弥生の興亡、4

縄文の逆襲、3

  第三章、拾遺
   1、膳氏、阿部氏の民族
   2、牛の犠牲
   3、美濃と尾張
   4、ミャオ族神話に似た話
   5、柞の大木の話
  第四章、トーテム等の関連要素
   1、呉(韓人=カラヒト、姫姓)
   2、楚(呉系楚人、秦人=ハタヒト、堂谿氏=姫姓)
   3、越(文・漢人=フミ・アヤヒト、騶姓、迁姓)
  結び
  年表
  参考文献


第三章、拾遺

1、膳氏、阿部氏の民族

日本霊異記 上巻「理なく他の物を奪い、悪行を為し、悪報を受けて奇しき事を示す縁 第三十」
「膳臣広国が急死して黄泉の国へ行ったところ、その父が生前の悪行の責めを受けて苦しんでいた。そして、広国にこう語る。『私が飢えて、七月七日に大蛇になって家に入ろうとした時、杖に引っ掛けて棄てられた。また、五月五日に赤い狗(小犬)になって家に着いた時には、犬をけしかけて追い払われた。正月一日に狸(=猫)になって我が家へ帰った時、やっと祖先を祭るための食べ物を食べることができた。私は兄弟や身分の上下の区別をわきまえず道理を無視したため、犬となって食べ、自ら汁を出す(自らも食べられる)。私は必ず赤い狗になるだろう。』……罪がないとして許された広国は、生き返ってこの話を伝え、父を厚く供養したのであった。」

 膳臣広国の父は、蛇になり、そして、赤狗になって家へ帰った時、追い払われて食物にありつけませんでした。祖先を祭る日である正月一日、狸(猫)になって戻った時、はじめて供え物を食べることができたのです。これが最も正しい日で、正しい形だったということでしょう。したがって、膳氏は猫(狸)と表される民族で、猫がミャオ族を意味することは明らかですから、膳氏もミャオ族という結論になります。膳氏は大彦後裔の古代の大豪族、阿倍氏の同族とされており、阿倍氏もまたミャオ族を基盤としているのです。(*/リンク…補助資料集「狸(リ)は狸(たぬき)ではない」)
 苗族民話集(村松一弥編訳、平凡社東洋文庫) には、ミャオ族の始祖伝説が紹介されています。アぺ・コペンというミャオ族の祖先が雷と諍いをおこし、雷がアペを殺しに地上へ降りてきたとき、逆に、雷を捕えて檻に入れた。見張りをしていた二人の子供が雷を逃がしてしまったため、雷が大洪水をおこし、その二人(妹と兄)を除く人類のすべてを滅ぼした。二人が結婚してミャオ族の始祖となったというものです。この書では大カボチャをくりぬき、船代わりにして洪水から生き延びたことになっていますが、中国神話(聞一多著、平凡社東洋文庫)の表をみると葫蘆(=ひょうたん)とする部族の方が多く、こちらが原型のようです。アペとは祖父の意味、コペンとは始の意味だといいます。塩土老翁が大彦後裔であること、崇神(神武)天皇の母方の祖父であることが明らかになっていますから、阿部という氏族名はこのミャオ語に由来すると思えますし、自分を殺しにきた雷を逆に捕えたアペコペンは、「あべこべ」という言葉の語源ともできるでしょう。
 狗がヤオ族を意味していることも間違いなく、自らが赤狗となるのは、ヤオ族の血も濃いということのようです。この二つ、どちらも蛇の一族なのですが、蛇と表わされるもう一つの部族、蛇中の蛇があったらしく、それがトゥチャ族(ミンチャ)と考えられます。
 邪馬壱国の開化天皇系と大彦系、兄弟の反目は、この基盤となっている民族の違いに起因すると思われ、漢の武帝時代の閩越、東甌の対立と根は同じようです。ミャオ族は犬を食べ、ヤオ族は食べないといいますから、そのあたり、かなり深刻な対立を生む可能性があります。

2、牛の犠牲

後漢書「第五・鍾離・宋寒列伝、第三十一」
「第五倫。あざ名は伯魚。京兆長陵人である。……未だ官(扶夷長)に到らないうちに変更されて、新たに会稽太守に任命された。……会稽は淫祀が多く、卜筮を好み、人民は常に牛を捧げて神を祭っており、百姓はこのせいで困窮していた。自ら牛肉を食べて巫祝者にこれを勧めない者は、病気になり、牛の鳴き声を発して死んでしまうというのである。これを禁ずる郡将はいなかったが、倫が着任するやいなや、書を移し県の役人を掌握して、暁に、百姓に、その巫祝が鬼神を利用し、嘘をついてお前たちを恐がらせているのだと告げた。愚民は皆、この考え方に不安を持ったが、みだりに牛を屠る者がいると、官吏がすぐさま飛んで行って罰したので、人々は初めて恐れおののいたのである。倫は、祝詛や妄言のことも案じて、ますます厳しく取り締まったので後には遂に断絶してしまい、百姓は安んじることができた。……」

 これは後漢、光武帝の頃で、倭の奴国が金印を授けられたほんの少し前の時代です。会稽では何か事があれば、巫祝の言うままに、牛を神に捧げて祭らねばなりませんでした。牛を捧げる祭りはミャオ族などの中国少数民族やインドネシアで現在でも見られる風俗です。会稽の人々も、そういう南方系民族、越人を基盤としていました。したがって、越人が渡来していたなら、日本でも牛を犠牲としてささげる神の祭りが行われたはずなのです。

日本霊異記、中巻「漢神の祟りにより、牛七頭を殺し、また放生の善を修して、現に善悪の報いを得る縁、第五」
「摂津の東成郡、撫凹村に一人の富める家長がいた。姓名は明らかでない。聖武天皇の世、この家長は漢神の祟りによって、これを拝み、七年を限りとして、年毎に一頭の牛を殺して祀り、合わせて七頭の牛を殺して、祭りを終えた。……」

 伝承を元に仏教説話として構成されたものなので、聖武天皇の頃かどうかを当てにする必要はないでしょう。後漢では淫祀と表され、会稽太守によって根絶された祭祀と同様のものが日本に存在していました。「漢神のたたり」という言葉も漢から伝わったことを示しています。家長は地獄の閻羅王の前に引き出され、牛頭人身の七人の非人が、「我を殺ししが如く、膾(なます)に切りて食らわん。」と責めていますから、膾にして食べたようです。
 摂津の東成郡は、越王の子孫という漢の東成侯、すなわち、漢から渡来した文・漢人の居住地と推定した土地です。文・漢人の移動は新の時代で、後漢の光武帝より少し先立ちますから、この家長が会稽の祭祀を受け継いでいる可能性はあります。魏志倭人伝は牛馬なしとしていますが、牛がいたなら、ずっと続いていたはずの習俗なのです。かなり後と考えられるこの説話の時代でも、年一頭といっても大変な散財だったことでしょう。

3、美濃と尾張

今昔物語 巻第二十三「尾張の国の女、美濃狐を伏する語、第十七」
「今は昔、聖武天皇の御代、美濃国の方県の郡、小川の市に、美濃狐という名の極めて力の強い大きな女がいて、その力をたのみ、商人から荷物を奪い取るのを業にしていた。また、尾張の国、愛智の郡片輪の郷(名古屋市付近)にも力の強い女がいて、こちらは小さかった。この女は道場法師という元興寺の僧の子孫であった。尾張の女は美濃狐が悪行を働いていることを聞き、力を試してやろうと、蛤五十石、熊葛(くまつづら)の練鞭二十本を積んで美濃へ行ったところ、うわさ通り美濃狐が出てきて蛤を取り上げてしまった。そこで、尾張の女は美濃狐を熊葛の鞭で打ち懲らしめたため、美濃狐は悪行をやめ、人々は安心して交易できるようになった。」

