今乞丐等草鞋を撲ち、盤を為す。
(北山十八間戸の一記事として)
円形石数基大道東傍に在り。俗に乞丐(カツタイカ)石と云ふ。俗諺に若夫、斯の石上に蹲居する時は癩者が族徒と為ると。此に於いて行人斯の石を慄れ、暫時も此の辺りに彳せず。云々。是亦童蒙の謬説なり。当初般若野五三昧の五輪石塔婆の円形分散して此に存するのみ。今乞丐等草鞋を撲ち、盤を為す。
【趾跡考】
※北山十八間戸の記事の中に
当所大道東側円石数十基有り。行人誤りて石上に坐すれば則ち癩者同類と為らんと欲す。仍りて行人此の石を慄れ、此に暫彳せず。云々
※北山十八間戸の記事の中に
当所大道東側円石数十基有り。行人誤りて石上に坐すれば則ち癩者同類と為らんと欲す。仍りて行人此の石を慄れ、此に暫彳せず。云々
【奈良曝】
千坊坂
今在家町石橋より北にある坂を云。むかし此所に寺有て坊数千有しゆへにかく云とかや。
善鐘寺町
…石橋より北の町。此上の方にむかし千坊有しゆへ千坊が坂といふ。
千坊坂
今在家町石橋より北にある坂を云。むかし此所に寺有て坊数千有しゆへにかく云とかや。
善鐘寺町
…石橋より北の町。此上の方にむかし千坊有しゆへ千坊が坂といふ。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
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※【巡覧記】
般若寺坂
佐保川の北なり。此辺、北山十八間戸に癩人の屋あり。道の傍に円(まる)石多し。是に踞れは癩人ども其党に入るゝと云。
般若寺坂
佐保川の北なり。此辺、北山十八間戸に癩人の屋あり。道の傍に円(まる)石多し。是に踞れは癩人ども其党に入るゝと云。
10 北山十八間戸 【八重桜】<(反霊験)・(省由来)>
興善院町坂の下北向にあり。癩人住て往還の旅人に銭を乞ふて世を渡る。恵心僧都の筆の弥陀仏あり。毎年三月廿五日開帳す。
【八重桜】と【奈良曝】に類似の表現があるが、より似通っている【奈良曝】を参考にしたと思われる。【旧跡幽考】や【坊目拙解】が伝える地名由来説や忍性律師に関する説話には触れていない。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
北山十八間戸
浄福寺の巽方阪の間路傍に在り。瓦葺長屋十八戸、癩病の乞食住所なり。
〇或いは云ふ、往古南都と延暦寺と不和にして度々闘争有り。是に於いて北嶺山法師を憎みて癩者乞食人等と謂ひ、北山と名づく。是即北嶺を呪(ノル)?謂なり。云々。按ずるに此の説後人の付会の里諺なり。当辺は古へに云ふ那羅山にして即ち興福寺東大寺の北山なり。因て以て斯く名づくのみ。
〇※元亨釈書の引用
〇※鎌倉極楽寺忍性菩薩行状略頌の引用
北山十八間戸
浄福寺の巽方阪の間路傍に在り。瓦葺長屋十八戸、癩病の乞食住所なり。
〇或いは云ふ、往古南都と延暦寺と不和にして度々闘争有り。是に於いて北嶺山法師を憎みて癩者乞食人等と謂ひ、北山と名づく。是即北嶺を呪(ノル)?謂なり。云々。按ずるに此の説後人の付会の里諺なり。当辺は古へに云ふ那羅山にして即ち興福寺東大寺の北山なり。因て以て斯く名づくのみ。
〇※元亨釈書の引用
〇※鎌倉極楽寺忍性菩薩行状略頌の引用
【趾跡考】
北山十八間戸<興善院町南に在り>
十八間戸は癩人住室なり。奈良に於いて癩人を呼びて北山と曰ふ。…
元亨釈書云ふ、…
十八間戸は癩人住室なり。奈良に於いて癩人を呼びて北山と曰ふ。…
元亨釈書云ふ、…
【奈良曝】
善鐘寺町
…右手に北山十八軒とてかわらぶきの長屋の内に癩人有て往来の旅人より銭をもらひて世を渡る。此癩人の本に横川の恵心のかゝせ給ふ阿弥陀仏有。毎年三月二十五日般若寺の文殊会に開帳をし、かね太鼓をならし諸人におかませるなり。
善鐘寺町
…右手に北山十八軒とてかわらぶきの長屋の内に癩人有て往来の旅人より銭をもらひて世を渡る。此癩人の本に横川の恵心のかゝせ給ふ阿弥陀仏有。毎年三月二十五日般若寺の文殊会に開帳をし、かね太鼓をならし諸人におかませるなり。
【旧跡幽考】
奈良坂癩人
いつの比よりにやありけむ、癩人の住宅となれり。
むかし此所に手足まとはれて行歩もかなはざれば袖ごひもかなはず、日を経るといへども物もくはざりける癩人あり。その比忍性律師は西大寺にぞ住おはしける。かゝる癩人を見給ひて、いとあはれがり暁ごとになら坂のいほりにいたりて癩人をうしろにおひ奉り、市中にすへおき暮むれば又おひて、かれがいほりにをくりかへし、風雨寒暑にもをこたりなし。癩人臨終の時ちかひあり。我かならず又此世界にうまれて師につかへて厚恩を報じ奉らん。顔に一瘡(ひとつのかさ)を残してしるしとせん」といひてぞをはりける。…
奈良坂癩人
いつの比よりにやありけむ、癩人の住宅となれり。
むかし此所に手足まとはれて行歩もかなはざれば袖ごひもかなはず、日を経るといへども物もくはざりける癩人あり。その比忍性律師は西大寺にぞ住おはしける。かゝる癩人を見給ひて、いとあはれがり暁ごとになら坂のいほりにいたりて癩人をうしろにおひ奉り、市中にすへおき暮むれば又おひて、かれがいほりにをくりかへし、風雨寒暑にもをこたりなし。癩人臨終の時ちかひあり。我かならず又此世界にうまれて師につかへて厚恩を報じ奉らん。顔に一瘡(ひとつのかさ)を残してしるしとせん」といひてぞをはりける。…
【八重桜】
※善鐘寺の記事の中に(北山)
さて、是より北の坂を北山と号す。開基は弘法大師なり。この所に癩人共住居し往来の旅人より銭を乞ひ、又正月師走五節供盆二季彼岸には町中をめくり米銭を乞うけ身命をつなく。此の家数、十八間有。癩人長吏の本に恵信の僧都のかゝせたまふ阿弥陀仏わたらせ給ふ。毎年三月二十五日に此の如来をかけ、太鼓をうち念仏を申し、諸人におかまする。
※善鐘寺の記事の中に(北山)
さて、是より北の坂を北山と号す。開基は弘法大師なり。この所に癩人共住居し往来の旅人より銭を乞ひ、又正月師走五節供盆二季彼岸には町中をめくり米銭を乞うけ身命をつなく。此の家数、十八間有。癩人長吏の本に恵信の僧都のかゝせたまふ阿弥陀仏わたらせ給ふ。毎年三月二十五日に此の如来をかけ、太鼓をうち念仏を申し、諸人におかまする。
11 阿閦寺 【独自】<(反霊験)・引用・(省諸説)・(省由来)・取材>
興善院町の東側にあり。本尊阿閦仏。光明山といふ。往昔(そのかみ)光明皇后の御建立といふ。側に悲田院を建給ひし事、続日本紀に見へたり。
この項の内容は、【名勝志】が触れているにもかかわらず、その記事を参考にしていない。おそらく【名勝志】が寺の場所を興善院町から離れた法華寺の近くとしているため見落としたか、別の寺と考えたのだろう。他書は皆、【名勝志】と同じく阿閦寺を法華寺の側にあった廃寺としており、内容も阿閦如来が光明皇后の信心を試す説話が中心である(この説話は『建久御巡礼記』が最初のようである)。
【名所図会】が北山付近の実在の寺(浄福寺?)を阿閦寺としたことについては【坊目拙解】の二つ目の記事が参考になる。籬島は文献より地元民から聞き取った話を重視して採用したのではないだろうか。あるいは、【漫録】が挙げる「旧記」を籬島が目にする機会があったのかもしれない。なお、天保15年(1844年)の「和州奈良之図」という古地図でも北山十八間戸と阿閦寺が併記され、ひとくくりになっている(むしろ【名所図会】の記事が根拠になったのかもしれない)。
また、光明皇后の説話について触れなかったのは、一項目当たりの分量の問題もあろうかと思われるが、一つ前の「北山十八間戸」の態度を思い合わせると神仏霊験譚には触れないという編集方針をとっていたのかもしれない。
ところで、最後に続日本紀を紹介しているが、このように典拠を示すことは他の地誌でもよく見られるものであり、【名所図会】の他の項目でも確認される。ただし、続日本紀に阿閦寺の傍らに悲田院を建てたという記事はなく、誤認である。
【名所図会】が北山付近の実在の寺(浄福寺?)を阿閦寺としたことについては【坊目拙解】の二つ目の記事が参考になる。籬島は文献より地元民から聞き取った話を重視して採用したのではないだろうか。あるいは、【漫録】が挙げる「旧記」を籬島が目にする機会があったのかもしれない。なお、天保15年(1844年)の「和州奈良之図」という古地図でも北山十八間戸と阿閦寺が併記され、ひとくくりになっている(むしろ【名所図会】の記事が根拠になったのかもしれない)。
また、光明皇后の説話について触れなかったのは、一項目当たりの分量の問題もあろうかと思われるが、一つ前の「北山十八間戸」の態度を思い合わせると神仏霊験譚には触れないという編集方針をとっていたのかもしれない。
ところで、最後に続日本紀を紹介しているが、このように典拠を示すことは他の地誌でもよく見られるものであり、【名所図会】の他の項目でも確認される。ただし、続日本紀に阿閦寺の傍らに悲田院を建てたという記事はなく、誤認である。
【名勝志】
廃阿閦寺
※旧跡幽考、建久御巡礼記の引用
廃阿閦寺
※旧跡幽考、建久御巡礼記の引用
【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
阿閦如来(北山十八間戸の一項目として)
恵信の作。温室。十八間東端に在り。阿閦寺と号す。
〇乞丐等伝へて云ふ。光明皇后造立の阿閦寺なりと。此説甚だ妄談にして取るに足らず。忍性菩薩の造建、疑ひ無し。
〇毎三月二十五日開帳せしむなり。
※「阿閦寺・廃阿閦寺」は項立てなし
阿閦如来(北山十八間戸の一項目として)
恵信の作。温室。十八間東端に在り。阿閦寺と号す。
〇乞丐等伝へて云ふ。光明皇后造立の阿閦寺なりと。此説甚だ妄談にして取るに足らず。忍性菩薩の造建、疑ひ無し。
〇毎三月二十五日開帳せしむなり。
※「阿閦寺・廃阿閦寺」は項立てなし
