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研究室沿革
戦後
やがて戦争の終結とともに、講座はいわば再出発をすることになりました。ローマ大学で日本文学の講師を務めた野上素一が帰国して教鞭を執ることになり、ここに新しい伝統が育まれ始めたからです。野上は、1954年、現在の《イタリア学会》の前身である《日本ダンテ協会》を創設して『イタリア学会誌』を発刊させ、新進のイタリア学研究者を次々と世に送り出します。さらに1972年には、当時の経団連に働きかけて京大の隣接地に財団法人日本イタリア京都会館を設立させ、本専修のみならず戦後のイタリア研究と日伊文化交流全般に大きな足跡を残しました。
野上の後を受けて1973年に教授に就任した清水純一は、もともと哲学科の出身で、ルネサンス思想史、特にジョルダーノ・ブルーノの研究によって知られた人でした。その学風は厳密な原典読解を基礎とする実証主義的なものであり、清水の指導のもとに、西洋の研究の後追いではなく、優れたオリジナル研究を目指す国際的なスペシャリストの育成が始まります。1980年には外国人教師のポストも設けられ、イタリアから現役の大学人を次々と招くことができるようになりました。このポストはいわばイタリアの学界にダイレクトに通じる扉であり、本専修とイタリアの大学との活発な学術交流が可能となったのです。しかし、清水の在職期間は不運にも学生紛争の時期と重なっていました。学徒出陣で戦地を経験していた清水は果敢に紛争の当事者となり、学部長などの激務を引き受けた結果、健康を害してしまい、入退院を繰り返す生活を余儀なくされます。そして定年退官直後の1988年、64歳で他界しました。
清水の研究の基盤が哲学にあったとしますと、第3代の教授、岩倉具忠の主要な関心は言語にありました。イタリア語のみならず、古典語ならびに近代の西洋諸言語に堪能な岩倉は、「イタリア語の父」ダンテの言語思想を追及し、『俗語詩論』De vulgari eloquentia の校訂版を世に問うなど、イタリア人による先端的研究と一線に並ぶ仕事を次々と発表します。岩倉の業績によって、本専修のみならずわが国のイタリア学全般の学問的水準は著しく高められました。また、1992年からは総合人間学部でもイタリア語教育が開始され、1回生からイタリア語を学ぶことが可能になります。これは本専修にとっても研究者養成の条件をこれまで以上に好ましいものとする変化でした。
岩倉の退官後、1997年に本専修教授に就任した齊藤泰弘は、早くから万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの研究によって知られた人で、このことからも分かるように、語学・文学にとどまらず美術から宗教、政治にまで及ぶ幅広い領域にわたってイタリア文化の本質を追い求めました。特に、わが国において関心の寄せられることの少なかったイタリア演劇を紹介する講義は専修外の多くの学生からも好評を博し、2007年には18世紀の喜劇作家ゴルドーニの主要作品の翻訳を出版しています。
なお、齊藤は2009年度をもって定年により職を退き、現在はルネサンス期の文学を専門とする天野恵が本専修の教授を務めています。