弥生の興亡、4

 

縄文の逆襲、2

  三、神武天皇(=崇神天皇)の東征
   1、彦火火出見命
   2、東征
   3、熊野進軍
   4、吉野から宇陀、大和へ
  四、大和朝廷の成立
   1、饒速日の国譲り
   2、論功行賞と鴨氏
   3、伊勢津彦と出雲神話
   4、ミマキイリヒコイニエ


三、神武天皇(崇神天皇)の東征

1、彦火火出見命

 火遠理命(彦ホホデミ命、山彦)が、綿津見神の援助を得て、海彦(隼人、犬人)を従えた後、妻の豊玉姫は子を生むために地上へ上がってきました。「子を生む時は、本国の形になって生みますので、私を見ないでください。」と言うのを、こっそり覗いてみると、豊玉姫は八尋和迩に化して身をくねらせていたとあり、この綿津見神の娘がワニだと明らかにされています。
 こうして生れた子供が鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ)命で、母の豊玉姫は姿を見られたことを恥じて海へ帰ってしまい、妹の玉依姫をよこして養育させました。
 やがて、成長したウガヤフキアエズ命が、叔母の玉依姫を妻として生んだのが五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命で、若御毛沼命の別名を神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコ命)といいます。これが大和朝廷初代とされる神武天皇です。後に、五瀬命は戦死し、御毛沼命は波頭を踏んで常世の国に渡り、稲氷命は母の国の海原へ入ったといいますから、日本に残った勝利者は神倭伊波禮毘古命のみです。大山津見神、木花之佐久夜姫、事勝国勝長狭、塩土老翁、大綿津見神、豊玉姫、玉依姫など、笠沙で大和朝廷と通婚したり、援助したりする者は、すべて阿多の隼人の首長一族とその祭神です。
 神武天皇(神倭伊波禮毘古命)とは、大和朝廷の始祖王である崇神天皇が、南九州から大和に至って即位するまでの事績を分割して作り出された天皇です。したがって、「神武記、紀」の内容の大部分を崇神天皇時代の伝承と扱って差し支えありません。これは開化天皇までの邪馬壱国の王統と崇神天皇以降の大和朝廷を間断なくつなぐために工夫されたものです。リンク「諡号の秘密」

 

 記、紀に従えば、笠沙に進出した大和朝廷の祖先は、三代に渡って、土地の前首長、大彦系の文・漢氏と通婚したことになります。しかし、神武天皇の名を磐余彦火火出見尊とする紀の一書もあり(神代紀)、神武紀冒頭にも「神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見」と記されているので、神武天皇(崇神天皇)自身を彦火火出見命(火遠理命、山彦)と解してかまわないようです。
 彦火火出見(ヒコホホデミ)命は大山津見神の血を引き、ウガヤフキアエズ命が大綿津見神の血を引くとすることで、大和朝廷の祖、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)は、太陽神の直系にして、且つ山、海の神の血を引く完全無欠な存在となります。ウガヤフキアエズ命が挟まれたのは、この形を作るためでしょう。その名は、鵜の羽で産屋の屋根を葺き、それが出来上がらないうちに生まれたことから命名されたもので、吹けば飛ぶような羽で屋根を葺くという不自然さや、それが未完というのは、存在の否定を内包させた表現ではないでしょうか。

 

 したがって、大和朝廷の祖先は、ホノニニギ命の一代で、高千穂から笠沙に至るまでの南九州制覇を成し遂げたことになります。ヒコホホデミ命(神武=崇神天皇、山彦)は、隙あらばと逆転を狙っていた海彦(隼人)を完全に押さえ込み、国を安定させました。
 邪馬壱国の開化天皇や大彦は、壱与よりずっと年長ですし(二人が戦った時、壱与は十三歳)、男女の寿命差も考慮に入れると、壱与より先に亡くなっていた可能性が強いでしょう。その没年は壱与の没年とした299年以前のことと扱えます。大和朝廷に王位を譲ったとされているのは饒速日(事代主)で、開化天皇の後に崇神天皇が続けられていますから、開化天皇没後を饒速日が継ぎ、壱与の死から二十年も経ずに邪馬壱国は滅びたようです。
 最初、新羅に王子の為の花嫁を求めたのが312年、ここまで邪馬壱国は確かに存続し、(男の)王がいました。同じ要求をすげなく断わられた二度目が344年、この三十二年の間に何が起こったのでしょうか。新羅まで使者を派遣できるということで、344年に大和朝廷が北九州を制圧していたのは間違いないところです。345年に絶交、346年に新羅の金城攻撃と続きます(三国史記、新羅本紀)。
 320年前後に神武(崇神)天皇が大和に進出し、国を安定させた次代に朝鮮との交流を試みた可能性が強く、大和で娶った妻の子、垂仁天皇が年齢的にうまく合うのです(344-320=24?)。この時は、王子の為では無く、自らの為に花嫁を求めています。330年代と解せば、垂仁天皇は子供になり花嫁の必要がなくなってしまいます。
 当てにしていいかどうか問題ですが、神武天皇は45歳の時、東征したとされていますから、縄文の首長が二代ですむなら、その生年と大和朝廷(ホノニニギ命)の笠沙進出は275年頃?(320-45)の壱与時代の中盤と出来るようです。ホノニニギ命が高千穂を降りたのも、その数年前としておけば、ほぼ片付くのではないでしょうか。
 壱与の代、邪馬壱国の地方官として、笠沙に大彦(壱与の兄)の子孫が封じられていたとすることに不都合はなく、そこへ日向から縄文系のホノニニギ命が進出し、首長の娘を娶って、神武天皇(=崇神天皇=ホホデミ命=山彦)を生み、神武(崇神)天皇がその支配を確固たるものにした後、大和への進出を企てたという順になります。須佐之男が高千穂に侵入したのは、壱与時代の邪馬壱国の勢力拡大策の一環で、狗奴国を滅ぼした262年の少し後と解することができます。

