秋月龍みんの誤り

 秋月龍みんは経歴によれば、東大文学部哲学科卒、同大学修、居士身で禅の修行を終え、知命を過ぎて妙心寺派の僧籍に入ると書かれている。伝統臨済禅の師家として、また鈴木大拙門下の学究として「行と学の両刀使いの禅匠」として知られるとも書かれている。

 何を隠そう、師家のおさか光龍が「帆掛け舟を止めてみよ」という公案に対して自らが立ち上がって帆掛け舟に成り切って止まる事を実演したことを知ったのは秋月龍みんの「般若心経の智慧」という著作からである。そこにはこう書かれている。

 ・・・・・禅の公案に「帆掛け舟を止めてみよ」というのがあります。答えは立ちあがって自分自身が帆掛け舟に成り切って動くのです。私の師匠のおさか光龍老師がこれをやられましたときには、私は思わず「あっ」と叫んだほど見事でした。理屈で説明すれば簡単なんです。私という主観がこちらにいて向こうに帆掛け舟という客観があります。その上で向こうの舟を止めることは不可能です。主観と客観が分かれたところでは、そんなことはできません。そこで、禅では主観と客観の分かれる前の主客未分の純粋境に働く「絶対的主体」となって働く、それが禅だというのです。それで自己と帆掛け舟と「不二」ところで動いて見せれば、公案はパスするというわけです。

 当然、鈴木門下生であるから、主客未分云々という間違った禅理論の受け売りは仕方ないとしても、その他の「香厳上樹」や「南泉斬猫」のような主客未分とは関係のない公案はどう解くというのだろう。
 それに細かく言えば私という主観がいて向こうに「帆掛け舟」という客観があります。というセンテンスもおかしい。なぜなら向こうにいる帆掛け舟も私から見る限りは客観ではなく主観になるからである。

 そういった細かい間違いはさて置くとしても、公案の答えは「法」を根拠に答えると無数にあるが、しかし、「帆掛け舟を止めてみよ」の問題で自ら帆掛け舟に成り切るというのは「法」に悖り決して正解ではない。帆を降ろす、と答える方が「法」に準拠しておりまだしもマシである。

 公案の答えというものは必ず一法を基軸にしての言動でなければならない。だから、全ての公案の答えには必ずある一つの意味が存在しているのである。しかし、自分自身が帆掛け舟に成り切って止まる振りをするのは何の意味もないダジャレのような所作でしかない。これを見事という秋月龍aの禅知識を疑わざるを得ない。

 それに自己と帆掛け舟を「不二」のところで動いて見せればというが、「不二」というのは、愛と憎、生と死、美と醜、明と暗、菩提と煩悩、という風に相反する観念をいうのであって、自己と帆掛け舟を「不二」というと、石ころや草木はいうに及ばずこの地球上の全ての物質と自己は不二という事になる。こんな無茶苦茶な論法はない。そのほか「誤解された仏教」という著作にはこう書かれている。

「仏教を学ぶ者は「正伝の仏法」を学ばなければならない。正伝の仏法を学ぼうとするものは正師に就かなければならない。間違っても、道元禅師のいわゆる「教者法師」(きょうじゃほっし)に学んではならない。いわゆる仏教学者とか仏教の本を書く説教者などに就いて学んではならない。彼らは釈尊は、<縁起の理法>を悟ったなどという、とんでもない誤った仏教を教えるからである。「仏教」は仏陀の教えであり、同時に我々全てが仏陀に成る教えである。そして「仏陀」とは覚者である。「覚」とは目覚め・自覚・自証・悟りである。自ら悟らない者、自ら証しない者に、仏法を説く資格はない。彼らにできることは、せいぜい”教えを説く”ことぐらい、すなわち説教である。”法を説く”こと、すなわち説法はできない。だから禅宗では、古来法を説く(説法)師家と、教えを説く(説教)布教師との、役割りの分担を厳しく区別してきた。いや、たとえ説教する師であっても和尚なら必ず何ほどかの悟り(自証)がなければならない。「ノミのキンタマ八つ割り」ほどでも、「悟り」体験がなければ、禅僧とはいえないからである。
 
 いかにも、自分は悟り体験をしてきた者であり、悟り経験のない仏教学者、いわゆる「教者法師」(きょうじゃほっし)とは格が違うとでも言いたげである。

 
体験主義論者は、誰もが金科玉条のように、悟り体験を強調する。秋月龍aは極論して、たとえ「ノミのキンタマ八つ割り」ほどの微小でも悟り体験がない限りは禅僧とはいえないとまで言い切る。
  
 しかし、秋月龍aはどんな悟り体験をしたというのか。私から言わせれば、鈴木大拙にしろ秋月龍aにしろ、真の悟り体験を実感していないにもかかわらず、いっけん聞こえのいい体験主義を標榜しているだけに過ぎない。なぜならば、悟り体験をしたという割には説いている内容があまりにもお粗末だからである。
 
