即非の論理の誤り

 始めに言っておきたいことは、即非の即は、すなわちという接続詞であり、そして、だから、それゆえに、しかし、等と同義語である。また、非ずは二つの名詞や或いは形容詞を繋ぐ連語で有り、例えば、法相とは、如来説く、すなわち法相に非ず、のような場合に否定副詞として使用する。だから、即非という語句を大層に取りたてて、即非の論理などと命名して問題にするほどの重大な語句では決してない。即非の論理なんてものは鈴木大拙の独りよがりの誤った憶測でしかない。

 大拙は英語に堪能だったため、禅を英語で海外に紹介したことが功績だったといえば功績だが、独善的論理で悟りを解説し、多くの後人を誤らせたことは決して軽からぬ罪である。
 

 鈴木大拙は次から次へと、悟りや仏教理論の新解釈を打ち出し、独自の誤まった理論を展開した。 悟りとは、問いと一つになるといった説や、それの前提説である主客未分論や、かと思うと悟りを、 われわれ自身の存在そのものを揺り動かし、さらには戦慄せしめるほどのものなのである、 と自分が錯覚して到達したと思い込んでいる物をさも値打ちのあるかのように言う大げさ論や、かと思うと、「悟りは人間の中に神が入り来たりて、そこで神が自己を意識するのである。この意識は人間意識の底に絶えず存する、超意識とも称すべき意識である」と、これも自分が錯覚して到達したと思い込んでいる物を最高の物かのように値打ちづける悟りの神格的論や、あるいは、師の釈宗演から終生印可を受けられなかった無念さを開き直ったかのように、 悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの証認をも必要としないものである。 といった悟りの嗣法を否定するかのような独善的悟得論など、数え上げれば枚挙に暇がないほどである。

 しかし、元来、仏教には新解釈や新理論といったものは一つもなく、これまでに多くの祖師たちの述べた説諭につけ加えられるものは一切ないのである。

 新しい仏教理論や新しい解釈などは一切マヤカシであるといっても過言ではなく、だから臨済も、一通りの学説をでっちあげ、得意になって人に説き示す禅学者や禅僧が数多くいるのでくれぐれもそういった者に惑わされてはならないと警告しているのである。

 大拙は、愚にもつかぬ一通りの学説をあれやこれやとぶち上げ、将に臨済の警告どおりの禅学者を地でいっている人物なのである。大拙の言う一通りの学説を一つずつ検証すれば、そのどれもが間違っていることにあからさまに気がつくのだが、ロクな検証もせずに多くの人間がその学説のホラや矛盾を見過ごしてしまっていたのである。その結果、世界中がその一通りの学説にコロっと騙されたのである。

 悟りとは、説くものもなく、示すものもないのが本道であり、悟りに到達した禅匠は誰しも、悟りに至るべきヒントは与えても、悟りとはああだこうだと述べることはしない。なぜなら、説くものもなく、示すものもないものを説くことは二律背反になるからである。悟りに至らない者ほどマヤカシの理論を述べるのである。しかし、説くものもなく、示すものもないものをああだこうだと説けば説くほどとてつもない矛盾を説いているという理屈になるのだ。その筆頭が鈴木大拙である。

 鈴木大拙を称賛する仏教学者や仏教評論家は未だに後を絶たないが、説くものもなく、示すものもない物を説いている大拙に矛盾を感じる者が一人もいないという事はそこまで仏教学者や仏教評論家は馬鹿なのかと呆れ返る。


 禅の極意に到達した者は、六祖慧能、南嶽、馬祖、南泉、百丈、趙洲、雲門、徳山、仰山、黄檗その他ゴマンと居るが、彼らの誰一人として新たな仏教理論を述べた者が居るだろうか、否である。

