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研究室沿革
戦前
その設立が太平洋戦争直前の1940年に遡る本専修は、イタリア語学イタリア文学の専門研究者養成機関として日本で最も古い歴史を誇ります。
イタリア文学の研究を専門とするわが国最初の講座が京都大学に設立された背景には、すでに大正期から、教授陣の中にイタリア学に深い関心を寄せる多数の先覚者がいたという事情がありました。それは上田敏や厨川白村などの英文学者、考古学の濱田耕作、言語学の新村出、西洋史の坂口昂といった人々です。京大赴任以前に『詩聖ダンテ』(1901)を発表していた上田敏は、1908年に西洋文学第2講座に着任すると、学生のために『神曲』を講義したのみならず、数多くの講演を通じて学外に向かってもイタリア文学の紹介に努めました。厨川も、西洋文学の総合的な理解のためにはイタリア文学研究が欠かせないことを熱心に説き、1921年には、厨川、濱田、新村、坂口の諸教授、黒田正利講師、そして民間のダンテ研究者であった大賀壽吉氏を中心に《伊太利亜会》が結成されます。これは日本におけるイタリア文化の紹介と研究を目的とする本格的な活動の始まりでした。現在に至るまで私たちが直接その恩恵を被っているこの時期の大きな貢献としては、大賀壽吉氏の蒐集した二千冊を超える貴重なダンテ関係の文献が本学附属図書館に寄贈されたことが挙げられます。大賀氏の雅号を取って《旭江文庫》と名付けられたこのコレクションには、16世紀初頭の『神曲』刊本を含む数多くの貴重書が収められており、その重要性は欧米の主要図書館に劣りません。
1931年には新村、濱田両教授の尽力により、文学部の副科目のひとつにイタリア語が加えられます。この頃になると日独伊枢軸強化の機運を受けて、日伊両国間の親善関係が急速な高まりを見せ、1937年には、第一回日伊文化協定の締結によって、日伊双方の代表的な大学に、それぞれイタリア語学・文学と日本語学・文学の講座を開設することが取り決められました。そしてイタリアではローマ大学に日本文学講座が、また日本では協定締結時に本学総長であった濱田の強い希望もあり、イタリア文学講座が京都大学に設置される運びとなったのです。設立と運営に必要な費用は、財団法人原田積善会から全額寄付されました。このような経緯をたどって、冒頭で述べたように、1940年の12月、日本初のイタリア語学文学講座の開設が実現したのです。講義には黒田講師と人類学者のフォスコ・マライーニ講師が当たりました。しかし、講座の専攻学生はまだ少数にすぎず、しかもその少ない卒業生の多くが第二次世界大戦で戦死するという悲劇に見舞われ、船出したばかり講座は大きな打撃を受けます。