【趾跡考】
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【奈良曝】
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【旧跡幽考】
阿閦寺
※光明皇后・阿閦仏の説話
阿閦寺
※光明皇后・阿閦仏の説話
【八重桜】
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※【三才図会】
阿閦寺旧跡
法華寺近所田の中に在り。
光明皇后志願有て浴室を立て千人の身垢を去らんとする時阿閦如来、癩人と化し其の深心を試す。後寺を建て阿閦寺と号す。
続日本紀云ふ、光明皇后は淡海公の女。<母、橘氏三千代皇太后と名く>幼して敏恵にして早く声誉を播ち…悲田施薬の両院を設け、以て天下の飢病の徒(ともから)を療養す。…
阿閦寺旧跡
法華寺近所田の中に在り。
光明皇后志願有て浴室を立て千人の身垢を去らんとする時阿閦如来、癩人と化し其の深心を試す。後寺を建て阿閦寺と号す。
続日本紀云ふ、光明皇后は淡海公の女。<母、橘氏三千代皇太后と名く>幼して敏恵にして早く声誉を播ち…悲田施薬の両院を設け、以て天下の飢病の徒(ともから)を療養す。…
※【漫録】
浄福寺<千坊坂>
浄福寺の土地は昔日寺院の地にして皇明山阿閦寺の跡なり。…
阿閦寺
旧記に云はく、(※光明皇后阿閦如来挿話)…后大きに感じて伽藍を此の地に立て阿閦寺と号す。其の沐浴の具は般若寺の艮隅に移す。…
浄福寺<千坊坂>
浄福寺の土地は昔日寺院の地にして皇明山阿閦寺の跡なり。…
阿閦寺
旧記に云はく、(※光明皇后阿閦如来挿話)…后大きに感じて伽藍を此の地に立て阿閦寺と号す。其の沐浴の具は般若寺の艮隅に移す。…
12 空海寺 【坊目拙解】<反俗説・省諸説・省由来・取材・(石造)>
雑司村の東にあり。久代(そのかみ)弘法大師建立し給ふ。洞中に石造の地蔵あり。世人穴の地蔵といふ。又誤て仮名の地蔵ともいふ。弘法大師平仮名四十八字を製し給ふを附会したる名なり。信ずるに足らず。享保年中寂真といふ僧再興して本堂惣門庫裏あり。
空海寺は、巻一にも記載されており(弘法大師の建立なり。洞の内に石仏の地蔵尊あり。これを俗に穴の地蔵といふ)、【旧跡幽考】に類似表現がある。ただし、この項では仮名地蔵の由来に関して共通していることから【坊目拙解】を参考にしていると思われる。最後の現状に関する説明は【坊目拙解】より詳しくなっており、籬島が現地で取材した内容であろう。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
空海寺
〇雑司村東側に在り。俗に穴地蔵と云ふ。一説に仮名地蔵と号す。東大寺末寺なり。
〇本尊石仏地蔵菩薩。弘法大師所造云々。畳石窟の如くして其の内に本尊を安じ、上に小堂一宇を建つ。西正面。是に於いて穴地蔵と号すなり。伝云ふ空海此寺に居住す。仍りて空海寺と名づく。今世の俗説云ふ弘法大師在住の砌、倭字伊呂波四十七字之を撰造す。茲に因りて仮名地蔵と号す。云々
〇按ずるに、空海東大寺真言院に在ると雖も雑司邑に住居すること未だ聞かず。本尊に於いては造営為すべきなり。凡そ中世以降石工石仏皆以て弘法大師妙匠と称す。此所に限らず諸国勝計難く証為すは甚だ少なきなり。潜に按ずるに十輪院石窟地蔵を擬し空海営工と為すべく謂ひ、強ひて空海寺と号するのみか。況や伊呂波仮名文字造作に於いてや、抑片仮名は吉備大臣始めて之を作り、其後護命僧正平仮名伊呂波仁保辺土知利奴留遠以上十二字製作、我世誰曽常那良牟已下空海製補して、京一字伝教大師之を加ふ。云々。当寺空海寺穴地蔵と号するに依りて近代事を好む徒漫に称して仮名地蔵と名づくは信用すべからず。
○今按ずるに此の石窟は岡岳前下に在りしか。上古廟陵必ず石窟石像を以て前立拝所と為すなり。疑ふらくは往昔、貴人高僧の墳墓たるべきか。惜しいかな。当寺縁起旧史に伝へず。漫に俚諺に伝えるのみ。
○享保十九<甲寅>年三月住侶律僧( 空白 )、諸人に勧進せしめ、本堂を再建す。此に於いて草堂を壊し、古来の石窟石仏座段石破却し、新たに礎石を構へるなり。…
空海寺
〇雑司村東側に在り。俗に穴地蔵と云ふ。一説に仮名地蔵と号す。東大寺末寺なり。
〇本尊石仏地蔵菩薩。弘法大師所造云々。畳石窟の如くして其の内に本尊を安じ、上に小堂一宇を建つ。西正面。是に於いて穴地蔵と号すなり。伝云ふ空海此寺に居住す。仍りて空海寺と名づく。今世の俗説云ふ弘法大師在住の砌、倭字伊呂波四十七字之を撰造す。茲に因りて仮名地蔵と号す。云々
〇按ずるに、空海東大寺真言院に在ると雖も雑司邑に住居すること未だ聞かず。本尊に於いては造営為すべきなり。凡そ中世以降石工石仏皆以て弘法大師妙匠と称す。此所に限らず諸国勝計難く証為すは甚だ少なきなり。潜に按ずるに十輪院石窟地蔵を擬し空海営工と為すべく謂ひ、強ひて空海寺と号するのみか。況や伊呂波仮名文字造作に於いてや、抑片仮名は吉備大臣始めて之を作り、其後護命僧正平仮名伊呂波仁保辺土知利奴留遠以上十二字製作、我世誰曽常那良牟已下空海製補して、京一字伝教大師之を加ふ。云々。当寺空海寺穴地蔵と号するに依りて近代事を好む徒漫に称して仮名地蔵と名づくは信用すべからず。
○今按ずるに此の石窟は岡岳前下に在りしか。上古廟陵必ず石窟石像を以て前立拝所と為すなり。疑ふらくは往昔、貴人高僧の墳墓たるべきか。惜しいかな。当寺縁起旧史に伝へず。漫に俚諺に伝えるのみ。
○享保十九<甲寅>年三月住侶律僧( 空白 )、諸人に勧進せしめ、本堂を再建す。此に於いて草堂を壊し、古来の石窟石仏座段石破却し、新たに礎石を構へるなり。…
【趾跡考】
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【奈良曝】
空海寺
東側。惣珠院の北に有。穴の地蔵と云。弘法少の間住み給ひし跡。
空海寺
東側。惣珠院の北に有。穴の地蔵と云。弘法少の間住み給ひし跡。
【旧跡幽考】
※勅府倉の記事の一部として
…此北に空海寺は弘法大師の建立、洞の内に石仏の地蔵をすへ給ひしより俗に穴の地蔵といふ。
※勅府倉の記事の一部として
…此北に空海寺は弘法大師の建立、洞の内に石仏の地蔵をすへ給ひしより俗に穴の地蔵といふ。
【八重桜】
※上院の記事の中に(空海寺)
さてこの上院の隣に空海寺といふ有。世俗あな地蔵といひならはす。一説に文(ふみ)地蔵と呼。此事沙石集に見えたり。今は東大寺の坊におはしましけるときく。さて此寺を空海寺といへるゆらいは弘法大師空海とて東大寺の内に学文しましゝゝけるころ北峯の伝教に契(たのま)れ、戒壇堂の土をぬすみとり、山門へつかはさんとし給ひけるを寺僧見付、追かけしかは土をうちすて、此所へ逃かくれ久しくすませ給うち、つれゝゝの折から石の洞に不動明王をきりつけたまふ。又一方の地蔵は伝教の作といふ。
※上院の記事の中に(空海寺)
さてこの上院の隣に空海寺といふ有。世俗あな地蔵といひならはす。一説に文(ふみ)地蔵と呼。此事沙石集に見えたり。今は東大寺の坊におはしましけるときく。さて此寺を空海寺といへるゆらいは弘法大師空海とて東大寺の内に学文しましゝゝけるころ北峯の伝教に契(たのま)れ、戒壇堂の土をぬすみとり、山門へつかはさんとし給ひけるを寺僧見付、追かけしかは土をうちすて、此所へ逃かくれ久しくすませ給うち、つれゝゝの折から石の洞に不動明王をきりつけたまふ。又一方の地蔵は伝教の作といふ。
13 俊恵屋敷 【独自】<引用・市井>
同所の南、成福院にあり。俊恵は壬生二位家隆卿なり。柿本講式云ふ、家隆卿著し給ふ書なり。今自筆の本あり。こゝにわれら幸に生を秋津洲の間にうけ剰(あまつさ)へ居を春日野のほとりにしむと云々。
他書には全く見当たらなかった。俊恵は10代後半に東大寺に入ったようなので、奈良に居住していたであろうと推測されるが、その跡は伝わっていないようである。また、俊恵と家隆は時期的に重なるところがあるとはいえ、別人である。柿本講式も家隆の著作である可能性は低いが、『百人一首一夕話』に「家隆卿柿本講式曰…」とあり近世においては著者とみなされていた可能性がある。籬島は多くの項目で和歌を引用しており、著名な歌人を取り上げようとしたのかもしれない。なお、成福院は【坊目拙解】に成福院跡という項目が見え、当時すでに無くなっていたものと思われる。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
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【趾跡考】
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【奈良曝】
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【旧跡幽考】
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【八重桜】
14 珠光之茶室 【独自】<取材?・市井>
天蓋町土門氏の家にあり。珠光翁茶を好んで足利義政公に仕(つかへ)、世に鳴(なる)。其後南都帰水門といふ所に居す。此茶室永禄の兵火にはまぬかれたれども、惜哉(をしいかな)、寛文年中の火災に罹(かゝり)て焼亡す。今の土門氏が茶室は再び金澤の茶室を移すと云々。