「帆掛け舟を止めてみよ」の誤った見解に、見事と思ったり、自己と帆掛け舟を「不二」と解釈するなどトンでもないことを言い出す人間が、間違っても悟り体験をした人間に思える訳がない。 また秋月龍みんは
 
「仏陀は何を悟ったのか。学者たちは「縁起の理」を悟ったのだ、という。そして、それを受けて、今日では仏教を説く僧尼たちまでが、「仏陀は縁起の理を悟った」という。私は、この説に強く反対である。釈尊が悟ったのは、「縁起の理法]などではない。釈尊は、「無我の我」を悟ったのである。
  
 と、釈迦が悟ったのは「無我の我」だという。無我とは無心あるいは我執のないことをいう。しかし、無心あるいは我執のない自己というものは立派なことで、第三者にも堂々と説き明かせるものである。
  
 だが釈迦は、
「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」と言った。
  
 私もいわゆる「悟り」に到達したとき、この内容は、人には絶対理解されないもので、場合によってはあざ笑われるがごときものに等しいと思ったほどだ。

 
秋月龍aのいう「無我の我」が釈迦の悟ったものなら、それを説き明かすことは何の弊害もなく、また聞くほうも、その内容はなんの拒否反応もなく理解できるものであり共感を覚えることも可能である。決して、この理法はよくさとることができない・・・・・などという性質のものではない。だから釈迦の悟ったものは決して「無我の我」なんかではない。秋月龍aは何を以って「無我の我」が釈迦の悟りだと断言するのか私には判らない。
 
 鈴木大拙は、釈迦の悟りを問題と一体になった疑問符のような状態と言い、弟子の秋月龍みんは、「無我の我」と言い、師弟の見解は必ずしも一致しない。何故こういうような状態が生じるかというと、双方が釈迦の悟りを把握できていないからである。
 
 一方で秋月龍aは悟りをこうも書いている。

「古人は「空」を「真空無相」(否定面)と「真空妙有」(肯定面)の表裏即一として理解した。それを「悟りの心理学」風に述べると、先の木村の(「真空から妙有へ」の著作がある戦前の東大教授木村泰賢のこと)「真空」(実は「無相」)から妙有」ということになる。より体験的に言うと、「死んで生きるが禅の道である。・・・・中略。 座布団の上で自我(エゴ)に死にきって、「真空無相」の境涯に入ると、ふしぎに「自我(エゴ)がなければすべてが自己(セルフ)になる」ということで、「真空妙有」の境涯に出る。この「物我(我とそれ)一如、自他(我と汝)不二」の「自己」(無相の自己=無位の真人=本来の自己)の自覚が「菩提」(悟り)である。だから、「死んで生きる」(死−復活)と言い、「<無我の我=無心の心>の自覚体認」というのである。」 

 この文を読んでも私はさっぱりわからない。本人以外にわかる者がいるのだろうか。わたしには、この文が屁理屈とかこじつけにしか思えない。臨済はこう言った。 
 
 お前たちよ。世間には修行すべき仏道があり、悟るべき法があるなどと説く者がいるが、一体どんな法を悟りどんな道を修行しょうというのか。お前たちの今のはたらきに何が欠けていて、そこをどう補わねばならぬというのか。後学の若い修行者たちはなにもわからず、すぐにこんなあやしいエセ禅者のいうことを信じてしまう。そこでそいつらはくだらない教義をもっともらしく説き、他人を束縛して、教理と実践とが相応し、身口意の三業を慎んで始めて成仏できるものなどと言う。こんな連中は春の細雨のように多い。

 真空無相とか真空妙有とか言う秋月龍みんも、臨済の言う、春の細雨のように多い連中の一人ではなかっただろうか。

 臨済は、真正の悟りを得、始めて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。と語っているが、真に悟りに到達した者は、他の禅僧の一言半句を聞いただけで、その禅僧の真贋が判るのである。
 
 私は全ての禅僧の真贋が分かると言っても過言ではない。しかし、わたしは決して誰それは悟っていないとか言う気はさらさらない。悟ることが人生に於いてそんなに重要なことではないと思っている部分もあるからだ。しかし、悟ってもいないくせに、臆面もなく能書きをいっている禅僧や禅学者をみると、これでいいのかと真実を暴きたくなる。禅を学ぼうとする者は鈴木大拙や秋月龍みんそのほか多くの誤った著作を発表している禅僧や禅学者に決して惑わされない事である。
 
 秋月龍みんの誤り多い見解は、秋月龍みん自身が 悟り体験のない仏教学者、いわゆる「教者法師」(きょうじゃほっし)になっていたのではないかと思われる次第である。 禅の悟りとは  鈴木大拙の誤り
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