仏像のお話 
 

 偉大な「釈迦如来」を偶像で表わすのは、畏れ多いということで、象徴的な表現をした
ものを礼拝の対象としました。その対象には法輪(宝輪)、足跡(仏足石)、菩提樹、蓮華、塔婆(舎利塔)などがありました。
 

 「法輪」は釈迦如来が太陽のように我々の日常
生活に無くてはならない存在でしたので、太陽
を図案化してシンボルとしたものです。
 
 法輪のデザインはインド国旗にも、その白い
中央部に採り入れられております。                

  
     インドの国旗

 
  「仏足石」は釈迦如来の偉大な業績を足跡としてシンボル化としたものです。仏足石は
石の上に立って説教されていた釈迦如来の足跡そのものです。釈迦如来の足は偏平足と
言う特徴があったため、足跡がきれいに残ったのです。
 「薬師寺」には貴重な「仏足石」がありますが、その足の大きさたるや「ジャイアント馬場」さんも顔負けの20文(48センチ)であります。

 「菩提樹」は釈迦如来が菩提樹の下で、悟りを開かれたことからシンボルとなったもの
です。その菩提樹ですがインドの「菩提樹」とわが国の「菩提樹」とは、木の種類が違うら
しいです。
 
  「蓮華」については話が長くなりますので後日掲載いたします。

 「舎利塔」は五重塔など色々な塔があります。法隆寺夢殿の屋根に乗っている宝珠露盤
も舎利塔です。「塔」の詳細については後日掲載いたします。
  
 これら釈迦如来のシンボルはキリスト教の魚、羊、十字架などとシンボルと言う意味
では本質は同じでしょう。

 当初は釈迦如来の舎利(遺骨)を安置した「塔婆」を拝んでおりましたがそのうちに釈迦
如来そのものである釈迦如来像を拝みたいと言う願望が強まりました。そして、釈迦如
来像が造られるようになったのは釈迦入滅数百年後のことでした。
 それからは、釈迦如来以外に多く種類の仏が考えられて出現し、それらの像が造られ
ました。我が国でも釈迦如来が自分たちを救うためにお越しになったと感激し、「舎利
崇拝」から「仏像崇拝」へと変わりました。時代がさらに下ると思想も変わり、浄土真宗の
中興の祖「蓮如上人」にいたっては有名な「木像よりも絵像、名号」を拝むように奨励され
ました。名号とは「南無阿弥陀仏」「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」で、文
字を拝むことになります。禅宗も開山した師の像容を写した頂相(ちんぞう)または揮毫
(きごう)された書を礼拝いたしました。これらの出来事は仏教彫刻が鎌倉時代で終わったと言われる所以であります。事実、鎌倉時代を過ぎて制作された仏像で国宝指定は存在いたしません。しかし、建築物は江戸時代建立でも多くの国宝指定があります。

 「仏像の造形」は制作された土地の人の顔、趣向が取り入れられるものです。今までの
「偶像崇拝の禁」を破って仏像が作られたのはアレクサンドロス(アレキサンダー)に支配
されたガンダーラでした。ですから、ギリシャ人に似て髪はウエーブを描き、顔は面長
な輪郭、鼻筋が通り、眼は大きく表現されております。ところが、仏像のモデルはギリ
シャ人でなく当時のガンダーラ人であるとも言われております。いずれの日にかパキス
タンに訪れて自分の目で確認したいものです。

  「仏像の大きさ」のルールは普通の人間の身長を8尺(2.4メートル)としてその倍1
丈6尺(4.8メートル)が基準となります。当然坐像は立像の半分の8尺です。なぜか、
平安時代からは髪の生え際から下に測ることもあります。
  「大仏」と言えるのは立像の場合1丈6尺、坐像の場合8尺以上の像高があれば呼称で
きますが大仏を名乗らない仏像の方が多いことも事実です。
 しかし、人間の身長が2.4メートルもあったとは考えられません。1尺を約20aの
周尺で計算すると1.6メートルで、まあまあ納得できる寸法です。