この項も他書に類似の表現はない。最後の「云々」という結びは、他では引用の終わりに使われていることから元となった書物があった可能性はあるが、現在のところ発見できていない(「帰水門」という地名も見当たらない(「水門」という地名は存在する)。原典が漢文調で「帰二水門一(水門に帰り)」となっていたのかもしれない)。なお、珠光の茶室としては称名寺のものの方が有名であり、松屋にも「珠光の間」と呼ばれる一室があった(【趾跡考】)ようだが、【坊目拙解】のごとく松屋三名物を取り上げる方が自然だと思われる。火事のことは【坊目拙解】にも見えるが、年代が違う。移築したという「金澤の茶室」も未詳。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
八幡祢宜土門宅地
今小路西側に在り。
土門氏は世々八幡宮神人たり。先祖茶を嗜みて古市郡司播磨守に師し仕ふ。喫茶奥旨を得。是に於いて播州滅後徐記が鷺の盆?肩衝、存成盆等天下の珍器各土門の家に譲り与ふなり。是に於いて古より茶湯名匠皆以て斯の茶亭を来訪せざること無きなり。累世数寄屋庭石名奇の器材真蹟等記□(日偏に婁)有らず。俗に呼びて手掻鷺の絵と号し、或は松屋肩衝と称すは是なり。世上普く之を知る。今此に略す。云々
〇宝永元年四月十一日、当家類焼之に依て古往の茶亭、古人造る所の庭等一時に灰燼して寔に以て惜しむべきこと甚だしき哉。宝永中数寄屋居宅等悉く再建す。云々。
八幡祢宜土門宅地
今小路西側に在り。
土門氏は世々八幡宮神人たり。先祖茶を嗜みて古市郡司播磨守に師し仕ふ。喫茶奥旨を得。是に於いて播州滅後徐記が鷺の盆?肩衝、存成盆等天下の珍器各土門の家に譲り与ふなり。是に於いて古より茶湯名匠皆以て斯の茶亭を来訪せざること無きなり。累世数寄屋庭石名奇の器材真蹟等記□(日偏に婁)有らず。俗に呼びて手掻鷺の絵と号し、或は松屋肩衝と称すは是なり。世上普く之を知る。今此に略す。云々
〇宝永元年四月十一日、当家類焼之に依て古往の茶亭、古人造る所の庭等一時に灰燼して寔に以て惜しむべきこと甚だしき哉。宝永中数寄屋居宅等悉く再建す。云々。
【趾跡考】
珠光屋敷<北袋町北端西側多門橋南方に在り。塀内畠なり>
珠光庵<内侍原称名寺に在り>
珠光は称名寺の住侶、茶を好みて紹鴎<一閑居士大黒庵>の弟子と為り、其の名を顕し近世に至る。珠光の井及び手水石鉢有り。云々
珠光の間<興福寺尊教院内に在り。六畳敷、天井椽折釘数多有り。其の伝を知らず。云々
同<東大寺地蔵院内に在り>
同<土門氏裏に在り。家名松屋>
珠光屋敷<北袋町北端西側多門橋南方に在り。塀内畠なり>
珠光庵<内侍原称名寺に在り>
珠光は称名寺の住侶、茶を好みて紹鴎<一閑居士大黒庵>の弟子と為り、其の名を顕し近世に至る。珠光の井及び手水石鉢有り。云々
珠光の間<興福寺尊教院内に在り。六畳敷、天井椽折釘数多有り。其の伝を知らず。云々
同<東大寺地蔵院内に在り>
同<土門氏裏に在り。家名松屋>
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
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【八重桜】
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15 祇園社 【奈良曝】<引用・(省由来)>
宮住町東側にあり。建久年中ここに勧請すといふ。或記曰祭は六月十四日なり。むかしは手蹀会(てかいゑ)とて大まつりにて其時着たる仮面とて今東大寺にあり。
この項は【奈良曝】から文言を引いている。「或記曰」と断っているが、断りを入れるかどうかの基準ははっきりしない。勧請の時期について【八重桜】と相違がある。現地取材による情報か。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
祇園社(押上町)
西向 押上町東側人家間に在り。祭所 素戔烏命 大己貴命 奇稲田姫
〇東大寺八幡宮記録曰、建武五年六月五日手掻門北塚に影向八幡宮の末社為るべき旨の宣託、道路に於て諸人を導きかるべき旨之を仰す。故に中御門南北の広前に祝い奉る(春祝?)云々。
〇案ずるに、祇園神宮中御門南北に祝い奉ること有り。然るは往昔門の左右に祭るか。今謂ふ、祇園宮並に神宮寺等は南方一座にて退転無し。北方神宮は永禄十年回禄以来終に断滅して神跡を失ふか。今此旧を以て古を察に、則ち宮住町の称号は分明なり。当代、中御門以北の町家を謂ふ。宮住町と曰ふと雖も曽て神宮有らずや。然ると雖も旧名を伝ふるを察に時に疑ひ無し。干記録に附合す。中御門炎上以降門の北脇神殿をして門脇南方の神宮寺地に合わせ祭らしむ。一殿たるは顕然なり。云々。
〇古老云ふ。往古手掻祇園会有りて厳重なり。当時笹鉾町と云ふは是則ち其の祭礼の遺風なり。云々。蓋し是八幡宮転害会をして混雑附会せしむか。
祇園社(押上町)
西向 押上町東側人家間に在り。祭所 素戔烏命 大己貴命 奇稲田姫
〇東大寺八幡宮記録曰、建武五年六月五日手掻門北塚に影向八幡宮の末社為るべき旨の宣託、道路に於て諸人を導きかるべき旨之を仰す。故に中御門南北の広前に祝い奉る(春祝?)云々。
〇案ずるに、祇園神宮中御門南北に祝い奉ること有り。然るは往昔門の左右に祭るか。今謂ふ、祇園宮並に神宮寺等は南方一座にて退転無し。北方神宮は永禄十年回禄以来終に断滅して神跡を失ふか。今此旧を以て古を察に、則ち宮住町の称号は分明なり。当代、中御門以北の町家を謂ふ。宮住町と曰ふと雖も曽て神宮有らずや。然ると雖も旧名を伝ふるを察に時に疑ひ無し。干記録に附合す。中御門炎上以降門の北脇神殿をして門脇南方の神宮寺地に合わせ祭らしむ。一殿たるは顕然なり。云々。
〇古老云ふ。往古手掻祇園会有りて厳重なり。当時笹鉾町と云ふは是則ち其の祭礼の遺風なり。云々。蓋し是八幡宮転害会をして混雑附会せしむか。
【趾跡考】
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【奈良曝】
祇園牛頭天王
祭六月十四日。押上町に有。むかしは手蹀の会とて六月十四日、ことに大まつり有し、其祭にきたる面とて乞ひ残り東大寺に有。今は此まつりたへてなされども、少し氏子も有。毎年六月十三日、十四日には参詣多し。神主はなし。別当は真言宗なり。むかしよりの法とて散銭をは八幡の大工中へとろとかや。
祇園牛頭天王
祭六月十四日。押上町に有。むかしは手蹀の会とて六月十四日、ことに大まつり有し、其祭にきたる面とて乞ひ残り東大寺に有。今は此まつりたへてなされども、少し氏子も有。毎年六月十三日、十四日には参詣多し。神主はなし。別当は真言宗なり。むかしよりの法とて散銭をは八幡の大工中へとろとかや。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※手蹀門の記事の中で(祇園社)
吉祥園城の主牛頭天王の社有。…仁皇五十六代の帝清和天皇の御宇貞観十一年に山城国愛宕野郡へ垂迹し給ふ。翌る年にまた、此の所へ勧請せり。…いにしへは大まつりにて有しか、今はたへはて、その沙汰なし。
※手蹀門の記事の中で(祇園社)
吉祥園城の主牛頭天王の社有。…仁皇五十六代の帝清和天皇の御宇貞観十一年に山城国愛宕野郡へ垂迹し給ふ。翌る年にまた、此の所へ勧請せり。…いにしへは大まつりにて有しか、今はたへはて、その沙汰なし。
16 威徳井 【八重桜】<引用・(反俗説)>
押上町東側人家の傍らにあり。又従弟井とも書(かく)。むかし小野小町奈良を見めくりける時此水を結びて詠める。したしきか同しなかれや汲つらんおとゝひの子やいとこゐの水。此歌小町が詠しと云伝へり。然れども撰集になし。後人考あるべし。
【八重桜】を参考にしていると思われる。最後に撰集を持ち出し、伝承に対して考証する態度を表明している。
威徳井という名称は、他書ではほとんど見当たらない(他は「従弟井」)が、【漫録】は「威徳井」で項を立て、「威徳井」の語源について「旧記に云ふ、威徳井は昔日、威徳明王斯の井に出現せし故に威徳井の号有りと云ふ」と説明している。さらに続けて、「又の説に小野小町の和歌に依り、故に従弟井と号す。<したしきかおなし流れを汲つらんをとゝひの子やいとこゐの水>此の歌、小町の歌集に見えず云々」とある。小町集にこの歌が載っていないことに触れていることから、【漫録】が参考にした「旧記」を【名所図会】も参考にした可能性がある。なお、付近に「威徳井屋」という宿屋があったことが『遊京漫録』に見え、今に残る石の井戸枠には「威徳井」とある。現地では「威徳井」と称されていたのかもしれない。
【名勝志】
【名所記】
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【大和志】
従弟井
押上町轟橋の南に在り。
従弟井
押上町轟橋の南に在り。
【坊目拙解】
従弟井
従弟井川の橋限東方堤上に在り。
〇延宝年南京古記云ふ、従弟井 押上町に之在り。
シタシキカ同ジ流ヤ汲ヌ覧ヲトゝイノ子ノイトコ井ノ水 小野小町
〇此和歌小野小町詠歌と称す。信用し難し。或人云ふ、都を(の?)川限に在る井水を謂ふ。従弟井と曰ふは、同所異水、兄弟の子孫に倣ふ所以か。云々。
従弟井
従弟井川の橋限東方堤上に在り。
〇延宝年南京古記云ふ、従弟井 押上町に之在り。
シタシキカ同ジ流ヤ汲ヌ覧ヲトゝイノ子ノイトコ井ノ水 小野小町
〇此和歌小野小町詠歌と称す。信用し難し。或人云ふ、都を(の?)川限に在る井水を謂ふ。従弟井と曰ふは、同所異水、兄弟の子孫に倣ふ所以か。云々。
【趾跡考】
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【奈良曝】
従弟井
押上町中ほどはしのかたはらにあり。此井の名をとりて従弟井の橋とも云。小町がうたもあり。是も弘法四十八ほらせられし井の内と云。むかしより名水なり。
従弟井
押上町中ほどはしのかたはらにあり。此井の名をとりて従弟井の橋とも云。小町がうたもあり。是も弘法四十八ほらせられし井の内と云。むかしより名水なり。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※手蹀門の記事の中で(従弟井)