2、東征

 神武天皇は吾田で吾平津媛を娶って手研耳命を生んだとされていますから、前首長の一族、つまり文・漢系の妻がいました。他にも皇子が何人かいたようです。
 「東に良い国があって、青山が四方を取り巻いている。その中に天の磐船(河内私市の磐船神社にある)に乗って飛び降りた者がいる。」という塩土老翁(事勝国勝長狭)の言葉を聞き、「その国は大業を開き、天下を経営するに足る。きっと国の中心であろう。飛び降ったものは饒速日というらしい。そこへ行って都を作ろうではないか。」とのたまわれ、諸皇子もことごとく賛同した。この時、天皇は四十五歳だったといいます。大和に関する情報を塩土老翁、つまり、大彦後裔の母方の祖父から仕入れており、海彦(笠沙の隼人=文・漢氏)を完全に服属させて国も安定したため、大和への侵攻を決意したのです。
 饒速日は物部氏の祖とされていますから、当時、大和を支配していたのは物部氏で、これが邪馬壱国の王家です。カリスマ性を持つ壱与の死後、邪馬壱国の求心力は衰えていたのでしょう。民族、言語、信仰の違いという内乱の芽をつみ取るには時間が足りませんでした。
 「記」では、神武天皇は、兄の五瀬命と高千穂宮で相談して東に向かったことになっており話は簡単です。以下は、より古い形と考えられる「記」を軸に考えます。
 神武(崇神)天皇は日向を出て、筑紫に向かい、豊国(大分県)の宇佐に到ったとき、土地の首長の宇佐都彦、宇佐都姫が帰順しました。「つ」は「の」と同義ですから、これは宇佐の男、宇佐の女の意味で、名前と言えるようなものではありません。その後、筑紫の岡田宮へ移動し、阿岐の多祁理宮に移り、吉備の高島宮へと移った。それぞれ、一年、七年、八年という時間を過ごしています。さらに速吸の門(明石海峡)に槁(椎)根津彦を見出し、その案内で浪速の渡りを経て、青雲の白肩津まで進出しました。時に、大和の登美の長髄彦が、生駒山地を越えて襲来し、ふもとの日下で戦いの火蓋が切られました。五瀬命は深手を負い、「日の神の子孫なのに、日(東)に向かって戦ったのが敗因だから、日を背にして攻めよう。」ということで南下を図ります。しかし、結局、五瀬命は紀国(現在の大阪府泉南市男里)の男之水門で崩じてしまったといいます。陵墓を紀国(和歌山市和田)の竃山に作った後、神武(崇神)天皇とその軍勢はさらに南下して熊野まで達しました。
 「紀」は、浪速の戦いの模様をもう少し詳しく描写しています。五瀬命は大和川沿いに奈良県の龍田に向かったが、道が狭く険しく進むことが出来なかった。引き返して生駒山を越えて大和へ入ろうとすると、長髄彦が防戦に出撃して来て、ふもとの日下で戦闘となり、五瀬命が負傷したとされていますから、戦いは五瀬命が仕掛けたものです。
 ここまでの経路を整理すると、神武(崇神)天皇は、日向から九州東岸を北上して福岡県の岡に到り、その後、瀬戸内海を東進して安芸、吉備を制圧、十五年ほどを過ごしたが、さらに前進した浪速で戦いに敗れ追い払われたことになります。その後、名草戸畔を殺したり、五瀬命の墓を作ったりしたという名草(和歌山)から紀ノ川沿いに大和へ侵攻することはせず、わざわざ海を遥かに南下して熊野にまで移動しています。その後は、熊野から紀伊山地を縦断して吉野川の河尻(=上流、河口の反対)へ、さらに、吉野川を遡って宇陀へ侵入、太陽を背に東から大和に進軍したと記述が続きます。
 しかし、西方の勢力を全て従えているというのに、この道順はあまりにも無駄が多すぎて、現実感に欠けます。「崇神紀」は、「出雲臣(秦系)の祖、出雲振根が祖先の天穂日の子、武日照命(武夷鳥)の神宝を司っていたが《意宇郡、熊野神社》、筑紫へ行っている間に弟の飯入根が大和朝廷の使者に献じてしまった。帰ってきた振根は、『数日待てばいいものを、何を恐れて簡単に神宝を許したのか。』と激怒し、その怒りが解けずに、何年も経ってから弟を殺した。」という伝承を記しています。真刀そっくりな木刀を作り、弟を誘い出して沐浴した。水から出て弟の真刀を取って切りかかると、弟は兄の木刀を拾ったが抜くことが出来ずに殺されてしまったのだといいます。神宝を献じれば、神の加護を受けられなくなりますから、これは服属の印です。出雲振根は筑紫へ遊びに行っていたわけではありません。大和が見知らぬ一族に征服されたという思いもよらぬ情報を得て、あわてて善後策を協議するために行ったのです。そこで一致団結して戦おうと結論を出したのに、大和から派遣された使者の到来に脅えた弟が、勝手に降伏して神宝を手放していた。その怒りが上記の言葉となったのです。つまり、この時、筑紫は大和朝廷に服していません。
 神武(崇神)天皇は若建吉備津彦(比古汝茅)を吉備に派遣し、支配下に置いたようで、弟を謀殺した出雲振根を、この吉備津彦が討伐しています。崇神天皇の四道将軍派遣の記事の内、西に吉備津彦を派遣したという部分は事実と考えられます。しかしこれでは、八年も都を置いたはずの吉備に、将軍を派遣して懐柔しなければならなかったという矛盾が生じます。
《注…四道将軍/北陸に大彦、東海に武渟河別、丹波に彦坐王を派遣したのは壱与です。丹波に丹波道主命を派遣したのは、実際に、崇神天皇の事績としてあったのかもしれません。いずれにせよ、軍を派遣したと記して、四方が崇神天皇に従っていなかったことを白状しています。》
 次代の垂仁天皇には、但馬国、出石の天之日矛の神宝を献上させたという記述があります。出雲との交渉の話も多く、物部十千根大連を出雲に派遣して、その国の神宝(大国主神=杵築大社)を監察せしめたといいますから、この頃、但馬、出雲を完全に傘下に収めたのでしょう。新羅に花嫁を求めたのがこの天皇なら、北九州まで勢力を伸ばしています。次の三代目、景行天皇の代に日本武尊が大活躍して熊襲を征伐したり、天皇が九州を巡狩する話が記されていて、九州南部(球磨)まで制圧したことを示しているようです。
 以上のような理由から、神武(崇神)天皇時代に北九州を制圧していたとは認め難いのです。それなのに、豊かな土地が多く、強敵続きと考えられる瀬戸内へ入れば、前面では長い消耗戦に陥り、背後からも脅かされる挟み打ちになり、勝ち続けるのは難しいでしょう。おそらく、数代後の神功皇后、応神天皇の大和入りを参考に、記、紀のような筋道が考え出されたのだと思われます。太陽を背にして戦うため熊野に向かったというのは、その行程の不自然さを取り繕うための理屈にすぎません。
 岡、安芸、吉備、明石、難波、名草という瀬戸内海から紀伊へ入った進軍は、神功皇后の事績と扱うことにして、神武(崇神)天皇の東征は、日向から黒潮に乗り、熊野に到達したと考えて進めていくことにします。崇神天皇十七年に「始めて船舶を造る。」という記述があり、次は四十八年の後継者の選定に飛ぶという不思議な空白が、その長い航海、日向との断絶を示唆しているように思えます。海流でつながる南九州と紀伊の交流を想像するのは容易で、この時、阿多の隼人の塩土老翁(塩椎神)、つまり、「潮の道」を良く知っている老人が大活躍したことでしょう。塩土は分解すれば「潮+ツ+道」となります。《注…シオツチ/「ツ」は「の」と同義。「道」はヤチマタのチで、八+道+俣》
 神武天皇の将軍として兵を率いた大伴氏の祖先、日臣は、「よく導くの功あり。」ということで、名を改め道臣とされていますので、大伴氏が阿多出身の隼人(文・漢人)の首長、塩土老翁の直系かと思えます(=大彦系)。姓氏録に膳大伴部があり、大伴氏を大彦後裔の膳氏同族とすることに問題はないようです。大阪府藤井寺市に伴林氏神社が見られますが、林は速+氏、隼人は速+徒で、両者は同じ民族の表現です。付近に志紀県主神社もあり、志紀県主は服従の印として雄略天皇に犬を捧げていますからヤオ族です。トンダはヤオ族の川を意味する語ですが、富田林市にも大伴という地名があって、ヤオ族、隼人の大伴氏が確認できます。
 また、塩土が塩筒とも転訛していますから、底筒男、中筒男、上筒男という住吉三神も底土男等に還元でき、底ツ道(海底がある)、中ツ道(水だけ)、上ツ道(空気と波がある)という速さや様相の異なる海流の三神をいうことになります。海流神は航海神ともなります。綿津見三神は海(ワタ)ツ実で、上、中、下の海の幸の神です。したがって、綿津見神と同時に生まれたという住吉神も文・漢系の神で、饒速日神が大和へ侵攻した道、枚方の天野川流域に、住吉神社が分布しているのはこのためと解ります。住吉神は牛窓で牛(秦系要素)を投げ飛ばしたという伝承もあり、矛盾はありません。山津見神は綿津見神と対をなす山の幸の神(金属を含む)でしょう。(山+ツ+実)

