仏像−天平時代

 「天平時代」の区分を、ここでは「藤原京」より
「平城京」に遷都された710年(和銅三)か
ら「長岡京」遷都の784年(延暦三)の74年間といたします。天平時代を一名「奈良時代」
とも言います。しかし、我が国の仏教美術史が、奈良から始まるだけに奈良時代といえば「飛鳥時代」「白鳳時代」も含まれると誤解を招きそうなので、天平時代の方が妥当な年号と
言えましょう。
  天平七代の天皇のうち四代、
元明(げんめい)、元正(げんしょう)、孝謙(こうけん)、称徳(しょうとく)(孝謙の重祚)女帝が、在位されたことは他の時代には見られぬ大きな特色
で世界的にも珍しいことです。後の時代、二人の女帝が在位されますが「天皇制中央集権
国家」での女帝は「称徳天皇(孝謙天皇)」が最後と言えましょう。

 天平時代に美術の花が大きく開いた「奈良の都」は、万葉集に「青丹(あをに)よし 寧楽
(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の薫(にほ)ふがごとく 今さかりなり」と詠われております。ところで、「寧楽」ですが「東大寺寧楽美術館」は「ねいらく」と読みます。
 時代は「塔」を中心とする伽藍配置から「金堂」を中心とする伽藍配置に変わり、礼拝の対
象が「塔」から「仏像」に移る「仏像崇拝」となりました。結果、素晴らしく大きな像が数多く
造られました。当然、塔は不要となるべきでしたが境内の象徴的な建物として生き残りま
した。
 江戸時代の俳聖・松尾芭蕉が「菊の香や 奈良には古き ほとけたち」と詠んだように古都
奈良には幾世紀もの歴史を経て生き長らえた「み仏」が皆さんを温かく迎えてくださいます。
 
  「天平時代」は「明治時代」「太平洋戦争後」と同じように先進国に追付き追い越せの時代で、躍動溢れる活気のある時代でした。それだけに、あらゆる分野にわたって当時の先進
国「唐」の影響を、一番受けたと言うより受け入れた年代でした。その唐の影響を受けての
仏像の制作は、色々な種類の素材が使われました特異な時代でした。
 国の威信を掛けた「重要政策」の中には大規模な寺院の造立があり、そのため、「造東大
寺司」などの臨時の役所まで設置し造寺造仏が盛んに行われました。これらの役所は設立
当初は臨時で工事が終われば解散するものでしたが次第に永続性のものに変わっていきま
した。造東大寺司の造仏所だけでも1,619人以上の技能者が働いていたとのことで想像以
上の大掛かりな組織で運営されており、それら官営工房では組織力を利用して数多くの美
術品が造られました。国を鎮護する国家仏教としての造寺造仏でもありましたので「仏師」
は国家公務員のエリート扱いを受けておりました。
 
 どうして天平時代にあれだけの素晴らしい美術作品が造られたのかを考えて見ますと、
その頃の「仏師」は熟練度にもよりますが破格の待遇を受けていました。その高給取りのプ
ライドをもって意欲的に制作に励んだのと、当時は徹底的な成果主義であり作品の出来栄
えによって業績評価が決められたからでしょう。 
 重要政策での大規模な造寺造仏で、今なお優れた仏像の豊富なことが、古都奈良の魅力
となっております。しかし残念なことに、天平時代の面影を色濃く残している古都奈良の
歴史を、ご存じない不幸な方が多くいらっしゃることは由々しき問題です。

 「仏師名」が記録されなかったのは当時の仏師が国家公務員だった事と当時盛んだった脱
活乾漆造の場合、作品を仕上げるのに1躯ではなく多躯制作でなければ大変な手間と経費
が掛かる造像技法だったのでどうしても流れ作業の分業にならざるを得なかったからでし
ょう。天平時代で仏像の制作に関係した者で氏名が分かるのは一部であり、東大寺大仏造
営で陣頭指揮した「国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)」などの渡来人たちです。現
代の公麻呂と言えば「綾小路きみまろ」さんですね。前代に続いて造像には渡来人が重要な
役割を果たしました。
 「脱活乾漆造」の作品が多くあるのはその時代趣向の写実的な表現に「塑像」と同じく素材
が適していたからでしょう。「木彫像」のように削り過ぎると補整が困難なのに比べて加工
性に富んで細かい塑形をいくらでも修正しながら制作できる材料の特性があらばこそでし
ょう。これらの造像技法は中国から学んだものでありますがこの脱活乾漆像の遺品が中国、東南アジアには皆無であるのに対し、古都奈良には多く残っていることは世界遺産そのも
のです。しかし反対に、中国には我が国では少数である「塑像」「石像」が数多く存在いたし
ます。それゆえ、「金」と同価格と言われた「漆」の素材と秀れた仏師の技の融合が世界的に
も名高い仏像を生み出し、感動と興奮を与える仏像は古都奈良にしか存在しないと評価さ
れるようになったのであります。
  一方、「木彫像」が少ないのは霊木信仰の時代のため「一木造」でなければならず素材以上
の大きな仏像が出来ません。ところが「脱活乾漆造」は巨像の制作が可能で、国家鎮護目的
の巨像制作の要求に応えることが出来たのであります。

