Magma

History



1968~'69  -前夜-

Christian Vanderは、Cruciferius Lobenzというジョン・コルトレーンに影響を受けたバンドや、ChineseというR&Bのバンドを組んでいた。この頃、C.VanderはPivesというバンドのLaurent ThibaultおよびLucien Zabuskiと知り合う。そのPivesはバンド名をZorgonesと変えたが、間もなく解散。C.VanderはL.Thibault / L.Zabuski / Francis Mozeと新たなバンドを始めることになる。これがマグマの母体となった。

69年の夏、バンドはJean-Jacques Ferry(g) / Eric Grumbert(g)を加えて、Carnaby Street Swingersという名前で活動を行うが、ツアーの後にギタリスト2人が脱退する。残った4人はメンバーを探し、Ren Garber(cl) / Claude Engel(g)らが参加することになる。この頃、Pharoah SandersやSam & Dave、Otis Redding、Rolling Stones等の曲をレパートリーとしていたが、L.Zabuskiはそれらの曲に合わせて自作の言葉で歌うようになった。 この時点ではまだコバイア・ストーリーの案もなく、69年の10~12月頃までは、バンド名すら付いていなかったが、先のL.Zabuskiによる自作の言葉によるヴォーカルスタイルからコバイア語のアイデアは出来ていたようだ。

当初はUniweria Zekt Magma Composedra Arguezdraというバンド名が考えられていたらしいが、C.Vanderは類ない程のパワー・火山の様な熱気を表わすような意味でMagmaというバンド名に落ち着く。(因みにArch Angel誌には、C.Vanderが作曲した"Nogma"という曲がMagmaというバンド名の由来であると書かれている。)

そして、ボーカルのL.ZabuskiがKlaus Blasquiz(vo)と交代し、François Cahen(kb) / Richard Raux(sax) / Paco Charley(tr) / Teddy Lasry(cl,sax)が加わり、69年10月から70年1月までリハーサルが続く。

 

1970~'72  -Magma始動-

70年4月、C.Vanderが考えたコパイア・ストーリーに基づく1stアルバム「Magma」の録音が行なわれる。70年5月22日、théâtre de la Musiqueにおいてステージ・デビュー。デビュー作で知名度を得たマグマだが経済的には苦しかったらしく、C.Vander / F.Cahen / F.Moze / C.Angel / T.Lasryは、Transitionの名前でスタンダード・ジャズを演奏していた。

70年8月未、R.Raux / P.Charley / C.Angelの脱退、Yochk'o Seffer(sax) / Louis Toesca(tr)の加入を経て、71年に2作目「1001°Centigrades」を発表。コバイア・ストーリーは前作より続いているが、サウンドは洗練され、大曲指向に傾いている。また、同71年の秋、Magmaのメンバー達は、旧友のC.AngelやL.Zabuskiをも迎えて、Uniweria Zektの名前で「The Unnamables」を録音する。

71年~72年にかけてライブ活動が本格化し、71年11月のブリュッセルで"Mekanïk Kommandöh"が初めて演奏される。初のヨーロッパ・ツアーもこの時期である。その後、Y.SefferとF.Cahenは、Zao結成のため脱退、F.Moze / T.Lasryも脱退し、バンドは転期を迎える。

72年11月のツアーよリStella Vander(vo)が参加。これまで曲の中心を担った管楽器が大幅に減り、それに替わって重厚なコーラスが中心になり、Magmaサウンドを決定づけるオペラティックなスタイルが確立される。

 

1973~'74  -『Theusz Hamtaahk』三部作-

73年1月、Storchhausコーラス隊を迎えて"Mekanïk Kommandöh"(いわゆるデモバージョンのM.D.K.)が録音される。同年4月にはJanik Top(b)を迎え、3rdアルバム「Mekanïk Destruktïẁ Kommandöh」を録音。

73年から74年にかけてもライヴは精力的に行なわれた。73年7月のニューヨーク公演よりJ.Topもライヴに参加。同年8月にはレディングフェスティヴァルにも出演。73年末~74年前半にかけての活動の中心はほとんどライヴであった。なお、"Theusz Hamtaahk"は73年のライヴでも披露され、未完成ながら"Köhntarkösz"もこの時期から演奏され始める。(この頃のライブ音源としては、「Inédits」の一部と、「BBC 1974 Londres」で聞くことが出来る。)