此祠より又一町ほどゆき従弟井と号し名水有。そのかみ文章博士参議右大弁小野篁の孫小野小町ならを見巡りける折ふし此水をむすびのみて詠める
したしきが同じながれや汲つらんおとゝひの子や従弟井の水
と詠せられしよりしもつかた南都すべて茶の水とせり。
※手蹀門の記事の中で(従弟井)
此祠より又一町ほどゆき従弟井と号し名水有。そのかみ文章博士参議右大弁小野篁の孫小野小町ならを見巡りける折ふし此水をむすびのみて詠める
したしきが同じながれや汲つらんおとゝひの子や従弟井の水
と詠せられしよりしもつかた南都すべて茶の水とせり。
※【漫録】
威徳井
旧記に云ふ。威徳井は昔日威徳明王斯の井に出現せし故に威徳井の号有りと云ふ。又の説に小野小町の和歌に依り、故に従弟井と号す。<したしきかおなし流れを汲つらんをとゝひの子やいとこゐの水>此の歌、小町の歌集に見えず。云々
威徳井
旧記に云ふ。威徳井は昔日威徳明王斯の井に出現せし故に威徳井の号有りと云ふ。又の説に小野小町の和歌に依り、故に従弟井と号す。<したしきかおなし流れを汲つらんをとゝひの子やいとこゐの水>此の歌、小町の歌集に見えず。云々
17 松本毘沙門天 【趾跡考】<省由来>
西手蓋町南側にあり。初は松永久秀が居城多門山にあり。其頃、松永多門天と号す。後世松本と称す。
少し文言は異なるが、【趾跡考】を参考にしたと思われる。もともと【名勝志】は【趾跡考】を多く紹介しており、【名所図会】も【趾跡考】を基本的に参考にしていたと思われ、調査対象にした33項目に関しては最も多く参考にされている。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
松本明神社一座
西側北端人家裏に在り。或は松本毘沙門と号す。祭所本地多聞天王
〇当社濫觴未考。先年草堂在りて松本庵と号す。毘沙門天一躯在り。其後小祠に安置し松本明神と名く。云々。
按ずるに、春日榎本社猿田彦命、本地毘沙門天なり。疑ふらくは当神宮は榎本明神か。古松本在るを以て後松本明神と称するか。云々。
〇或は云ふ、松本明神社は古より八幡宮の末社にて累世八幡神主家上司氏神事を掌る。云々。享保十 年当社造営遷宮す。或は僧徒其の事を預かるに因りて神主家旧例を以て浮屠氏勧進を止む。云々。
松本明神社一座
西側北端人家裏に在り。或は松本毘沙門と号す。祭所本地多聞天王
〇当社濫觴未考。先年草堂在りて松本庵と号す。毘沙門天一躯在り。其後小祠に安置し松本明神と名く。云々。
按ずるに、春日榎本社猿田彦命、本地毘沙門天なり。疑ふらくは当神宮は榎本明神か。古松本在るを以て後松本明神と称するか。云々。
〇或は云ふ、松本明神社は古より八幡宮の末社にて累世八幡神主家上司氏神事を掌る。云々。享保十 年当社造営遷宮す。或は僧徒其の事を預かるに因りて神主家旧例を以て浮屠氏勧進を止む。云々。
【趾跡考】
※松永弾正古城の記事の中に
<或人曰、西手掻町東に松本毘沙門有り。是則ち多門山に在りし多門天なり。松永毘沙門天と号す。永の字、本の字形相近似するに、後誤りて松本の字に作る。云々>
※松永弾正古城の記事の中に
<或人曰、西手掻町東に松本毘沙門有り。是則ち多門山に在りし多門天なり。松永毘沙門天と号す。永の字、本の字形相近似するに、後誤りて松本の字に作る。云々>
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
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【八重桜】
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18 初宮明神 (【坊目拙解・奈良曝】)<省由来>
鍋屋町黒門前東側にあり。毎年十一月二十七日南大門の渡(わたり)に田楽法師此前にて芸を相勤むといふ。
【坊目拙解】と【奈良曝】に類似の表現が見つかる。しかし、内容は短く現地取材で確認できることゆえ、偶然の一致の可能性もある。田楽舞の場所が【名所図会】だけ違う点も【名所図会】のオリジナルであることを感じさせる(あるいは、現地取材で場所だけを改めたのかもしれない)。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
初宮大明神社一殿三宇
黒門前東側に在り。俗に初度の宮。
第一殿祭所神祇官八神殿 八座
第二殿 … 第三殿 … 第四殿 …
〇当社は開化天皇の御宇の八神殿なり。其後、御御堂関白道長公再興し、又康治年中<近衛院御宇>春日造替已前に此社造立す。長承元年九月一日霊験に因て両皇太神宮春日五所住吉三座祝副し奉る。云々。
〇当社祭礼毎九月十七日に執行す<当町人之を行ふ>。亦、毎年十一月二十七日若宮祭礼田楽法師等初宮明神前に於て舞曲を為す。是当日の事始なり。因て茲に初度の宮と号すは此の謂なり。
初宮大明神社一殿三宇
黒門前東側に在り。俗に初度の宮。
第一殿祭所神祇官八神殿 八座
第二殿 … 第三殿 … 第四殿 …
〇当社は開化天皇の御宇の八神殿なり。其後、御御堂関白道長公再興し、又康治年中<近衛院御宇>春日造替已前に此社造立す。長承元年九月一日霊験に因て両皇太神宮春日五所住吉三座祝副し奉る。云々。
〇当社祭礼毎九月十七日に執行す<当町人之を行ふ>。亦、毎年十一月二十七日若宮祭礼田楽法師等初宮明神前に於て舞曲を為す。是当日の事始なり。因て茲に初度の宮と号すは此の謂なり。
【趾跡考】
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【奈良曝】
初宮明神
祭九月十八日。石屋町東かわ奉行所の門前にあり。一の宮は神祇官八神殿、二の宮は伊勢両太神、三の宮は春日明神…祭は九月十八日、御湯を奉る。神主は春日の祢宜野田と云所の秀井民部。霜月二十七日、春日御神事の日、田楽法師、此神前にておどるなり。
初宮明神
祭九月十八日。石屋町東かわ奉行所の門前にあり。一の宮は神祇官八神殿、二の宮は伊勢両太神、三の宮は春日明神…祭は九月十八日、御湯を奉る。神主は春日の祢宜野田と云所の秀井民部。霜月二十七日、春日御神事の日、田楽法師、此神前にておどるなり。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
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19 佐保殿旧跡 【名勝志】<引用・(省諸説)>
宿院町の西なり。拾芥抄曰奈良佐保殿淡海公家なり。冬嗣大臣家と云々。
この項は【名勝志】に記事があり、そのまま引用している。ちなみに【大和志】【趾跡考】【旧跡幽考】も佐保殿を取り上げているが、すべて長屋王の邸宅としている。
【名勝志】
佐保殿
<第 巻詳見平城町部宿院町之下> 拾芥抄曰<名所部>奈良佐保殿淡海公家冬嗣大臣家
佐保殿
<第 巻詳見平城町部宿院町之下> 拾芥抄曰<名所部>奈良佐保殿淡海公家冬嗣大臣家
【名所記】
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【大和志】
※長屋王
※長屋王
【坊目拙解】
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【趾跡考】
※長屋王
※長屋王
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
※長屋王
※長屋王
【八重桜】
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20 尼池 【奈良曝】<反霊験・反俗説・省諸説・省由来>
中筋町西側人家の裏にあり。相伝ふ。むかしは大池なりしが、四方漸く埋れて今纔に残るとぞ。諺云、平忠盛の後室池禅尼住みし旧跡なりといへどもさだかならず。
【奈良曝】を下敷きにしていると考えてよいかと思われるが、【奈良曝】の最後にある怪談めいた挿話は割愛している。また【趾跡考】【坊目拙解】の幽霊話も取り上げていないのは、神仏霊験譚同様、娯楽読み物的な印象を持たせないという編集方針なのだろうか。加えて、次項もそうだが、俚諺や俗説について否定的・懐疑的な態度を示しているのも同様の編集方針からかもしれない。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
※大豆山町の記事の中で
〇享禄年七郷記には、高天<北方>阿弥陀院郷、内侍原郷等を載ると雖も、大豆山郷と云ふは見えず。按ずるに阿弥陀院郷は当町にて崇徳寺已前の寺号なること疑ひ無きなり。当町西側南方廃地存し亦荒蕪の盆地有りて俗に尼が池と云ふ。阿弥陀院と尼が池とは音訓相近く誤りて尼が池と云ふ。是即ち阿弥陀院の余風なり。当辺古今恠在りて夜陰なり。行人迷はしむ。是大豆山の足迷(まどい)と謂ふ。古狸の為せる所なり。云々。
〇尼池往年女尼身を投げ死す。其後霊魂妖怪と為り、茲に因て尼が池と称す。今、四方の民屋妖異に慄え、寸地も犯さず。累年避地と為るなり。云々。<名所記云ふ、尼池は平氏忠盛の室地の尼居る旧跡云々。此説妄談にして信用し難し。>
※大豆山町の記事の中で
〇享禄年七郷記には、高天<北方>阿弥陀院郷、内侍原郷等を載ると雖も、大豆山郷と云ふは見えず。按ずるに阿弥陀院郷は当町にて崇徳寺已前の寺号なること疑ひ無きなり。当町西側南方廃地存し亦荒蕪の盆地有りて俗に尼が池と云ふ。阿弥陀院と尼が池とは音訓相近く誤りて尼が池と云ふ。是即ち阿弥陀院の余風なり。当辺古今恠在りて夜陰なり。行人迷はしむ。是大豆山の足迷(まどい)と謂ふ。古狸の為せる所なり。云々。
