鈴木大拙の誤り

 鈴木大拙は誤った禅理論を世界に発進し、後進の多くの禅を学ぶ人たちを迷わせた張本人といっても過言ではない。大拙の誤った禅理論のせいで、禅の世界では問いと答えが一体となるような風潮が大いに見られ、禅を指導していた師家の苧坂光龍氏は、「帆掛け舟を止めてみよ」という公案に対して、自らが立ち上がって帆掛け舟になりきって止まる事を実演したそうである。このような誤った見解が禅林に横行しているとしたらまさに噴飯ものである。

 その他にも「首山新婦」という公案では、ある僧が首山という禅師のところへ行って、「いったい、仏とはなんですか」と、たずねたのに対して首山は「新婦が馬に乗って、それをしゅうとめがひいている」と、答えたので、この言葉の意味はどういうことかというのがこの公案の主旨だが、沢木興道の話によれば、一人の雲水が、丘宗潭という禅師のところに来て自分の見解を見て貰いたいと云ったそうである。

 宗潭が許可すると、入室するなり尻まくりして、「ハイ、ハイ、チョッ、チョッ」 と、手綱をもったかっこうで室のなかを廻りはじめたそうである。宗潭が苦笑して、「なんだっ、そのかっこうは」と、いっても、その雲水は、「ハイ、ハイ、チョッ、チョッ」と、やったそうである。結局は、宗潭に一喝されて、雲水はその動作をやめたのだが、これなども、さきほどの帆掛け舟の公案のように、大拙の誤った禅理論を鵜呑みにした結果としか云えない。

 公案の答えは、決して問題と一体になることではなく、歴然とした見解が存在するのである。しかし、大拙が、問を解くとは、それと一つになることであるといった誤った説を述べたことから、飛んでもない見解があちこちで見られるのである。

 公案の答えというものは必ずある一つの法則を基軸にしての言動でなければならない。だから、全ての公案の答えには必ず一つの意味が存在しているのである。しかし、自分自身が帆掛け舟に成り切って止まる振りをするのは何の意味もないダジャレのような所作でしかない。これを見事という弟子の秋月龍aの禅知識を疑わざるを得ない。

 それにしても不思議なのは、大拙が生存していたころは、名のある禅僧たちが数多くいたにもかかわらず、誰一人として大拙の誤った禅理論に反駁する者が居なかったということである。

 真に禅の極意に到達した者なら、一目瞭然で大拙の主張が間違っていることに気がつくはずだが、只の一人も反論した者がいないところを見ると、当時の著名な禅僧たちの誰一人として、禅の極意に到達した者はいなかったということである。そればかりか、中には大拙の主張に乗っかった師家や禅僧も少なからず居たのである。

 鈴木大拙は次から次へと、悟りや仏教理論の新解釈を打ち出し、独自の誤まった理論を展開した。 悟りとは、問いと一つになるといった説や、それの前提説である主客未分論や、かと思うと悟りを、 われわれ自身の存在そのものを揺り動かし、さらには戦慄せしめるほどのものなのである、 と自分が錯覚して到達したと思い込んでいる物をさも値打ちのあるかのように言う大げさ論や、かと思うと、「悟りは人間の中に神が入り来たりて、そこで神が自己を意識するのである。この意識は人間意識の底に絶えず存する、超意識とも称すべき意識である」と、これも自分が錯覚して到達したと思い込んでいる物を最高の物かのように値打ちづける悟りの神格的論や、あるいは、師の釈宗演から終生印可を受けられなかった無念さを開き直ったかのように、 悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの証認をも必要としないものである。 といった悟りの嗣法を否定するかのような独善的悟得論など、数え上げれば枚挙に暇がないほどである。

 しかし、元来、仏教には新解釈や新理論といったものは一つもなく、これまでに多くの祖師たちの述べた説諭につけ加えられるものは一切ないのである。

 新しい仏教理論や新しい解釈などは一切マヤカシであるといっても過言ではなく、だから臨済も、
一通りの学説をでっちあげ、得意になって人に説き示す禅学者や禅僧が数多くいるのでくれぐれもそういった者に惑わされてはならないと警告しているのである。

 大拙は、愚にもつかぬ
一通りの学説をあれやこれやとぶち上げ、将に臨済の警告どおりの禅学者を地でいっている人物なのである。大拙の言う一通りの学説を一つずつ検証すれば、そのどれもが間違っていることにあからさまに気がつくのだが、ロクな検証もせずに多くの人間がその学説のホラや矛盾を見過ごしてしまっていたのである。その結果、世界中がその一通りの学説にコロっと騙されたのである。