 仏像の衣裳の付け方で「通肩(つうけん)」とは法衣で両肩を覆うもの 、「偏袒右肩(へん
たんうけん)」は右肩を露にするものです。偏袒右肩は仏陀や偉い方の前で合掌礼拝する
ときの正式な着付けで、通肩は瞑想、外出など通常の着付けです。インドでは身体の右
は清浄、左は不浄でですから右肩を露出することは清浄な部分を出して敬意を表すこと
になります。我が国の偏袒右肩は中国の作法を真似たのかインドのように右肩を完全に
露出するのでなく薄い衣を右肩に掛けております。

 「一刀三礼」とは尊像を制作する場合一彫りするごとに三回礼拝することです。これは
当初は「神木」ないし神が乗り移った「霹靂木」か何か謂れのある「木」を、素材にしており
ましたことも関係あるでしょう。ひよっとすると当時の仏師は、素材に下書きせずに尊
像を頭の中に描きそれを確認するための三礼だったかもしれません。
その証拠に、仏師は「仏」そのものを造っており「彫刻」ではないという考えから仏像に記
銘することを控えました。

  仏像とは直接関係ありませんが僧の衣裳の「糞掃衣(ふんぞうえ)」とは、袈裟のことで
ぼろの布切れを縫い合わせたものを脱色して黄色に赤みがかった色となった法衣のこと
です。糞塵の中から拾ってきた衣とか便所掃除用の粗末な衣とか釈迦如来が長年苦労し
て悟りを開かれたときの衣裳とか言われるだけにそれはひどい服装だったことでしょう。そうは言え粗末な衣裳でお坊さんにお経を上げていただいても我々凡人はさほど有難味
を感じないことでしょう。
  
 

 「仏像の種類」は「釈迦如来」「菩薩」「天部」「羅漢」ですが平安時代には菩薩と天部の間に
「不動明王」が入ります。

 「如来」とは長い苦行の末悟りに到達した仏陀のことです。釈迦如来、薬師如来、阿弥
陀如来、大日如来ですが大日如来だけが菩薩形です。釈迦如来は釈迦族の王子で結婚さ
れてお子さんもある現存された方です。
 その昔、朝に薬師如来、昼に釈迦如来、夕べに阿弥陀如来を拝むのが最高の信心と言
われておりました。「法隆寺の金堂」は東の本尊が薬師如来、中央の本尊が釈迦如来、西
の本尊が阿弥陀如来で、法隆寺で朝、昼、夕べに礼拝されますと大変な功徳になること
間違いなしです。
 「菩薩」とは釈迦如来の出家以前の王子時代の姿がモデルで、まだ悟りまで至っていな
い修行中の悉達太子(しったたいし)のことです。ですから菩薩は煌びやかな装飾で彩ら
れております。
 「天部」とは梵天、帝釈天、四天王などです。それ以外にわが国では歴史上の偉人や高僧、例えば「行基菩薩像」までが仏像の総称となります。これらの詳細については後日掲
載いたします。
 

  「仏像の姿勢」には「立像(りゅうぞう)」「坐像」「臥像(がぞう)」 「結跏趺坐(けっかふ
ざ)」「半跏趺坐(はんかふざ)」「倚坐(いざ)」「跪坐(きざ)」 「輪王坐(りんのうざ)・箕坐(きざ)」「半跏倚坐(はんかいざ)」「交脚倚坐(こうきゃくいざ)」などがあります。
 
 立像とは直立不動の姿勢で立っている像のことでいつも立っているのが観世音菩薩です。立像でも一歩踏み出すのを「遊脚(ゆぎゃく)像」と言い「法華寺像(後述)」がそうです。
 「坐像」とは坐っている像のことでいつも坐っているのが大日如来です。他の如来は当
初は坐っておられますが、時代が下りますと衆生のお願いを直ちに応えられるように立
像に変わっていきます。
 

