井上義衍の誤り

 井上義衍氏は世間では五、六百年不出の名僧と評して、比類なき人物と仰ぐ人がいるらしいが、自身が会得した誤った仏教観を得々と説いている悟りには到達していない只の禅僧でしかない。義衍氏はこういう。

 問65『学道用心集』に『正師を得ずんば、学ばざるに如(しか)ず』とありますが、その場合の正師とはどういう人ですか。

 義衍老師:今話しているように、正師というのは本当に自分の真相に徹しきって、死んで生まれ変わってきた人です。それはどういうことかといいますと、今までこれ(身)を自我心であると思うとったんです。

 ところが一遍本当に自我心が死んでしまってみるというと、法として存在しているのです。だから法に近づこうと思うとったものが、百八十度ひっくり返って、そうじゃないのです。近づく要はないのです。
全部法で出来ておったことを自覚したんです。
 
 井上義衍氏は全てが法として存在し、それゆえに、法を求めることも近づくことも必要ないと断言し、次のように説法する。

 全てのものは、それぞれにおいて、そのもので解決済みのものである。その外にはない。
 この故に万物は存在しており、さらに疑うところはない。また、これほど確かな事実はない。今を今の外に求めようはない。求めざれども今なり。
 然るに、人はこれに対して色々に疑いを起こし、この疑問を解明せんとし、あらゆる手段を尽くしてこの問題に取り組んでいる。然るに、過去無量劫来から今日に至るまで、何人(なんぴと)も満足なる解決をした人がない。中略


 人類の全てが、この無条件で満足の出来る道を求めて止まない。然るに、この目的が達し得られない。人はこの矛盾に永久に悩まされて行く。これが人類最大の悩みである。人類発生以来の悩みである。中略
 仏教では、この疑問の起こる元を根本無明(むみょう)の煩悩という。この無明の煩悩が滅しない限り、人間の苦悩を完全に救うことは出来ない。中略
 ここにおいて釈尊は、従来一般に人間修行最大の道と思われた苦行の道を捨て、健康の回復を図り、ついに尼蓮禅河畔(にれんぜんがはん)において、只管(しかん)に参禅されたのである。(只管とは、内に思うことなく、外諸縁を捨てて一切為すことなし。これ意識の中に自己を忘ずるの道である)
 その坐禅は、弟子のラゴラに教えられたところによっても明らかであるが、各自が実際に徹してみれば自ずから明らかである。
 それは、意識の中に自己を忘ずることであって、意識をなくすることではない。意識の中に自己を忘ぜよと教えられている。これ、大死一番大活現成(だいしいちばんだいかつげんじょう)の道である。すなわち、意識自体が純意識自体であるときに、自体が自体を知ることは出来ない。主体を主体と知ることも出来ぬところに、意識の主体すらも消滅するのである。眼(まなこ)眼を見る能わざるが如し。
 この確実かつ純粋なる道に徹するとき、無明は断絶する。それは、識自体が識以前の純然たる法性体(ほっしょうたい)の事実に直接に証せられて、認識の及び難きものなることをまさしく得たとき、得る要も捨つる要もなく、自信の要も全くなきことを得るからである。この時初めて、「今」の事実たる一大法界(ほっかい)が無条件で証せられ、この生活自体が法身(ほっしん)であることを自得するのである。この時、疑いようも信じようもない、その必要も全くなく、その欲求すらも起こらないものである。求心(ぐしん)の全く止む時である。
 釈尊の明星一見大悟の事実がこれである。無明の絶滅である。これなくして仏教の真意、すなわち人及び物の真意を知ることは出来ないものである。

 
 しかし、道(法)とは、説くものもなく示すものもないのが本道であり、もし全ての物が法であるならば、井上義衍氏が説くように、それを説くことは何の弊害もないはずである。しかし釈迦は「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」とその中身を言うことは忌避したのである。

 釈迦が悟ったものは悠久の古より存立しているたった一つの「法」なのである。それが生老病死の問題に対する答えなのである。もし井上義衍のいう全ての物が法と言うならば、悟りとは「万法」と呼称すべきだが、悟りに到達した祖師達はその物を決して「万法」と呼称せず「一法」と呼称したのである。このたった一つの法が生老病死の問題を解決するに至った答なのである。だから井上義衍の説は独りよがりの思い込みでしかないのだ。

 そのたった一つの「法」とはその立場に至らなければ一般の人間には到底理解不可能と言えるような代物なのである。だからこそ釈迦は「困苦してわたしがさとったものを、いま、説き明かすべきではない、貪りと、怒りに従う者たちに、この理法はよくさとることができない・・・」と、その中身をいうことを忌避したのである。

 しかし、あえてその内容を言うならば、それ説法者は説くことなく、示すことなし。それ聴法者は聞くことなく、得ることなし。といった内容の物なのである。


 だから、義衍氏の
自我心が死んで云々の説は決して正答とは言えないのである。所詮、説くものもなく示すものもないものを説くということは二律背反であり大いなる矛盾を犯していることになる。問を解くとは、それと一つになることだと言って世界をけむにまいた鈴木大拙と同類項でしかない。

