Carmen

Members




David Allen

 フラメンコ・ギタリストのクラーク・アレン(Clark Allen)と、フラメンコ・ダンサーのマルガリータ・コルドバ(Margarita Cordova)との間に、デヴィッドと妹のアンジェラは生まれた。詳しい生年月日は判らないが、誕生は1951年頃だと思われる。彼らの両親はアメリカからヨーロッパまで旅行して、ジプシースタイルの生活を送っていたという。アメリカに戻った両親はハリウッドのサンセット・ブルーバードという所で、エル・シド(El Cid)という名のフラメンコ・クラブを開業する。現在はオーナーは変わっている様だが、このクラブは今も在るらしい。デヴィッドとアンジェラの兄妹は幼い頃からフラメンコを学び、デヴィッドは10歳になる頃にはエル・シドで演奏をするようになる。

 10代前半に、彼の最初のバンドであるThe Offbeatsを結成。メンバーはDavid Allen、Paul Dobies、Dennis Trerotola、Ricky Cameronの4人。15歳の時、彼らはメイ・ウェスト(Mae West)のバックバンドとして、2枚のアルバムに参加する。

 16歳の時、Somebody's Chyldrenというバンド名義で3枚のシングルを発表。メンバーはDavid Allen、Paul Dobies、Dennis Trerotola、Ricky Cameron、Angela Allenの5名。

 その後2年の間に、The Marianneという新バンドで8枚のシングルを録音。メンバーはDavid Allen、Dennis Trerotola、Ricky Cameron、Samra。

 18歳の時、Brave ButterというバンドをDennis Trerotolaと結成し、2枚のシングルを録音する。

 ここまでの彼のキャリアを実際に聞いたことはないが、いわゆるロックンロール/ビートロック/ポップスの範疇にあるサウンドだったと想像する。(もしかしたら、若干のフラメンコ要素はあったのかも知れない) その後、ロックとフラメンコの融合を目指してカルメンを結成することになるが、その頃彼はまだ20歳前だったことになる。


そしてカルメン ・・・



 カルメン解散後、アレンはフラメンコとファンクをミックスした新バンドを結成したが、本格的な活動には至っていない。バンド名も不明なら、メンバーも曖昧で、David Allenの他にはJeff、Suze、Greggという名前と、メキシカン・サルサ・ドラマーが居たことぐらいしか判っていない。(尚、GreggとはカルメンのサポートメンバーだったGregg Leeの事だと思われる。後に厚見麗が結成したプログレ・フュージョン・バンド:Tachyonのメンバーとして来日している。カルメンのベーシストとしてサポート参加していたのなら、そのころからグラスコックの体調面での不安があったのかもしれない。)

 1980年には元ジェスロ・タルのBarry Barlow(dr)とAlex HarveyバンドのChris Glen(b)と、バンドを結成する為にロンドンに戻る。又この頃、元ABBAのアネッサ(Agnetha)のソロ・アルバムの為に2曲作曲している。

 1984年にデヴィッドは咽喉癌のため手術を受け、その後歌う事を断念した。80年代半ばになって、Housk Randallという名前でドキュメンタリーカメラマンに転身する。刺青/ビザールファッション/局部ピアスといった物を題材にした白黒写真を撮っており、”Erotic Oscar for Photography”という賞を、二度受賞している。
(参照:http://www.houskrandall.com/)

 1996年になって元のDavid Allenの名前に戻り、南ロンドンでの普通の家庭生活を営むとともに、音楽活動を再開した。2007年には「The Gypsie」のリマスター盤とのカップリングながらも、「Widescreen」というソロアルバムをリリースしており、現在も同名のプロジェクトを継続している。

 

 

Roberto Amaral

 ブラジル系のネスター・アマラル(Nestor Amaral)というフラメンコ・ミュージシャン/作曲家を父に持つ彼は、アレン兄妹と同じくフラメンコの家柄に生まれる。15歳の時に踊りを始め、17歳の頃スペインへ渡り本格的にフラメンコ・ダンスを勉強する。18歳でロサンゼルスに戻り、ホセ・グレコ一座(The Jose Greco Troupe)のリード・ダンサーとなる。その後、アレン兄妹の両親が経営するナイトクラブ(El Cid)にも出演することになり、23歳の時にカルメンに加入する。カルメン解散後、彼はロサンゼルスでフラメンコ教師やプロデューサーとして活動している。

 

 

Angela Allen

 デヴィッド・アレンの妹である彼女のカルメン解散後の動向は、ジェスロ・タルの"Too old to rock'n'roll, too young too die!"にbacking vocalとしてゲスト参加したのみである。




 

 

John Glascock

 1951年にロンドンで生まれたジョン・グラスコックは、兄のブライアン・グラスコックに誘われる形でカルメンに加入した。カルメン参加以前には、Juniors (1962-1964), The Gods (1965-1969), Head Machine (1970), Toe Fat (1969-70), Chicken Shack (1970-72)というバンドを経ており、カルメンのメンバーの中では一番、ロックミュージシャンとしてのプロ・キャリアを持っていたと思われる。

 カルメン解散後、Jeffrey Hammond-Hammondの後釜ベーシストとしてジェスロ・タルに加入。
  "Too Old To Rock’n Roll : Too Young To Die!"
  "Songs From The Wood"
  "Heavy Horses"
  "Live Bursting Out"
  "Stormwatch"
  以上、ライブ盤も含めた5作品で流麗なベースプレイを披露している。

 元来カルメンもジェスロ・タルもリズムチェンジの多彩な曲を得意とするバンドであった。そんな変幻自在のリズム・セクションを体現するベース・プレイヤーとして、カルメンがタルのツアー・サポートを務めていた時点で、タルへの加入は運命付けられていたのかも知れない。しかし不幸なことに、"Stormwatch"のレコーディング中に先天的な心疾患が悪化し、ジェスロ・タル脱退を余儀なくされる。そして脱退直後に心疾患から生じる合併症により、手術の甲斐なく他界した。1979年11月17日、享年28歳。

 ジョン・グラスコックは私にとって、プログレ界隈で一般的に有名な人よりも(例えばJohn Wettonより、Greg Lakeより、Chris Squireより)好きで思い入れのあるベーシストだった。こんなにも優秀なベース・プレイヤーが若くして亡くなったことは、非常に残念なことである。 (余談であるが、カルメンのマネージャーであったブライアン・ロングレイもジョンの死から数ヶ月後に、ロンドンで交通事故に遭い他界している。)

 

 

Paul Fenton

 1948年5月24日、ニューヨークにて生まれる。バンド結成当初からのドラマーであるブライアン・グラスコックが脱退した後、ドラマーを探していたデヴィッド・アレンはケンジントンのブーツ店で蛇革のブーツを履いているポールと出会い、彼をカルメンに誘ったと言われている。(デヴィッドの頭の中には、後任のドラマーに関して「蛇革のブーツ」というインスピレーションがあったとの事)

 カルメン以前にはChristieのメンバーだった彼は、カルメンでの活動と重なる時期に、マーク・ボランのTレックスにも参加している。
  T. Rex / Bolan's Zip Gun (1975)
  T. Rex / Futuristic Dragon (1976)

 その後の動向について音沙汰がなかったが、近年になってマーク・ボランのトリビュート・バンドに参加しているようである。