 


3、熊野進軍

 日向から、塩土老翁(=潮の道の老人/*/おそらく道の臣=大伴氏の祖先)に導かれ、黒潮に乗った神武(崇神)天皇の軍勢は、長い航海の末、ようやく紀伊の熊野村に到着しました。《*/塩土老翁は彦ホホデミ命(山彦)に海底の綿津見神の宮へ至る方法を教えています。》
 その時、大熊がにわかに出現し、天皇も兵士もことごとく疲れて倒れ伏してしまったといいます。「記」の太安万侶の序には、「化熊、川を出て」となっていますから、この熊は水神です。「紀」は、熊野の佐野を越えて神邑に到り、天の磐盾に登る。再び海に出たが、暴風に遭って船が漂流し、天皇の兄、稲飯命(稲氷命)は、嘆いて、剣を抜き海に入って鋤持神(ワニ)となり、三毛入野命(御毛沼命)は波の秀(先端)を踏んで常世の国へ行ってしまったと続けています。 二人の兄が自ら人身御供となって海は静まり、ようやく前進することができたのですが、これで天皇の兄弟は全て地上から姿を消し、同格の競争相手はいなくなってしまったことになります。
 熊野は邪馬壱国に追い詰められた狗奴国(少彦名)終焉の地で、三毛入野命が熊野から波の先端を踏んで(=実際は船で)常世の国へ行ったという記述は、最後の狗奴国王がここで捕えられ、生口として中国に送られたという史実を反映しています。出雲国造神賀詞の熊野神は、「かぶろき熊野大神、櫛御気野命(クシミケノ)」となっていて、三毛入野命あるいは三毛野命ともいう名前に一致しています。「かぶろ」は「はげ」という意味がありますが、毛がないのは呉楚の要素でした。「子供の髪型」でもありますが、こちらはスクナビコナという小人の神に合います。稲飯命が海に入って鰐(鮫)になるのは、天孫に国を譲った出雲の大国主神の子、事代主神が船の縁を踏んで、海中の青柴垣の中に隠れたという話に類し、邪馬壱国の終焉を織り込んだものでしょう。
 その伝でいくと、長兄の五瀬命が死んだのは、最も古い呉人(韓人)の国が難波で滅んだことを語っていることになります。記、紀に従えば、難波を支配していた呉人は、大和川を遡って龍田へ向かったが、防がれて入れず、逆に、生駒山地西側の険しい坂を下って奇襲攻撃を掛けてきた漢人、秦人の連合軍《*/登弥の長脛彦、登弥神社は両者が習合していた》と日下で戦って敗れた。負傷したその首長は泉南の男里まで逃れたが、そこで死亡したという歴史が浮かび上がってきます。これは倭国大乱時の記憶で、天之日矛を追い返したという柏の渡りの神の一族が滅んだ話を組み込んだものなのです。五瀬命の陵墓は和歌山(名草)の竃山にあるとされていますから、やはり紀伊にも呉人の有力国が存在していました。竈山にある式内、竃山神社は最も古い呉系(姫氏、韓人)の神社かもしれません。
 二人の兄という犠牲を払い、神武(崇神)天皇と手研耳命が熊野の荒坂津(丹敷浦)に到り、丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を誅した時、神が毒気を吐いたため、全員が衰弱して皇軍は前進できませんでした。この神が「記」のいう大熊ですから、荒坂津の丹敷戸畔のトーテムが熊ということになります。つまり、秦系氏族です。最初に上陸した佐野は現在の新宮市佐野、神邑は新宮市中心部で、天の磐盾は新宮市、神倉神社のゴトビキ岩かと思えます。したがって、兄二人が海に入り、その先へ航海した地点の荒坂津は、三重県の熊野市付近ということになりますが、地名からの手がかりは得られません。このあたりを荒坂津と解するのは、熊野市の鬼ケ城の東、大泊から紀伊山地に入り、奈良県の上北山村、川上村を経て、宇陀に到る道筋(東熊野街道)が存在するからで、おそらく、この道を荒坂と呼んでいるのでしょう。
 つまり、「紀」では、神武(崇神)天皇は熊野の佐野に着き、熊野速玉大社付近へ東進、熊野川の港を出て、東の七里御浜沖を航海、漂流したが、二人の兄が犠牲となって前進し、熊野市大泊(荒坂津)に到る。そこから荒坂を登って紀伊半島を縦断(現在の国道42,309,169号線)、宇賀志から宇陀に入って制圧したが、再び宇賀志から出て、吉野、阿多へ進むという経路を想定しています。しかしこれでは、大和を目指して目前の宇陀まで進出したのに、人口も希薄で、捨て置いても差し支えなかったであろう吉野の国栖や阿多の鵜飼討伐のために、貴重な時間を割いて後戻りするという不自然さを否めません。情報が漏れれば、それだけ敵に準備時間を与えてしまうはずです。
 一方、「記」では、熊野村(新宮)から、本宮町を経て、十津川村、大塔村、西吉野村を経て、下市町の吉野川上流(阿多)に到り(現在の国道168号線、西熊野街道)、吉野川を遡って、支流の高見川、鷲家川へ入って宇陀の宇賀志へ向かうという経路になっています。「記」がより古い形を伝えていると考えられますし、矛盾もないので、こちらに従うことにします。「紀」は、稲飯命と三毛入野命が、熊野でこの世界から姿を隠したという話を挿入しようと、航海や漂流を持ち出したため、その分、経路が長くなってしまい、宇陀へ到るまでの道筋も東にずらして調整せざるを得なかったのでしょう。

 