  「臥像」とは横になっておられる像のことで「涅槃像(ねはんぞう)」「寝釈迦像」があり
ます。涅槃像、寝釈迦像共に釈迦像です。小乗仏教の国では信仰の対象が釈迦如来だけ
に涅槃像、寝釈迦像が多いですが我が国は大乗仏教ですので少ない存在です。法隆寺で
は2月15日を釈迦如来の命日として「涅槃会(ねはんえ)」の法要が行われます。
 「涅槃」とは我々が言う死ぬことではなく煩悩の火を吹き消したことですので入滅とか
入涅槃と言います。釈迦如来の涅槃は頭を北向き、お顔を西向き、横臥する姿勢で右手
の手枕をしますが右手の手枕でない涅槃像もあります。この涅槃像の作法を取り入れら
れたのが死人の北枕です。ただ、以前は横臥していた死人が仰臥しているのは、現在の
ように出棺の際お別れのセレモニーを行うようになったからでしょうか。頭北面西の姿
勢にすれば自然と右脇が下になり、右脇を下にして休むことは身体の左にある心臓に負
担を掛けない理想の寝姿です。  

  
           法 隆 寺 像
   
     寝 釈 迦 像

 
  「結跏趺坐」とは一種の胡坐で両足を組み、両足首を反対足のももの上に乗せ足裏を上
に向けた座り方です。禅定坐とも言い、仏像の代表的な坐り方で僧が座禅の組むときの
坐り方です。
 インドでは身体の右は清浄、左は不浄ですので右は仏で左は我々と言うことになります。それゆえ、右足が上にくるのを吉祥坐、左足が上にくるのを降魔(ごうま)坐と言い
ます。後述の「薬師寺本尊」の場合左足が上にきておりますので降魔坐となります。両足
が法衣で隠れて確認できないのが「唐招提寺本尊」です。

 結跏跌坐が全跏と言われるのに対し「半跏趺坐」の半跏とは片足だけを我々の胡坐のよ
うに反対足の下に置いた坐り方です。主に菩薩像で見られます。
 
 「倚坐」とは倚像とも言い、椅子に腰掛けた像でわが国では数少ないです。「深大寺の釈
迦如来倚像」などがあります。

 「跪坐」とは今で言う正座ですが尻を地に
付けない坐り方です。

 「輪王坐」とは胡坐で片膝を立てた坐り方
で現在、韓国女性の坐法です。わが国でも
室町、安土桃山の頃までは男性は胡坐、女
性は胡坐で片膝立てておりました。しかし、仏像は右足の裏を左足の裏に重ねます。
 観心寺像で左手で捧げておられるのは先
程の法輪ですが図のように8本の輻(ふく)
のものが多いです。(詳細は後述) 

 

   
       観 心 寺 像
   

 「半跏椅坐」とは片足を反対の足の上に乗せ、も
う一方の片足をだらりと下げる坐り方です。
 左手を頬に向けた坐り方でいかにもロダンの
「考える人」そのものです。「榻(とう)」と呼ばれ
る椅子に坐っているので「榻坐」とも言われます。  参照:「中宮寺像」
 しかし、これらの様式の像は、我が国では「弥
勒菩薩像」ですが中国では釈迦如来の前身で修行
中で思惟(しゆい)状態である「悉達太子像」と言わ
れております。と言いますのも「弥勒菩薩」は釈迦
入滅後56億7千万年を経ると釈迦如来のリリー
フになることが決まっているので思惟する必要が
無く、ただ時が来るのを待てばよいからです。

      
     中 宮 寺 像

 
 仏の優れた容姿の特徴で32の大きな特徴と80の細かい特徴のことを、三十二相八
十種好(さんじゅうにそう・はちじつしゅごう)と言います。これらの総称を三十二
相と八十種の好を取って「相好(そうごう)」と言います。現在の相好の語源です。皆さ
んが仏像を拝観された場合目視できる特徴のみを記述いたします。
 仏像制作開始当初は守られましたが仏師が理解できなかったのか重要性を感じなかっ
たのかだんだん守られなくなりました。また逆に平安時代には薬師如来に薬壷(やっこ)
を持たすようになります。菩薩像でも相好の一部を取り入れて造像されます。
 

