新作&『萌黄の鳥』抜粋 み〜つけた! 詩のある風景 ≪私の好きな歌人≫ 『萌黄の鳥』 本編
『萌黄の鳥』 評 『鍵束揺らし』 HOME  





『萌黄の鳥』評
    寺尾登志子 ( りとむ )
2003「短歌」10月号

文芸や絵画に寄せる作者の愛情が、読後に鮮やかな印象を残す歌集である。

   逃がしたる魚の浮かびきぬ赤色にぬりつぶられし画布の裏より

   萌黄色の鳥迷いくるベランダより翔び立たんとす我の利き足

 一枚の抽象画の前に立ち、画家が表現しょうとした核を直感的に掴み取り
り、感覚の喜びをを歌にする作者がいる。萌黄色の小鳥に誘われて思わず
利き足に力が入るのは、現実から飛翔しようとする衝動のためだ。
「逃がしたる魚」を追い求め、高層のベランダから「萌黄色の鳥」となって翔び
立つ感性が瑞々しい。

    トルストイ全集を売る古書店があからさまとなる裸木の下 

 知の在り方の激変する現況を何気ない情景で歌にする眼差しが知的で好ま
しく、現実とのスタンスにも、作者の個性が感じられる。

   人群れに逆らいて立つ若者の手よりポケットティッシュ渡さる
   人口呼吸のゴム人形に吐く我の息のみ聞こゆ実習室に

 一首目、街にありふれた光景もこうして定型の器で差し出されると、酷薄な
世相の諷刺として寓意性を帯びる。
「ゴム人形」を相手に、「実習屋」で「人口呼吸」の訓練をする「我」を提示した
二首も、生死の手応えを喪った現代生活の一面を、生々しく暗示していよう。
  
   百年は褪せない歌の技法告げ野分の風が湖面揺らすも
   名詞止めの歌ばかりなり くれないの縦一文字ピエロの眼

 表現に対して強い自覚を持ち、短歌の修辞にも意欲的な作者の第一歌集。








『萌黄の鳥』評   島崎榮一 (鮒
  2003年「短歌現代」9月号  新刊紹介

中条芳之介の帯文に「基本姿勢は日常性・卑俗性を排し、高い文学性をめざす
」とある。作品の多くは感覚的な把握が独創的な形であらわれ、表現はやや
晦渋ながら集全体に詩的魅力がある第一歌集。