 悟りとは、
説くものもなく、示すものもないのが本道であり、悟りに到達した禅匠は誰しも、悟りに至るべきヒントは与えても、悟りとはああだこうだと述べることはしない。なぜなら、説くものもなく、示すものもないものを説くことは二律背反になるからである。悟りに至らない者ほどマヤカシの理論を述べるのである。しかし、説くものもなく、示すものもないものをああだこうだと説けば説くほどとてつもない矛盾を説いているという理屈になるのだ。その筆頭が鈴木大拙である。

 鈴木大拙を称賛する仏教学者や仏教評論家は未だに後を絶たないが、
説くものもなく、示すものもない物を説いている大拙に矛盾を感じる者が一人もいないという事はそこまで仏教学者や仏教評論家は馬鹿なのかと呆れ返る。

 禅の極意に到達した者は、六祖慧能、南嶽、馬祖、南泉、百丈、趙洲、雲門、徳山、仰山、黄檗その他ゴマンと居るが、彼らの誰一人として新たな仏教理論を述べた者が居るだろうか、否である。

 真に悟った者は黙して悟りの本道を貫くのである。仏教の真髄を知らない者だけがああだこうだと言い出すのである。維摩の一黙雷の如しとはこのようなことを言うのである。

 

 鈴木大拙は当初、鎌倉円覚寺の今北洪川に師事し、洪川の死後、円覚寺の後を継いだ釈宗演についた。大拙は折にふれ、問いと一体になることが問いの解決だと主張する。

 筑摩書房から刊行された「禅」から抜粋してみる。


・・・・・問いを解くとは、それとひとつになることである。この一つになることが、そのもっとも深い意味において行われる時、問う者が問題を解こうと努めなくとも、解決はこの一体性の中から、おのずから生れてくる。その時、問いがみずからを解くのである。これが、「実在とは何か」という問いの解決についての仏教者の態度である。

 換言すれば、問う者が問いの外にあることをやめる時、すなわち、両者が一となる時、それらがその本来の状態にかえるとき、を言う。さらに言えば、それらが、まだ主体と客体の二つに分たれない原初の事態に立ち帰る時・・・分離が行われる以前、世界創造の以前・・・これが、論理的証明の形においてでなく、自己の現実の体験において。解決が可能となる時である。
(中略)

 
そして大拙は体験を重視する。

・・・・・ともあれ、
仏教者は“悟り”の体験をひたすら強調する。そこからはじめて、すべての問題の解決がもたらされるからである。何らかの形で知的分離が行われているかぎり、問いはけっして答えられないであろう。何か答えはあったとしても、それは真の意味での答えではないであろう。なぜならば、それは仮定としての答えであって、事実としての答えではないからである。


 どの仏教者が
”悟り”の体験を強調したと言うのか。私の知る限りそんな仏教者は思いつかない。大拙の禅関連の本には南泉、趙洲、雲門、臨済、馬祖、六祖慧能、黄檗とありとあらゆる禅匠の名を挙げて会話の粋というか妙を紹介しているが、”悟り”の体験を強調する仏教者は微塵も出てこない。普通ならその人物の名を挙げて自己の論理の正当性を証拠づけるのが当たり前だが、そんな肝心な人物の名を挙げることができないのは、そんな仏教者は始めから存在せず大拙が自己の発案した論理に合わせて創作した架空の人物だからである。

 禅を習い始めの頃の私はその言葉になんの疑問も抱かずに、大拙の、悟りは体験的でなければならないという主張に大きく同意を覚えていた。それほど体験的という言葉は魔法のように初心者を魅了した。この体験的というぼかした言いまわしに初心者も修行中の者も多くの人が引っかかったのである。なぜなら体験とは禅定中もしくは三昧中に悟りに至る過程と錯覚したからである。そんな体験に至らない者がほとんどであるから、大拙の主張に誰一人疑問を覚える者はいなかったのである。

 しかし、大拙はどんな体験をしたというのだろうか。体験主義論者は、誰もが金科玉条のように、悟り体験を強調する。大拙の弟子の秋月龍aは極論して、たとえ「ノミのキンタマ八つ割り」ほどの微小でも悟り体験がない限りは禅僧とはいえないとまで言い切る。

 しかし、秋月龍aはどんな悟り体験をしたというのか。私から言わせれば、鈴木大拙にしろ秋月龍aにしろ、真の悟り体験を実感していないにもかかわらず、いっけん聞こえのいい体験主義を標榜しているだけに過ぎない。なぜなら、悟り体験をしたという割には説いている内容があまりにもお粗末だからである。