 美濃の「方県の郡、小川の市」は、岐阜市の西に北方町があり、根尾川も見られますから、この付近のことでしょう。尾張の国の愛智とはアイ(ユ)チで、同じ文字でも近江のエチとは読みが異なります。
 道場法師は、日本霊異記や道場法師伝(群書類従)にその姿を伝えられています。農夫の前に小児のような姿の雷が落ちてきた。農夫は雷の求め通りに、楠の船を作って水を張り、竹の葉を浮かべて、雷が天に帰るのを助けてやった。その恩返しに、農夫に授けられた子が道場法師で、小さな身体であったが怪力を持ち元興寺の童子となって寺の田の水を管理した。後に出家して道場法師と号したといいます。
 雷に関係する楠と竹は呉の要素で、小児はスクナビコナに結びつきますから、秦系の雷ということになります。元興寺は蘇我氏が建立した寺で楚と結び付いています。「熊葛の練鞭」は、熊(熊襲)も葛(葛城襲津彦がいる)もどちらも楚に関係があります。おまけに楚は「むち」という意味まで持つのです。蛤は神産巣日神につながるウムギ姫がいます。五十はイソですし、二十はハタチである等、呉+楚という形で、尾張の小女を秦系と分類することに問題はありません。対する方県郡の大女、(美濃)狐は、呉人の要素でした。
 道場法師が生まれたとき、蛇が頭に二重に巻き付き、その頭と尾が後に垂れ下がっていたといいますから、越系が首長として乗っていたことを示すのかもしれません。
 この説話を単純化すれば、美濃の呉人が悪行を働くので、尾張の呉系楚人が懲らしめたという形で、実際の歴史に戻せば、尾張から呉系楚が北上して美濃の呉を従属させたという意味になります。方県郡と想定した岐阜県北方町や根尾川近くに、河渡(こうど)、神戸(ごうど)と、倭人伝の狗奴(こうど)国と同じ地名があり、生津(なまづ)という地名が見られるのも心強い。
 昔、美濃に狐を妻とした人があり、その四代目の子孫がこの話の美濃狐とされていて、狐と表される呉人と結び付いた男とは、いったいどういう存在なのか。ここでは縄文人と呉人が融合していたのでしょうか。それとも、単に人とトーテムの融合を意味するだけなのでしょうか。
 また、頭に蛇を巻いた道場法師の姿から、邪馬壱国の越人が木綿で頭を縛ったのは、トーテムの蛇を模したもの、お守りとして身につけたものという解釈も導き出されます。勝負の時にハチマキを巻いて気合を入れるのも、その観点から見れば理解できます。現在でも中国南方の少数民族間に見られる風俗で、豊かになって生地が大きくなったのか、ハチマキではなく、太いタオルを巻いたような形になっており、「雲南」はターバンと表現しています。

今昔物語 巻二十三「尾張の国の女、細畳を取り返す語、第十八」
「今は昔、聖武天皇の御代、尾張国、中島郡に尾張の久玖利という人がいた。その郡の大領である。妻は同国の愛知郡、片輪郷のひとで、道場法師の子孫であった。女は目の細かい麻布を織って夫の大領に着せていたが、その国の国司、若桜部の任が取り上げてしまった。夫にそのことを聞いた女は国司の許へ行き、二本の指で国司を捕えて、床に据えたまま国府の門の外へ出て、衣を返すように催促した。国司は恐れて衣を返した。力の強いことは人に似ず、練り糸を取るように、呉竹を取り砕くことができた。大領の両親はこれを見て、国司に怨まれることを恐れ、離縁を勧めたので、大領は妻を送り返した。……妻が元の郷の、草津川の船着き場で衣を洗っていたとき、通りかかった船の船主が女をからかったり、ものを投げつけたりしたので、女は船を一町(109m)ほど陸に引き上げた。船主が謝ったので許したが、その船を五百人くらいで引かせても動かなかった。」

 現実には有るはずもない怪力で、これも、公にしてはならない何らかの歴史を伝えようとした苦心の作とわかります。大領の尾張氏は火明命後裔という文・漢系氏族ですし、国司とされた若桜部氏も同じ文・漢系です。尾張には首長階級に文・漢人が入り、怪力の小女と表された強力な秦人を支配していたのでしょう。この話からはその微妙な支配服従関係がうかがえます。
 小女の実家には草津川が流れているとされ、また、「呉竹を取り砕く事、練り糸を取るが如し」ということで、やはり呉に結びつけられています
 先の話の続きで、倭国大乱時代、小女で表される尾張の呉系楚人はその夫と表される越人(尾張大領)と組み、美濃の呉人を破ったのですが、後に越人(邪馬壱国)との友好関係は破綻(離縁)した。これは狗奴国の反乱時代の表現と考えられます。魏志倭人伝には、女王国の東に海を渡るとまた国があるとされていましたが、この尾張等のことで、卑弥呼晩期には邪馬壱国と縁を切り独立していたのです。
 若桜部氏は大彦後裔で、大彦の子、武渟河別が東海地方に進軍したという伝承がありますから、壱与時代に武渟河別の子孫がそのまま尾張の首長となって居座ったようです。
 魏志弁辰伝に、弁辰は「広幅細布」を作ると記されていましたが、尾張の小女の記述から、それが目の細かい麻布であったことが明らかになります。秦系(=紀氏系)の服地なので、「あさもよし(麻裳よし)」が「紀」の枕詞になるわけです。

日本霊異記 上巻「狐を妻となし、子を生ましむる縁、第二」
「昔、欽明天皇の頃、三野(美濃)国、大野郡の人が妻となるべき女を求めて馬を進めていた。その時、広野の中で夫となるべき男を求めている美しい女に出会い、これを妻とした。女は一人の男の子を生んだ。十二月十五日に生まれたその家の犬の子は、いつもこの婦人に敵意をみせ、歯をむいて吠えかかった。婦人が用事で碓屋に入ったとき、この犬の子は婦人にかみつこうとして追いかけて吠えかかった。婦人は驚き恐れて本性を現し、野干(狐)となって垣の上に登っていた。家長はこれを見て、『汝との間に子があるから吾は汝を忘れない。常に来て相寝よ。』と言った。故に、夫の言葉に従いやって来ては寝た。それ故、キツネとする。また、生まれた子の名をキツネと名付け、その子の姓を狐直と負わせた。三野の国、狐直の根本がこれである。」

 美濃の大野郡は根尾川の西岸にあり、北方町のすぐ近くですから、やはりこのあたりが方県郡の小川だったのでしょう。先の話の美濃狐はこの男の後裔ということになります。したがって、狐直とされる氏族は最も古い帰化人、呉系と考えて良さそうです。狐は姫姓(=ヒメ)のトーテムなので、ほとんどの場合、女狐の形で現れます。

4、ミャオ族神話に似た話

今昔物語、巻第二十六「土佐の国の妹兄、知らぬ島に行きて住む語、第十」
「今は昔、土佐国の幡多郡に住んでいた下衆がいた。自分の住む浦ではなく、他の浦に田を作っており、田植えのため苗や農具、生活用具などを船に積んで渡り、十四、五歳の男の子と妹の十二、三歳の女の子に船の番をさせて自分たちは陸へ上った。船を少し陸に引き上げ、綱をつながずにいたが、二人の子供が寝ている間に潮が満ちて浮き、船は沖に出てはるか南の島に流れ着いた。妹が「しかたがないから苗が枯れる前に植えよう」といい、兄も「そうしよう。その通りだ。」と答えた。二人は田を作り、年頃になると夫婦になった。大きな島なので、田を広げ、子孫も増えて今もその島に住んでいるという。」

 「瓢箪の船で大洪水を逃れ、夫婦になってミャオ族の始祖となった妹兄」というミャオ族神話と同じ根をもつことが明らかです。幡多(ハタ)郡の話とされていて、やはり秦氏(呉系楚人)にはミャオ族が色濃い。そういう点で大彦系の文・漢氏(越人)と結びつきやすいようです。
 古事記の創世神話でも伊邪那岐神、妹伊邪那美神とされていますから、兄妹の神が夫婦となって大八島の国や神々を生んでいます。しかし、女が先に話しかけるのはよくないと記されており、これはアルタイ系言語の民族、つまり、縄文人・大和朝廷の発想です。男女の順に書くのもアルタイ系です。上記の今昔物語では女の子から話しかけていますし、ミャオ族神話でも女の子が主導権を取って夫婦になることを提案しています。魏志倭人伝にも男女の別はないと記されていました。どうも男尊女卑は北方系の発想らしく、大元の狩猟民族、農耕民族という差から生じるのでしょうか。

