本陣とは

泉南市が製作した、当家の案内板

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大和七在所廻り道中記

この史料は、旅籠などが宣伝のために、旅人に配ったもので、信達宿は新立と言う字になっています。上の案内板には信達をしんだちでは無く、したちと振り仮名をうって有ります。そういう風に書かれ、またそう呼ばれた時代も、あったのでしょうか?

角谷(つのや)家

家紋

丸に三つ盛り
   反り亀甲花菱紋

江戸時代になり、徳川幕府により、伝馬宿駅制度が整備され、参勤交代制が確立されると、主要な宿場に本陣と、人馬問屋が置かれました。本陣とは、元は戦の時に大将が詰める本営の事ですが、以後は大名公家、幕府の上使門跡などの貴人の宿舎となりました。宿泊本陣としては五街道の主要な宿場には1〜2軒(脇本陣)置かれており、他に休憩専用の本陣もありました。脇街道の紀州街道は信達宿市場村と、貝塚宿願泉寺に宿泊本陣が、山中宿(今の山中渓)と、助松宿(今の泉大津)に休憩本陣があり、それぞれ千坪以上の屋敷地に、御成門(おなりもん)や式台、上段の間などの格式を備えた建物がありました。角谷(つのや)家は、六代、與右衛門尉藤原長基(法名)松月道久「慶長十八年(1613年)没」より、二十四代目の與三郎まで、代々本陣役を勤めました。角谷家本陣は、立地上(他に紀州街道を通る大名は在りません)、紀州徳川家の専用本陣でした。

紀州公は、参勤交代の折には、約千五百人の供侍を連れ、和歌山城を出立し、雄ノ山峠を越え、山中宿の土生本陣で昼休憩をとり、信達宿に向いました。当時、山中宿の先には、琵琶ケ崖という街道一の難所があり、そこは、十数メートル下に山中川が流れる、断崖絶壁の細道で、その昔、琵琶法師が、足を踏み外して谷に落ちそれ以降、琵琶の音が、谷底から不気味に聞こえる為そう呼ばれています。そんな所を千五百人が越えるのですから、相当難渋したことでしょう。信達宿で一泊した行列は、明朝、七ツ(午前四時)には出立し、泉大津北助松の田中本陣で、昼休憩をとり、二泊目は、天満八軒家にあった紀州藩大坂屋敷ですから、行列は、五十キロ弱を、十二時間で、歩きました。

(片木 哲男氏所蔵)