〇尼池往年女尼身を投げ死す。其後霊魂妖怪と為り、茲に因て尼が池と称す。今、四方の民屋妖異に慄え、寸地も犯さず。累年避地と為るなり。云々。<名所記云ふ、尼池は平氏忠盛の室地の尼居る旧跡云々。此説妄談にして信用し難し。>
【趾跡考】
尼カ池<高天町北内侍原と中筋町との間の人家裏に在り>
尼池濫觴詳らかならず。俚諺に云ふ、上古比丘尼此の池にて溺死す。亡霊池底に止まる。…
尼カ池<高天町北内侍原と中筋町との間の人家裏に在り>
尼池濫觴詳らかならず。俚諺に云ふ、上古比丘尼此の池にて溺死す。亡霊池底に止まる。…
【奈良曝】
尼が池
中筋町のにしがわ人家のうらに有。そのむかしは大池にて有しが、漸ゝに四方よりうまりて今はわづか残れり。これも平の忠盛卿の後室池の尼御前、此所に住せられし跡なるゆへに尼が池とは云。いかなる執心をか置れけん。此池の四方に住む人仕合あしく度ゝやしき主かわるといひ伝ふる。
尼が池
中筋町のにしがわ人家のうらに有。そのむかしは大池にて有しが、漸ゝに四方よりうまりて今はわづか残れり。これも平の忠盛卿の後室池の尼御前、此所に住せられし跡なるゆへに尼が池とは云。いかなる執心をか置れけん。此池の四方に住む人仕合あしく度ゝやしき主かわるといひ伝ふる。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
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21 玄昉松 【独自】<(反霊験)・反俗説・省由来・取材・(石造)>
同所崇徳寺にあり。又松本に小き五輪石塔あり。玄昉の眉目を納むといふ。俗説にして信するにたらず。
他書は「眉目塚」として挙げており、玄昉松という項目や松の事は【名所図会】にしか見られない。現地取材による記事か。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
花茸山崇徳寺
…
眉目塚 本堂南墓地内に在り。玄昉眉目葬所なり。
花茸山崇徳寺
…
眉目塚 本堂南墓地内に在り。玄昉眉目葬所なり。
【趾跡考】
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【奈良曝】
眉目塚
此つかあるによつてまめ山町とはいへり。眉目山町西がわ崇徳寺と云浄土寺の内に、右に云、玄昉僧正のかばねをすてける時眉と目とを此所へおとしけるよりかく名付るとなり。
眉目塚
此つかあるによつてまめ山町とはいへり。眉目山町西がわ崇徳寺と云浄土寺の内に、右に云、玄昉僧正のかばねをすてける時眉と目とを此所へおとしけるよりかく名付るとなり。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※観音堂の記事の中で(眉目塚)
この北、隣町の眉目山町の中程、西かはに宗徳寺といふ浄土寺あり。その内に眉目塚といふ有。是はそのかみ大宰少弐兼左少将藤原広嗣か怨霊、玄昉僧正をつかみさき、偏身を南都中にさんらんしけるか、眉と目を此処へすてけるより、名僧の身なれはとて塚にきつき、今に有。是によつて町を眉目山といふとそ。
※観音堂の記事の中で(眉目塚)
この北、隣町の眉目山町の中程、西かはに宗徳寺といふ浄土寺あり。その内に眉目塚といふ有。是はそのかみ大宰少弐兼左少将藤原広嗣か怨霊、玄昉僧正をつかみさき、偏身を南都中にさんらんしけるか、眉と目を此処へすてけるより、名僧の身なれはとて塚にきつき、今に有。是によつて町を眉目山といふとそ。
22 韓神祠 【独自】<(反霊験)・(省由来)>
高天町の南、漢国町の西側にあり。
そっけない記事で他書を参考にした様子はない。七賢人や仁徳天皇と雉の挿話など話題は少なくないと思われるが、これも神仏霊験譚の一種と見なして割愛したのだろうか。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
韓神祠
南都漢国町に在り。都下三十一町及び三条油阪芝辻三村祭祀を共にす。
韓神祠
南都漢国町に在り。都下三十一町及び三条油阪芝辻三村祭祀を共にす。
【坊目拙解】
漢国神社一殿三座
東正面 園神韓神是なり。
※祭神など
漢国神社一殿三座
東正面 園神韓神是なり。
※祭神など
【趾跡考】
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【奈良曝】
漢国宮
祭八月二十一日。此神おはしますゆへに漢国町と云。宝殿ひがしむき神体はいづれの御代にか有けん、漢国より賢人七人まてわたり、此の里に住れし後、死去し給ふを祝ふるなり。…
漢国宮
祭八月二十一日。此神おはしますゆへに漢国町と云。宝殿ひがしむき神体はいづれの御代にか有けん、漢国より賢人七人まてわたり、此の里に住れし後、死去し給ふを祝ふるなり。…
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※観音堂の記事の中で(漢郷祠)
この北小路より南へ行て、高間といふ町に漢郷といふやしろ有。…(仁徳天皇と雉のエピソード)
※観音堂の記事の中で(漢郷祠)
この北小路より南へ行て、高間といふ町に漢郷といふやしろ有。…(仁徳天皇と雉のエピソード)
23 率川坂本陵 【旧跡幽考】<(引用)・省由来・尊王>
同所。念仏寺の奥にあり。人皇九代開化天皇の陵。同御宇六十年。四月九日に崩御し給ふ。聖寿百十五歳<古事記六十三歳>
【旧跡幽考】を参考にしたと思われるが、もしかすると『延喜式』から直接引用したのかもしれない。なお、他の案内書は天皇陵についてあまり触れないが、【名所図会】はほとんどの天皇陵について取り上げており、これも編集方針であったのかもしれない。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
率川坂本陵
開化天皇〇南都林小路町に在り。
率川坂本陵
開化天皇〇南都林小路町に在り。
【坊目拙解】
率川坂本陵
念仏寺西乾方に在り。人王九代開化天皇の山陵なり。
〇俗に誤りて弘□山と称す。按ずるに降魔山を訛(よこなま)るか。亦開化山を訛るか。然るに高坊<仕丁会所>陵下艮の方に有り。高坊と弘□と音声同じことに依りて以て俗誤りて称すのみ。
率川坂本陵
念仏寺西乾方に在り。人王九代開化天皇の山陵なり。
〇俗に誤りて弘□山と称す。按ずるに降魔山を訛(よこなま)るか。亦開化山を訛るか。然るに高坊<仕丁会所>陵下艮の方に有り。高坊と弘□と音声同じことに依りて以て俗誤りて称すのみ。
【趾跡考】
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【奈良曝】
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【旧跡幽考】
率川坂本陵
◆林の小路韓国の社の奥なる念仏寺の境内にありと古老のつたへなり。韓国の社は園韓神是名無雉なり<社説>俗に加牟古不の社といふ◆
率川坂本陵は和州添の上の郡にあり<延喜式>人王九代開化天皇の陵なり。御宇六十年。四月九日に崩御なり給ふ。御年百十五歳<古事記曰六十三歳>その年の十月春日の率川坂本陵に葬り奉る<日本書紀>延宝七年迄凡千七百七十六年か
率川坂本陵
◆林の小路韓国の社の奥なる念仏寺の境内にありと古老のつたへなり。韓国の社は園韓神是名無雉なり<社説>俗に加牟古不の社といふ◆
率川坂本陵は和州添の上の郡にあり<延喜式>人王九代開化天皇の陵なり。御宇六十年。四月九日に崩御なり給ふ。御年百十五歳<古事記曰六十三歳>その年の十月春日の率川坂本陵に葬り奉る<日本書紀>延宝七年迄凡千七百七十六年か
【八重桜】
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24 塩瀬宗二跡 【趾跡考】<市井>
林小路町にあり。宗二は原(もと)中華の産にして宋の林和靖の裔にして林浄といふ。本朝光明帝歴応四年に建仁寺の龍山禅師宋より帰朝の時相従ふて日本に渡り姓を塩瀬と改む。初めは南都に住し饅頭を製して賈(あきな)ふ。是奈良饅頭の始なり。其子宗二連歌を好(このん)て源氏談抄を編む。名(なづけ)て林逸抄といひ、これを世に饅頭屋本といふ。又節用集を撰す。
この項は、【坊目拙解】及び【趾跡考】に類似の表現が見えるが、文言の一致具合から【趾跡考】を参考にしたと思われる。なお、【名所図会】には林浄因に関して「因」の脱落があるが、【趾跡考】では「浄」で改行され、「因」の文字が行頭に来ていたために見落としたのではないかと思われる。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
林小路町の記事の中で
〇里俗云ふ。往年饅頭屋宗仁此所に居住す。宗仁は林氏たりて故に紅粉を以て林の一字を饅頭の中央に点印の謂所林家の名産を知らんと欲す。茲に因りて当町を曰ひて林の小路と云ふなり。云々。〇按ずるに此の説…
〇饅頭屋宗二は方生斎と号す。天正年の人にて林を以て氏と為す。先祖は中華林和靖の末裔にして林浄因なり。建仁寺龍山禅師宋より帰朝の時、相従ひて来りて後南都に住み、饅頭を製造す。是奈良饅頭の始祖なり。始祖宗仁長子宋珀と号す。家業を当郷に相続せしむ。末孫南京を去り居を洛陽に移して屋名を塩瀬と号し饅頭及び茶具の紫拭布を製す。今尚存す。復云ふ、一條禅閣金兼良公南都興福寺に来客しし時、宗仁哥道を伝授して後、源氏物語抄を偏録に林逸抄と号す。俗に饅頭屋本と云ふ。或は字書を偏集し節用集と名く。是本朝俗字要文の始なり。云々。
林小路町の記事の中で
〇里俗云ふ。往年饅頭屋宗仁此所に居住す。宗仁は林氏たりて故に紅粉を以て林の一字を饅頭の中央に点印の謂所林家の名産を知らんと欲す。茲に因りて当町を曰ひて林の小路と云ふなり。云々。〇按ずるに此の説…
