Carmen

History




デビュー前夜


 1970年7月にデヴィッド・アレンはロス・アンゼルスでカルメンを結成する。当時のメンバー構成は7人。

    David Allen (g)
    Mark Anthony (g)
    Vicente (vo?,footwork?)
    Dennis Trerotola (vo)
    Angela Allen (kb,footwork)
    Mark Moody (b)
    Brian Glascock (dr) ・・・John Glascockの兄

 メンバーチェンジを経て、ロベルト・アマラル、ジョン・グラスコックが加入し5人編成となり、73年1月にイギリスに渡る。

    David Allen (g)
    Roberto Amaral (vo,footwork)
    Angela Allen (kb,footwork)
    John Glascock (b)
    Brian Glascock (dr)

 最終的に結成当初からのドラマーであるブライアン・グラスコックはカルメンを離れ、代わりにポール・フェントンが参加する。またポール・フェントンを通じて、ブライアン・ロングレイ(Brian Longley)がバンドのマネージャーになる。

    David Allen (g,vo)
    Roberto Amaral(vo,footwork)
    Angela Allen (vo,footwork,kb)
    John Glascock (b,vo)
    Paul Fenton (dr,vo)


華麗なるデビュー


 4カ月後、ブライアン・ロングレイはプロデューサーであるトニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti:デヴィッド・ボウイ、Tレックス、シン・リジィ等を手がけた)にバンドを売り込み、オーディションを受けることにこぎつけた。演奏を聞いたトニー・ヴィスコンティはカルメンの音楽に驚愕し、レコーディングの手配をすぐさま始めたという。


 そして73年夏頃、1stアルバム(Fandangos in Space)をレコーディングする。1stアルバムを完成させた彼らは、1973年10月18日 ロンドンのマーキー・クラブでデヴィッド・ボウィのライブにゲスト出演し、「Bulerias」と「Bullfight」を演奏する。 この模様は後にデヴィッド・ボウィの"Midnight Special television show"として、アメリカのNBCテレビで放映された。


 74年2月~3月にかけて、2ndアルバム(Dancing on a Cold Wind)を録音。6週間のイギリス・ツアーの後に、アメリカ・ツアーを行う。このツアーではSantana, Blue Oyster Cult, Golden Earring, Rush, ELO, Sha Na Na等と共演し、また3ヶ月間はJethro Tullの前座を務めた。

    Jethro Tullのサポートとして演奏したのは次のとおり
    1975.01.19 Memorial Coliseum Tuscaloosa, Alabama
    1975.02.03 LA Forum Inglewood, California
    1975.02.04 LA Forum Inglewood, California
    1975.02.08 LA Forum Inglewood, California
    1975.02.09 LA Forum Inglewood, California
    1975.02.10 LA Forum Inglewood, California
    1975.02.25 Spectrum Philadelphia, PA
    1975.03.07 Madison Square Garden NYC, New York
    1975.03.10 Madison Square Garden NYC, New York


早過ぎる終幕


 ツアーに成功した彼らはアメリカへ戻り、75年4月~5月にかけてマサチューセッツ州のLong View Farmで3rdアルバム(The Gypsies)を録音する。しかし好調と思われたカルメンも、バンドの経済状況は既に破綻していることが判明し、ほとんど無一文の状態であったらしい。これはブライアン・ロングレイのマネージメントの不手際だと言われており、広報・宣伝というプロモートに実力を発揮した彼ではあったが、経営面での才能は低かったと言わざるを得ない。実際に、ミック・ジャガーからの「ローリング・ストーンズとのツアー同行要請」という光栄の極みともいえる申し出を、多額のギャラ要求をしてしまったが為に棒に振ってしまうという事実もあったとのこと。尚、金銭面での折合いが悪かった為か、3rdアルバムではトニー・ヴィスコンティはプロデュースを行っていない。


 更にバンドに追い討ちを掛けるように、ポール・フェントンの落馬事故という不幸な出来事が起こる。事故による怪我と、自分が紹介したマネージャーがバンドをこの様な状況にしてしまったという後悔から、彼はバンドを去る。そして、ジョン・グラスコックとアンジェラ・アレンはジェスロ・タルへ参加し、ロベルト・アマラルも脱退してしまう。


 この様にして、デビューからわずか2年という短い期間に3枚のアルバムを残しただけで、カルメンは解散してしまう。メンバー間の音楽的意見の相違という如何にもな理由ではなく、音楽とは関係ないバンド運営での不運により解散の憂き目に遭ってしまったという事実は残念至極である。


 デヴィッド・アレンの目指したロックとフラメンコの融合、それを実現させたメンバー達のコンビネーション。時期的にもプログレッシブ・ロックが失速していく70年代後半にかかってはいるが、あと数年(あと数作品)バンドが続いていれば、知名度も世間的評価も上がっていたのではないか?と思いたいのは、ファン故の我が侭だろうか?