74年4月には数日間で『Theusz Hamtaahk』の第二部に当たる"Tristan Et Iseult"が録音され、C.Vanderのソロ・アルバムとしてリリースされる。(後に、"Ẁurdah Ïtah"というタイトルでリ・イシュー。) 尚、この"Tristan Et Iseult"は71年に録音されたものが元になっており、同名映画のサントラとして無断使用された事に怒ったC.Vander達が再録音したものである。

『Theusz Hamtaahk』三部作とは第1部が"Theusz Hamtaahk"、第2部が"Ẁurdah Ïtah"、そして第3部が"M.D.K."であり、「コパイア・ストーリー」の中核を成すものである。しかしこの当時公式に発表されていたのは第3部"M.D.K."だけであり、第1部はライブ演奏のみ(現在でもスタジオ盤は未録音)で、第2部はC.Vanderのソロ・アルバム「Tristan Et Iseult」として発表されていた。この様なややこしい状況もあり、『Theusz Hamtaahk』三部作の存在は長い間不明瞭であったが、85年に発売されたC.Vander編集によるベスト盤「Mythes et Légendes Vol.1」で公式に三部作であることが表明された。ちなみに、「Tristan Et Iseult」には"2e Movement de Theusz Hamtaahk"、「Retrospektïẁ I-II」には"1e Movement de ~"及び"3e Movement de ~"というクレジットが有ったことは事実だが、「Wurdah Glao」という未発表作品があるという噂もあり、当時は情報が錯綜していたようだ。

 

-『Köhntarkösz ~ Ëmëhntëhtt-Rê』新たなコバイアストーリー構想-

74年5月に4thアルバム「Köhntarkösz」の録音。また、Magmaの隠れた名曲"Mekanik Machine"の録音も行なわれる。(この曲はシングルのみのリリースでアルバム未収録。) なお、『Theusz Hamtaahk』の第一部である同タイトル曲"Theusz Hamtaahk"のスタジオ録音は行なわれなかった。74年6月からイギリス、ドイツ、スペインへのツアーが敢行されるが、10月のステージを最後にJanik Topは一端Magmaから離れ、第一次Vander/Top期が終わる。

『Köhntarkösz』は、主人公(Köhntarkösz)が不死の秘法を追い求めた偉大な支配者(Ëmëhntëhtt-Rê)の墓を見出し、その際に垣間見た生前のËmëhntëhtt-Rêのヴィジョンを一生涯探求する、といった内容のストーリーである。つづく『Ëmëhntëhtt-Rê』は、Ëmëhntëhtt-Rê本人とPtahという神にまつわる話であることは想像できるが、実際には作品として成立していないため、想像の域をでない。

 

1975~'76  -絶頂期-

74年10月からBernard Paganotti(b)、Benoît Widemann(kb)、そしてDidier Lockwood(vln)を迎え入れ、翌75年2月からUKツアーに出る。こうして75年6月、パリ、オリンピア劇場でライヴ録音が行なわれる。この模様は「Live」としてリリースされ、Magmaの歴史の中でも最高の演奏内容を誇るライブ盤として知られることになる。ちなみにこのライブ盤にはスタジオでの編集作業も加えられており、録音状態の良くなかった"Kobah"、"Lïhns"、"Hhaï"は客を入れずに再録音されたらしい。

75年10月17日、Nancyで開催された"Jazz Puisation 75"というフェスティヴァルで、Janik Top指揮のUtopic Sporadic Orchestraが"De Futura"を演奏する。"Hhaï"や"Ëmëhntëhtt-Rê"が演奏され始めたのもこの75年であり、76年には"De Futura"もMagmaのレパートリーに加わる。

76年に入ってPatrick Gauthier(kb)も参加し、Magmaは更に精力的なライヴを続ける。75年9月24日のToulouseでのライヴ「 Théâtre du Taur 1975 Toulouse」、76年3月1日のReimsでのライヴ「Concert 1976, Opéra de Reims」も後にリリースされる。

76年5月より「Üdü Ẁüdü」の録音が行なわる。このアルバムには当時のメンバー/レコーディングのみのゲストミュージシャン/出戻ったJ.Topが参加しており、コバイア・ストーリーというMagmaのコンセプト面での変化が伺われる。実際のところ、「Köhntarkösz」から始まる(LP3枚組相当の分量と言われる)『Ëmëhntëhtt-Rê』の構想は、このアルバムでは実現されていない。