 熊野村には熊をトーテムとする秦人が居住していました。その熊が神武(崇神)天皇を妨げたということは、敵対したことを意味します。「紀」では荒坂津(熊野市大泊)のことになりますが、「記」では新宮の話になります。
 新宮市の神倉神社の神体はゴトビキ岩で、ゴトビキとはヒキガエルを意味します。これは楚の要素です。祭礼は、松明を持った氏子が、急な階段を駆け降りて速さを競うという勇壮な火祭りで、夜の明かり=月=ヒキガエルと結び付きますし、斧鉞が神聖視されていて、こちらは呉と結び付いています。秦系(呉系楚人)の神社と扱って問題ないようです。そして、この神倉神社を祭る部族が、神武(崇神)天皇軍を妨げた熊にあたるわけで、熊野本宮と同系です。新宮市の秦の徐福が渡来したという伝説は、秦から渡来したと伝える秦氏の存在ゆえのようです。各地に徐福伝説がありますが、秦系の土地ではないでしょうか。浦島伝説もそのように思えます。
 新宮には熊野の高倉下という人物もいました。高倉下が、倒れている神武(崇神)天皇のところへ来て横刀を献じたため、天皇は目を覚ますことができましたし、その刀の神威で熊野の山の荒ぶる神(熊)は皆、自ずから切り倒されてしまったのです。不思議なので、高倉下にこの横刀を手に入れた由縁を尋ねると、「夢の中で、天孫を助けるため天照大神と高木神が建御雷神を降そうとした時、建御雷神が、『私が降らずとも、以前、下界を平らげた時の横刀がありますから、これを降せばいいでしょう。高倉下の倉の棟に穴を開けて落とし入れます。そういう訳だから、汝(高倉下)は、朝、目を覚ましたら、その横刀を天神の御子のところへ届けなさい。』といわれたので、夢の教えのままに倉を見れば、本当に横刀がありましたので献上いたしました。」と答えた。この刀は佐士布都神、あるいは甕布都神、又の名を布都御魂という。今は石上神宮にあるとされていますから、天孫の為に、出雲を始めとする葦原中国を平定したという建御雷神、經津主神のコンビです。建御雷神の神階の方が高い様子です。これはこの神の祭祀権を奪った藤原氏の関与(*)によるものでしょう。元々は、両者とも石上神社の祭祀者、物部氏の神で、この刀を献上した高倉下も、物部氏につながる邪馬壱国系(文・漢人)の首長ということになります。《*/藤原不比等の父=鎌足の母は大伴氏で、母系で文・漢氏につながり、祭祀者としての資格を持ち得る。》
 上記の熊野の伝説を実際の歴史に戻せば、神武(崇神)天皇は日向から新宮市の佐野へ到達し、神倉へ進撃した。この時、神倉神社や熊野本宮を祭る秦系氏族が抵抗して神武(崇神)軍は苦戦したが、塩土老翁や道臣(日臣)と同族の高倉下が神武(崇神)天皇側に付き、それを破る手助けをしたということになります。高倉下は熊野速玉大社(新宮)や阿須賀神社を祭る一族で、饒速日に系譜をつなぐ熊野国造がその直系でしょう。
 こうして、神武(崇神)天皇は熊野を平定しました。しかし、目的の大和へ向かおうにも道を知る者がいません。そこで、天照大神は案内者として天から八咫烏を遣わします。八咫烏は鴨氏の祖先とされています。実際は、鴨氏が大和の情報を提供し、神武(崇神)天皇を招いたわけです。
 大和朝廷軍は八咫烏に導かれ、熊野から紀伊半島中央部の山岳地帯を突破し、吉野川の川尻に達しました。そこには「贄持之子」という名の神がいて、阿多鵜飼の祖となっていますから、吉野川の川尻とは、阿多という地名が見られる五条市東部から下市町付近を指すようです。西吉野村から西熊野街道を外れて北東に向かった形になります。この街道は、西吉野村から五条市中心部に向かっており、古代から既に主要道だったでしょう。五条から古瀬(吉野口)を経て桧前へ抜けるのが、大和へ入る最も平坦で楽な道です。しかし、古瀬の狭い谷間には関が存在し(古関)、守りが固くて侵入が困難なため、これを避けて東方へ迂回したわけです。

《注…古関/延喜式の祝詞に久度・古関というものがあります。久度は、岩波古典文学大系に、どういう神か不明で、竃のことをクドというから、竃神ではないかという解説が付せられています。しかし、弓、大刀、鏡、鈴、衣笠を奉り、馬を並べるというのがその内容で、これはどう考えても破邪の武神です。「参り集り、仕え奉る親王等、王等、臣等、百官人等を夜の守り、日の守りに守り給いて」と続いており、武力で安全を守る神なのです。豊作を祈る祈年祭の祝詞などには、武器を奉る言葉は見当たりません。
 久度、古関の二神は、平安京が出来た時、その鎮護のため奈良の今木から移された平野神社内に祭られているということで、祝詞は平野神社のものと全く同じ内容です。それなら、久度、古関も前の都、平城京(大和)を守護していた霊験あらたかな神で、京の鎮護のために移されてきたと解釈できます。
 久度は、大和川が山脈を割って流れ出ているところを竈の煙抜きの穴に見立てた地名と考えられ、奈良県王寺町に久度神社が現存します。大和川沿いに進入してくる敵を防ぐため関を設けたと考えられるのです。その西南1.5kmほどの所に舟度神社があって、伊邪那岐命が投げ棄てた杖に成ったという神で、「これ以上来るな」という意志を伝える塞の神、久那度神を祭っています。延喜式祝詞の道饗祭には久那斗神として登場しており、この神は久度神と同じく、夜の守り、日の守りの神とされていますが、供え物には武器が含まれていません。つまり、久度神とは久那度神に武力を加えた形をしていることになるわけで、特別な関所の守り神としてふさわしいように思えます。狗奴国から、五条市を経て大和、三輪方面へ最も進入しやすそうな通路は、と探せば、現在、国鉄和歌山線が走っている道になります。宇智から蘇我川の谷沿いに北上し、途中で、吉野川(紀ノ川)上流の大淀町から北上してきた道と合流しています。その合流点、近鉄やJRの吉野口駅付近さえ押さえれば、南方からの侵入を防げるわけです。そして、そこに古瀬という地名が見られます。巨勢氏の存在も推定されますが、地名は古関の転訛ではないでしょうか。この神社の原初の所在地に当てることができるように思えるのです。すぐ近くに今木という地名もあります。リンク-補助資料集「久度・古関」