 秋月龍aの著書「般若心経の智慧」にはこう書かれている。・・・・・禅の公案に、「帆掛け舟を止めてみよ」というのがあります。答えは立ち上がって自分自身が帆掛け舟になりきって動くのです。私の師匠の 苧坂光龍老師が、これをやられましたときには、私は思わず「あっ」と叫んだほど見事でした。理屈で説明すれば簡単なんです。私という主観がこちらにいて向こうに帆掛け舟という客観があります。そのうえで、向こうの舟を止める、ということは不可能です。主観と客観が分かれたところでは、そんなことはできません。そこで、禅ではその主観と客観とが分かれる前の主客未分の純粋境に働く「絶対無的主体」となって働く、それが「禅」だというのです。それで、自己と帆掛け舟と「不二」のところで動いて見せれば、公案はパスするというわけです。

 「帆掛け舟を止めてみよ」の誤った見解に、見事と思ったり、自己と帆掛け舟を「不二」と解釈するなどトンでもないことを言い出す人間が、間違っても悟り体験をした人間に思える訳がない。

 「不二」というのは愛と憎、生と死、美と醜、明と暗、煩悩と菩提、という風に相反する観念をいうのであって、自己と帆掛け舟を「不二」というと、石ころや、草木はいうに及ばず、この地球上の全ての物質と自己は不二ということになる。こんなむちゃくちゃな論法はない。
 
 さらに大拙は独自論をとうとうと説く。


 
根本的な答えはけっして生やさしいものではない。それは、われわれ自身の存在そのものを揺り動かし、さらには戦慄せしめるほどのものなのである。人生の根本的問題は、主客を分かつものであってはならぬ。問いは知性的に起こされるものであるが、答えは体験的でなくてはならぬ。なぜならば、知性の性質として、知性上の答えは次から次と問いを呼び求め、最後の答えに辿り着くことがない。その上、たとえ知性の解決というものが得られたとしても、それは知性の上に留まり、おのれ自身の存在を揺り動かすものとはなり得ない。知性はただ周囲を空まわりし、かつつねに、二者対立の形で物事を取り上げる。ある意味では、実在に関する問いは、問われる以前にすでに答えられているとも言える。しかしこのことは、知性の次元では理解されないだろう。それは知性を越えたところの消息だからである。 

 問うことと、二つに分けて見ることは、不可分離の関係でつながっているが、一方、問うということは、実は、実在がおのれ自身を知ろうとすることである。おのれ自身を知るためには、実在はみずからを問う者と問いとに分かつことが必要である。そこで答えは、分離が行われる以前の、実在そのものから出てこなければならない。つまり、答えは、問う者と問いとがなお一つであったところにある。ということである。

 問いは分離の後に生れた。分離の以前には問いはなかった。だから、いまだかって問いのなされたことのないところに到れば、そこには当然答えはない。問うことも、また答えることもない。この世界にこそ、究極の解決がある。
かくて禅の哲人は、答えは問いのいまだ問われざる以前にすでに与えられている、と明言するのである。

 
ここでも名を明かさずに、かくて禅の哲人は、答えは問いのいまだ問われざる以前にすでに与えられている、と明言するのである。しかし、そんな事を明言した禅の哲人は禅の歴史上誰一人存在しない。大拙が勝手に想像で言っているだけである。私には大拙がただ一から十まで口の上手い禅学者としか思えない。

 
次の問答は大拙が創作したものであるが悟ったにしてはあからさまに間違った問答である。

「禅とはなにか」と問うならば、禅匠は答えて言うであろう。「お前は誰か」
 問い「キリストは私を救い得るであろうか。また救いたもうであろうか。」
 答え「お前はまだ救われていない」
 問い「仏陀は本当に悟っていたのか。」あるいは、「<悟り>とは何か。」
 答え「お前は悟っていない」
 問い「達磨はインドから、どんな教えをもたらしたか。」
 答え「即今、お前はどこにいる。」

 道を問う者に対して悟りに到達した者は常に、それ説法者は説くことなく、示すことなし。それ聴法者は聞くことなく、得ることなし。といった姿勢で臨まねばならないのである。だから「禅とはなにか」と問われたら「おまえは誰か」と問い返すよりも、洞山のように「麻3斤」とでも答えるか、もし真似るのが厭なら「禅とはなにか」と問われたら「禅」とでも答えておいたらいいのである。
 
「キリストは私を救い得るであろうか。また救いたもうであろうか。」 と問われて「お前はまだ救われていない」なんて答えは、それ説法者は説くことなく、示すことなし。それ聴法者は聞くことなく、得ることなし。といった姿勢に反する普通の質疑応答になり、まだ「猿のケツは赤い」とでも答える方が禅的応答になる。

「仏陀は本当に悟っていたのか。」あるいは、「<悟り>とは何か。」と問われて「おまえは悟っていない」なんて答えはやはり悟った者の答えとしては不適当である。「わしは眠い」とでも答えるほうが道を求める者に対しての親切であり正答なのである。