〇饅頭屋宗二は方生斎と号す。天正年の人にて林を以て氏と為す。先祖は中華林和靖の末裔にして林浄因なり。建仁寺龍山禅師宋より帰朝の時、相従ひて来りて後南都に住み、饅頭を製造す。是奈良饅頭の始祖なり。始祖宗仁長子宋珀と号す。家業を当郷に相続せしむ。末孫南京を去り居を洛陽に移して屋名を塩瀬と号し饅頭及び茶具の紫拭布を製す。今尚存す。復云ふ、一條禅閣金兼良公南都興福寺に来客しし時、宗仁哥道を伝授して後、源氏物語抄を偏録に林逸抄と号す。俗に饅頭屋本と云ふ。或は字書を偏集し節用集と名く。是本朝俗字要文の始なり。云々。
【趾跡考】
饅頭屋宗二屋敷<林小路町に在り>
宗二方生斎と号す。林氏元中華林和靖の末裔にして林浄因なり。建仁寺龍山禅師宗より帰朝の時<光明院御宇暦応四辛巳年>相従ひ来たる。本朝に在て氏を塩瀬に改む。始は南都に住み饅頭を製造す。是奈良饅頭の始なり。子孫宗二饅頭を以て家業と為す。宗二連歌及び歌書を好みて源氏物語抄を編む。一に林逸抄と名く。亦節用集を撰ぶ。<是節用集の始也。林逸抄を饅頭屋本と号す。>
饅頭屋宗二屋敷<林小路町に在り>
宗二方生斎と号す。林氏元中華林和靖の末裔にして林浄因なり。建仁寺龍山禅師宗より帰朝の時<光明院御宇暦応四辛巳年>相従ひ来たる。本朝に在て氏を塩瀬に改む。始は南都に住み饅頭を製造す。是奈良饅頭の始なり。子孫宗二饅頭を以て家業と為す。宗二連歌及び歌書を好みて源氏物語抄を編む。一に林逸抄と名く。亦節用集を撰ぶ。<是節用集の始也。林逸抄を饅頭屋本と号す。>
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
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【八重桜】
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25 百万辻子 【趾跡考】<反霊験・省由来・市井・(石造)>
林小路町西側中程より西に至る所をいふ。又同所西照庵に今石塔婆あり。百万が古墳なりと云伝ふ。諺云、むかし春日拝殿の祝子(みこ)百万此所に住しとぞ。
基本的には、「百万の古墳」に言及している【趾跡考】が参考にされていると思われるが、【趾跡考】にはない「拝殿」という語が入っていること、場所の説明が似通っていることから【奈良曝】も参照したのかもしれない。
謡曲「百万」についてはあえて触れなかったのだろうか。これも読み物的な傾向にならないように割愛したのかもしれない。
謡曲「百万」についてはあえて触れなかったのだろうか。これも読み物的な傾向にならないように割愛したのかもしれない。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
百万辻子町
今辻子町と林小路町の中間、西照寺前南側に在り。
〇当町家数纔に六宇許、然れども世々一町と為すなり。俚諺云う、往昔舞女百万此所に住居するに因りて以後人百万町と名づく。街路甚だ狭し。故に百万辻子町と号すなり。
〇元禄二年奈良町屋寺社改帳云う、百万辻子町家数六軒竈員六軒、内大家三宇借家三軒云々。当初春日拝殿の上臈百万女此所に住居し西大寺会式に子を失ひ狂人と成り候由云伝ふ云々。
百万辻子町
今辻子町と林小路町の中間、西照寺前南側に在り。
〇当町家数纔に六宇許、然れども世々一町と為すなり。俚諺云う、往昔舞女百万此所に住居するに因りて以後人百万町と名づく。街路甚だ狭し。故に百万辻子町と号すなり。
〇元禄二年奈良町屋寺社改帳云う、百万辻子町家数六軒竈員六軒、内大家三宇借家三軒云々。当初春日拝殿の上臈百万女此所に住居し西大寺会式に子を失ひ狂人と成り候由云伝ふ云々。
【趾跡考】
百万屋敷<百万辻子南側に在り。西照寺愛宕社の向ひなり。>
俚諺に云ふ、百万此所に住む。西大寺にて一子と別れ、愛患の余り狂乱と成る。而して皇都を出で、嵯峨大念仏の道場に至りて終に離別の童子と巡り逢ふ。南都に帰り云々。
百万春日社の巫女なり。夫死別の後此地に住む。然りと雖も閭巷の説にして信用し難し。只猿楽謡曲の外は曽て所見無し。
当時石塔婆有り。百万の古墳と謂ふ。
百万屋敷<百万辻子南側に在り。西照寺愛宕社の向ひなり。>
俚諺に云ふ、百万此所に住む。西大寺にて一子と別れ、愛患の余り狂乱と成る。而して皇都を出で、嵯峨大念仏の道場に至りて終に離別の童子と巡り逢ふ。南都に帰り云々。
百万春日社の巫女なり。夫死別の後此地に住む。然りと雖も閭巷の説にして信用し難し。只猿楽謡曲の外は曽て所見無し。
当時石塔婆有り。百万の古墳と謂ふ。
【奈良曝】
百万辻子町
林の小路町の中程より西へ入細き辻子をいへり。此所にいにしへ春日の拝殿の上臈女房百万住し跡とかや。うたひにあるは此女房の事を云。…
百万石塔
うたひにうたふ百万なり。鳴川町徳融寺と云ふ大念仏の寺にあり。此石塔、本は井の上町の高林寺の内に有しが彼寺たをれうせし後、此所へうつせしとかや。
百万辻子町
林の小路町の中程より西へ入細き辻子をいへり。此所にいにしへ春日の拝殿の上臈女房百万住し跡とかや。うたひにあるは此女房の事を云。…
百万石塔
うたひにうたふ百万なり。鳴川町徳融寺と云ふ大念仏の寺にあり。此石塔、本は井の上町の高林寺の内に有しが彼寺たをれうせし後、此所へうつせしとかや。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※円證寺の記事の中で
そのかみ春日若宮の拝殿に百万といふ上臈女房有。かの女房の此町に住給ひしより世の人かく云。すなはち百万のうたひは、この女房の事を作れり。此百万の住れし屋しきも今有。
※円證寺の記事の中で
そのかみ春日若宮の拝殿に百万といふ上臈女房有。かの女房の此町に住給ひしより世の人かく云。すなはち百万のうたひは、この女房の事を作れり。此百万の住れし屋しきも今有。
26 焔魔堂 【八重桜】<省由来>
法蓮村にあり。又正観音を安置す。共に行基の作といふ。又顔輝(がんき)が画する所の炎王の画像あり。
この項は【八重桜】を参考にしたと思われるが、かなり改変している。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
閻魔堂
<葺瓦三間四面。御拝附>東側中程奥に在り。本尊観世音。奈良巡礼一所なり。草堂一宇。当堂草創未だ考ず。<古記云旧名円満寺と号す。聖武帝建立。長福寺と号す。云々>
閻魔堂
<葺瓦三間四面。御拝附>東側中程奥に在り。本尊観世音。奈良巡礼一所なり。草堂一宇。当堂草創未だ考ず。<古記云旧名円満寺と号す。聖武帝建立。長福寺と号す。云々>
【趾跡考】
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【奈良曝】
炎魔堂
善鐘寺町北がわ。むかしは大寺にて善鐘寺といひしゆへに此町をもせんしやうじ町とは云。…
炎魔堂
善鐘寺町北がわ。むかしは大寺にて善鐘寺といひしゆへに此町をもせんしやうじ町とは云。…
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※神祇官の記事の中に(円満寺)
此の所より戌亥、北法蓮村といふ所へ行は、河はたに円満寺といふ有。世に炎魔堂と呼ぶ。本は長福寺といひけるとかや。…堂の本尊は観世音、左は炎魔大王、ともに行基の作、右の炎魔の絵像と申は唐朝の顔輝が筆といふ。
※神祇官の記事の中に(円満寺)
此の所より戌亥、北法蓮村といふ所へ行は、河はたに円満寺といふ有。世に炎魔堂と呼ぶ。本は長福寺といひけるとかや。…堂の本尊は観世音、左は炎魔大王、ともに行基の作、右の炎魔の絵像と申は唐朝の顔輝が筆といふ。
27 蛭子社 【独自】<(省由来)・取材>
北市町にあり。いにしへ此所に市ありしとぞ。
類似の記事は見当たらない。記事が短く、現地取材で十分得られる情報であるから、【名所図会】のオリジナルと考えられる。なお、恵比須社は南市や高天にもあるが、【名所図会】が北市のみ上げたのは次の大井とのつながりからだろうか。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
恵比須神社一座
北の大道中に在り。南正面鳥居瑞籬。所祭夷三郎殿 世説蛭子大神と称すも、実は沖の荒夷なり。鎮座造立未詳。
毎歳正月五日に初市有り。余日は市立つこと有らず。
※古老の話
恵比須神社一座
北の大道中に在り。南正面鳥居瑞籬。所祭夷三郎殿 世説蛭子大神と称すも、実は沖の荒夷なり。鎮座造立未詳。
毎歳正月五日に初市有り。余日は市立つこと有らず。
※古老の話
【趾跡考】
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【奈良曝】
北市恵美酒
北市町は南都に 市の立はじめなりし。其時もろゝゝの商人をよくまもらせ給ふ神なればとて西のみやのゑひす三郎殿をくわんしやうしけるとて。
北市恵美酒
北市町は南都に 市の立はじめなりし。其時もろゝゝの商人をよくまもらせ給ふ神なればとて西のみやのゑひす三郎殿をくわんしやうしけるとて。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※勝手明神祠の記事の中で(恵美酒の祠)
北市といふ百姓町の南東角なる人家のうら、大井の本といふ有。…この井成就して市をたてんとするに商人あつまらされは、せんかたなくそのまゝにしてやみぬ。…又町の中に有ゑひすのやしろは。かの市始りて売買の御神なれはとて西宮蛭子神を勧請しけるとそ。
※勝手明神祠の記事の中で(恵美酒の祠)