5、柞の大木の話

今昔物語巻第三十一「近江国栗太(クリモト)郡に大柞を伐る語、第三十七」
「今は昔、近江国栗太郡に大きな柞(ハハソ)の木が生えていた。その周囲は五百尋(900メートルくらい)あったので、その枝を伸ばした状態がどれほどかは想像できるであろう。その影は、朝は丹波国に差し、夕は伊勢国に差す。雷鳴の時にも動かず、大風の時にも揺るがない。しかし、志賀、栗太、甲賀の三郡の百姓は、木の影で日が当らないため、田畑を作ることができなかった。百姓達が天皇にこのことを訴えたので、天皇は掃守(カニモリ)宿禰等を派遣してこの木を切らせた。こうして百姓達の田畑は豊かに実るようになり、その子孫は今もその郡々に住んでいる。」

 栗太のクリは狗を意味する語でした。そこには物部という郷名も見られます。柞(ハハソ)は歴木(クヌギ)と同じ、すべて越(邪馬壱国系)の要素です。そして、その影響力は近江の栗太郡を中心として丹波から伊勢にまで及んでいました。直接の支配地として、志賀、栗太、甲賀があったようです。近江に入った越人の後日談ということになり、瀬田もその領域内に含まれますから、俵藤太にムカデ退治を頼んだ鹿蛇の後裔かもしれません。後に、大和朝廷が掃守(カニモリ)宿禰を派遣し、これを倒したというふうに解釈出来ます。
 カニは秦系要素なので、掃守宿祢は秦系氏族と考えられますが、姓氏録では振魂命の後となっていて系列不明です。北方の守山あたりに入ったのでしょうか。これはカナモリに転訛すると考えられます。

第四章、トーテム等の関連要素(まとめ)

 弥生人が何を祭り、各種伝承の中で何と表されているか、可能性があるものを整理すると以下のようになります。すべての民族の根底に蝶、蛇、瓢箪があります。

1、呉(韓人=カラヒト、姫姓)

 呉人が日本に持ち込んだ神祇は、周から受け継いだ后稷(農業神)と后土(土地神)で、后稷は稲荷神に姿を変えて、現在でも盛んに信仰されています。后土は、難波の生国魂神社(難波坐生国咲国魂神社二座)の生島神、足島神というのがそうでしょう。島を生む神、島を足す神という名ですから、土地神と考えるのに不都合はありませんし、長野県上田市にある生島足島神社(延喜式名神大社、信濃国小県郡)の神体が、砂利を敷き詰めた地面そのものであることもその証しとなります。敦賀の気比神社では同じ神を土公(后土のアルタイ系語順)としています。
 農業神、土地神は、どちらも呉と呉系楚(堂谿氏)で、同一神格が二重(保食神と倉稲魂神/生島神と足島神)になっており、これは延喜式の宮内省に坐す神、韓神社二坐と同じ形です。倭人伝の狗奴国は、后土そのものかもしれません。
 また、比売許曽神社のアカルタマ姫も呉人の神です。赤い玉という名は、朝日、夕日を思わせますし、虹のように輝く太陽光線が女性の陰部に射して生まれたという記述もあって、アカルタマ姫は太陽神とすることができます。神の伝承は大阪に最も濃厚で、ここに呉人(韓人)の中心国が存在したようです。
 この一族は、子孫繁栄、豊饒を願って、精液を連想させるヌルヌル、ネバネバ、ツルツルの粘液質を尊びました。その中でも鯰神が最上だったらしく、これが民間信仰となって、シャクジン、シャゴジ、サゴジなどの名でわずかに残っています。

 「久方の天の探女の石舟の泊てし高津は浅せにけるかも」という角麻呂の歌が万葉集に見られますが、難波の高津(コウヅ←コウドゥ)には、天の探女の伝承も残っていました。サグメがサク、シャク(=鯰)に関係することは明白で、アマノジャクへと転訛しています。この神は高天原の天神を裏切った天の若日子の従神とされていて、地位も低く、印象も残りませんが、逆しま事を言って災いを招く神です。これも呉系の神と分類できます。
 「記・紀」神代の天の若日子の存在理由がわかりませんでしたが、呉人の入れ知恵で邪馬壱国側に寝返った縄文人がいたことを語っているのかもしれません。
 各地に、米と竹筒を入れて粥を炊き、竹筒の中に入った米粒を数えて吉凶を占うという「粥占い」を伝えている神社があります。これも竹や粘液質を尊ぶ呉人の習俗に由来すると考えられます。「三重県下の特殊神事(長谷川利一篇、三重県郷土資料刊行会)」によれば、粥占いを伝えているのは、桑名郡楠村の楠神社、三重郡内部村の小許曽神社、河芸郡稲生村の伊奈富神社、栄村の酒井神社、河曲村の菅原神社接社、飯野神明社となっていて、呉系の地名としたクス、コソに結び付いていますし、サカも坂田金時、八坂など呉系楚につながっていました。したがって、イナ、イイにもその可能性があります。
 呉人の主食は、「呉語」に記されているように赤米だったのでしょう。主食が白米の粳米に代わってからは、祭りの時にのみ、小豆を入れて赤くした糯米(赤飯)を使用する習慣となるのではないでしょうか。ネバネバの餅もこの民族が好んだものとすることができます。勾踐時代の越は粟が主食だったようです。江淮の間という平野部に強制移住させられて、その地に適した白米の稲作に転換したのかもしれません。
 呉人は説話、伝承の中では蜈蚣、鯰、狐、雉、鯉、竜、馬、大人などと表されています。象徴的な武器は斧、刀です。倭国大乱で滅亡したため、有力氏族は見当たりません。
 民族的には羌人(周の太伯、仲雍)が上位に入り、ワラと自称するようになったミャオ族と考えればいいようです。言語はベトナム語などに近いモン・クメール系と考えられます。

  《関連要素》
キジ(キギス)、ワシ?
獣等 狐(野干)、虎、馬、龍、モグラ?
魚等 鯰、フグ、鯉、クジラ、イルカ、タニシ(巻き貝)、鱸(すずき)?
虫等 蜈蚣(波形に描かれる)、ジガバチ(カラ)?カタツムリ、 ナメクジ
植物 竹(ツク)、ムクゲ(=蕣)、アサ(麻、朝、浅)、楠、柏、梧桐(キリ)、稲
器物 鐸、斧(まさかり)、刀(カタナ=首刈り)、杵、ワラジ、釣鐘
その他 姫、大人、太陽、虹、地震、男根、目が悪い(盲)、ヒゲ(鯰、鯉等)
笑い=クスクス、ケラケラ、カラカラ、螺旋(=ツブカラ巻き等)
丸(まろ、まい)、粘液質、無毛、赤飯、甲(木の兄)=カンと読む、辛い、重い、裏
 色は赤 、五、打ち首、切腹
アカ、アサ、ウラ、ウル、ウマ、フラ、フロ、カシワ、カラ、カタ、カン、キ、キン、クサ、クス、クソ、コソ、コウド、コウヅ、コウノ、コウヌ、
ノオ、サカ、サク、サワ、シヅ、シャク、タク、ヤク、ワ、ワタ、ワダ、
ワラ、マラ、ミノ
 農業神(后稷=稲荷=保食神)、土地神(后土、生島神)
シャクジン(鯰神、地震神)、赤留(玉)姫、浅井姫、天の探女(さぐめ)
後裔氏族 狐直(美濃)


2、楚(呉系楚人、秦人=ハタヒト、狛人=コマヒト、堂谿氏=姫姓)