「達磨はインドから、どんな教えをもたらしたか」と問われて「即今、お前はどこにいる。」の答えは、いかにも禅的応答のような感じだが何の意味合いもない無関係な答えである。質問者に対して親切に答えるならば、「腹が減ったら飯を食い、飯を食ったら食器を洗えと教えているのだ。」とでも答える方が正当なのである。なぜなら道とは、それ説法者は説くことなく、示すことなし。それ聴法者は聞くことなく、得ることなし。の物だからである。
 
 この問答だけでも大拙が悟っているというのは自称悟得者の独りよがりでしかないことが判る。大拙の論述は、すべてなんの根拠もない独善的理論で、六祖慧能や臨済が聞いたなら、一顧だにすらしないような戯(たわ)けた論理としかいいようがない。そんな根拠のない理論に世界中が騙され、その上、文化勲章まで授けられたのだから何をか言わんやである。


 世界創造以前には、いかなる分離も人間の存在もあり得ない筈なのに、なぜ実在なんて語句を使うのか私には奇々怪々である。突拍子もないことを言って観客を引きつける昔の路上のガマの油売りの口上に似たように思えるのは私だけだろうか。

 
大拙は、こういった野狐禅的理論で世界をけむに巻いたのである。1960年末、アメリカの雑誌「ライフ」で「世界で現存する最大の哲学者は誰か?」という世論調査が行われ、アメリカ人の多数が「ドクター・ダイセツ・スズキ」と答えたという。

 明治以降、悟りに到達した禅僧は皆無なので、大拙が言いたい放題に野狐禅的理論を述べても誰一人として反論する者はなく、大拙の独壇場を許したというのが当時の禅学界の実情である。

 
大拙の悟りが独りよがりでしかない証拠は沢山あるが、ここで決定的な二つを挙げてみる。

 
鈴木大拙は、禅語”肘外に曲らず”が自分を了知させたといい、こう語っている。

  この語句”肘外に曲らず”は、必然性への単なる表現にすぎないと思えていたのですが、然し突然私には、制限ある事こそが現実の自由・真の自由だとわかったのです。そして全ての自由に関する問題はこれで解けると感じました。その後、私は数々の公案を容易に透過できました。

 実は悟りの見地からいえば、制限ある事はあくまでも不自由で決して自由なんてものではない。空腹はあくまでも空腹で以って決して満腹という筋合いのものではないのと一緒である。悟りとは、平常心、虚心坦懐、頓悟入道要門論の大珠慧海の「衣著喫飯、困来即臥」(衣を著し飯を喫し困じ来たらば即ち臥す)のような素直な心が大意なのである。当然、制限ある事は不自由に属し、決して真の自由などではないのである。不自由が自由であるといったようなひねくれた考えは真逆の思考なのである

 
 東京大学印度哲学科を卒業して後に学習院女子短期大学の教授まで勤めた仏教学者の故紀野一義という人は、「禅現代に生きるもの」という著作の中で次のように書いている部分があった。
 
 鈴木大拙先生がアメリカからはじめて帰朝されたとき、東京大学の印度哲学研究室に仏教の専門学者ばかりを集めて話をされたことがある。そのとき先生は、「人間はみな現実(リアリティー)に深い関心を持っている。しかし、これに近づき、これを手に入れるためには、般若観音で見るということが必要である」と言われた。そして、「般若観音で見るということはどういうことかというと、たとえば」と、先生は机の上の花瓶を指さして
「これは花瓶である。しかし、これを花瓶だと見る時に、この花瓶と私との間に、花瓶とはこういうものだという先入観が入りこんでしまっている。それではこの花瓶とわたしとがほんとうに一つになっているとは言えぬ。それでは現実(リアリティー)がない。だから、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである。と言われた。
 そのときわたしは唸り、思わず口の中で「花を花と見て花と見ず」と繰り返した。以来、このことばはわたしの座右のことばとして心の中にでんと鎮座している。


 この文を読んでわたしは妙な違和感を覚えた。それは鈴木大拙が仏法とは間違った方向性の論理を説いているにも関わらず紀野一義を感嘆たらしめたことである。
 
 
鈴木大拙が言う般若観音なるものは、大拙が勝手に作った造語でしかない。般若とは般若心経の事であり観音とは観自在菩薩或いは観世音菩薩(どちらも同じ意味)の事であり般若観音を無理に解釈すれば「観自在菩薩が行深般若波羅密多の時という意味に取れるが、般若波羅密多というのは知恵の完成という意味なので、知恵の完成から花瓶を見た場合、「この花瓶と私との間に、花瓶とはこういうものだという先入観が入りこんでしまっている。それではこの花瓶とわたしとがほんとうに一つになっているとは言えぬ。それでは現実(リアリティー)がない。だから、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである」という論理である。

