廃藩置県

(江戸時代)

太閤秀吉の時代から江戸時代まで除地(官地)とされ、年貢免除の本陣屋敷は、明治政府に国のものであるので、半分は村に渡せと言われ、赤色部分が市場村に渡されたところです。黄色部分が今の敷地で、絵図面には、五百二十一坪七合五勺づつとありますが、実際には、縄伸びの為、六百五十坪あります。

明治四年(1871年)十一月、紀州から江戸に行かれる、最後の紀州藩主[十四代、中納言茂承(もちつぐ)公]の御簾中[伏見宮邦家親王の娘で、倫宮則子(みちのみや、のりこ)]様を、御止宿の折に拝領したと書かれています。紀州藩も無くなりますし、それまでのお礼だったのでしょうか。 材は桑の木です。当家のは、右とありますから、左という重箱は、他の本陣に、贈られたかも知れません。またその時、則子様が、神社の境内の椿を詠まれた歌の掛軸も、残されています。

象牙の根付

写真をポイントして下さい。

葵の御紋(紀州徳川家)の重箱

明治三年(1870年)十二月、二十四代目の與三郎(よさぶろう)の時、本陣役は廃止されました。翌、明治四年(1871年)、廃藩置県になり、古来より除地(官地)であった本陣屋敷は、半分は市場村に、半分は與三郎に、払い下げられ、そのため、御成門と米蔵は取り壊されました。(と思っていましたが、近所の古老の話では、御成門は昭和29年まで、残されていて、門をくぐると中に役場があったそうです。)上段の間などがあった主屋部分は、明治二十三年(1890年)に、建て直されて現在に至っています。蔵の二階には、御成門に使われていたと思われる柱が、残されています。残念ながら江戸時代から残っているのは、長屋門のみとなっています。

払下時の絵図面