  軽量な「脱活乾漆像」に比べて「金銅像」は重量がある欠点がありました。武家政権が目の
敵にした僧の姿をした僧兵軍が政争に首を突っ込んだ「興福寺」「東大寺」では、本尊の金銅
像は兵火による火災時に搬出叶わず損壊して仕舞いました。助演者だった八部衆「阿修羅
像」の洗練された魅力から考えると本尊の金銅像はそれはそれは眼を見張るばかりの迫力
ある像だったことでしょう。

  国力を注ぎ込んで造仏事業に傾注し過ぎたため、高価な「漆」を大量消費したり大型の金
銅像の造営に国内在庫の銅を使い切ったりして仕舞い、現代の超デフレとは逆に超インフ
レとなり経済状況は極度に悪くなる一方でした。それに、貨幣の発行で、和同開珎
(708)萬年通寶(760年)、神功開寶(765年)と発行されましたが当初は物々交換制度でしたのでな
かなか流通せず朝廷はお金を貯めた者には官位を与えたりして流通に力を入れました。な
ぜならば、
貨幣の製造原価と貨幣の流通法定価値の差額が朝廷の収入となり、朝廷にとっ
て財政的には優れた政策だったからです。しかしその裏には、「旧銭」と「新銭」
の発行原価
がさほど変わらないのに「新銭」は「旧銭」の10倍もの法定価値があると決めたりしました
のでインフレを増長させることになり、庶民は貧窮に苦しむことになりました。
 
 さらに、当初は政治と仏教は良き関係でしたが、不幸の始まりは僧侶が都市仏教である
ゆえ中央政界に進出、「道鏡」のように僧侶でありながら天皇を志望したり仏教界が政治に
大きく関与する弊害もありました。そこで、これらを解決する手段として「桓武天皇」は長
岡京に続いて平安京への遷都を決断、その遷都の際行われる寺院が古都から新都に移動す
る慣例を廃止し、官寺の造寺造仏の取りやめなどで仏教界の粛清を図りました。

 平安京遷都で平城京は寂れましたが古都奈良の町全体が灰燼に帰す内戦が起こらなくな
ったことはかえって幸いでした。庶民の犠牲の下に築かれた天平文化でしたが素晴らしい
作品が多く残っておりますのは世界的に見ても奇跡としか言いようがありません。

 仏像を制作する際「儀軌(ぎき)」という守らなければならない約束事があります。その
儀軌の中には「仏像のお話」で記載いたしました「仏の優れた容姿の特徴で32の大きな特
徴と80の細かい特徴の三十二相八十種好(さんじゅうにそう・はちじつしゅごう)」も含
まれております。儀軌は仏像の形、大きさ、服装、壇場の飾り付け、拝み方などこと細か
く規定されております。儀軌は密教で重視された影響で平安時代以降では厳然と守られま
すが天平時代は仏師が理解していなかったのか重要視されておりませんでした。それだけ
に仏師の思い思いの個性を発揮された像が造られております。それと、天平時代は戯画が
多く残されており、唐招提寺梵天立像の「台座」には落書きがありそこにはおおらかさが過
ぎて色んな画像に交じってHな画像までがあります。
 「新薬師寺十二神将像」は等身大の立派な像ですが平安時代になりますと儀軌に忠実な小
型の像になります。新薬師寺の本尊「薬師如来像」を取り囲む「十二神将像」のパノラマは見
事です。天平時代の面影を残した唯一の本堂と併せてご覧ください。「新薬師寺」の拝観だ
けでも古都奈良を訪れた価値がありますので新薬師寺拝観だけでお帰りになることをお勧
めいたします。それは、古都奈良の仏像を見れば他の仏像は見れたものではないと常々申
しておりますように、感銘深い仏像の集合体である古都奈良のお寺を、二ヶ寺、三ヶ寺と
強欲に回られますことは高級料理店をはしごするのと同じで感激が薄れてしまいかえって
思い出が残らないものになるからです。その点から言えば「法隆寺」などは高級料理店の集
まりで、かけがえのない大事な思い出作りのためには何回も訪れる必要があります。
 儀軌のように詳しくはありませんが「経典」にも仏像の制作の定めがあります。この経典
と儀軌とを併せて「経軌(きょうき)」と言います。