 本来の仏教理論に、ある物体を見たときに、この物体と私の間にはこの物体とはこういう物だという先入観が入り込んでしまっている。それではこの物体とわたしとがほんとうに一つになっているとは言えぬ。それでは現実(リアリティー)がない。だから、物体を物体と見て物体と見ない見方が必要なのであると、教えた祖師が一人でもいたと言うのだろうか。そんな祖師は達磨大師以前も以降も誰一人存在したことはない。
 
 それに紀元前に誕生した仏教の論理に大拙のような新参の仏教学者がいとも安易に般若観音なる意味不明の造語を拵えるのは独善的奢りではないだろうか。
 
 なぜ花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が現実(リアリティー)になるのか、それも意味が分からない。花瓶を花瓶と見て花瓶と見なければ現実(リアリティー)でなくバーチャル(仮想的)になるのではないのか。
 
 なぜ花瓶或いは物体と一つになる必要があるのか。花瓶或いは物体と一つになることにどういう意味があるのか。
 悟りとは、問いと一つになる事だと盲信した挙句の辻褄合わせとしか思えない大拙の論理である。しかし、道の極意は素直その物にあるのだ。ひねった考えかたは悟りに到達した者のする思考ではない。


 
十一世紀の宋の詩人蘇東坡が詠んだ、「柳は緑、花は紅、真面目」は誰が見ても素直な表現で、簡潔だが人を納得させるものがありそれゆえ現代まで感嘆して伝えられているのだろう。
 一休禅師の道歌にも

    見るほどに みなそのままの姿かな 柳は緑花は紅

 というのがあるが、道の極意に到達すると、すべてありのままを受け入れて、飾ったり技巧を及ぼしたりすることは極力避けるようになる。
だから大拙の悟りは俗に言う「語るに落ちた」という見解でしかない。「花瓶」は悟った者から見ると「花瓶は花瓶でしかない」というのが正直な答えである。
 だから、”禅語”肘外に曲らず”が自分を了知させたといい、その後、私は数々の公案を容易に透過できました。と言うのは全くのデマとしか思えない。
 それに公案というものは、一つ解ければすべて似たり寄ったりの答えなので数々の公案を解く必要など一つもないのである。もし私が次の公案を提示されたら、せせら笑うか、沈黙するか、尻を掻き掻き部屋を退出するであろう。

 
そして大拙は、


 
根本的な答えはけっして生やさしいものではない。それは、われわれ自身の存在そのものを揺り動かし、さらには戦慄せしめるほどのものなのである。

 と、悟りをすごく大層ぶるが、大拙は鑑智禅師「信心銘」の、
至道無難、唯嫌揀択、但憎愛莫れば、洞然として明白なり(道に至るのは決して難しいことではなく、ただ分別する心を嫌う。あれこれ思う心なければ、道は広々として明白なり)を真っ向から否定することになる。しかし南泉も、趙州の「如何なるか是れ道」の問いに「平常心是れ道」と道が容易であることを示唆している。

 また臨済も、「仏法(悟り)は計らいを加えるところは無い。仏法の究極はただ平常のままがそれである・・・・・」と鑑智禅師や南泉と同じような趣旨を述べている。

 すべての禅の極意に到達した人は、鑑智禅師や南泉あるいは臨済と同じような趣旨のことを述べている。一人、自他ともに悟ったと自認する大拙だけが、悟りをえらく大層ぶっている。これをもってしても大拙が悟りに到達していないことは明白である。その他にも、鈴木大拙はことあるごとに「悟り」に対して体験的であることを主張してこう述べている。

「知性の性質として、知性上の答えは次から次と問いを呼び求め、最後の答えに辿り着くことがない。その上、たとえ知性の解決というものが得られたとしても、それは知性の上に留まり、おのれ自身の存在を揺り動かすものとはなり得ない。」

 ここのところの意味がわからない。「悟り」には体験的な「悟り」と知性的な「悟り」が存在するかのような発言で、知性的「悟り」は真の「悟り」とはなり得ないかのように言っている。そして、自分はいかにも体験的な悟りに到達しているかのような書き方である。しかし、どういう体験をしたのかは一切記述していない。坐禅を組み禅定に至り悟りを体験したならどう体験したのかを書くべきである。本当に体験をしてその体験談が納得の行く物だったら釈宗演も印可を与えたに違いない。釈宗演が大拙を終生印可しなかったのは大拙がうさんくさく思えたからではないだろうか。