4、吉野から宇陀、大和へ

 大和朝廷軍が吉野川を遡ってさらに川上へ進むと、光っている井戸があって、中から尾の生えた人が出てきました。「井氷鹿」という名で、これが吉野首等の祖です。そこから山中に分け入ると、また、尾の生えた人が岩を押し分けて出てきます。「石押分之子」という名で、これが吉野の国巣の祖とされています。こういうふうに、人口の少ない土地を隠密行動して情報漏れを防ぎ、少しずつ兵力を増してきたようです。後漢書、南蛮西南夷列伝では、槃瓠の子孫は衣服を尾のある形に作ったとされているので、尾が生えていたという吉野首や吉野の国巣はヤオ族、文・漢人の可能性があります。そして、井氷鹿(吉野首)が邪馬壱国の同族ということになると、その本拠地として、延喜式名神大社、大名持神社とその神体山の妹山があり、川向こうには背山を望めるという吉野町河原屋付近を挙げることができます。背山の側の地名は飯貝(イイガイ)で井氷鹿に良く似ています。さらに上流へ進んだ高見川との合流点付近には国栖(クズ)、高見川流域の東吉野村に小栗栖(コグリス)という地名が見られ、このあたりを吉野の国巣の居住地に想定して良さそうです。
 したがって、大和朝廷軍は吉野川から支流の高見川へ入り、さらに分れた鷲家川を遡って宇陀に侵入したことになります。この道は鷲家で、大和と伊勢を結ぶ街道に合流しており、北へ向かえば宇陀の宇賀志に入ります。
 栗栖を冠する氏族は、栗栖連がニギハヤヒ、栗栖首が王仁、栗栖直が阿智王と全て文・漢系の始祖に系譜を連ねていますから、その一族と扱うことに問題はありません。クリ(ミャオ語、マオリ語)、クロ(ヤオ語)、コリ(フィジー語)は犬を意味する言葉なので、ヤオ族とすることにも合います。
 比較的開けていたと考えられる宇陀には、兄宇迦斯、弟宇迦斯という兄弟がいました。実情を知っている八咫烏を交渉役として派遣すると、兄は拒絶しましたが、弟が裏切って内通したので、ここは簡単に手に入ったようです。弟宇迦斯は宇陀の水取等の祖とされています。水取連は物部氏に系譜を連ねているので、宇陀の首長もまた文・漢系です。
 そして現在の国道166号線沿いに進軍し、宇陀の血原(現在の内原か?)を過ぎて桜井市の忍坂に向かい、ここでも尾の生えた土蜘蛛、八十建を屠りました。忍坂には延喜式大社、忍坂坐生根神社があり、大同類聚方は、この神社相伝の生根薬を取り挙げて、額田部連等の奉ったものとしていますから(大和志料)、忍坂の首長、八十建も文・漢系、額田部氏系ということになるようです。
 そして、いよいよ奈良盆地に入り、兄磯城を討つ。弟磯城は、大和朝廷に従いました。裏切らせて味方につけた敵(この場合は八咫烏)を降伏交渉に派遣し、戦う意志を見せるものを討つというのが当時の流儀で、降伏者の地位は保全されますから、内紛の芽は各地に残るのです。
 磯城は三輪山や田原本を含み、卑弥呼時代には邪馬壱国の中心だったはずですが、開化天皇の都は春日とされていますから、主邑は既に北方の奈良市方面に移動し、この頃は寂れていたのかもしれません。大和朝廷軍の指揮者は大伴氏の祖、日臣(=道臣)命と久米直等の祖、大久米命とされ、特に大久米命が最上官だったらしく大活躍で挿話があります。どちらにしても、九州から同行した隼人の首長ですが、しかし、「日の臣は大来目を率いて…」とありますから、この二人は同一人物の可能性が強いでしょう。

四、大和朝廷の成立

1、饒速日の国譲り

 大和朝廷軍は、磯城から首都の春日を目指して北上し、途中、登弥の長髄彦(大和郡山市付近)と戦いました。苦戦して勝てなかったのですが、金色の鵄が飛来して神武(崇神)天皇の弓筈にとまり、その稲妻のような光で長髄彦軍は力を失ったといいます。金は秦系要素ですから(朝鮮では異なっていて、金氏は文・漢系)、鵄(*)もおそらく秦系トーテムで、長髄彦軍内部からの呼応があったことを思わせます。首長の長髄彦は文・漢系なので、登弥の秦系氏族には裏切る理由が見つかりそうです。《*/トビは回転する。これは秦系で間違いなし。》
 それでもなお、長髄彦は屈服する様子を見せませんでしたが、その王の櫛玉饒速日命が長髄彦を殺し、自らが天神の子であることを示す瑞(神宝)を奉げて降伏。ついに、神武(崇神)天皇は大和の心臓部を制したのです。饒速日が登美毘古の妹の登美矢毘売を妻として生れた子が宇摩志麻遅命で、これが物部氏、穂積氏、采女氏の祖先とされていますから、邪馬壱国王家が物部氏となっています。したがって、初期の大和朝廷において、物部氏が大勢力になるのは必然です。
 降伏した邪馬壱国の饒速日は、出雲神話の、あっさりと葦原中国を譲り渡したオオナムヂ神の子、事代主神に重ねられますし、抵抗した登弥の長髄彦は、その弟の建御名方神(建御名方富命=天富命=斎部氏の祖神)に重ねられるのです。
 春日制圧後、層富(そお)県の波多の丘岬に新城戸畔、和珥の坂下に居勢祝、臍見の長柄丘岬に猪祝という者がいて従わなかったので、偏師(かたいくさ)を派遣してこれを誅しました。新城戸畔、居勢(巨勢)祝は秦系氏族とはっきり解りますから、猪祝も同類でしょう。「カタいくさ」とわざわざ民族名(カラ、カタ)に通ずる言葉を記しているのはそれを表すためと考えられます。また、高尾張邑に、体が短くて手足が長い侏儒(ひきひと)に似た土蜘蛛がいたのでこれも殺し、この村を葛城と名付けたといいます。「ひきひと」はヒキガエル、体が短く手足が長いのは猿の描写のようでもあります。どちらも秦系の要素です。そして、尾張(尾+針=蜂)も元々は秦系地名であったことが明らかになります。
 以上を整理すると、神武(崇神)天皇は宇陀から磯城上郡(桜井市)へ入り、北西に進路を取って、磯城下郡(田原本町、川西町等)を押さえ、添下郡(大和郡山市に近い奈良市西南端)で登弥の長髄彦と戦う。その後、北東に進路を変え、添上郡(春日=奈良市)の邪馬壱国王家を倒し、さらに秦系の残党を討つため、西へ軍を派遣し添下郡の菅原(=波多の丘崎、奈良市赤膚町付近)を制圧、また、南、山辺郡の和迩坂下(天理市石川町、白土町付近ではないか)や、南西の広瀬郡(臍見の長柄丘岬=北葛城郡河合町の穴闇ナグラ、長楽チョウラク付近と考える)へ軍を派遣し、葛城郡を除いた奈良盆地のほとんどを手中に収めた。そして最後に、葛城郡(高尾張=北葛城郡新庄町か?)の秦系氏族を破り、大和を完全制覇して、畝傍山東南の橿原宮で即位し、大和朝廷が成立したのです。但し、この都の位置には疑問があり、分身の崇神天皇は師木水垣宮とされていて、こちらが正しいようです。その名は宮が大きな水濠で守られていたことを示しています。
 「紀」は、この大和朝廷初代の天皇を始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、号して、神日本磐余彦火火出見天皇と言うとしており、神武(崇神)天皇が彦ホホデミ命です。磐余の元の名は片居(かたい)、又は、片立とされており、おそらく、原初は、秦系(楚)の開拓地だったのでしょう。大和朝廷側の大軍がその地にいわみた(満ちた)ので磐余に改めたとしていますが、これは単なる語呂あわせにすぎません。文字や音からは磐の別れたものという意味に受け取れます。現在の桜井市阿倍を中心とする地域で、阿部氏由来の地名のようです(オオナムヂ神の別名は伊和大神)。 秦系の上位に文・漢系の大彦が首長として被さり、付近がその後裔の阿部氏や若桜部氏の土地となったらしいのです。現在の地図には阿部文殊院や稚桜神社の名がみえます。
大彦系を支持基盤とする崇神(=神武=ミマキイリヒコイニエ=マキに入った男イニエ)天皇が、すぐ北の巻向(磯城水垣宮)に入ったのは理由のあることなのです。壱与時代の政権中枢部(開化天皇、春日率川宮)は春日にあったと思われます。