アルバム完成後の6月から8月こかけて8回ほどツアーを行なうが、7月のデンマークで行なわれた"Roskilde Festival"を最後にB.Paganottiが脱退し、同じく脱退したP.Gauthierと共にWeidorjeを結成する。B.Paganottiの代わりにはJ.Topが一時復帰するが、76年10月~11月の2ヶ月間という短いものであった。この時期のライブはRenaissanceツアーと呼ばれるもので、第二次Vander/Top期と言えよう。また、作曲者本人による"De Futura"が聴ける唯一の時期であり、同じくJ.Top作曲の大作"Musique De Spheres"も演奏されている。これらの模様は彼のレーベル(Utopic Records)からVander/Top名義でライブ盤が近年リリースされた。

しかし76年12月頃迄には、J.Top・M.Graillier / G.Federow / D.Lockwoodらが相次いで脱退し、Magmaはバンドとして危機的状態に陥る。

 

1977~'79  -変化-

MagmaはAlan Stivellのバンド出身である若手ミュージシャン達を迎え入れ、バンド再建を計る。セカンドドラマーとしてClément Baillyをはじめ、Guy Delacroix(b) / Jean De Antoni(g)らの新加入、Benoît Widemann(kb)の出戻りといった布陣であり、新生Magmaのツアーは77年1月から早くも始まる。このツアーでは過去の曲や「Üdü Ẁüdü」での新曲が演奏され始めるが、"Köhntarkösz"、"Theusz Hamtaahk"といったMagmaにとって象徴的な大作がセットリストから外れる。

77年9月から「Ataahk」の制作が始まる。このアルバムはウルゴンとゴルゴの出会い"がテーマであり、ウルゴンとゴルゴの関係(善悪の概念)をエア・ベースとアース・べ一スというツイン・ベース構想で表現しようというものである。但しこの時点では、G.Delacroixがツイン・ベースを一人二役で行なっている。この頃のライヴから"Last Seven Minutes"、"Spiritual"、"Maahnt"、"Nono"といった新曲がセットリストに加わる。

「Attahk」リリース後のツアーは78年8月から開始され、"Ürgon Gorgo"、"Retrovision(Attahk)"といった更なる新曲も登場するが"De Futura"が外れる。以後、「Merci」に至るまでのファンキーかつソウルフルな面をライブ演奏でも見せだしたのがこの頃である。そして翌79年に入って、Michael Herve(b) / Jean-Luc Chevalier(g,b)によるツイン・ベース体制が実現する。ステージ衣装等がカラフルになりだし、ヴィジュアル面での変化も表れてきた。また、"Zess"が初めて披露された時期でもある。その後、79年後半からC.VanderはAlien QuintetやFusionといったバンドでの活動も始め、約1年近くMagmaの活動が行なわれなかった。

 

1980~'82

80年6月9日から3日間にわたって結成10周年を記念した「Retrospektïẁ」コンサートが行なわれる。これは歴代のメンバーが一堂に会し、過去の代表曲を次々に再現したコンサートで、70年代のマグマを総決算した形となる。この模様は抜粋した形ではあるが、「Retrospektïẁ I-II」および「Retrospektïẁ III」としてリリースされている。コンサートの全容としては、"Kobaïa"、"Ki Ïahl Ö Lïahk"、"Iss Lanseï Doïa"、"M.D.K."、"Theusz Hamtaahk"、"Köhntarkösz"、"Hhaï"といった過去の代表曲の他にも、"La Dawotsin"、"Spiritual"、"Le Rock"、"Retrovision"、"Funky Devil"、"Zess"などの新しいナンバーも演奏された。

そして、デビュー以来マグマの一翼を担ってきたK.Blasquizが脱退する。

80年後半は「Retrospektïẁ」以降2回しかライブを行なっていないが、81年にはライブ活動は頻繁になる。"Zain"、"Ürgon Gorgo"、"Retrovision"、"Who's My Love ?"、"Funky Devil"、"Go With The Wind"、"Zess"といった当時の曲に、"Otis"、"You"、"Coltrane Deiss"などの新曲を加えた構成で、もはや昔の大曲は演奏されなくなった。C.Vanderもほとんどの曲で歌うことに徹し始め、セカントドラマーが重要な役割を担うようになる。ファンキーな面を残しながらも、よりスピリチュアルな感触が濃厚になってきた。