 私は悟りに至った体験をこういう風に記述している。

 私は大拙の著書に傾倒しつつ独自に坐禅を組んだりもした。無門関や臨済録、碧巌録も幾度となく読み返した。むろん「悟り」など開ける道理がなく二十数年が過ぎた。しかし、私の中でさまざまな禅に関する知識が醸成されつつあったのは確かである。

 当時、私は株式相場の極意を求めて悪戦苦闘していたが、あるとき江戸時代の相場師の短歌に接した。

       むかう理は、高きを売りて安きを買う、米商いの大秘密なり

 私の中で大きくはじけるものがあった。脳に一瞬閃光が走ったような感じだった。相場に関して詠まれた短歌が、奇しくも禅の極致に到達させてくれたのである。わたしはしばらくその場に立ち尽くした。

 ああ、わたしは到達したのだと実感した。わたしはその時、家のリビングに居たのだが、脳の感覚がいつもと違うことに気がつき窓にかけ寄り外の景色を見た。木々は木々、家並みは家並み、電信柱は電信柱といつもの光景がいつもと違って見えていることに気がついた。まさに釈迦の言う諸法実相そのものを感じる見え方だった。わたしには最早求めるものは何もなかった。


 私に限らず、六祖慧能や臨済、その他多くの禅師たちの悟りに至ったエピソードが書物等に記されている。大拙は常々「悟り」は体験的であることを主張しているが、どういう体験をしたのか一切記述していない。

 「悟り」は知性的であろうと体験的であろうと、「一法」に到達すれば優劣の差はなく、そんなことは問題にすべき事柄ではないと私は思う。知性的であろうと体験的であろうと、そんなことより、もっとかんじんな事は、悟った者の文言が「法」を準拠しているかいないかである。「法」に悖ったり「法」を離れた文言をしている者は、どちらも悟りに到達した者とは認めがたいというだけである。

 大拙は所々で、「法」に悖ったり「法」を離れた記述をしているが、次の文節も其の内の一つである。

「悟りは人間の中に神が入り来たりて、そこで神が自己を意識するのである。この意識は人間意識の底に絶えず存する、超意識とも称すべき意識である」


 このような記述をするに至っては唖然とするばかりである。話は変わるが、刑事が被疑者を取り調べているときに、被疑者の供述がころころ変わったりすると、刑事は被疑者の嘘を確信するという。

 問を解くとは、つまり悟りに到達するということは、問と一つになることをしきりに強調していた大拙が、ここで、「悟りは人間の中に神が入り来たりて、そこで神が自己を意識するのである・・・・・」といって、今までの主張をコロっと変えて、今度は悟りの格上げとしか思えないようなことを主張し出したことである。ということは、これまでの悟りに対するさまざまな口上は何だったのかということになる。この一貫性のなさは何を物語っているのか、刑事と被疑者の例からみても、大拙の根底を疑わざるを得ない。

 わたしは大拙の神云々の記述を見てあることを思い出した。人間はすべてが順調にいって、自分の行くてにさえぎるものがなくなると、神意識を持ちやすくなるという性質が存在するということである。当時の大拙の禅学における当たるべからずの勢いをみると、神意識を持っても当然なのかとも思う。

 あまり詳しくは覚えていないが、ニコール・キッドマンが悪女に扮する映画で、「冷たい月を抱く女」というのがある。その映画に外科医が登場するのだが、名声を博している腕の良いその外科医が、あるとき医療ミスをして、その医療ミスを査問するシーンがあった。査問する人たちは、その外科医が神意識を持ったかどうかを追求していたが、神意識を持つということは、外科医の性格の欠陥となるので、そのことを盛んに追求していたのである。神意識を持てば当然驕りが生じ、引いては手術のミスにもつながるという理由からである。

 人間は成功に次ぐ成功を重ねると、誰しも神意識を持ちたがる傾向があるのだ。織田信長も、自らを神と見立てたことがあったし、また角川春樹氏も自らを神になぞらえ、自分用の神社まで作ったということをニュース番組で見たことがあった。

 前述の筑摩書房から刊行された「禅」で、秋月龍aは解説でこう書いている。

 
つい先年のことである。ある外人の集まりに臨んだ先生(鈴木大拙のこと)は、「バイブルに神が光あれと言ったら、光が現われて夜と昼とができたとあるが、一体だれがそれを見ていたのか?」という質問を発せられた。会集一同、何を馬鹿なことを言い出すかというような顔をするのみで、だれ一人としてこの難問に答え得る者はなかったという。先生は後で筆者に言われた、「わしは言った。わしが見ていたのだ。このわしが、その証人なんだ、とね。ほかならぬわれわれのこの心に、そのはたらきがあるのだ。わしらは時々刻々それを行じているのだ」と。