北市といふ百姓町の南東角なる人家のうら、大井の本といふ有。…この井成就して市をたてんとするに商人あつまらされは、せんかたなくそのまゝにしてやみぬ。…又町の中に有ゑひすのやしろは。かの市始りて売買の御神なれはとて西宮蛭子神を勧請しけるとそ。
28 大井 【独自】<引用・(省由来)>
同所南側人家の裏にあり。相伝ふ、弘法大師の掘り給ひし四十八の中(うち)なり。大和志に御井に作る。
【奈良曝】の「大井本」の記事と類似している。【奈良曝】には、続けて「大井」の記事もあるが、所在地が違うために取らなかったのだろうか。あるいは現地取材で得られた情報による【名所図会】のオリジナルなのかもしれない。【大和志】の引用は学術的な印象を与えるためだろう。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
御井
北市町に在り。
御井
北市町に在り。
【坊目拙解】
北市大井
俗、大井のもとゝ云ふ。中座境内民家裏に在り、井囲太はだ広く径二丈余深三十余尋之有り。
〇里俗云ふ、弘法大師掘削する所なり。云々。是亦其の実を知らず。古井毎に謂ふが如く、多くは以て空海所作に非ず、妄談なり。
北市大井
俗、大井のもとゝ云ふ。中座境内民家裏に在り、井囲太はだ広く径二丈余深三十余尋之有り。
〇里俗云ふ、弘法大師掘削する所なり。云々。是亦其の実を知らず。古井毎に謂ふが如く、多くは以て空海所作に非ず、妄談なり。
【趾跡考】
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【奈良曝】
大井本
北市町南かわひがしかど。百姓のうらに有。弘法大師四十八ほらせ給ひし井の内と云。
大井
芝辻町。是も弘法のほらせ給ひしと云。かんごふまつりひむろまつりにわたる神人等此本をめくる事、此水をくむ氏子そくさいなる□と、氏神より水神へのちかいの御□の□□る神人御幣をもちてわたる成べし。
大井本
北市町南かわひがしかど。百姓のうらに有。弘法大師四十八ほらせ給ひし井の内と云。
大井
芝辻町。是も弘法のほらせ給ひしと云。かんごふまつりひむろまつりにわたる神人等此本をめくる事、此水をくむ氏子そくさいなる□と、氏神より水神へのちかいの御□の□□る神人御幣をもちてわたる成べし。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※勝手明神祠の記事の中で(大井の本)
北市といふ百姓町の南東角なる人家のうら、大井の本といふ有。此ゆらいはむかし此町に商人数多あつまり初めて市を立しかは、大和国中より売買に来りし程にこの町のみならす、南都中繁盛し皆人九年のたくはへ有かことし…
※勝手明神祠の記事の中で(大井の本)
北市といふ百姓町の南東角なる人家のうら、大井の本といふ有。此ゆらいはむかし此町に商人数多あつまり初めて市を立しかは、大和国中より売買に来りし程にこの町のみならす、南都中繁盛し皆人九年のたくはへ有かことし…
29 松永久秀城趾 【趾跡考】<(省由来)>
多門山にあり。弾正弼久秀は播州の人なり。摂州高槻に住し姓質肝侫弁才にして享禄の頃 三好長慶に仕、執権となり 天文に至て和州播州に於て廿余万石を領じ、多聞山に城を築くと云云
この項は【趾跡考】を参考にしていると思われる。なお、【趾跡考】は『和州諸将軍伝』を参考にしている。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
多門城趾
奈良坂村の西に在り。永禄中松永久秀築く。天正中織田侯の為に陥る所なり。其の営構鞏固、多く功力を省す。世皆之に倣ふ。之を多門造と謂ふ。又郡境に有る中山の城は中城村に在り。吉岡多門兵衛此に拠て椶櫚の城は北椿尾村に在り。筒井順慶之を保つ。辰の市の城は井戸氏…
多門城趾
奈良坂村の西に在り。永禄中松永久秀築く。天正中織田侯の為に陥る所なり。其の営構鞏固、多く功力を省す。世皆之に倣ふ。之を多門造と謂ふ。又郡境に有る中山の城は中城村に在り。吉岡多門兵衛此に拠て椶櫚の城は北椿尾村に在り。筒井順慶之を保つ。辰の市の城は井戸氏…
【坊目拙解】
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【趾跡考】
松永弾正古城<多聞山に在り>
松永弾正少弼藤原久秀、先祖は播州人にて摂州高槻に住す。性佞奸弁才にして享禄己丑冬十月十日年二十歳にして管領三好修理大夫長慶に仕へ右筆役と為る。然る後三好家の執権たり。而して天文十二三年の比和州摂州二十万余石を領す。…
松永弾正古城<多聞山に在り>
松永弾正少弼藤原久秀、先祖は播州人にて摂州高槻に住す。性佞奸弁才にして享禄己丑冬十月十日年二十歳にして管領三好修理大夫長慶に仕へ右筆役と為る。然る後三好家の執権たり。而して天文十二三年の比和州摂州二十万余石を領す。…
【奈良曝】
多門山
興善院町より少ひつじさるの方にあたる。阿波の三好左京大夫源義継か家臣松永弾正久秀か取立し城跡なり。
多門山
興善院町より少ひつじさるの方にあたる。阿波の三好左京大夫源義継か家臣松永弾正久秀か取立し城跡なり。
【旧跡幽考】
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【八重桜】
※眉間寺の記事の中で(多門山城の跡)
さてこの山つゝき、東うしとらの方を多門山といふ。阿波小笠原三好左京太夫源義継か家臣松永弾正少弼久秀か長男、右衛門佐久通か居住しける城あとなり。
※眉間寺の記事の中で(多門山城の跡)
さてこの山つゝき、東うしとらの方を多門山といふ。阿波小笠原三好左京太夫源義継か家臣松永弾正少弼久秀か長男、右衛門佐久通か居住しける城あとなり。
参考『和州諸将軍伝』
摂州高槻の住人に松永弾正少弼藤原の久秀と云ふ者あり。先祖は播州の住たり。久秀佞奸弁才にして享禄己丑冬十月十日年二十歳にして天下の管領三好修理の大夫源長慶に仕へて右筆より近侍して程なく三好家の執権となり、天文十二三年の比は和州摂州にて二十万余石を領せり。…
摂州高槻の住人に松永弾正少弼藤原の久秀と云ふ者あり。先祖は播州の住たり。久秀佞奸弁才にして享禄己丑冬十月十日年二十歳にして天下の管領三好修理の大夫源長慶に仕へて右筆より近侍して程なく三好家の執権となり、天文十二三年の比は和州摂州にて二十万余石を領せり。…
30 眉間寺 【名所記】<省由来>
同所にあり。佐保山と号す。律宗にして聖武帝の御願なり。長寛年中、村上帝の御宇、化人現れ眉間より光明を放つ事、半時ばかりにして化す。其跡に舎利二粒あり。それより勅して此号を賜ふ。いにしへは眺望寺といふ。開基は行階僧都なり。
この項は【名所記】に拠ったと思われる。【名所記】は当時南都観光案内の定番となっていた。引用に際してはかなりの省略と順序の入れ替えがある。
【名勝志】
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【名所記】
佐保山眉間寺
夫、当山は人皇四十五代聖武皇帝の御願。則御陵所。行階僧都の開基なり。天皇東大寺大仏殿、御幸有し時、此佐保山殊勝の霊地なる間、御母公藤原の后宮の御為に勅詔ありて伽藍を造栄し本堂中尊阿弥陀如来は即帝御当身、右薬師仏左釈迦如来、おのおの行基薩御彫刻なり。初は眺望寺と号す。伝に皇帝此山に御臨幸御遠見宜かりし故、眺望寺と勅額賜之。然るに長寛年中村上天皇御宇、御廟の前に化人現じ眉間より光明を放事半時斗有て化す。其跡に舎利弐粒あり。此由速に奏聞に及べり。帝奇特の事、叡感ありて眉間放光の瑞相を以て眉間寺と勅額を賜ふ。聖武皇帝は観音の化身なりといへり。千歳の星霜を経といへども霊徳不朽なるゆへ国に凶事あらん已前(まへ)には御陵かならず鳴動す。実に行基菩薩・婆羅門僧正・良弁僧正次のごとく文殊普賢弥勒薩の変作にて四聖同時出世仏法の洪基実に尊崇し奉るべき事なり。太子殿は八百年来建物多く宝塔・観音堂等おのおの五六百年廻録の縁なし。殊勝の霊山成事然るべし。委は本縁起に問べし。
佐保山眉間寺
夫、当山は人皇四十五代聖武皇帝の御願。則御陵所。行階僧都の開基なり。天皇東大寺大仏殿、御幸有し時、此佐保山殊勝の霊地なる間、御母公藤原の后宮の御為に勅詔ありて伽藍を造栄し本堂中尊阿弥陀如来は即帝御当身、右薬師仏左釈迦如来、おのおの行基薩御彫刻なり。初は眺望寺と号す。伝に皇帝此山に御臨幸御遠見宜かりし故、眺望寺と勅額賜之。然るに長寛年中村上天皇御宇、御廟の前に化人現じ眉間より光明を放事半時斗有て化す。其跡に舎利弐粒あり。此由速に奏聞に及べり。帝奇特の事、叡感ありて眉間放光の瑞相を以て眉間寺と勅額を賜ふ。聖武皇帝は観音の化身なりといへり。千歳の星霜を経といへども霊徳不朽なるゆへ国に凶事あらん已前(まへ)には御陵かならず鳴動す。実に行基菩薩・婆羅門僧正・良弁僧正次のごとく文殊普賢弥勒薩の変作にて四聖同時出世仏法の洪基実に尊崇し奉るべき事なり。太子殿は八百年来建物多く宝塔・観音堂等おのおの五六百年廻録の縁なし。殊勝の霊山成事然るべし。委は本縁起に問べし。
【大和志】
眉間寺
法蓮村に在り。一名佐保寺。久安中に沙門道寂寓居す。正堂観音堂多宝塔鐘楼鎮守神祠僧舎一宇有り。
眉間寺
法蓮村に在り。一名佐保寺。久安中に沙門道寂寓居す。正堂観音堂多宝塔鐘楼鎮守神祠僧舎一宇有り。
【坊目拙解】
眉間寺
※眉間寺縁起等からの引用等
眉間寺
※眉間寺縁起等からの引用等
【趾跡考】
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【奈良曝】
眉間寺
知行百石。聖武天皇の御廟所、此寺山のいただきにあり。みさざきの森と云。毎年五月二日律宗あつまり法事あり。聖武の御叡かかる北袋町の北にあり。佐保山と云はこれなり。堂はみなみむき。
佐保山
今の眉間寺山を云。元々[ ]の山号なり。
眉間寺