2、論功行賞と鴨氏

 こうして、巻向の師木水垣宮に崇神(神武)天皇の新政権が発足し、論功行賞が行われました。大伴氏の祖先、日臣あらため道臣は寵愛され、築坂邑(橿原市鳥屋町付近、畝傍山の南方)に宅地を与えられましたし、大久米は畝傍山の西の川辺に土地を与えられたといいます。畝傍山の西とされていても、現在、久米町は畝傍山の南にあって、久米寺、久米御県神社の存在があります。築坂と重なりますので、大伴氏と久米氏を重ねることに不都合はありません。
 海道を案内した珍彦(ウヅヒコ、椎根津彦)は、倭国造とされました。しかし、九州から瀬戸内海を経て畿内に入ったのは神功皇后、応神天皇の事績としましたから、ウヅヒコがその功をもって倭国造に任命されたのは神功、応神朝と考えます。同じ祖先を持つ明石国造が応神朝に任命されたと記されていますし(先代旧事本紀、国造本紀)、ウヅヒコが明石(速吸いの戸)から合流していることを加えれば(*)、こちらが正しいと結論できるのです。《*/ただし「紀」では豊予海峡のことになる》 ウヅヒコ関連リンク、補助資料集「大樹伝説と和泉黄金塚古墳」
 「崇神紀」には、倭直の祖とされる市磯長尾市に倭大国魂神を祭らせたとあり、大和朝廷初期には、この市磯長尾市が大和の秦系首長だったのでしょう。そして、後の応神朝に、同系のウヅヒコが明石から入って国造となり、首長が入れ替わった形になります。延喜式大社、長尾神社が当麻町にあり、付近には市場、南今市という地名も見られます。磯野にも近い。当麻はタイという民族名にも一致しますので、市磯長尾市はこのあたりの居住者と考えられます。神社の祭神は水光姫という水神で系列不明ですが、「光潤うなり」が沢(タク)の解字でした(説文解字)から、石園坐多久虫玉神社と同神、ナマヅ神の可能性があります。
 磯城の首長の一族、弟磯城は、黒速という名で、兄に叛き、神武(崇神)天皇に従った功により磯城県主とされました。クロもハヤも犬に関連する語と明らかになっていますから、大和の磯城県主もやはり邪馬壱国王家につながるヤオ族、隼人です。同じ姓を持つ河内の志幾県主も、その同族と考えなければなりませんが、雄略天皇の怒りを解くため、白い犬に布を懸け、鈴をつけて献上したという記述が雄略記にあります。これは、槃瓠の祭りに必要な神犬を奉げて服従を誓ったものと解釈でき、ヤオ族の証左と成し得ます。
 八咫烏もまた恩賞の列に加えられました。その苗裔に葛野主殿県主部があり、これは山城の鴨氏のことで、神魂神の孫、武津之身命が八咫烏となって神武天皇を導いたと伝えています。

 山城国神別 賀茂県主…神魂命の孫、武津之身命の後(秦系)
 山城国神別 鴨県主…賀茂県主同祖、神魂命の孫、武津之身命の後。八咫烏となった(秦系)
 左京皇別下 鴨県主…治田連同祖、彦坐命(開化天皇皇子=邪馬壱国)の後(文・漢系)
 摂津国皇別 鴨君………彦坐命の後(文・漢系)
 大和国神別 賀茂朝臣…大神朝臣同祖、大国主神の後。賀茂神社を斎奉る(文・漢系)
 摂津国神別 鴨部祝……賀茂朝臣同祖、大国主神の後(文・漢系)

 しかし、姓氏録全体を見渡すと、上記のように、鴨氏は神魂(秦)系と大国主(文・漢)系が併存しています。これは、葛城の高鴨神社の祭神、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)が、大国主神(文・漢系)と宗像の多紀理毘売(秦系)との間に生れた子とされることに起因するようで、父方に従えば大国主系とできるし、母方を頼れば神魂系になるのです。
 記、紀の国譲り神話にみる阿遅鉏高日子根神は、天若日子に瓜二つで葬儀の時に間違えられたという神です。そして、天若日子とは、高天ケ原の天神達を「裏切り」、大国主神側に寝返ったとされている神なのです。以上のことから、この神話は、阿遅鉏高日子根神は裏切り者の天若日子にそっくり、つまり、邪馬壱国の大豪族でありながら、八咫烏となって神武(崇神)天皇を大和に導いた「裏切り」を語るために挿入されたものと明らかになります。したがって、阿遅鉏高日子根神は鴨建角身命(八咫烏)に重ねてかまいません。死者に間違えられて怒り、若日子の喪屋を蹴り壊した後、飛び去っています。

 

 上記は山城国風土記逸文を基にした鴨氏の系譜です。丹塗り矢となって川を下り、玉依日売の元に通った火雷神は、松尾大名神ともされていますから、日吉、松尾に坐すとされた大山咋神のことです。鴨氏発祥の地とされる葛城にも延喜式名神大社、葛城坐火雷神社が存在しています。丹塗り矢は、赤い火の色をして、空中を飛び、遠く離れた者(物)に当るもので、これは雷神(稲妻)の象徴となります。したがって、文・漢系の雷神である大国主、事代主神も丹塗り矢になり得るのです。この火雷神は、迦具土にホトを焼かれて死に、ウジがわいて崩れていたという黄泉の国の伊邪那美命の「胸の上」に乗っていた神で、迦具土系、胸方(宗像=秦)系の神とすることができます。《注…伊邪那美の死には卑弥呼が投影されている。》 鴨は首筋が青い(=緑)鳥なので、秦系要素の青とも結び付き、やはり、鴨氏は秦系と意識されています。