 真に悟った者は黙して悟りの本道を貫くのである。仏教の真髄を知らない者だけがああだこうだと言い出すのである。維摩の一黙雷の如しとはこのようなことを言うのである。

 大拙の多くの仏教の新理論や新解釈の中でも、金剛般若経の「即非の論理」なる新解釈には唖然とするばかりである。大拙は、金剛般若経の


 「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、是を般若波羅蜜多と名づくを勝手に、
 
 「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、故に般若波羅蜜多である

 と言い換えて、Aと非A、肯定と否定が同一であると主張し「即非的自己同一」なる自説を唱えたのである。しかし、これはあきらかな誤解釈で、「是を般若波羅蜜多と名づく」と、「故に般若波羅蜜多である」とではその意味合いはまったく違うものになる。「故に般若波羅蜜多である」ならたしかに、「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)」に帰結した文脈になるが、「是を般若波羅蜜多と名づく」なら、「即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)」に結論した文脈になる。

 そして、その誤った論理が西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」のヒントとなり、西田幾多郎をして、「私は思想上君に負うところが多い」と言わしめたらしいが、私から言わせれば茶番以外の何物でもない。


 西田幾多郎はその茶番な論理を元に「絶対矛盾的自己同一」なる論文を発表したが正直に言って何を言っているのか、何を言いたいのか、あまり判らない。

 奇異に感じたのは文中に「絶対矛盾的自己同一」とか「矛盾的自己同一」なる言葉が星の数ほど出てくることだ。わたしは途中から飛ばし読みをしたが、それでも訳のわからない文章を読むことの苦痛は一種の拷問にも等しかった。「善の研究」にしても然りだった。それでも、おぼろげながらも分ったことは、未だ主もなく客もない、といったような言葉から、鈴木大拙の提唱した「主客未分」の禅理論を根底に、独自の哲学論を構築しているらしいことだった。

 
 しかし、鈴木大拙の「主客未分」の禅理論が何の根拠もない誤論であることは、わたしは度々指摘した。ゆえに、その誤論を根拠に構築したと思われる「絶対矛盾的自己同一」や「善の研究」はまったく以ってナンセンスとしかいいようがない。

 西田幾多郎自身も最後には、『自覚に於ける直観と反省』の序でこう述べている。「この書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドッキュメントである。幾多の紆余曲折の後、余は遂に何等の新しい思想も解決も得なかったと言はなければならない。刀折れ矢竭きて降を神秘の軍門に請ふたというそしりを免ないかも知れない」と述べている。

 要するに、何らの哲学も完成できなかったことを反省しているのである。それは当然ではなかろうか。大拙の誤った仏教論理を基軸にしていくら思索を重ねても哲学が完成するわけがない。それにもかかわらず西田幾多郎の著書などに関心を示す人間も最近増えているらしいが、まさに蓼食う虫も好き好きである。真理というものは元来平易な物である。西田幾多郎の論文が難解と言われるのは、誤った仏教論理に屁理屈をこねくりまわすからではないだろうか。


 なぜ鈴木大拙ともあろう者が、このような誤った論理を提唱するのか私にはわからない。問いと答えが一つになるといった誤った持論を正論化するために、このような屋上屋のような過ちを繰り返したのだろうか。

 金剛般若経の真意は、すべての物の本性は無相であることを示唆し、便宜上、仮に名づけられたものであることを説いているのである。

 禅では、こういった肯定、否定といったパターンの説諭は至るところで見られる。たとえば芭蕉慧清の「お前が杖を持っているなら、わたしは、お前に杖を与えよう。おまえが杖を持っていないのなら、わたしは、お前から杖を奪おう」といった説法も、同じ類といえる。次のように書き換えれば般若波羅蜜多の説諭と同じ論調になる。

 杖を持つとは、即ち杖を持つに非ず、これを杖を持つと名づく

 物の本性が無相であり、いっさいが虚妄の存在であることを認識すれば、杖を持つという現象は仮称で、仮称である限りは、杖を持たないと呼称しても差異はなく、杖を持たなければ、杖を与えることも可能で、その反対の、杖を持たない者から杖を奪うことも可能なのである。

 ゆえに大拙の「即非的自己同一」なる論理はまったくのナンセンスで、そのナンセンスなものをヒントにして作成した西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」なる論文は、茶番としか言えないのである。

 真理とは、 古歌にもこう詠まれている。

 極意とは己がまつげの如くにて近くあれども見付けざりけり

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 歎異抄の誤り これが神の存在する証拠だ 

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