 秦人(呉系楚人)の神は、須佐乃男(牛頭天王)、五十猛(イタチ?)、ツヌガアラシト(牛)、少彦名(小人)、天之日矛(太陽)、月読(月、暦=太陰暦)、大山咋(咋=虁=牛+猿+蛇)、猿田彦、天鈿女(猿)、迦具土(火)、宗像三女神(航海)、石拆、根拆(雷)、石筒之男(隕石)、闇淤加美(山椒魚)、竃神(奥津彦/大戸姫は越系の竃神)、菟神(ウサギ、目が赤い)などで、金山彦も含まれていますから、この一族が日本に青銅器の製法をもたらしたと考えられます。後、同族(B・C39年以降ではないか)が製鉄を伝えた模様です。
 韓(呉)+園(楚)という民族なので、韓鍛冶(カラのかぬち)というのが該当します。波迩夜須毘古(ハニヤスビコ)、波迩夜須毘売も楚人の神で、こちらは土師器と土師氏に結びつきます。他、倉稲魂神(后稷)と足島神(后土)がありますし、八幡神も秦人の神です。
 また、木地師の作るお椀や箸につながるものもこの人々で、木地師の始祖とされている惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子ですが、母が紀朝臣名虎の娘なので楚と結びつけられています。出家し、山城国愛宕郡小野郷に居住して小野宮と号しました。赤城の蜈蚣神と日光の蛇神との戦いで、日光側についた小野猿麿は、越系(和迩氏系、文・漢人)の小野氏ではなく、この楚系(秦系)の小野宮に由来します。木地師の本拠は近江の愛知郡小椋とされていて、これは、猫の島(近江)の蛇を助けて蜈蚣を討ち、越(加賀)から近江に移住してきたという楚人(秦人)の居住地に重なります。付近に秦荘町という地名が見られるのもその補強材料です。小椋、小倉、大倉などを姓としたということで、福岡県小倉市なども秦系の地名と考えて良いようです。そして、ここは同じ秦系に分類した岡県主の勢力範囲でもあります。
 楚に関連するものとして、小人(少彦名)、木地師のお椀(御器)、箸(土師)が揃って「一寸法師」が出来上がります。御伽草子では針の刀と麦藁の鞘(ムギワラは中空のストローになる)を持ちますから、針とワラにも関係しています。麦もノギが長く針に近い。一寸法師(秦人)は鬼(越=邪馬壱国)を退治し、手に入れた打出の小槌(*)で体を大きくして、その後、貴族となって栄えるのですが、これはずっと後の邪馬壱国滅亡後の話になります。一寸法師の根底にも藤原氏の歴史が見え隠れするようです。《*小槌/大黒=大国主の持ち物でもある。越王は椎髻=槌型の髷をする。》
 針と言えば、尾に針を持つ蜂が連想されますが、秦河勝が建てた寺は蜂岡寺といいます。八俣のヲロチも尾から刀を出し、地震鯰も尾に刀を持つ形に描かれる場合があります。八幡もハチマンと読めば蜂と蛮(=蛇)を含むし、ヤハタと読めば矢と秦を含む。式内社の刺田比古神社が和歌山市中心部(狗奴国)にある。こういう具合に針は全て秦系要素に絡みついています。播磨も針間で、元々は秦氏が主導権を握って開拓した土地なのでしょう。北斗の第七星は搖光と言い、また、破軍の剣鋒(破軍星)とも呼ばれ、北斗七星は尾に刀を付けた形に描かれます。これは八俣のヲロチ、地震ナマヅと共通しますから、北斗を祭る妙見信仰も新羅(弁辰)から渡来したと伝える楚人(呉+楚)由来のものです。熊本県八代市の八代神社(妙見宮)の伝承は、新羅と妙見信仰の結合をそのまま伝えています。
 火明命後裔という尾張氏は、楚人(秦人)の「尾+針(=蜂)」という地名が先に有り、越人が地名を名乗って首長になったと考えれば整理できます。もちろん、尾針の妻(怪力の小女)を迎えるという形でです。
 霊異記、今昔物語の尾張愛智(アユチ)の小女(姫氏=堂谿氏)は麻織物にすぐれていました。麻は呉楚に結びつく言葉で、魏志弁辰伝の「広幅の目の細かい布を作る。」という記述は、辰韓の縑布(カトリ絹)とは区別されていましたから、麻織物を意味するのでしょう。したがって、麻(アサ)を「ヲ」というのは越語と考えられます。
 針からは松の葉を連想できますが、これは秦氏に松尾神社があることから秦系要素と確認できます。この一族はチクッと刺すものにこだわりがあり、橘、虻などもその要素として加えられます。したがって、末盧国(松浦)も楚人の国名ということになりそうです。
 秦人(楚人)に分類した、中臣氏、津島氏、壱岐氏は卜部という占いに係わる一族ですが、ウラは民族名から派生した呉を意味する言葉と分類しました。占、卜の読みと一致しますし、呉人(堂谿氏)の浦島子と楚人の亀姫という浦島伝説の解釈とも全く矛盾がありません。卑弥呼の弟、大吉備津比古に敗れた吉備冠者もウラ(温羅)です。したがって、反対側の表、面(オモ)は越系要素に分類できます。「重い」もそのようです。呉楚系は反対の「軽い」があり、民族名カラや小人のスクナビコナにつながります。
 秦系の有力氏族としては、紀氏(臣)、蘇我氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏等の武内宿祢後裔氏族、紀氏(直、国造)、秦氏、中臣(藤原)氏、宗像氏、土師氏、毛野氏、岡県主、伊都県主、津島直、壱岐直などが挙げられます。息長氏も邪馬壱国の王族が上位に入っていますが、武内宿祢後裔氏族と同様、秦系と扱われています。鴨氏もここに加えるべきでしょう。
 権力争いに敗れて楚に逃れた呉王の弟、夫概が堂谿、元の房子国に封じられて堂谿氏となったもので、「呉+楚」という形です。その地には呉房という別名があり、ここから牛蒡につながります。槃瓠に首をかみ切られたのは犬戎の房王ですから、房という犬トーテム、長身の羌族系民族が最下層にあり、上位に楚人の本体、ビやセン、タイと表される民族が入り、最上位に呉の一族が入ったという民族構成が考えられます。
 秦の始皇帝に敗れ、楚の各地から集められた部族が遼東半島で雑居していたと思えますから、実際はもっと複雑でしょう。しかし、日本の伝承にはミャオ族の要素が濃厚に現れます。呉王自体がミャオ族を基盤にしていたと解釈するのが最も簡単な解決法です。呉の解説のところで書いた、周人が上位に入ってワラやウラと自称するようになったミャオ族という形です。言語は漢語方言と扱っていいような上層階級の言語と下層階級のタイ系言語に別れていたと考えられます。アルタイ系要素がかなり強く入っていたのではないでしょうか。


