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国パルディの小部屋
NAPOLI MOBILISSIMA (2)
Napoli mobilissima(1)を読み返してみて気づいたことがある。それはナポリに関して否定的な事柄ばかりを取り上げてきたということである。このままでは、ナポリがあまりにかわいそうなので、今回はひとつ、ナポリの「よいところ」を大いに語らってみたい。
…不安である。
VI. "Niente più panettone!"
わたしの家が面する通りには、10軒あまりの床屋がある。床屋の隣に床屋。床屋の向かいに床屋。一軒一軒の中をのぞいてみると、客はいないようだ。客はいないが人はいる。店主と友人が話しこんでいるといった感じである。数日前から髪の毛がうっとうしいと思っていて床屋を探していたのだが、一挙に沢山見つかってしまうとそれはそれで困る。Mにお勧めの床屋を訊くことにして、10数軒の床屋を横目にうちに戻った。
実は、ナポリでは床屋に限らず大抵の店がこのような不思議な配列で並んでいる。つまり、同種の店が隣同士・向かい同士に、何軒も立っているのである。楽器屋の隣には楽器屋、向かいにも楽器屋、本屋の隣にも向かいにも本屋、服屋の隣にも向かいにも服屋といった具合である。
なぜだ。個々の店の経営は、どうやって成り立つのか。Mに訊いてみる。それぞれの店に特徴があって、客はニーズにあった店を選ぶんだ。客がそうして店を選ぶうちに、質の劣った店が淘汰されていく、そういったシステムだ。Mのこの説明はある意味で正しいのだろうが、何か腑に落ちない。たとえば、楽器屋の多い通りVia San Sebastianoを通ってみる。全ての楽器屋のショーウィンドウには大抵同じものが飾ってある。別に自店の「ウリ」を強調しているわけではない。とすると、各店は秘密裏にわが店のスペシャリティーを用意しているということになる。だが、そんなことするぐらいなら抜け駆けして違う地域に店を構えて立地を「ウリ」にした方がよっぽど儲かるのではないか。
楽器屋のケースは百歩譲ってMの説明で納得するとしても、床屋の場合はやはり納得がいかない。床屋に十ものスペシャリティーがあって、それもそれぞれがほとんど同じ数のニーズを満たしている(店の大きさは同じ、つまり客の量も同じ)などという状態は不自然すぎる。
要するに、この町では資本主義の原理が奇妙な妥協点を見出しているようである。この謎に闇の組織が関与しているだろうことは、想像に難くない。
閑話休題。今回も「謎」を背負ったまま床屋に出かけた。Mのお勧めの店はなんと、十軒の床屋の建ち並ぶ家の前の通りにではなく、徒歩で十五分のところにあった。私が行った時には他の客はなく、すぐにカットしてもらえることになった。
ナポリでは「〜の友達」というのは、魔法の言葉らしい。早速、Mの友達であることを伝えようとしたが、Mの名前を出しても床屋はピンとこない様子、仕方なく背格好と年の頃を説明すると、なんとなく通じたよう。床屋さんが想像している「私の友人」がM本人かどうかは結局わからないが、そして魔法の言葉が効果を発揮したのかどうかもわからないが、床屋さんは親切だったことに変わりはない。
カットに関しては、思っていたより普通であった。「前はどこで切ったの」というおなじみの質問は、ナポリでもするようである。床屋さんいわく、日本人(男子)の髪型は決まってボリュームがあって、パネットーネ(円筒形のケーキ、クリスマスによく食べる)みたいだそうだ。彼の分析によれば、その理由は隙ばさみを多用することである。隙ばさみを使うと、カットした直後はよいが、短い髪が少しでも伸びてしまうと、それが長い髪を立ち上げてしまい、返ってボリュームをアップさせてしまうのである。だから俺は隙ばさみは使わない、といって仕上げた髪型はなかなかの出来栄えだった。カットが終わり、彼が満足げに言い放った言葉はもちろん、Niente più panettone! (もう、パネットーネのかけらもないよ!)である。
靴職人の工房。伝統工芸が強く息づいているという点は、ナポリの「よいところ」である。
VII. Pozione di Do Nascimento e il cristianesimo
ナポリの何が好き?と問われれば、まず思い浮かぶのはMの存在である。Mは、賢い(イタリア語・文化に詳しい)、優しい、あまり干渉してこない、それでいてフレンドリーという、これ以上ない同居のパートナーである。ちなみに、彼はある有名作家の親戚である。この作家は、名字がフランス系だったがゆえに、ファシズム期にイタリア系の綴りに変えさせられたというエピソードがある(要するにMの名字をイタリア語式にすると、この作家の名字になるということ)。さらにちなむと、Mはこの大作家にして親戚であるこの人物の作品をほとんど読んだことがないらしい。相当の読書家であるにも関わらず。