知行百石。聖武天皇の御廟所、此寺山のいただきにあり。みさざきの森と云。毎年五月二日律宗あつまり法事あり。聖武の御叡かかる北袋町の北にあり。佐保山と云はこれなり。堂はみなみむき。
佐保山
今の眉間寺山を云。元々[ ]の山号なり。
【旧跡幽考】
眉間寺 寺領百石律宗
◆前はさほ川うしろはさほ山なり◆
佐保山眉間寺は聖武天皇の御建立といへり。
眉間寺 寺領百石律宗
◆前はさほ川うしろはさほ山なり◆
佐保山眉間寺は聖武天皇の御建立といへり。
【八重桜】
佐保山眉間寺
興福寺の近辺なり。此の寺と申は仁皇四十六代孝謙天皇の御宇天平勝宝八年丙午五月二日に聖武太天皇勝満公崩御成されしを此の佐保山に葬し奉る。即、山のいたゝきに御廟有。是を陵のもりとかうす。南都に悪事あらんとては必御廟鳴動す。…
佐保山眉間寺
興福寺の近辺なり。此の寺と申は仁皇四十六代孝謙天皇の御宇天平勝宝八年丙午五月二日に聖武太天皇勝満公崩御成されしを此の佐保山に葬し奉る。即、山のいたゝきに御廟有。是を陵のもりとかうす。南都に悪事あらんとては必御廟鳴動す。…
31 佐保山南陵 【趾跡考】<省由来・尊王>
眉間寺の後にあり。聖武帝の陵なり。俗に御陵森といふ。東大寺に変ある時は、鳴動すといふ。松永が城中といへども霊験あるゆへ破脚なし云々。
この項は【八重桜】にも似た表現が見えるが、多聞城に触れている【趾跡考】を参考にしたと考えられる。他では霊験譚を省略しているのに対して、ここでは霊験について触れているのは尊王思想への目配りだろうか。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
佐保山南陵
聖武天皇〇眉間寺の上方に在り。続日本紀に曰、天平勝宝八年五月乙卯 帝崩ず。壬申佐保山の陵に葬る。
佐保山南陵
聖武天皇〇眉間寺の上方に在り。続日本紀に曰、天平勝宝八年五月乙卯 帝崩ず。壬申佐保山の陵に葬る。
【坊目拙解】
聖武帝陵
本堂北後山上に在り。
聖武帝陵
本堂北後山上に在り。
【趾跡考】
聖武帝山陵<眉間寺後に在り。佐保山南陵と号す>
聖武天皇、天平勝宝八丙申年五月二日崩ず。寿五十六歳。同月癸申日佐保山に葬す。<俚諺御陵の森と謂ふ>
…
当御陵松永弾正の城内為りと雖も、霊験有るを以て破却無し云々。
東大寺或いは平城変有れば則ち鳴動す。而して前表を示す云々。
聖武帝山陵<眉間寺後に在り。佐保山南陵と号す>
聖武天皇、天平勝宝八丙申年五月二日崩ず。寿五十六歳。同月癸申日佐保山に葬す。<俚諺御陵の森と謂ふ>
…
当御陵松永弾正の城内為りと雖も、霊験有るを以て破却無し云々。
東大寺或いは平城変有れば則ち鳴動す。而して前表を示す云々。
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
聖武天皇陵
勝宝感神聖武天皇は佐保山南陵添上郡にあり<延喜式>天平勝宝八年五月二日に崩御なり給ふ。同月みづのえさるの日、此陵にかくし奉る<続日本紀>此天皇は行基菩薩に菩薩戒をうけ給ひて御年五十にして御かざりをおろし給ひて勝満と申奉り、五十八にしてうせさせ給ふ。
聖武天皇陵
勝宝感神聖武天皇は佐保山南陵添上郡にあり<延喜式>天平勝宝八年五月二日に崩御なり給ふ。同月みづのえさるの日、此陵にかくし奉る<続日本紀>此天皇は行基菩薩に菩薩戒をうけ給ひて御年五十にして御かざりをおろし給ひて勝満と申奉り、五十八にしてうせさせ給ふ。
【八重桜】
※眉間寺の記事の中で(陵の森)
… 仁皇四十六代孝謙天皇の御宇天平勝宝八年丙午五月二日に聖武太天皇勝満公崩御成されしを此の佐保山に葬し奉る。即、山のいたゝきに御廟有。是を陵のもりとかうす。南都に悪事あらんとては必御廟鳴動す。…
※眉間寺の記事の中で(陵の森)
… 仁皇四十六代孝謙天皇の御宇天平勝宝八年丙午五月二日に聖武太天皇勝満公崩御成されしを此の佐保山に葬し奉る。即、山のいたゝきに御廟有。是を陵のもりとかうす。南都に悪事あらんとては必御廟鳴動す。…
32 佐保山東陵 【趾跡考】<(省諸説)・(省由来)・尊王>
同所東の方にあり。光明皇后の陵なり。これ不比等の女にして聖武帝の后なり。天平宝字四年六月乙丑に薨し給ふ。六十歳。謚天平応真正皇太后といふ。
この項も【趾跡考】からの引用であろうと思われる。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
佐保山東稜
平城の朝皇太后藤原氏〇眉間寺の東北に在り。天平宝字四年六月此に葬る。皇太后父は太政大臣不比等、母は縣の犬養橘の宿祢三千代。幼して聡慧、声誉を播く。雅閑礼訓に敦く仏道を崇め、東大寺及び天下の国分寺を創建するは、皇后の勧む所なり。又悲田施薬両院を設け以て天下の飢病の徒を療養す。世、光明皇后と称す。
佐保山東稜
平城の朝皇太后藤原氏〇眉間寺の東北に在り。天平宝字四年六月此に葬る。皇太后父は太政大臣不比等、母は縣の犬養橘の宿祢三千代。幼して聡慧、声誉を播く。雅閑礼訓に敦く仏道を崇め、東大寺及び天下の国分寺を創建するは、皇后の勧む所なり。又悲田施薬両院を設け以て天下の飢病の徒を療養す。世、光明皇后と称す。
【坊目拙解】
光明皇后山陵
佐保山東陵と号す。永禄年松永弾正久秀破壊せしめ城郭を築く。仍て今其跡詳ならず。今云ふ多門山是なり。
光明皇后山陵
佐保山東陵と号す。永禄年松永弾正久秀破壊せしめ城郭を築く。仍て今其跡詳ならず。今云ふ多門山是なり。
【趾跡考】
光明皇后山陵<多聞山上聖武山陵の東方と謂ふ。佐保東陵と号す>
光明子は不比等の女、聖武帝の皇后なり。天平宝字四年辛子六月乙丑六日崩御す。同月癸卯佐保山東陵に葬す。天平応真正皇太后と謚す。<六十歳>当時在る所を知らず。
光明皇后山陵<多聞山上聖武山陵の東方と謂ふ。佐保東陵と号す>
光明子は不比等の女、聖武帝の皇后なり。天平宝字四年辛子六月乙丑六日崩御す。同月癸卯佐保山東陵に葬す。天平応真正皇太后と謚す。<六十歳>当時在る所を知らず。
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
佐保山東稜 所識らず
ならのみかどの大后ふぢはら氏はさほやま東の陵そふの上のこほりにあり<延喜式>続日本紀曰宝字六年七月丙午壬子にうせさせ給ふ。八月丁卯千尋葛藤高知天宮姫之尊と後の御名し給ひてさほ山に火葬し奉る。
佐保山東稜 所識らず
ならのみかどの大后ふぢはら氏はさほやま東の陵そふの上のこほりにあり<延喜式>続日本紀曰宝字六年七月丙午壬子にうせさせ給ふ。八月丁卯千尋葛藤高知天宮姫之尊と後の御名し給ひてさほ山に火葬し奉る。
【八重桜】
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33 犬石 【独自】<引用・(省諸説)・省由来・尊王・石造・貞幹>
南陵の乾にあり。此所元明帝の陵と云ひ伝ふ。此石、陵の四方に建ちし石なり。若隼人像なるが後考あるべし。隼人応天門に陣し犬衣を着する事、延喜式に見へたり。
他書との類似は認められない。現地取材だけでこれだけの記事が書けたとは思われないので、なにかしらからの情報提供があったものと思われる。なお、延喜式には犬衣に関する記述は見当たらない。
【名勝志】
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【名所記】
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【大和志】
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【坊目拙解】
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【趾跡考】
蔵宝山雍良峯<大皇后芝(だいこくましば)と謂ふ。或いは七匹狐と曰ふ。或いは欲良能夜麻(よらのやま)>
…
欲良峯は般若寺在家の西方、興福院艮方にして俗に大黒芝と号す。異石七石有りて各野干形を彫る。其の工甚だ奇なり。今多く分散しむ。漸く二基のみ存す。俗間大黒芝と号し、亦稲荷神と為す。按ずるに当所の巽方に太皇后光明子の山陵有り。太皇后の芝たるべし。後世誤りて大黒に作る。
蔵宝山雍良峯<大皇后芝(だいこくましば)と謂ふ。或いは七匹狐と曰ふ。或いは欲良能夜麻(よらのやま)>
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欲良峯は般若寺在家の西方、興福院艮方にして俗に大黒芝と号す。異石七石有りて各野干形を彫る。其の工甚だ奇なり。今多く分散しむ。漸く二基のみ存す。俗間大黒芝と号し、亦稲荷神と為す。按ずるに当所の巽方に太皇后光明子の山陵有り。太皇后の芝たるべし。後世誤りて大黒に作る。
【奈良曝】
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【旧跡幽考】
元明天皇葬所付七疋狐事
此所は聖武天皇推の岡の陵の乾なり。俗爰を七疋狐といふ事は七つの立石(たていし)に狐のかたちをあらはせるゆへにかくいひつたへける。年経ぬればにや数なくなりて、当代石一つ残りたり。その表に狐の杖をつき躍るすがたあり。その刻(きざみ)ざま、世のつねの物とも見えず。元明天皇爰にて葬し奉るよしいひつたへたり。
元明天皇葬所付七疋狐事
此所は聖武天皇推の岡の陵の乾なり。俗爰を七疋狐といふ事は七つの立石(たていし)に狐のかたちをあらはせるゆへにかくいひつたへける。年経ぬればにや数なくなりて、当代石一つ残りたり。その表に狐の杖をつき躍るすがたあり。その刻(きざみ)ざま、世のつねの物とも見えず。元明天皇爰にて葬し奉るよしいひつたへたり。
【八重桜】
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