  《関連要素  堂谿氏(呉系楚)は、呉の要素もすべて含むことになります。》
鳥等 鶏、百舌、カラス、鷹、鳩、木菟(ツク)、ミソサザイ、鳧(カモ)
鷺(ははき持ち)、トビ、鵜、雀
獣等 熊、牛、猿、兎、イタチ(テン)、猪(愛宕神社=迦具土神)
カモシカ(かましし)、羊(ヨウ、角が螺旋)
魚等 亀、ヒキガエル、蟹、山椒魚 、鯛、スッポン(雷に弱い)
ウナギ(セン魚、長くてヌルヌル)、鯔(口女)、赤貝、蛤、アワビ
比良夫貝(イタヤ貝)、鯱(しゃち=サカマタ)、タコ(足八)
虫等 クモ、蜂、虻、コオロギ(=キリギリス)、ノミ、カマキリ
植物 橘、松、ササ、桂、葛、かぶら、ワラビ、ウラジロ、萩、麦茅、榛、菖蒲、菊
柊(葉にトゲがある)、菱、つげ(黄楊)、椎(シイ)、梓蒜(ヒル)
すすき(月に供える)、葵(キ、アオい)、小豆
椿(俵藤太が「唾」を矢に付けてムカデ=呉退治)、牛蒡(堂谿は呉房)
粟(アハ)、桃、ナスビ、キュウリ
器物 弓、矢(鳴鏑)、靫、スズ、琴、俵、鐘、竃、鎌、大刀(タチ)、鍋、杵
土師器、金、鉄、鍬(くわ)、帚(安産)、壁杼(ひ)、針(一つ目)
綜麻(へそ)木の俣、棒、楔(くさび)、木地師=オワン、箸
その他 月、雷、北斗(妙見)、筒(ツツ=星)、火、時(暦)、鼻、臍(へそ)
唾(ツバ)酒(松尾、ミキ)、油(←虻、ヌルヌル)、小人(=手に乗る)
ヒョットコ、老童(老人であり小人である=祝融の父)八、丸(まろ)、
辛い、軽い(カル)、表す、チクッと刺す、長髪(弁辰)、サソリ巻き?(女性)
猿は厩番(馬は呉、厩番は楚、馬飼は越or馬は姫氏、厩番は楊氏、馬飼は騶氏)
赤女(鯛)=赤目(兎、雉、猿田彦、八俣のヲロチ)
雲、壁(越は日、風、ネズミ⇔雲、壁と勝ったり、負けたり)
乙(木の弟)、白米、男性器(=マラ)、色は青(=緑)、サオ(真っ青)
裏(浦)、軽い
アイ、アユ、アヲ、アハ、イサ(イザ=クジラ)、イシ、イソ、イタ、イヅ
イバラ、ウシ、ウヅ、オカ、オグラ、カガ、カヅラ、キ、キラ、クマ、ケタ
コクラ、オグラ、サカ、サザ、サヲ、シ(糸)、シイ、シナ(=秦シン)、
スガ、スハ、タガ、タケ、タチ、タツ、タテ、ダテ、タナ、ツノ、テラ、
ニシ、ノト、ツバ、トク、ハシ、ハカ(博)、ハク(白)、ハタ、ヒ、ヒエ、ヒナ(雛=小)
 フシ(不死、節)、マツ、ミイ、ミソ
須佐之男命、少彦名神、天之日矛、天之穂日、神魂神、猿田彦、大年神
御年神、宇迦之御魂、月読神、金山彦(姫)神、大山咋神、大国御魂神
一言主神、聖神、伊奢沙和気神、五十猛神、竈神(奥津彦)、多久豆魂神
宗像三女神、 天児屋根神、阿遅志貴高日子根神、火雷神等
後裔氏族 紀氏(臣)、蘇我氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏(竹内宿祢後裔氏族)
紀氏(直、国造)、藤原(中臣)氏、秦氏宗像氏、伊蘇志臣、岡県主
伊都県主、 津島直、壱岐直鴨氏、土師氏、掃部氏、毛野氏、県犬飼氏、息長氏等


3、越(文・漢人=フミヒト、アヤヒト、邪馬壱国=騶姓、迁姓)

 神武天皇(=崇神天皇)による政権交代は、大国主(大物主)、事代主、建御名方などの地祇神による国譲り、降伏という形の神話で表現されました。したがって、譲った神はすべて前王朝の邪馬壱国の神、文・漢人の神、物部氏、大伴氏等の神ということになります。
 天から降伏交渉に派遣された建御雷神、経津主神(紀)も文・漢人の神です。鹿島の建御雷神は藤原氏が祭祀権を握ったため主役となって大活躍しています。経津主神は物部氏の祀る石上神社の祭神です。
 フツ、ホツなどと表される民族で、フツ主という名はその主神であることを示すのでしょう。地名は布留(振る)ですから雷に通じ、元々はオオナムヂ神(大国主神)と同神かもしれません。古事記では建御雷之男神のまたの名を建布都神、豊布都神としています。
 三輪の大物主神が雷神、水神、月神、陰神ですから、その配偶者は陽神ということになり、太陽神の天照大神を当てることができます。卑弥呼、壱与が投影されているのはすでに記したとおりで、卑弥呼は和歌山市の日前宮に祀られ、壱与は伊勢神宮の祭神です。天照大神に並ぶ最高神という位置づけの高皇産霊(高木)神、さまざまな知恵を出す思兼命もこの民族の神です。神話は同一部族の神が片や天神、片や地祇という錯綜した構成になっていますが、さまざまな伝承を照らし合わせることで、きれいに分離できます。素朴な自然信仰だったと思われる縄文系・大和朝廷系の神は全く存在しないのです。天御中主神が皇室用に設けられた神かもしれません。太陽神・天照大神と対になっている高皇産霊(高木)神は雷神、水神ということになり、大国主神と同一神格です。
 オオナムヂ(=大国主)神の息子が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(先代旧事本紀)ですから、火明、櫛玉、饒速日と表されるのもこの一族の神です。この名称は太陽神で、火明命は暴風神ともされていますから、天目一箇神にも重なります。これは倭鍛冶(ヤマトのかぬち)と表される文・漢系の鍛冶神です。
 航海神としての住吉三神、海の幸の神としての綿津見三神、山の幸の神、大山津見神もこの一族の祭るものです。
 邪馬壱国の一族は主として蛇、鹿、鰐、狗で表され、ホトという自称が、他民族の女性器の名称に一致したようで、蛇がホトに入ったという形の話がしばしばみられます。ホトは火洞で熱源のある穴という意味になります。伊邪那美命が火の神カグツチを生んだとき、ホトを焼かれて死んだとされるのも理由のあることなのです。日本霊異記や今昔物語などでは男性器はマラ(秦系要素)、女性器はクボと表されていますが、どちらもモン(門)の中に牛や也を入れています(右図)。モンはミャオ系の自称ですし、也は蛇の象形から生れた文字です。
 中国の文献や倭王武の上表文で毛人と表されるのも、この苗系民族のことで、モンという音を写したものです。アイヌではありません。毛が長いとすればおそらく猿トーテムに由来します。
 越人はヤオ族・トゥチャ族の融合した部族とミャオ族という民族構成だったと考えら、ミャオ族は少し距離が開いており、秦系と結びつきやすかったようです。こういう複雑さが争乱の種となりました。だから、仏教を採用して信仰の統一を図り、「和をもって貴しとなす。」なのです。

  《関連要素》
鳥等 ホトトギス(杜鵑トケン=子規シキ=子鵑シケン)、燕 、鶏、隼
川雁(塩土老翁)、キツツキ(木=姫に穴を開ける。越祝の祖、ヤ鳥)
獣等 蛇、鹿、狗、猫(狸)、鼠、カワウソ(ムジナ)
魚等 鰐(ワニ=サメ)、フカ
虫等 蝶、ヤスデ(真っ直ぐ)、トンボ(アキヅ)
植物 杉、榎、クヌギ(=柞、檪、楢) 、桜、桑、柴、柳、柿(渋)=垣藤、朴、葦
アヤメ
器物 矛、鈴、鍵、小槌、鋤、杖、甕、須恵器、臼
その他 太陽、雷、石、風(風神、伊勢津彦)、竜巻(一目連)
耳が悪い、足が悪い、口をきけない、大耳たぶ(耳は犬の特徴)
頬笑み(ホホホ、エヘヘ、ウフフ)、フクベ顔、恵比寿、大黒、お多福
輪(わ)、甘い、表、隠す、馬飼、鵜飼、猪飼、鳥飼養蚕、織女星
衣縫(針を使う)、椎髻、酒(三輪)女性器=クボ、ホト三、色は白、磔
アチ、アヂ、アツ(厚、熱)、アヅ、アホ、アボ、アナ、アマ、オホ
イカル、イフヤ、イヤ、カキ、カシマ、クボ、クリ、クロ、シケ、ジケ
シブ、タド、ツエ、トミ、ハヤ(隼)、バン、ヒカ
フツ、ホト、マン、ミ、ミカ、ミエ、ヤオ、ヤス
大国(物)主神、建御雷神、経津主神、建御名方神、天之御影神
天照大神、天目一箇神、伊勢津彦(=シナツヒコ)神=風神
高御魂神、事代主神、大戸姫(竃神)、菊理姫、櫛玉火明饒速日命
綿津見三神、住吉三神、大山津見神、石凝姥、思兼命等
後裔氏族 物部氏、和邇氏、春日氏、柿本氏、小野氏、安曇氏、久米氏、三輪氏
吉備氏、額田部氏、尾張氏、伊福部氏、穂積氏、佐伯氏、忌部氏、小子部氏
大伴氏、阿部氏、膳氏、多氏、坂合部氏、若桜部氏、高橋氏、志紀県主
文氏、漢氏、隼人、蝦夷等