 大拙が外人たちを前に、本当に光が現われるところを見たと言ったとしたら、真摯に禅を学ぼうとしている外人たちをけむに巻いたとしか思えない。近辺に悟った者や、自分以上に禅知識を持つ者の居ないことを確信しての驕りではなかったのか。

 
・・・・・わしらは時々刻々それを行じているのだ」との言葉から、もしかすれば、喩え話の一種かもしれないが、そうだとしても、見てもいないものを見たと発言するのはホラ吹きと思われても仕方ない。

 当時、悟りに到達していなかった私は、ここのところを読んで、「へえ、そうなのか」と何の疑念も抱かなかったことを覚えている。ただ、でっかいことをいう人だなと、少しく感心したような気もする。 
 
 その他にも大拙は別の著作で、
悟りは悟った者のみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの認証をも必要としないものである。 と述べているが、悟りは決して伝達できない性質のものではなく、伝達すると誤解の生じやすい性質のもので、それゆえ釈迦も、「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」といって、あえて伝達することを避けたのである。

 
そして、ここが肝心なところであるが大拙は、悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの認証をも必要としないものである。言い切っているが、これは師の釈宗演から終生印可を受けられなかったことを念頭に置いて言っているものと思われる。しかし、古来、多くの禅僧は悟った証左である言行を師に示し、それが「法」に乗っ取ったものであることが認められ悟りを印可されているのである。

 もっとも私から言わせれば釈宗演自体、悟りに到達した禅匠とは思われないので、彼が印可しようとすまいと其の事はさて置くとしても、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの認証をも必要としないものである。という文言にはとうてい承服でき兼ない。もしそういう論理が人口に膾炙すれば、禅の世界では野狐禅的悟得者であふれかえることになる。

 大拙は己の悟りを正とするために、歴史的嗣法をまるで意義のないものにしているといっても過言ではない。そう感じるのはわたしだけだろうか。多くの嗣法に至った禅匠たちと、大拙一人と、どちらの悟りが本物であるかはいうまでもない。

 わたしも大拙と同じく、師の印可を受けていない自称悟得者である。しかし、大拙の文言と、その誤りを指摘した文言のどちらが正でどちらが非であるかは、すこしでも禅を齧ったことのある者が見れば一目瞭然で分るはずである。

 わたしは「一法」をたびたび言うが、これは古来悟りに到達した禅僧がよく使う語句で、頓悟入道要門論の大珠慧海は、愚者を装うぐらい謙虚な人だが、その人柄に引かれて弟子入り志願者が後を絶たなかったが、そのたびに「私は禅を会得しておらず、また一法は人に示すものは何もないので、どうかお引取り下さい」と帰している。

 徳山もこういった言葉を吐いている。

    我語句無く一法の人に与ふるもの無し

 江戸時代の剣客辻月旦が悟りに到達したときに、辻月旦の師である禅僧石潭の後を継いだ二代目神州が
、遷化していた石潭に代わり石潭の名によって辻月旦に与えた偈にもある。

    一法実無外 (一法実に外無し)
    乾坤得一貞 (乾坤一貞を得)
    吹毛方納密 (吹毛まさに密に納む)
    動着則光清 (動着すればすなわち光清し)

 
一法すなわち絶対の真理以外なにものもない。この天地に存在する唯一無二の真理を得た。何物にも劣らぬ剣は、まさに胸三寸に納まっているのである。わずかに動けば光が燦然と輝く。

 辻月旦がこの偈を受けて、これより流儀を「無外流」と改めたことは周知の事実である。

 はっきりいって大拙は、さまざまな論述から見て、悟っていないばかりか、悟りという概念すらまったく誤解しているとしか思えない。大拙の多くの著作は、鉛を金に変換させるかのような巧みな文章で、誤った禅理論を展開しているだけに過ぎない。

「・・・・・問いを解くとは、それとひとつになることである。」と大拙は言うが、世界的にも禅の第一人者で、彼ほどの禅の造詣に深い人が、なぜこのような、あやまった禅解釈におちいったのだろうか。

 最初に師事した今北洪川に関係があるのだろうか。今北洪川は悟りの体験をこういう風に書いている。

 ある夜、座禅に没頭していると、突然全く不思議な状態に陥った。私はあたかも死せるもののようになり、すべては切断されてしまったかのようになった。もはや前もなく後もなかった。自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった。

 無限の光りが私の内に輝いていた。しばらくして私は死者の中から甦ったもののごとく我に帰った。私の見、聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。私が手で探るように、この世のもろもろの真理を考え、理解し難いことの意味を把握してみようとすると、私にはすべてが了解された。それは、はっきりと、そして現実に、私に姿を現したのであった。