  白鳳時代の個人礼拝用の童顔・童児の愛くるしい小型像から国家鎮護の役目を負らされ
た成人の像に変わり写実主義も頂点に達します。しかし、節度ある写実主義を極めた反動
で天平時代の終末には男性的な厳しい表情、沈うつな表情や誇張されたバロック調の像が
現れてきます。このことは、次代の弘仁・貞観時代の仏像様式の先駆けを成していました。
 「東大寺戒壇院四天王像」などは眉をひそめた程度で怒りを表し仏敵を威嚇、一方、バロ
ック調の「新薬師寺十二神将像」は身振り手振りの大げさな振る舞いで威嚇いたします。戒
壇院像は和様の美術、新薬師寺像は大陸様の美術とも言えます。

  遣唐使が中国龍門の「奉先寺盧舎邦大仏像」を見てきた話に「聖武天皇」が刺激を受けて
「東大寺盧舎邦大仏像」の造像に踏み切られたのでありましょう。奉先寺大仏像は「磨崖像」
でありますが東大寺大仏像は「金銅像」で我が国では磨崖像の素材に恵まれなかったのに、
国内在庫の銅を使い切ってまで造像されたのは天平時代だったからでしょう。世界に目を
向けても今回、世界遺産に指定されたバーミヤンの磨崖大仏を始め、中国の磨崖大仏など
総て素材は「石」に限られておりますのに、東大寺の大仏だけが「銅の金メッキ造り」で、よ
くぞ東大寺大仏が完成されたものだと感心いたします。以前に「紫香楽宮」において大仏の
造営が起こり中断となりましたが、そのことが良きリハーサルとなったことでしょう。

 「漆」素材の技法から天平時代を考察しますと律令制度が確立した頃の「脱活乾漆造」から「木心乾漆造」、「木彫像一部乾漆」へと国家財政が厳しくなった影響を受けて漆素材がだん
だん節約ムードになっていったことが分かります。例外としては天平末期に造られました「唐招提寺本尊盧舎邦仏像」が脱活乾漆造です。その流れで、次の平安時代は「木彫像」一辺
倒となります。

 我が国で肖像彫刻の最高傑作と評されるのは「鑑真和上像」と「行信僧都像」ですが、両像
ともに見事な出来栄えでこれこそ写実主義の頂点を極めた作品です。ただ惜しいことに、
鑑真和上像は6月の3日間だけ(今年は特別の9日間)の拝観で、行信僧都像は少し見辛い
位置に安置されております。   

           
塑 像 (塑像のお話)
 
           塔本四面具(法隆寺)
  
      執金剛神像(東大寺)
   
   月光菩薩像(東大寺)
  
    持国天像(東大寺)  
  
   迷企羅像(新薬師寺)
              伐折羅像(新薬師寺)
 
脱活乾漆像 (脱活乾漆像のお話
 
     阿修羅像(興福寺)
      
   迦楼羅像(興福寺)
  
  迦旃延像(興福寺)
 
  金剛力士像(東大寺)
  
   不空羂索観音像(東大寺)

  梵天像(東大寺)
  
          行信僧都像(法隆寺)
   
          鑑真和上像(唐招提寺)
 
    毘盧舎那仏像(唐招提寺)
 
     薬師如来像(法隆寺)
  
    伎芸天像(法華寺)
 
木心乾漆像 (木心乾漆像のお話

    千手観音像(唐招提寺)
      
       千手観音像(聖林寺)
 
木 彫 像 (木彫像のお話
        
       九面観音像(法隆寺)
       
            梵天像(唐招提寺)
 
金 銅 像 (銅像のお話
  
  月光菩薩像(薬師寺)

        薬師如来像(薬師寺)
   
   日光菩薩像(薬師寺)
                                                                                                                                       画 中 西  雅 子