結び

 弥生時代には、大きく分けて三系統の民族が日本に移住してきました。そして縄文人がいます。その基本構造を把握することで、意味不明の伝承がいともたやすく解釈可能になります。
 人身御供を要求する猿や蜘蛛(呉楚)の神がいて、それが犬やシケン(=ホトトギス、越)を苦手としている等の民間伝承も、その民族間の軋轢を表すものですし、桃太郎は吉備津彦の温羅退治を元にした童話だという説もその通りのようです。さるかに合戦、竹取物語ははめ込むべき位置が判明しています。明確に位置づけることは出来ませんでしたが、かちかち山も何らかの寓意を含んでいることは明らかです。
 卑弥呼を共立して倭国大乱が収まりましたが、その七十年ほど後の卑弥呼の晩年、同盟関係にあった邪馬壱国と狗奴国が対立し、再び大乱となって、戦いのさ中に卑弥呼は崩じました。解決には十数年を要し、その後、壱与の安定政権が四十年ほど続いたものの、その死後、十数年にして、大和朝廷の崇神天皇が南九州から進出し大和を征圧したのです。局所的な小競合いならもっと頻繁に起こっていたでしょう。子供の頃に習った平和でのどかな弥生時代は木っ端微塵に吹き飛んでしまいました。
 「くそっ」という罵りは越人の言葉と解りますし、「かす」という罵り、「ちぇっ」という舌打ちは、呉楚人の越人に対する敵愾心に由来するのです。「ヱタ」という差別語の起源は越人を差別する語に違いなく、逆に呉楚人を差別するには「カタイ」と言い、乞食という文字が当てられています。
 弥生時代の日本は民族の坩堝と化し、その混交の過程で祖先の言葉や習俗が捨てられ、新しい言葉や習俗が生まれました。単一民族、単一言語など幻想にすぎません。日本語の骨格は、アルタイ系を中心にマライポリネシア系が融合した縄文期の言語、つまり大和朝廷の言語で、紀元前五世紀から一世紀にかけて渡来した弥生人、つまり、中国南部に展開していたミャオ族、ヤオ族、トゥチャ族、タイ族等の言語や漢語が注ぎこまれて日本語が誕生したのです。したがって、その根源となった民族の言語を分析すれば、日本語の語源を数多く見出せるでしょう。
 中国、朝鮮の歴史を探れば、古代の民族移動の跡をたどることが出来ますし、今昔物語、日本霊異記など文学に分類されている史料や、神社の伝承等にも歴史の真実が隠されていました。弥生時代後期はもはや歴史時代です。
                完

 《年表》

           
年代 史料 概要
B・C
 1100頃
史記 宋世家


史記 呉世家
周の武王が殷を滅ぼし、殷の王族・箕氏は朝鮮へ移住した。(箕氏朝鮮)

武王が末弟の季歴に国を委ねて去った太伯、仲雍の子孫を捜し呉に封じた。(姫姓) 国を委ねたことから呉人は倭人とも表される。
B・C505 史記 呉世家 呉王闔廬の弟、夫概が楚に逃れ堂谿氏(姫姓)となる。
B・C473 史記 呉世家 呉、滅びる。(呉王夫差、越王勾踐の戦い)
史記 越世家 越王勾踐は北上して山東半島南部の琅邪に都を置く。
越の支配を嫌った呉人の一部が朝鮮半島や日本に逃れ国を作る。
B・C334? 史記 越世家 越、滅ぶ。(楚領となる)
B・C233 史記 楚世家 楚、滅ぶ
B・C221 史記 秦始皇本紀 秦が中国を統一。
B・C213 史記 秦始皇本紀 秦は長城築城のため訴訟・裁判を司る官吏の不正を犯したものを長城や南越で築城工事にあたらせた。
それだけで足りるはずもなく、 越人・楚人も遼東に徴発されていたらしい。
魏志 韓伝 秦は天下を併せ、蒙恬をして長城を築かしめ、遼東に到る。(裴松之の注にある魏略逸文)
B・C210 史記 秦始皇本紀 始皇帝死亡。
B・C207 史記 秦始皇本紀 秦、滅ぶ。
秦の労役(遼東の長城建設)に苦しんでいた越人、楚人が遼東から逃亡。南下したものは箕氏朝鮮へ入る。
史記 東越列伝 越王の後裔、騶無諸と騶揺は越人を率い、諸侯を助けて秦を滅ぼしたが、楚の項羽に冷遇されたので距離を置いていた。
B・C202 史記 項羽本紀 項羽滅ぶ。漢(劉邦)が中国を支配。
史記 東越列伝 漢の高祖(劉邦)は項羽との戦いで功を上げた騶無諸を閩越王となす。
B・C195 魏志 韓伝 燕王盧綰は謀反の嫌疑をかけられ、北方の匈奴に逃亡。燕人衛満は蛮夷の習俗に合わせ箕氏朝鮮に亡命。衛満は亡命人を率い朝鮮王準を攻撃した。準は側近や宮人と共に船で南方に逃れ、そこで韓王と号す。
(韓と衛氏朝鮮の建国。裴松之の注にある魏略逸文)
朝鮮(後の楽浪郡)にいた越人、楚人が韓へ移動。韓が東方の土地を与え、越人は辰韓、楚人は弁辰となる。弁辰は呉系楚人の堂谿氏(姫姓)が首長。
魏志 辰韓伝 辰韓人は楽浪郡の人を「自分たちの残り」という意味で阿残という。
日本書紀
(垂仁紀)

丹後国風土記逸文
弁辰人(呉系楚人)のツヌガアラシトが日本に渡来。山口県西部から主として日本海側に展開。出雲を経て敦賀に到る。
仙人の国へ行った浦島子(呉系楚人)が三百余年後に元の国(呉)へ帰ったと表現される。
B・C192 史記 東越列伝 漢の孝景帝は高祖時代の功を認めて閩君(騶)搖を東海王(東甌王)となす。
B・C137
(建元三年)
史記 東越列伝 閩越と東甌の二国が戦う。
圧迫された東甌は国を挙げて中国に移住することを願い、全住民、四万を引き連れて江淮(長江と淮水)の間の廬江郡に移動。(漢、武帝)
B・C134
(建元六年)
史記 東越列伝 閩越王、騶郢暗殺。東越王(騶余善)と東越繇王(騶丑)に分裂。
B・C109
(元封元年)
史記 東越列伝 東越滅びる。漢の武帝は住民を江淮の間へ強制移住させる。
繇王、騶居股は徐州の東成侯となる(これも江淮の間)。
B・C107
(元封三年)
史記 朝鮮列伝 漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪、玄菟、臨屯、真番の四郡を置く。
B・C89
(征和三年)
漢書
景武昭宣元成
    功臣表
東城(東成)侯、騶居股は衛太子(*)の乱(B・C90)に連坐して死刑となる。子孫は九江郡に住んでいたというから、東成周辺を動いていないらしい。
 (*武帝の太子、衛皇后の子)
B・C39 新羅本紀 弁辰が辰韓に吸収される。

古事記
 (応神記)
日本書紀
 (垂仁紀)
弁辰人の不満を持つ勢力が南下し、加羅、対馬、壱岐を経て日本に渡来。人数が多く、北九州に地歩を築き、瀬戸内に入ったが、難波の強力な呉人の国(アカルタマ姫)に押し返された。
天之日矛が、もと妻のアカルタマ姫を追って日本に渡来したと表される(ツヌガアラシトの名で同じ伝承あり)。
秦に出自があるので後に秦氏と表される
漢書地理誌 呉地