3、伊勢津彦と出雲神話

伊勢国風土記逸文
「伊勢国の風土記に曰く。伊勢というのは、伊賀安志(アナシ)社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命である。この神は、昔、石で城を作ってここに鎮座した。阿倍志彦神が奪いに来たが、勝たずして帰った。因って地名とした。」

 伊勢津彦は、播磨国風土記では、伊和大神(オオナムヂ神)の子で、漢人刀良、衣縫猪手が祭る神とされていましたから、邪馬壱国王家の神です。
 伊賀安志(アナシ)社の祭神、伊勢津彦の出雲建子命、櫛玉命という別名は、物部氏の祖神にして出雲の大汝神の子、火明櫛玉饒速日命に一致しています。また、火明命が風波を起こして父の大汝命の船を打ち破ったとされていることは(播磨国風土記)、アナシという船を沈める「いぬゐ(北西)」の悪風の名に一致して、ここでも犬にくっつきます。
 伊勢津彦が居したという伊賀アナシ社は、三重県阿山郡、伊賀町柘植町の都美恵(ツミエ*)神社でしょう。元は石上社と呼ばれていたということで、物部氏の神社名に一致していますし、ミエンはヤオ族の自称です。そのあたりは伊賀の東端で、山脈の細い割れ目が伊勢・鈴鹿への道となっています。《*/Man(human being)はヤオ語でTo-mien/「雲南」語彙表による》
 邪馬壱国の大彦系の一族は神武(崇神)天皇側に付き、側近となりました。阿倍氏はその後裔で、兄弟で分化した開化天皇系との確執はかなりのものです。伊勢津彦は大和朝廷に大和を追われ、一時身を置いた伊賀の安志から、さらに東へ逃がれて、伊勢に石の城を築いて守りを固めていました。これは現在の関か亀山付近と解せられます。「阿倍志彦神が伊勢を奪いに来たが、勝たずして帰った。」という記述は、大和朝廷に派遣された阿倍氏の祖が、伊賀から伊勢津彦を追って侵入したが、跳ね返されたことを意味しているのです。「孝元紀」で、伊賀臣は大彦の子孫で阿倍氏同族とされていますから矛盾はありません。

伊勢国風土記逸文
「伊勢国風土記に曰く。…天日別命は神武(崇神)天皇の勅を受け、宇陀の下県から東へ数百里入ると(おそらく現在の国道166号線に重なる)、伊勢津彦という名の神が居た。天日別命が『汝は天孫に国を献じるか。』と尋ねると、伊勢津彦は『俺はこの国を統治して長い。そんな話が聞けるか。』と逆らったので、兵を発して、その神を殺そうとした。
 伊勢津彦は降伏し、『私は全てを天孫に献じて、この国には居りますまい。』と言った。天日別命は問う。『汝が国を去る時、何を以ってその印とするのか。』伊勢津彦は答える。『私は今夜を以って、八風を起して海水を吹き、波浪に乗って東へ入りましょう。これが私の去る印です。』天日別命が兵を整えてこれを窺うと、夜中になって、大風が四方に起こり、大波を立て、日のように光が輝いて陸海をくっきり照らし、遂に波に乗って東へ去った。
 古語に神風の伊勢国、常世の波寄せる国というのは蓋しこのことをいうのであろう。(伊勢津彦神は、近く信濃国に居住せられた。)……国名は国神の名を取って伊勢と名付けられた。ここは天日別命の封地とされ、天日別命は宅地を大倭の耳梨邑に賜った。」

 天日別命は伊勢氏の祖神です。伊勢氏は中臣伊勢ともされますから、秦系氏族(呉系楚の姫氏)で、伊勢の度会氏、磯部氏、竹氏は同じ一族のようです。耳梨山の麓に木原町があるので、この一族に与えられたという土地かもしれません。氏族名はすべて秦系に分類した音や要素で占められています。
 伊勢津彦は、東へ去る時、火明命と同じく大風、大波を起していますが、これは稲妻をともなう竜巻の表現のようです。伊勢国の桑名には、天津彦根命(額田部氏祖神。文・漢系)を祭る多度神社があります。その別殿に一目連神社があり、天津彦根神の御子神とされる天目一箇神を祭っています。その出現の際には、多度山が鳴動し、暴風、豪雨があり、光を放つといい、この暴風雨は一筋で外れた場所には微風もおこらないとか、一目連の祟りで長島城の大手門の扉が常滑まで飛ばされた、人が空中で八つ裂きにされた等の伝承もあって、これを竜巻神とすることに問題はありません。そして、その出現時の様子は、伊勢津彦が伊勢を去る時の姿にそっくりです。つまり、天目一箇神は太陽神(伊邪那岐命の左目)の他、竜巻(風)神としての性格を持ちます。確かにどちらも目が一つです。そして、火とふいごの強風を合わせれば「たたら(鍛冶)」の神ともなるでしょう。伊勢津彦も同じ雷風神、太陽神と考えていいようです。
 大和朝廷に対する徹底抗戦を主張した登美の長脛彦(建御名方富命=伊勢津彦)は、饒速日に切られたとされていましたが、同系氏族は生きていた。
 邪馬壱国王、饒速日(=事代主神)が首都の春日に攻め込まれて降伏した時、それを拒絶する一族(出雲神話では事代主神の弟、建御名方神)は、現在の国道25号線に沿って東へ逃れ、伊賀の安志付近に拠点を置いたのです。しかし、そこにも阿倍氏が迫ってきたため、伊賀を捨てて伊勢へ走った。大和朝廷はその伊勢にも手を伸ばし、伊勢津彦は、北方の伊賀から押し寄せた阿倍氏を何とか追い返したものの、守りの手薄な南方の宇陀、吉野方面から侵入してきた天日別の別働隊に敗れてしまったということになります。
 伊勢津彦は、伊勢を去って信濃に居住しました。これは大和朝廷軍に伊勢侵入を許し、尾張へ落ち延びたが、そこも追われて美濃の山中に入り、さらに恵那山の麓の険しい山道を越えて信濃の阿智村へ移動、そこから天竜川を遡って、ようやく諏訪に落ち着いたということです。
 阿智村は漢人の阿知使主に由来する地名ですし、阿智神社の祭神は思兼命です。諏訪の手前(南)の箕輪という地名も三輪から転訛したものと考えられます。あるいは三輪がミノワ(巳の輪)の転訛であるのか。どちらにしても、とぐろを三重に巻いた蛇の意味になるようです。建御名方神が天神の派遣した建御雷神に敗れ、出雲から諏訪に逃れて降伏、そこに鎮座したという出雲神話(記)も史実を反映していました。
 これは、安曇氏が信濃に進出し、安曇野という地名の生れた由縁でもあります。このことは、信濃の諏訪神社(*)の上社の祭神が建御名方神で、大祝が神(ミワ)氏。下社の祭神が八坂刀売神で、大祝が金刺氏(多氏系、信濃国造と同祖)とされていることからも明らかで、多氏は神八井耳命の後裔とされ、神武(崇神)天皇に系譜をつないでいますが、実態は、崇神朝以前の邪馬壱国王家の血筋、大彦系です。《*/延喜式では南方刀美ミナカタトミ神社二座となっている。》
 諏訪は八坂刀売を祭る秦系氏族が開拓していたが、大和から伊勢を経て逃れてきた邪馬壱国の一族がその地位を奪って首長となり、祭祀権を奪った。その後、さらに大和朝廷の下に組み込まれた形になります。
 大和朝廷の諏訪進出は、神武(崇神)天皇時代ではなく、勢力をさらに拡大したと考えられる二代目、垂仁天皇か三代目の景行天皇時代と考えられ、記、紀では、景行天皇の皇子、日本武尊が信濃の坂の神を殺したことになっていますから、その通りかもしれません。
 伊勢の男、風神の伊勢津彦(建御名方)は信濃へ移動し、信濃の男となりました。伊邪那岐、伊邪那美命の生んだ風神が志那都比古(シナツヒコ)とされるわけで、伊勢津彦と同一神です。信濃という地名自体は秦(シン=シナ)に由来します。