  薄紙に封じ込められどくだみは鉄のヤカンに薄き息吐く
  結論はついに出でざり卓上にアルミ硬貨は光をもたず

不毛のただ長いだけの会議をアルミ硬貨と同じ目方で捉えている。

  迷彩服幼児に着せて公園の出口捜し続ける女
  隊列を組みて過ぐ若者の長き両脚無国籍めく

「日常を出て、詩人、旅人、鳥にだってなれる」著者。水甕叢書。








         佐々木則子歌集 『萌黄の鳥』 2003年水甕 11月号

                  
     小松久美江・評
   
                      やわらかき変容
 
 水たまりにギリシャの神殿を思わせる遺跡が写っている。猫が「主と従の関係あいまい

な雄猫と藤椅子の傷共有している」と歌集中に歌われる優雅な猫が水たまりに写る己が

影を見つめている。過去がいきいきとした舞台である遺跡と、作者と今を共有し作者より

優位に立っているらしい猫の表紙。それは佐々木則子さんの日常と非日常の境目にこだ

わっている作家姿勢を表していると思う。


           雲低くたれ込むる昼の住宅街にツルゲーネフがひと括りある
  
           猫足の木椅子を揺らししなやかに流れてみんか五月の風に
  
           萌黄色の鳥迷いくるベランダを翔び立たんとす我の利き足
  
     人はかつて魚にてありきひらひらと背びれ動かす四条河原町

 一首目、日本近代文学の成立に影響を与えたロシアの小説家ツルゲーネフも最近は読

む人はほとんどいなくなったのであろう。住宅街のごみステーションに括られて積まれてい

る。ごく最近のことであるが、私も短歌関係の本がひと括りごみとして出ているのを見て持

って帰りたいと思ったことがある。活字離れが言われて久しい。重く厚い問題が、上句暗

い表現とツルゲーネフの軽やかな響きによって現代を象徴する。

二首目、「猫足の椅子」に座り猫のようにしなやかに五月の風に流れてみようと、言葉の

続きがらに日常がさわやかに揺れる。三首目、書名『萌黄の鳥』はこの歌から取られたの

だろう。萌黄色の鳥といえば私にはまず目白が浮かぶが、どのような鳥なのであろうか。

一首は明るい早春へ一歩踏み出そうとしているようだ。


四首目、佐々木さんは京都在住である。『萌黄の鳥』にはオノマトペの数はそれほどない

が「ひらひらと」が身体のリズムとして生き、賀茂川の堤を歩く躍動感が私のあり方を、示

している。作者は現実の私と「もの」や「こと」を通して存在する私に微妙な距離とか、あい

まいな境を感受し表現しようとしている。

 『萌黄の鳥』には画家及びその作品を題材とした歌がかなりある。また「いち人を描き終

わりて油絵の臭を消すと茶房に来たり」もあって、作者は絵を描かれているのかもしれな

い。

          伊勢丹の美術館「駅」にユトリロの一生分のビデオが回る
  
          帰宅遅れし一人の部屋にユトリロの「冬の街角」明かりを点す
  
          堂本印象すくっと立ちて歩みくる御室の御所の襖の絵より
  
           ピカソ展画布より抜けて眠りいる女運びゆく真昼の電車

 JR京都伊勢丹「えき」KYOTOがある。おそらくそこでユトリロの展覧会があったのであ

ろう。ユトリロはパリ、モンマルトンの生まれ。モンマルトンの建物・街路・教会の詩情をと

らえた風景が多い。代表作に「コタンの小路」がある。最近の展覧会では画家の一生

の仕事の要約が要領よく映像化されている。列車・電車が止まり人間関係が乗り降りし、

人間と人間が触れ合い、人間関係がさまざまなスタイルで行き交う行動空間である駅。誰

もが不特定の抽象的人物になってしまい「私は誰なのであろう」と思うことは私たちのしば

しば体験していることであろう。

 伊勢丹の美術館「駅」騒々しいということではなく、「駅」という名前を与えられたことによ

り一首には多様な気配感じられ「一生分のビデヲが回る」にはイロニーも込められる。

二首目、ユトリロ街の風景のごく細部まで正確に描きユトリロの街は静けさと人情が今も

残っているという。一首にはあたたかさがほわっと浮かんで見える。


三首目、御室の御所は仁和寺のこと。仁和寺の黒書院には五室に分かれ、各部屋に堂

本印象が描いた襖絵がありいずれも墨絵。堂本は明快な画風で、太い箒のような筆の

大胆な構図とタッチ、それでありながら穂先の切れ味は鋭く、細かいところまで神経の行

き届いた絵という印象が私にはある。一首は堂本が絵そのままのイメージで襖絵から立

ち歩みくるという抽象的な見方をしている。

 四首目、ピカソの女はピカソが描いた女が絵から抜け出て、時空を超え電車に眠ってい

るという。現代の気怠い気分が読み取れる作品である。四首共にさりげない日常の空間

がずれて、現実と非現実の境の曖昧性、不安、裂け目が感じられ作者独自の作風とな

っている。

ところで、どんな堂本印象の作品だったのだろう。いかなるピカソ展の女か。「青い肩かけ

の女」であったのか、「ドラ・マールの肖像」のような女が眠っていたのであろうか。


作者は身近な人々とどう関わっているのであろうか。次に子供を詠んだ作品触れてみた

い。

          去り際に子の残したる言の葉の破片散らばる昼の路上に
  
          ネコ科・夜行性・草食動物 足音を忍ばせて家に帰り来る娘は

息子と娘を詠んだ歌一首ずつ。子供たちはリクルートの服を着て、就職し自立してゆく。

彼等の放つ言葉や動作のもろもろの破片をかき集めながら、母親は明るく作者固有の小

宇宙をつくってゆこうとしている。

       やわらかきあけびの蔓をさらいゆく森に一筋の光差して
  
          やわらかい道草の蔓の先端が向きを変え人は人を裏切る

 他の物に巻き付いたり、付着したりしながら伸びてゆく植物を蔓とか蔦と言うが「萌黄の

鳥」には蔓を詠んだ歌が幾つかある。蔓は伸び、巻きつくものが無くなれば、蔓は光を求

めて空の青さをかい探ったりするのでだろう。

蔓と物の触れ合いわ思う時、蔓は面白い題材である。二首共やわらかいあけびの蔓を詠

うが、一首目「さらいゆく」意図が非常にわかりやすくなったと言えよう。二首目は蔓の動

きが自然である。「向きを変え」は自然の情景であるが、それはそのまま「人は人を裏切

る」という人事の具象化となっている。やわらかな自然と作者の触れ合いがある。「先端が

向きを変え」と身体が感じる手触り、蔓の存在そのものを提示し、蔓の生態を読み手に見

せてくれる。「人は人を裏切る」も不思議と快い。佐々木則子さんのやわらかい変容が予

感される