 あまりの喜びに私は思わず両手を上げて踊りはじめた。そして、突然私は叫んだ。『百万の経巻も太陽の前のローソクにすぎない。不思議だ。本当に不思議だ。』

 今北洪川は、「自我の内部が完全に一となり」と言っているが、ここに、「まだ主体と客体の二つに分たれない原初の事態に立ち帰る時」といったような大拙の主張の論拠があるのではないだろうか。

 今北洪川が体験したような情況は悟りとは無関係の情況である。なぜなら、私にはそういった情況の体験はまったくなく、私だけでなく、臨済や他の禅匠たちもそのような悟り方をしたというような話は読んだことも聞いたこともなく、大抵の禅匠たちは、禅定中というよりは、問答中に、「道」あるいは「法」を悟っているのが大方である。

 そして私は、今北洪川の言うような、「私の見、聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。」というような経験もまったくなく、私の動き、考え方は、禅の奥儀に到達した後も、到達する以前もさほど変わらず、ただ「一法」を知った後は、「道」を求めなくなったというだけである。

 わたしは、今北洪川の症状は悟りに到達したのではなく、禅病の一種か、あるいは何らかの錯覚なのではないかと考える。「自我の内部が完全に一となり」なんて情況は、いかにも聞こえがよく、他人をしてさもありなんと思わしめやすい情況であるが、そんな情況は悟りとは何の関係もない、願望が先に立っただけの自己暗示としか思えない。

 大拙の主張の錯誤はここに起因するのではないだろうか。大拙が今北洪川に師事したのは、二十代のころだと思うが、この年頃は思想や哲学に関しては殆ど無垢といってもよく、乾いた砂地に水が染み込むように、間違った思想や哲学が入りやすい素地にあることも事実である。

 オウム真理教の間違った論理に、東大や京大の学生たちが次々と洗脳されていったこともそれを証拠づけている。のちにオウム真理教の間違った論理が明らかになっても、一旦洗脳された信者たちは、その後もオウム真理教と決別できない者も多く存在していた。は何々ゆえにである、といったような論理的固定観念に陥った者は、なかなかそこから脱却するのが難しいのである。

 
わたしが鈴木大拙やその他のことをいろいろ書いているのは、真理でない禅理論が幅をきかせている為である。しかしたぶん、禅の奥儀に到達した者のいない昨今、わたしの指摘は少数意見として埋没するであろうが、私としては少しでも、世間一般に浸透している禅の誤謬を知らしめただけでも満足である。

 わたしは七、八年に渡り「禅の悟りとは」から始まって、わたしの把握するかぎりの真実の禅を書いた積もりである。

 「無門関」第二十七則に「不是心仏」がある。 南泉に一僧が問うた。

 人のために説かないところの法があるかどうかと。南泉はありと答えた。一僧がそのような法はどんなものであるかと問うと、南泉は、心でもなければ、仏でもなく、また物でもないと答えた。

 無門は南泉のこの答えを評して、南泉は一僧に問われて自家の私宝を投げ出して与え、大いに零落したものだと言っている。南泉の一僧に対しての答えがあまりにも親切に過ぎて患いを生じたとしている。

 私が南泉の答に付け足すとしたら、それは言葉でもなく智慧でもないと言うだろうか。

 無門は全体的には南泉を褒め称えながらも「親切丁寧は君徳をかえって損なうものであり、無言であることが真に功がある。滄海が変ずるようなことがあっても、親切に説き聞かせるようなことがあってはならない」としている。

 無門がわたしの一連の禅解釈を知ったなら裏切り者呼ばわりするぐらいに、わたしは懇切丁寧な禅の真骨頂を明かしたといっても過言ではない。 あまりにもひどい禅理論がまかり通っていただけに、ついつい、ああじゃない、こうじゃないと解説しまくったが、本来なら、無門の言うとおり、無言に徹せねばならないところである。それが出来なかったところに、わたしの寛容のなさ、徳のなさが垣間見えて、いかんとも弁解の余地がない。

 不易流行は世の倣い。名を知られることもなく、何の痕跡も残さず、いつの日かこのページも消え去るのみである。

 最後に言いたいのは、世間には、悟っていないにも拘わらず、臨済の言うように、お経にこうある、論部にこうあると、いろいろひねくりまわして、一通りの学説をでっちあげ、得意になって人に説き示す禅学者や禅僧が数多くいるので、禅を学ぶ人はくれぐれも、いかにも尤もらしいひねった禅理論にだまされないことである。また、諸方の師家にいい加減な悟りを許されて、私は禅がわかり、仏道がわかったなどと思わないことである。秋月龍aの誤り 
井上義衍の誤り 即非の論理の誤り  稀代の大錯覚者鈴木大拙 袴谷憲昭氏の『維摩経』批判の誤り

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