81年5月19日~30日までパリのBobinoで計10回のライヴが開催され、「Concert Bobino 1981」として後にリリースされる。

82年のライヴからは、徐々に"Do The Music"、"I Must Return"、"The Night We Died"といった「Merci」に収録される曲が増える。また後のOfferingのアルバムにも収録されるり"Earth"、"Another Day"などもこの時期から演奏され始める。またMagmaと並行してAlien Quartetの活動も継続している。82年6月より「Merci」の録音が開始される。(発表は84年)

 

1983  -Magmaの終焉-

83年もライブは継続して行なわれ、ヴォーカルとコーラスに重点が置かれた"Theusz Hamtaahk"も演奏されるが、同年6月4日を最後にMagmaとしての活動は終止符が打たれる。以後、C.Vanderの活動はOfferingを含めた幾つかのユニットでの活動に移行する。

83年1月~7月、Alien Quartetでのライブ。
83年10月、Offeringが始動する。翌3月までの間、月に数回づつのライブを行なう。C.Vander / S.Vander / G.Khalifaの主要メンバーと「Merci」からの居残り、あとの数人は新加入。
83年12月~84年3月、Alien Trio/Quartetで精力的に活動。

 

1984~'89

84年5月~12月、Offeringは本格的なツアーを開始する。

85年3月~4月、Christian Vander Trio。
85年4月~7月までOfferingで計12回ほどライヴを行ない、その後は翌年までライヴ活動を中断。
マグマのペスト盤「Mythes et Légendes Vol.1」が発売される。

86年1月~3月、Christian Vander Trioでまとまった回数のライブ。
86年2月、4月、7月とOffering単発でのライヴ、その後10月~11月にかけてドイツをツアー。Offering「Ⅰ-Ⅱ」をリリース。

87年2月~4月にかけて、Christian Vander Trioの活動。
87年4月、Step By Step名義での唯一のライヴ演奏。この編成はC.Vanderの、ジャズのためのスペシャルプロジェクト(C.Vander / B.Widemann / J-P.Kajdan / J-P.Fouquey / D.Bertram / P.Gauthier / M.Graillier / F.Briet / F.Lockwood)
87年5月、前半はOfferingでパリ中心に、後半はChristian Vander Trioでツアー。5月のOfferingのライブは「Paris Théâtre Dejazet 1987」として後年リリース。
87年8月~翌年2月まで、OfferingとChristian Vander Trioが交互に単発ライヴを継続。

88年4月から再度OfferingとChristian Vander Trio単発ライヴ継続。
Christian Vanderソロ名義で「To Love」をリリース。

89年2月から3月と11月から12月、Christian Vander Trioがツアー。それ以外にもこの年はOfferingは継続して単発ライヴを行っている。

 

1990~'95  -Magma再始動に向けて-

90年2月22日、OfferingにK.Blasquizを迎えた形で一時的にMagmaが復活、"M.D.K."を再現する。この評判が良かったためか、再度10月から12月に計4回ライヴを行っている。特に最後の12月の公演は、Les Voix de MagmaのデビューライヴとOfferingのライブのダブルメインアクトの形になっていたが、Les Voix de Magmaはこの後継続してライブを行なっておらず、92年7月の再始動を待たなければならない。因みにこの日のLes Voixが演奏した曲は"I Must Return"、"Hortz Fur Dëhn Stekëhn West"、"Ehn Deiss"となっている。

90年3月、5月~6月、9月~10月とChristian Vander Trioで精力的にツアー。
Christian Vander Trio「Jour Apres Jour」をリリース。
Offering「III-IV」をリリース。

91年から92年前半はライヴ自体の回数があまり多くなく、Christian Vander Trioを中心に合間にOfferingが数回づつ入るといったローテーションとなる。

92年7月、Les Voix de Magmaが再始動。これはコーラスを主体としたMagmaと捉えることが出来る。演奏曲は"Ëmëhntëhtt-Rê"、"To Love"、"I Must Return"、"C'est Pour Nous"、"Zess"、"Ronde de Nuit"、"Tous Ensemble"、"Theusz Hamtaahk"、"Ẁurdah Ïtah"、"M.D.K."、"La Marche Celeste"。Les Voix de Magma「Le Voix Concert 1992」としてリリースされる。
92年9月、C.Vander、Reimsで開催されたコロンブス新大陸発見500周年記念コンサートに出演。
92年11月、Christian Vander Trioで数回ライヴ。