漢書地理誌 燕地
日本に渡来した弁辰人(秦人、ハタヒト)は西南諸島沿いに中国と交易し、「会稽海外に東鯷人あり、二十余国を為す」と漢書に記された。
同じ頃、呉人(倭人=韓人、カラヒト)は燕に通い「楽浪海中に倭人あり、百余国を為す」と記される。
B・C18 新羅本紀 タバナ国(対馬国=玉調郷)で脱解が生れ、新羅(弁辰)に帰る。
A・D8 漢書 王莽伝 王莽、「新」建国、前漢滅びる
14 漢書 食貨志 王莽が貨幣の改鋳を行う。これまでの大小銭を廃止し、長二寸五分、広一寸という貨布や、径一寸という貨銭(貨泉)を発行。
18
(天鳳五年)
漢書 王莽伝 赤眉の力子都、樊崇等が飢饉に苦しみ、琅邪で蜂起。新は郡国の兵を発して、これを撃ったが勝てず。赤眉は大勢力に発展。
19
(天鳳六年)
漢書 王莽伝 匈奴の辺境を侵すことは甚だしく、青州、徐州の民の多くは郷里を棄てて流亡し、老弱は道路に死に、壮者は賊中に入った。
20
(地皇元年)
漢書 王莽伝 南郡(長江中流)の張覇、江夏の羊牧、王匡等が雲杜、緑林で起つ。後漢の始祖、光武帝は緑林軍から出た。
21
(地皇二年)
漢書 王莽伝 太師犠仲の景尚、更始将軍護軍の王党が将兵を率いて青州、徐州を攻撃。
22
(地皇三年)
漢書 王莽伝 太師(三高官の一つ)王匡と更始将軍、廉丹が十余万の鋭兵を率い鎮圧に向かうが赤眉に大敗。
越人・騶氏(文・漢人)が江淮の間(徐州、楊州)を離れ朝鮮半島(馬韓)に移動。 大銭五十、貨泉など新の貨幣や鏡等を持ち出す。
23 漢書 王莽伝 王莽は首を落とされ、新は滅亡した。
25 漢書 食貨志 光武帝が煩雑な貨幣制度を改め五銖銭を復活させる。
42 三国遺事 加羅建国(呉人の土台の上に呉系楚人=秦人が重なる。)
57
(建武中元二年)
後漢書 倭伝 「倭の奴国が貢ぎを奉げて朝賀した。使者は自ら大夫と名乗った。倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。」
秦人の勢力増強に危険を感じた呉人の国、奴国は、後漢中央政府に朝貢し、保護を求めて、金印を授けられる。
新羅本紀 新羅で脱解尼師今(昔氏)が即位
祖先は弁辰出身で対馬に移動。その後帰還。呉系楚人(姫姓、秦氏同族)
65 新羅本紀 閼智(後の新羅王家となる金氏)=越王の子孫、騶氏が辰韓に到達して、その先進文化を背景に地歩を築いた。(文・漢氏と同族)
80~90? 越人(文・漢氏)が北九州に渡来。馬韓(百済)で閼智と分化したと考えられる。貨泉や鏡を持ち込む。
宗像氏(呉系楚人=秦氏)と同盟して奴国(呉人)と対立。
漢から渡来したので「漢氏」、文字を伝えたので「文氏」と表される。
106頃 文・漢人と秦人が連携して奴国と戦い勝つ。
107
(永初元年)
後漢書 倭伝








出雲国風土記
日本書紀神代
「倭国王帥升等が、生口百六十人を献じ、願いてまみゆることを請う。(後漢、安帝)」
奴国が金印を授けられていることを知った越人の首長があわてて漢に赴き安帝に面会を求める。倭面土国王帥升と表された。

漢は紛争を調停し、奴国を復活させ、帥升に勢力の拡大を禁じる。

帥升は一部を津屋崎付近(不弥国)に残し、出雲の宇賀へ移動。先に国を作っていた辰韓人に合流し、紀では大国主神の幸魂、奇魂と表される。奴国は存続し現状維持。
魏志 韓伝 「桓帝、霊帝の末(147~189)、韓濊が強盛。」
桓帝の末(167頃)、朝鮮半島における漢の威信が衰える。
古事記神代 出雲に拠点を得た文・漢人(大国主)は日本海側の秦人(因幡の八上姫、越の沼河姫)と同盟。鬼道という宗教、医術などの先進文化を背景に勢力を拡大。
160~172頃? 後漢書 倭伝
魏志 倭人伝
「桓霊の間、倭国大乱」
「住むこと七、八十年、倭国乱れ相攻伐すること歴年。」
今昔物語等 文・漢人と秦人が連携して奴国等の呉人の国と戦う。琵琶湖の大ナマズと蛇の戦い、赤城のムカデと日光の蛇の戦い、加賀の七人の下衆や俵藤太のムカデ退治、孝霊天皇の鬼退治などと表現される。
文・漢氏は出雲から大和へ移動。卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)を共立して女王と為し、大和(田原本町)で邪馬壱国が成立。実権はその父の孝霊天皇とされる人物が握っていたであろう。秦氏は狗奴国(紀伊)や河内に首長として入る。
173 新羅本紀 卑弥呼、新羅へ使者派遣。(親戚、閼智の一族がいるので、即位を伝えたと考えられる)
古事記
吉備津彦神社伝承
卑弥呼は弟の大吉備津彦を吉備へ派遣
呉系の国(温羅、ウラ)を滅ぼし、吉備を版図に入れる。
189
(中平六年)
魏志 公孫度伝 公孫度、遼東太守となる。中平一年に黄巾の乱が起こり、漢は国家としての体をなしておらず、遼東は半独立国であった。霊帝の末。
196~220
(建安年間)
魏志 韓伝 遼東太守、公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡となす。この後、韓や倭は帯方郡に属していた。
奈良県天理市東大寺山古墳出土の鉄剣銘文に中平■年の文字あり。
237
(景初元年)
魏志 公孫度伝 7月…遼東太守、公孫淵が自立して燕王と称す。
238
(景初二年)
魏志 公孫度伝 1月…魏の明帝は司馬宣王に公孫淵の討伐を命じた。
魏志 韓伝 ?月…劉昕と鮮于嗣がひそかに海を渡って楽浪、帯方郡を急襲。両郡は魏が攻め落とした。劉昕は帯方太守となる。
魏志 倭人伝




日本書紀
 (応神紀)
6月…卑弥呼の使者、難升米、都市牛利が公孫淵の独立を祝賀するか、あるいは軍事援助を要請するため帯方郡に到着。実状を知った難升米は、急遽、魏へ向かうことにして、帯方太守、劉昕(劉夏)に案内を求めた。

