Tree and Leaf
 
 ニグルは自分がに出ないと行けないことを知っています。でも旅はいやだし、考えただけでもうんざりだったので急いでその準備をすることもしませんでした。

 
それにニグルにはやらなければいけない仕事がたくさんありました。それなのに、ニグルは人に対して親切だったので、自分のための仕事だけではなく、他人の余計な仕事を押し付けられたりもしました。隣人で足の不自由なパリッシュ氏の事は特にそうでした。

 
しかしニグルがまだ旅に出たくない一番の理由は、まだ完成していない絵があったからです。ニグルは画家だったのです。その絵は最初は一枚の木の葉の絵でした。やがてそれが木になり、枝を伸ばし、鳥たちがやってきて、林になり森になり、まわりに田園が広がり、雪を頂いた山々の姿が望まれるようになりました。でもニグルにとってはまだまだその絵は完成ではなかったのです。

 
旅に出る前に絵を完成させるには、邪魔されずに仕事に専心する必要がありました。でもそうは出来ませんでした。パリッシュ氏曰く、「家の屋根瓦が風で飛ばされ寝室が雨漏りし、家内が風邪で熱を出して寝込んでいる」との事。そこで足の不自由なパリッシュ氏に代わり、ニグルが屋根を直すよう職人に連絡し医者を呼びに雨の中を自転車で出かけていきました。そしてそのためにニグル自身が風邪をひいて寝込んでしまったのです。

 
一週間ほどが過ぎ、よろめく足で絵を描こうとしているとき、検査官と名乗る男がやってきて、隣の家を修理するためにその大きなカンバスを使うように言います。「規則です」と。ニグルは途方にくれました。
 
そこにまた別の男が現れます、検査官そっくりな男は運転手だと言います。旅に出る車のです。でも仕事は終わっていませんし、旅の準備も出来ていませんでした。汽車に遅れるからと、荷造りするひまさえ与えられず、ニグルは旅に出ます。

 
着いたところは「救貧院」でした。病院と言うよりも監獄に近いところでした。ニグルは土堀りをしたり大工仕事をしたりときつい仕事をしなければなりませんでした。  そしてどれくらいたったころでしょうか、ニグルは解放されます。そこは美しい場所でした。良く見ると完成した「あの木」があるではないですか。生きた葉をひらめき、のびた枝を風に揺らしています。ニグルが描いた世界がそこにありました。「贈物だ!」とニグルは言いました。

 
ニグルは救われたのですね。お話はまだまだ続きますがあらすじはこの辺までにします。このお話はキリスト教の救済と、トールキンの言う「準創造」とが物語を通じて表されています。準創造とは、『現実世界においてさまざまな制約のもとに生きている人間は、神から与えられた抽象、帰納、想像力、空想力などの諸能力を行使する事によって、この世の「時」の外に第二の世界を作り出す。そしてその世界において願望の実現をはかり、現実世界における制約を乗り越えようと試みる。トールキンはこのような人間の行為に、神の創造の業に準ずるものとして「準創造」の名を与えるのである。』とあります。(訳者あとがきより)

 
ニグルはトールキン自身なのです。一枚の葉は、トールキンが書いた物語ひとつなのです。そして物語が集まり木となり森と広がるのは、「妖精物語」の世界と言えるのでしょう。トールキンが準創造した世界です。

 
自由になったニグルは、あとからやってきたパリッシュの助けを借りて、自分がかつて「準創造」した木の周辺をさらに整えます。その仕事が終わったとき、ニグルはパリッシュと分かれ、はるかかなたの山々めざして出発します。

 
皆さんはもう既にお気づきでしょうが、旅とは死を意味しています。救済されたニグルは自分がかつて描いた山々の向こうへと旅立つのです。その先に何があるかは誰にも分からないのです。

【余談】
  このお話は、キリスト教に詳しくない私には分からない部分がいくつかあります。2人の人物がニグルについて話し合いますが、それは誰を意味しているのでしょう。またニグルの村の人物として「アトキンス」「トムキンス」「パーキンス」の3人が登場しますが、この3人も深い意味があるのでしょうか?
どなたか詳しい方がおられましたら、ご連絡下さい。

中山さんからメールをいただきました。私などが要約する事はできないので、そのままご紹介いたします。>

 これは父なる神とイエス・キリストの会話だと思います。
 私は常々思うのですが、聖書の奥深さを現すには、神学よりもファンタジーという形がむいているのではないかと。。。ここでも、審判における父なる神とイエス・キリストの役割が見事に描かれています。

 最初の声は「医者の声よりも一段ときびしい声」で、父なる神を表します。
 二番目の声は「やさしいとはいいかねるが、おだやかだとはいえる声」で 「権威を保つ者の声」であり「希望と悲しみとが同時に感じられるひびきがその声には感じられた」(回りくどい日本語ですね。笑)とありますが、これはイエス・キリストを表します。神学的な表現でキリストの性格を描いても、この表現を越えることはできないのではないかと思わせられます。

 最後の方で、「最初の声がいった。『だが、最後の断を下すのは君だ。事実に最善の解釈を与えるのはもちろん君の役目だ・・・』」とありますが、これは執り成し手としてのキリストの役割を言い当てています。
 聖書を引用するなら第一ヨハネ 2:1でしょうか。 「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」

 ところで、ニグルが貧窮院にいた時間というのは「訳者あとがき」(小品集)にあるように「キリスト教で説く煉獄の期間に」あたります。ただし「キリスト教で説く」 というところは若干訂正が必要で、プロテスタントには煉獄思想というものはありません。つまり、それは「カトリックで説く」というべきところです。
 ですが「ニグルの木の葉」を読んでいると、こんな風だったら煉獄もあっていいんじゃないかなと、プロテスタントの私にも思えてくるのです。それも、トールキンが神学のことばでなくファンタジーのことばで救済のイメージを伝えようとしているところからくるおおらかさの故だと思います。

 三人の人物の意味についてはよくわかりません。何かあるのでしょうか?ただ、救済の世界と現実世界とのギャップを表す会話だと言うことだけは確かだと思いますが。

 最後に、「二人とも笑った。笑った−−そして山々にその笑いがこだましていたよ」 これは、キリスト教の救済を喜び(笑い)で締めくくっているわけで、 (特に当時としては)ファンタジーならではの扱いです。
 
 

【書籍情報】
ニグルの木の葉(Tree and Leaf) トールキン小品集に収録
評論社 J・R・R・トールキン著、猪熊葉子訳 1975年3月20日初版
ISBN 4-566-02110-6 340ページ(内167〜206ページ) 188×128mm
挿絵 ポーリン・ダイアナ・ベインズ

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