93年1月から3月にかけても計16回。以降12月まで途中Les Voix de Magmaのライブ3回を挟みながら精力的にChristian Vander Trioのライブを継続。
Christian Vander「Les Voyages De Christophe Colomb」リリース。
Christian Vander Trio「65!」リリース。
Offering「A Fiieh」リリース。

94年1月、Christian Vander Trio、Stella Vander、Offering、Les Voix de Magmaというセットで3回パリで公演。
94年3月、WelcomeE始動。メンバーはC.Vander / S.Goubert / L.Belmondo / S.Belmondo / S.Persiani / E.Borghi / P.Dardelle。
以降94年はLes Voix de Magmaとして2回、Offeringとして2回、Christian Vander Trioとして10回、Welcomeとして5回ライブを行なう。
94年12月、"A Tous Les Enfants"のライブをスタート。C.Vander / S.Vander / Julie Vander / I.Feuilleboisという編成。

95年1月、Welcome、4回ライブ。
95年3月、Offeringライブ。
95年3月、Fusion再編。

以降5月までChristian Vander Trioと"A Tous Les Enfants"のライブに始終。
Christian Vander「A Tous Les Enfants…」リリース
95年10月、Magma結成25周年記念ライブでLes Voix de Magmaが演奏。"Zess"、"Ëmëhntëhtt-Rê"、"Theusz Hamtaahk三部作"を演奏。このコンサートで100人の子供のコーラス隊が"M.D.K."を演奏し、「Baba Yaga la Sorcière」としてリリースされる。
Welcomeとしてのファースト「Bienvenue」リリース。

 

1996~2001  -Magma復活-

96年12月にエレクトリック・フォームのMagmaが再編成される。"Kobaïa"、"De Futura"、"Hhaï"、"Köhntarkösz"、"M.D.K."を演奏。

97年3月~5月に11回のライブ。

98年後半も同内容のライブを継続。そして遂に初来日。(7月1,2,3,5日)
また、CDシングル「Floë Ëssi / Ëktah」をリリース。

99年4月~6月にかけてUSツアー。5月30日Progfest、6月8日JVC/Bell Atlantic Jazz Festivalにも出演。

2000年5月12~13日、結成30周年記念ライブを開催。Theusz Hamtaahk Trilogieと題して『Theusz Hamtaahk』三部作を演奏し、ライブ・アルバムもリリースする。これにより『Theusz Hamtaahk』は完全な形で提示されたと考えてよいだろう。

2001年3~5月フランス・ツアーの後、二度目の再来日。Theusz Hamtaahk Trilogieを披露する。

 

2002~'04

2002年に入ってからは、新たなレパートリーに着手する。70年代に3回程演奏されただけという、"Köhntarkösz"の初期バージョンの復活である。パリ、サンセット・クラブにて1月30日より12日間に渡って"K.A."をメインにしたライブを行なう。他にも"Köhntarkösz"、"Floë Ëssi"、"Liriik Necronomicus Kanth"を演奏。

2003年~2004年にかけても、"K.A."を中心に据えたライブを精力的に行なう。場所によっては"M.D.K."、"Theusz Hamtaahk "、"Zess"、"Kobaïa"等も演奏される。また近年のライブでのアンコールには、"Ballet Slave"と言われる曲が演奏されることが多い。

2004年11月8日、「K.A.」リリース。これはËmëhntëhtt-Rêの墓を見出すまでのKöhntarköszの物語であり、ストーリー的には4thアルバム「Köhntarkösz」の前に位置している。

 

2005~

2005年1月27日パリ・オランピア劇場でのライブは、"K.A."、"Soï Soï - KMX"、"Ëmëhntëhtt-Rê"の予定。1月末からのツアーではMagmaのレパートリーを、3つの形態(ピアノと混声のみ/歌無し演奏/フル編成)で演奏するという新しい試みが予定されている。

2008年、"Hhaï"とその他未発表パートを含む"Ëmëhntëhtt-Rê"のスタジオ盤を発表。

 

 

 

参照:Marquee Vol.48、Arch Angel 8号、その他諸々