 「手足千輻輪(しゅそくせんぷくりん)相」と
は手の掌や足の裏に千輻輪相(青矢印)(千本の
スポーク状の車輪)という紋様があります。輪
の外周には矢尻のような武器が千個付いており、この武器で敵をなぎ倒します。このこと
は煩悩を蹴散らして我々を仏教に帰依させる
ことです。輻を千本刻むのは現実には難しい
ので制作の際には省略されております。それ
でも手間が掛かるのか薬師寺本尊以外は見当
たりません。
 吉祥相として指先には卍花紋相、足裏には
宝瓶相のなどが表わされております。
 薬師寺本尊には足紋と違った千輻輪相が手
の掌にも設けられております。残念ながら足
紋も手紋も高い位置にあるため確認できません。

          
   千輻輪相(中央部分)(薬師寺)

  「手指繊長(しゅしせんちょう)相」とは指が細く長いことです。仏像の指はなぜそこま
で力を入れて刻むのかと疑問に思うぐらい美しいです。その昔、仏像の指に頬ずりして
折ってしまったという事件がありましたね。

  「手足指縵網(しゅそくしまんもう)相」とは手と足の指と指の間にアヒルのような水
かきがありその皮膜のことを縵綱と言います。これは悩む衆生を漏れなく救い上げて個
々の願いを聞き遂げて頂けるためのものです。
 我が国と違って石像の多いインドでは石像の指を切り離すと破損の恐れがあるのでわ
ざわざ彫り残したのを追認する形で三十二相に取り入れた説もあります。もし、如来が
水泳競技に出場すれば競泳の全種目で優勝間違いなしでしょう。     

  「正立手摩膝(しょうりゅうしゅましつ)相」
とは直立で手を下に伸ばせば膝を越すほど長い
ということです。我々の先祖には手長猿も居た
のでしょうか。 参照:法華寺像

   「金色(こんじき)相」とは身体全体が黄金の
ごとく輝くという仏陀の偉大さを表しておりま
す。それゆえ、仏像には金メッキや漆箔(金箔
を貼る)を施すのです。
 しかし、我が国の人だけが黄金が褪せた仏像
が美しいというので、東南アジアの人には不思
議で到底理解できないことでしょう。
 

                
     法 華 寺 像
   

  「丈光(じょうこう)相」とは身体の周囲に一丈(3
メートル)の光を放っておりその光の中に仏陀がお
られることです。この放光
を象徴的に形象化したも
のが「光背」です。「東大寺像の光背」は放射状で放光
そのものです。
 まるで仏陀が大スターのようにスポットライトを
浴びておられるので、たやすく確認でき、何処から
でも拝むことが可能です。

 「真青眼(しんしょうげん)相」とは眼の瞳が紺青
で青蓮華(しょうれんげ)の花のようであると言う特
徴です。我が国では紺青の瞳を見かけないですが
「青い眼をしたお人形…」のように西洋人に似せたか
ら青い眼になったのでしょうか。
 仏教では「紅蓮華」「紫蓮華」「白蓮華」それと「青蓮
華」ですが我々の黒眼のような「黒蓮華」はありません。

         
      東 大 寺 像

            

 
  「肉髻相(にっけい)相」(青矢印)とは頂髻(ちょうけい)相とも言います。仏の頭の頂
上に椀状で一段隆起している部分すなわち、大きなお餅が地髪部の上に乗ったような形
を肉髻と言います。如来の肉髻の形や大きさはまちまちです。
 これは如来は智慧が多く脳みそが多く詰まっていることを象徴しています。多分、衆
生のデータが詰まっているからでしょう。もし、我々が救済を求めたならばその者のデ
ータをアウトプットして適切な手段で救ってくださることでしょう。また、大きな徳も
表しております。この肉髻相は菩薩では見ることが出来ません。
 時代が下ると肉髻部と地髪部の境の正面に「肉髻珠」(赤矢印)(肉髻朱)という赤い玉が
挿入されることもあります。