そんなMは、友人を招待して家で晩餐を開くことがある。私も、家にいるときは、大抵そこに加わる。そんな晩餐会の初回は、私がナポリに着いてまだそれほど経っていない頃だった。テーブルの上にはMのお手製のタイ風カレー。それを囲むのは、M、Mの彼女、Mの友人、友人の妻、そして私、の計五人である。少し経つと、彼らはタイ風カレーもそこそこに、おしゃべりに夢中になりはじめる(彼らの割合=タイ風カレー2割おしゃべり8割。私の割合=タイ風カレー8割おしゃべり2割)。討論好きのイタリア人のこと、そして声の大きいナポリ人のこと、日本人には喧嘩しているようにしかみえないけれど、いつものことだろう…と思っていると、何かが変だ。これはひょっとして、本当に喧嘩しているんじゃあるまいか。この疑惑は、Mの彼女の発言で裏付けされる。“Giacomino, noi ci vogliamo bene eh.”(国パルディ、私たちなにも嫌い合っているわけじゃないのよ)。
喧嘩の経過は、こうである。まず、Mの友人の妻が、カルト集団の奇行について大いに批判する。集団の長、ド・ナシメントが胡散臭い水薬(pozione)を作り、会員がそれを法外な値段で購入してしまう。これに関して、Mの友人の妻は、売る方のド・ナシメントもひどいが、買う方の会員たちもばかに違いない、と批判するのである。と、ここまではよかった。そこへ、Mの友人の妻の夫(つまりMの友人)がタブーに触れてしまうのである。考えてみると、カトリック教会にお布施する人が存在するのも同じメカニズムだなあ(Mの友人)。そんなことないわ、馬鹿じゃないの、教会へのお布施は信仰心からでる貴い行為なのよ(Mの友人の妻)。それを言うならド・ナシメントのポーションを買うのだって同じだろう(Mの友人)。何言ってんのよ、ぜんぜん違うじゃない、外から見たら分かるでしょう(Mの友人の妻)。いやぁ、根本は同じでしょう(ここでMが登場、Mの友人の肩を持つ)。それに、いくらお布施したって教皇が懐を肥やすだけだ。彼らの腐敗を助長してしまう結果になるんだぜ(Mの友人)。現代の教皇庁が腐敗しているというのは、私だってそう思っているわ。でも、カトリック教会には歴史があるんですよ。(Mの友人の妻)。歴史ねぇ、金と腐敗の歴史かい?考えてみれば、金にまみれていなかったのなんてイエス・キリストくらいなもんだろ?(Mの友人)。いやいや、清貧のサン・フランチェスコがいるよ。といっても、教皇庁の歴史に限ったらひどいもんだけどな(M)。・・・(Mの友人の妻)。
ここで、Mの彼女の件の一声が挟まるのである。本来ならここから別の話題に移れたはずなのだが、話しかけた相手が悪かった。国パルディは、生来空気を読めない人間である。いや、読みたくない時は敢えて空気を読まない、といった方が正確だろう(こういう人間も含めて「空気の読めない輩」と呼ぶのだろうか?)。エエト、ワタシハ、キリスト教ニハクワシクナイノデ、クチヲハサムノモハバカレルノデスガ、ヒトツ質問イイデスカ?現代ノカトリック教会ニ不満ガアルノデシタラ、タダノクリスチャンニハナレナイノデスカ?(国パルディ)。それは、それで、別の話よ、私は、様々な地方に様々な宗教が根付くのは、当たり前だと思っているわ、だから、あなたが仏教を信じていることにも、中東の人がイスラーム教を信仰することにも、敬意を払うわ、でも、それと同じで、私はイタリアに生まれたのだから、あくまでもカトリック教会の一員でありたいの(Mの友人の妻)。国パルディの発言は、いいところをついているよ、「ただのクリスチャン」を目指して始まったはずのプロテスタントだって、立派な教会組織になっちゃったわけだから、キリスト教を信仰するためには教会に属さなきゃならないんだよ(M)。ま、そろそろ話題を変えようか(Mの友人)。
西洋文化を研究する私にとって、「宗教」というものはもっとも理解しがたい側面の一つである。あなたの宗教はなんですか。これは欧米人によくされる質問であるが、返答に困る。一頃は、「無神論者(ateo)」だよと答えていたのだが、最近は、「仏教とか、神道とか、いろいろ混じっていてどれともいえないな」などと言ってはぐらかすことが多い。欧米人のいう「無神論者」は「神は本当はいないんだ」という主張をもつ人を指す。私の場合、「神って何」という疑問があるだけだ。欧米人のいう「無神論者」は、決まってカトリック教会を批判する。私は、カトリック教会に関心がない(ごめんなさいっ)。だから私は、彼らのいうところの「無神論者」ではない。そして、「無神論者」を主張する西洋人の方は、ひょっとすると、現存する教会に対して批判的な、「ただのクリスチャン」なのかもしれない。ちなみに、説明の必要もないかもしれにが、MとMの友人は「無神論者」であり、Mの友人の妻はカトリック教会のクリスチャンである。