4、ミマキイリヒコイニエ(=神武天皇、神倭伊波礼毘古)

 崇神天皇の名、御真木入日古印恵(ミマキイリヒコイニエ)の御は尊称で、マキに入った男イニエという意味です。マキとは巻向で、都の師木水垣宮は巻向の何処かに眠っていることになりますが、巻向遺跡という前期古墳時代の大規模な遺跡が発見されていて非常に興味深く思えます。入り彦という名は、地付きの人間ではないことを表します。その治世の初期に、大和で疫病や住民の流亡、反乱が続き、隠れていた祭祀者を探し出して、土地の神々を新たに祭らねば混乱が鎮まらなかった、四方に将軍を派遣したという記、紀の記述も、この人物が武力による征服者であることを示しています。山城と難波から武埴安彦とその妻が反乱を起こしたともされており、これなど旧勢力(秦系か)の勢力挽回活動の一環でしょう。
 神武(崇神)天皇の号が神倭磐余彦とされるのは、陵墓が磐余に設けられたためで、全長230メートルほどの大前方後円墳、メスリ山古墳を当てることができます。磐余にある大王級の陵墓はこの古墳だけです。すでに発掘調査がなされていますが、盗掘されていたということで、直接、大王を証明する出土品はありません。ただ、橿原考古学研究所付属博物館に展示されている埴輪は超特大で、並々ならないその権力を想起させます。壬申の乱(672)のおり、天武天皇が、事代主神のお告げに従い、神日本磐余彦天皇の陵墓に馬と種々の兵器を捧げたという記述が「紀」に見られ、実際、メスリ山古墳の被葬者用石室の隣には、別の竪穴式石室が設けられ、そこから大量の武器が発見されたといいます。以上のことから、メスリ山古墳を神日本磐余彦天皇=崇神天皇の陵墓と確定できるのです。メスリ山という名称は、天武天皇の召し(*)のあった山という意味でしょうか。《*/「取り寄す」、「呼び出す」の敬語。メシアリ→メサリ→メスリ》
 天武天皇の行為は、饒速日と神武(崇神)天皇という王朝の交代にあやかって、大友皇子の近江朝から天武天皇への政権交代を図りたいという意識のあらわれのようです。
 「記」では、崇神天皇の陵墓は山辺の道の勾り(曲がり)の岡の上に在りとされており、山辺の道が古代の街道、上ツ道を指すなら、メスリ山古墳は直線で伸びていた道が飛鳥へ向かって西に曲がり始める岡側に設けられていて、その表現にぴったり一致します。現在、山辺の道とされている道は山沿いに屈曲しており、曲がりと特筆できるような位置を指定できません。山辺の道を見失ってしまったため陵墓も見失われたように思えます。系譜は下記の形で、大和朝廷二代目が垂仁天皇です。以降、武列天皇に到って直系は絶えましたが、婿養子の形で継体天皇を迎え、皇室は現在に至るまで連綿と続いています。

 

《注…ホトタタライススキ姫/ホドは火山の火口など熱源のある穴で、ホト(ホツ、フツ)という民族名を懸けています。タタラは製鉄。イススキはウイグル語の「issik」が「熱い」とか「熱」という意味を持つので、これを当てはめれば簡単に解釈でき、連想する言葉を継ぎ足して作られた名前とすることができます。女性器にもホトが当てはまり、イザナミ神が火の神カグツチにホトを焼かれて死ぬこともつながってきます。鹿児島県にイブスキという地名がありますが、これも縄文語の「熱い」という言葉の転訛らしく、付近には温泉が湧き出て、砂風呂などが設けられています。この一帯を縄文人の居住地と想定できるのではないでしょうか。(「いぶす」は煙が出るように燃やすこと。)また、ウイグル語の「is」は「煙」なので、「いすくはし」という鯨の枕詞は「煙が細やかで美しい」という意味に解せられます。山鯨という猪の異名は、鼻息という共通点に着目して付けられたようです。「issik」、「is」は煙から出る「すす」につながるようです。》

 記、紀には政治的な配慮からゆがめられた部分が多々あり、無批判に、全面的に受け入れるわけにはいきません。しかし、基本構造を把握することで修正は可能です。古代の歴史家が知恵を絞って修正可能なように書かれています。すべて消そうと思えば消せたはずのことなのです。

古墳名 被葬者 規模 特徴
箸墓 卑弥呼
(邪馬壱国女王1)
272m 中心軸は軍神、蚩尤を祀る兵主神社に向かう
崇神陵古墳 孝元天皇
(卑弥呼男弟)
240m 中心軸は軍神、蚩尤を祀る兵主神社に向かう
景行陵古墳 壱与
(邪馬壱国女王2)
310m 中心軸は竈神を祀る笠山荒神に向かう。
三輪山山頂からの距離が箸墓に等しい。つまり、箸墓と同格で大物主神に仕える。
ウワナベ
   古墳
開化天皇
(邪馬壱国男王)
壱与を補佐、大彦の弟
春山之霞男
254m 奈良市大宮町の北にある(春日)
桜井茶臼山
   古墳
大彦
壱与の兄、阿部氏、膳氏、若桜部氏等の祖
秋山之下氷男
207m 阿部氏の本拠地にある。付近に宗像神社があり、母系が呉系楚のミャオ族。
中心軸は北に向く
(北陸道に派遣されたという)
メスリ山
   古墳
崇神天皇
(大和朝廷始祖)
=神日本磐余彦命
=彦ホホデミ命
=神武天皇
230m 磐余にある。
中心軸は太陽の昇る東に向く(太陽に向かって戦ったため大阪で破れたとされる=東が神聖な方向)。
天武天皇の捧げた大量の武器が発見されている。
上つ道の飛鳥へ曲がる丘側にある(山辺の道の勾の丘の上、崇神記)。

 陵墓の規模から見て、やはり卑弥呼と壱与が最高権力者、女王です。
 巻向遺跡内(東田、太田付近?)……崇神天皇、師木水垣宮

  

続き、「縄文の逆襲、3」