  「白亳(びゃくごう)相」(緑矢印)とは眉と眉の間で額の中央の眉間に一丈五尺(4.5
メートル)もある右めぐりする柔らかい白毛が生えており、それが巻尺のように巻きつ
いて白い玉の如く額にぴったり張り付いていることです。亳光、眉間光とも言います。
 全世界のすみずみの何処まででも慈悲の光が届き、悩む人、苦しむ人を見通すことが
出来ます。
 制作に関しては所定の位置に穴を開け、その穴に白土で塗りこめた後水晶を埋めて

り輝きを
表現いたします。
 インドの初期の仏像では「白亳」はありませんでしたが、何故か我が国でも飛鳥時代に
は白亳がない仏像があります。しかし、白亳のない弘仁・貞観像は特殊な事情によるも
のです。
 
 「耳朶(じだ)(紫矢印)が長い」とは耳が大きくて耳朶(耳たぶ)が肩まで届きそうに長い
と言うことです。耳朶には穴が開いていて耳朶環と言います。耳が大きいということは
全世界の衆生の声を聞く能力があると言うことです。今なら福耳とも言いますね。
 当時の耳璫(イヤリングの一種)はピアス式で釈迦如来の前身は王子だったため耳たぶ
が長くなるほどボリュームのある豪華な耳飾りを付けておられたからだとも言われてお
ります。余談ですがそれ以外に宝冠(王冠)、瓔珞(胸飾り、腰飾り)、腕釧(腕輪)、臂釧(腕輪)などを身に付けておられるのが菩薩の表現となっております。
 

  「螺髪(らほつ)」とは群青(紺青)色した
頭髪が巻き貝のように右に巻いたものです。
今のパンチパーマのような髪型です。
  奈良市にある五劫院(ごこういん)には螺
髪が異常に大きい「五劫思惟阿弥陀如来像」
が安置されております。五劫
(ごこう)と言
えば
落語でお馴染みの「寿限無寿限無五劫の
擦り切れ……」があります。
五劫とは気の遠
くなるような長い年月で、その間思惟苦行
されて菩薩から如来へと悟りを開かれた時、
髪の毛が恐ろしいほどぼうぼうと伸びてい
たのを表現したものです。

                   
     五 劫 院 像

 また、剃髪というのもあり、法隆寺金堂の薬師如来坐像、蟹満寺の釈迦如来坐像、深
大寺の釈迦如来倚像などです。また螺旋状の頭髪は法隆寺の橘夫人念持仏の本尊です。
 清涼寺の釈迦如来立像の螺髪は変わっていて大きなラッキョウの皮を一枚ずつ貼りつ
けたような形状です。

 

 「三道(さんどう)」(緑矢印)とは頚に三本の
くびれがあり、円満な人格で優しさを表して
おります。古いのは三本の線ですが「薬師寺
の本尊」は見事な形で三段重ねの鏡餅のよう
です。三道も白亳と同じように飛鳥時代の仏
像には無いものがあります。
 
 胸に「卍(まんじ)」の瑞祥があります。薬師
寺本尊の卍相(青矢印)は左万字相で肉眼では
無理ですが双眼鏡であれば確認出来ることで
しょう。
 この卍は地図に寺院の所在地として記載さ
れておりますが戦後間もなくヨーロッパから
来られた方がナチスの標章の右万字と勘違い
して驚かれたとのことです。


      薬 師 寺 像                       

 卍も古代インドの神の胸毛から来ているとのことです。「白亳相」 「螺髪」と言い
「毛」が身体を守ると言うことを信仰に取り入れられたからでしょうか。
 我が国では左万字、右万字とも吉祥相ですがインドでは左、右の区別があります。

        
         卍崩しの高欄(法隆寺)
           (参考写真)
   

 

 

                 画 中西  雅子