中国へ派遣された漢氏の祖、阿知使主、都加使主が道を知らなかったので高麗王に案内を求めたと表現される。
魏志 公孫度伝 8月…公孫淵が滅びる。この時まで難升米は動けなかったであろう。
?月…難升米が洛陽に到着。
魏志 倭人伝 12月…魏の明帝の制詔が下され、卑弥呼を親魏倭王となし、難升米を引見してねぎらうことが発表された。
魏志 明帝紀 12月8日…明帝が病に倒れる。
239
(景初三年)
魏志 明帝紀 1月1日…明帝が崩じ、斉王芳(八歳)が即位した。
1月27日…明帝を葬る
帯方太守、劉昕から弓遵に交代?
魏は制詔を実行に移すため、鏡や金印の制作にとりかかる。
240
(正始元年)
晋書 宣帝紀 1月…「東倭重訳納貢」という記述が見られるので、斉王芳が難升米を引見したようである。難升米に銀印青綬を授ける、引見してねぎらうなど、内定していたことが実現した。明帝は急な病で引見できなかったと考えられる。
2月頃?…難升米は鏡等の下賜品とともに洛陽を離れる。
魏志 倭人伝 7月?…帯方太守、弓遵が梯儁を派遣。難升米を送って伊都国に至り、証書、印綬、鏡等をもたらす。
242
(正始三年)
魏志 高句麗伝 魏は高句麗王の位宮と戦う
243
(正始四年)
魏志 倭人伝
魏志 三少帝紀
12月…卑弥呼は伊聲耆等を魏へ派遣。木拊短弓を献じ、軍事援助を要請。
244
(正始五年)
魏志 三少帝紀 2月~5月…魏は蜀を攻撃。倭のことは対処できず。
245
(正始六年)
魏志 倭人伝 魏は四年の倭の要請に応える。難升米に黄幢を授け、帯方郡にそれを付託した。
魏志 毌丘倹伝
魏書 東沃沮伝
魏は再び高句麗王の位宮と戦う。幽州刺史、毋丘倹の命を受け、玄菟太守、王頎は東沃沮まで位宮を追って日本海に達した。
246
(正始七年)
魏志 韓伝 魏は辰韓八国を楽浪郡に編入しようとしたことが原因で馬韓と戦う。
魏志 三少帝紀
魏志 韓伝
5月…馬韓(箕氏)を滅ぼしたが、帯方太守、弓遵が戦死(5月以前)。主家を失った馬韓は統制のとれない群雄割拠の混乱状態に陥る。
247
(正始八年)
魏志 倭人伝 玄菟太守、王頎が帯方太守に転任。卑弥呼は狗奴国と戦い、帯方郡に急使を派遣して軍事援助を要請した。それを受けて塞曹掾史の張政等が倭に派遣され、帯方郡が預かっていた難升米の黄幢が届けられた。
248? 卑弥呼死す。
249 新羅本紀 沾解尼師今の三年、倭人は昔于老という王族を殺した。于老が倭国の使者に、「そのうち、おまえの国の王を塩作りの奴とし、王妃を飯炊き女にしてやる。」と戯れて言ったため、倭王が怒って派遣してきた軍に焼き殺されたもの。倭には男王がいた。
魏志 倭人伝 男王を立てたが国中が不服でお互いに殺し合い、当時、千余人が殺された。
天高市神社近くの蘇我川(=安川?)河原で難升米を中心に善後策が協議された。洞穴に閉じこもった太陽(卑弥呼)を再びよみがえらせた(壱与)
難升米は後に知恵の神、思兼命として祭られる。
250? 壱与、十三歳で即位。
男王(開化天皇)と兄の大彦の間で後継争いがあり、卑弥呼時代と同じ形を作る。壱与が女王となり、開化天皇とされる人物が補佐。
狗奴国の臣、コウチヒコを懐柔し、大阪を傘下に収める。奈良、大阪の二方面から紀ノ川河口部の狗奴国を攻撃。コウチヒコは富木を本拠とした藤原氏の祖先。
狗奴国は南下し熊野に至る。
262? 卑弥呼、壱与と戦った狗奴国が滅びる。箸墓の完成?
新羅本紀 新羅で味鄒尼師今(在位262~284)が即位。金氏。邪馬壱国(文・漢氏)同族
263
(景元四年)
晋書 宣帝紀 11月…司馬昭が魏の相国となる。
魏志 倭人伝 ?月…壱与が使者を派遣し、張政等を送る。生口、勾玉、真珠等を献上。魏志倭人伝末尾に記される。生口は狗奴国の首長階級と考えられる。
264
(咸煕元年)
春……壱与が再び遣使。壱与はこの頃二十代前半。
夏……張政を送った前年の使者が帰国
冬……春の使者が洛陽到着。
265
(咸煕二年)
(泰始元年)
春……壱与遣使。
晋書 宣帝紀 8月…司馬昭が死亡。司馬炎が相国と晋王の地位を相続。
晋書 武帝紀


晋書 倭人伝
12月…司馬炎が晋を建国し、泰始と改元。

壱与の使者はこの王朝交代の式典に参加し、晋書倭人伝に記された。「泰始初遣使重訳入貢」
266
(泰始二年)
春……壱与は四度目の使者派遣。前年の使者はまだ帰国していない。
夏頃…泰始元年の使者が帰国。魏が滅ぼされたことを知って怒り、壱与は中国との交流を断つ。
晋書 武帝紀 11月5日…春の使者が洛陽到着。「倭人来たりて方物を献ず。」
壱与は大彦を北陸道、建沼河別を東海道に派遣。両者は会津まで進軍し所領を広げる。
270~280頃 大和朝廷の祖先(ホノニニギ尊)が侵入してきた秦氏を破り、高千穂から海岸部へ下って日向を支配(天下り)。鹿児島県の笠沙まで勢力を伸張。
284 新羅本紀 新羅で儒礼尼師今(昔氏、284~298)が即位。狗奴国(秦氏)同族。
287 倭人が侵入。(壱与が新羅王家交代に反発)
289 倭人が攻めてくるという情報が入り準備
292 倭人が侵入。
294 倭人が侵入。
299? 壱与死す?
300 新羅本紀 基臨尼師今(昔氏、298~310)三年(300)、昔氏と和解の様相。倭王は「ニギハヤヒ」か?
312 新羅本紀 訖解尼師今(昔氏、310~356)三年、倭国王が使者を派遣し王子のために花嫁を求めてきたので、最高官の娘を送った。
320頃? 大和朝廷始祖、神武天皇(=彦ホホデミ尊、崇神天皇)が南九州から黒潮に乗り熊野へ到達。大和へ進軍し制圧。邪馬壱国の豪族だった鴨氏の祖先が手引き(ヤタガラス)。
邪馬壱国王家(=物部氏)の娘を娶り、垂仁天皇を生む。(王朝の交代)
344 新羅本紀 倭国が遣使して、花嫁を求めたが、娘はすでに嫁にいったと言って断る。(第二代、垂仁天皇と考えられる。)
345 新羅本紀 倭王は書を送ってきて絶交した。
346 新羅本紀 倭兵がにわかに風島にやって来て略奪し、さらに進軍して、王都の金城を囲み激しく攻めたてた。
その後も大和朝廷は邪馬壱国同族(金氏、文・漢)の新羅に敵対的姿勢をとる。
356 新羅本紀 奈勿尼師今(金氏)即位。以降、新羅は金氏の王朝
記、紀 第三代、景行天皇即位。
記、紀 第四代、成務天皇
記、紀 第五代、仲哀天皇
391 広開土王碑
記、紀
神功皇后(仲哀天皇の后)、朝鮮半島に侵攻し、新羅、百済を属国にする。神功皇后は後妻で二十歳代と考えられる。応神天皇(初子)を生む。
記、紀 神功皇后、難波の押熊王と対立し制圧。
413
(義煕九年)
晋書(注)
太平御覧
神功皇后、東晋に遣使。方物としてテン皮や人参など朝鮮半島の産物を献じる。
421 宋書 倭国伝 応神天皇(倭王讃)、宋に遣使。応神天皇は三十歳。
424頃 宋書 范曄列伝 范曄、後漢書を著す。新たな資料を得て魏志倭人伝を訂正。 前王朝時代(東晋)の文献に従ったと考えられるので、邪馬台国はその文献に記された文字かもしれない
425 宋書 倭国伝 応神天皇、宋に遣使。

  倭人伝、倭国伝等は通称
  正式には魏書烏丸鮮卑東夷伝第三十倭人伝、晋書四夷伝倭人、宋書夷蛮伝倭国


参考文献

 三国志、後漢書、漢書、淮南子、抱朴子
 大和志料  先代旧事本紀の研究(鎌田純一著、吉川弘文館)
 群書類従(続群書類従完成会)
 日本の古代(中央公論社)
 雲南(H・R・デーヴィス著、古今書院)
 日本書紀、古事記・祝詞、風土記、日本霊異記(岩波古典文学大系)
 今昔物語(新潮日本古典集成)
 新撰姓氏録の研究、本文篇(佐伯有清著、吉川弘文館)
 中国神話(聞一多著、平凡社東洋文庫)
 苗族民話集(村松一弥編訳、平凡社東洋文庫)
 三重県下の特殊神事(長谷川利一篇、三重県郷土資料刊行会)
言語関係
 現代ウイグル語基礎(竹内和夫編、大学書林)
 ウイグル語辞典(飯沼英三著、穂高書店)
 続トルコ語小辞典(久保義光著、泰流社)
 ポリネシア語入門(戸部実之著、泰流社)
 フィジー語入門(岩佐嘉親著、泰流社)
 日越小辞典(竹内与之助、川口健一、今井昭夫編、大学書林)
 タイ語単語集(泰流社編集部編、泰流社)
 タイ語常用六千語(松山納、坂本比奈子編、大学書林)
 現代日本語-インドネシア語辞典(末長晃編、大学書林)
 マレーシア語常用6000題(小野沢純編、大学書林)