 道(法)の実態を知らぬ者が知ったかぶりしてああだこうだと「法」を説くのである。「法」の実態を知る者は決して「法」を説くことはない。「法」を知ったかぶりして説く者は全て悟りには到達していないニセの覚者であると断言できる。

 そして義衍氏は、釈迦は坐禅によって意識を忘じ無明(煩悩)を断絶、絶滅したとか言っているが、釈迦は決して無明を断絶、絶滅した訳ではない。

 鈴木大拙氏は尼蓮禅河畔で釈迦が悟った時の状態をこういう風に語っている。

 「・・・・・かれは、もはや解くべき問いもなく、敵に立ち向かう自己もないことを感じた。かれの自己が、かれの知性が、かれの全存在が、問いの中に注ぎこまれた。言いかえれば、かれはいまや問いそのものとなった。問う者と問いの区別、自己と非自己の区別は消えて、ただ一つの未分の「不知なるもの」があるのみであった。この「不知なるもの」の中に、かれはとけ入った。

 その光景を心に描いてみれば、そこにはもはや釈迦牟尼という問う者もなく、自我を意識する自己もなく、かれの知性に相対してかれの存在をおびやかす問いもなく、さらにまた、頭上を覆う天もなく、足下を支える地もなかった。もしわれわれが、そのとき仏陀のかたわらに立ち、かれの存在をのぞき込むことができたとしたら、そこに見出し得たものは、全宇宙を覆う一箇の大いなる疑問符のみであったろう。もしかれがそのとき何か心をもっていたと言い得るならば、かくのごときがかれの心の状態であった。・・・・・」

 大拙氏も義衍氏もお互いが好き勝手に想像して言っているだけである。真の悟りに到達していれば、釈迦の到達したものが判然とする筈なのに、好き勝手に言うこと自体悟りに到達していない証拠と言える。

 六祖慧能が悟りを開いていることは天下に衆知の事実だが、慧能はこう言っている。
 
 伎倆なしに、百思想を断ぜず、境に対して心しばしば起こる。菩提なんぞ長ぜん。(わたしには巧みな技能などない。百種の妄想を断ち切りもしない。対象に向かって心はそのつど動く。悟りへの道がどうして成長しようか)

 悟ったからとて、無明、煩悩、妄想の類を断絶できるわけでもなく、無論絶滅できるわけでもない。故に釈迦はこういう言葉を残しているのである。第一の矢は受けるが、第二の矢は受けないと。
 悟りに到達したからと言っても決して無明、煩悩の類を断絶や絶滅できるわけではなく、ゆえに釈迦もそれらを第一の矢に例え、第一の矢は受けるがその都度それらを克服し乗り越えるので、第二の矢は受けないと例えているのである。
 
 義衍氏が、釈迦は無明を断絶、絶滅できたと本当に思っているのなら、真の悟りに到達していない事を露呈していると言わざるを得ない。
 そのほかに義衍氏は「禅ーもう迷うことはない」という著作で、坐禅をしたらどんな良い事があるのですか。いう問いに対して
  
 
答 坐禅をしたらいっさいの今までの迷いといい、苦しみというものの根源がすっかり根絶やしができるんです。無明の煩悩といわれるもの(生まれ出て来た、この自分を、私と認識した自我の観念。本来自分の所用物でない存在である公な存在であるもの)の根源が切断されるんです。それだから意根を坐断するという事があるでしょう、それを言ったんです。

 と言っているが、坐禅を組んで悟りに到達しても、苦しみの根源がすっかり根絶やし出来るものではない。この一文を見ても、義衍氏の悟っていないことが明白になる。

 ネットで見たことがあるが、井上義衍氏や飯田とういん氏や川上雪担氏の説法が三者三様なのがおかしいのではないか、なぜなら釈迦と同じ悟りに到達したなら、釈迦と同じような説法になって当然のはずだがと、疑問を呈していた人が居たが実はその通りなのである。

 尤も道(悟り)とは、説くものもなく、示すものもないので、釈迦は生涯一字不説といった説もあるが、それにしても、たとえ説法をする場合でも、真に悟った人間はそういう事を踏まえてするので、三者三様になることはまずないのである。それが悟りに到達していないにも拘わらず、これまた悟ってもいない師から適当な所で印可を与えられるので、自分なりの説法を得々と語るようになり、その為それぞれの説法が違ってくるようになるのである。

 そのため臨済は常々こう言っていたのである。世間には、悟っていないにも拘わらず、お経にこうある、論部にこうあると、いろいろひねくりまわして、一通りの学説をでっちあげ、得意になって人に説き示す禅学者や禅僧が数多くいるので、禅を学ぶ人はくれぐれも、いかにも尤もらしいひねった禅理論にだまされないことである。また、諸方の師家にいい加減な悟りを許されて、私は禅がわかり、仏道がわかったなどと思わないことである。

 鈴木大拙も井上義衍もまさに臨済の言う、一通りの学説をでっちあげ人に説き示す禅学者や禅僧でしかない。

 また義衍氏は、
坐禅というものは釈尊が大悟せられ、宇宙の真相を見破られた時の在り方なんです。
 と言っているが、釈迦は決して宇宙の真相を見破ったのではなく、人類誕生より脈々として継がれている一法に至っただけである。

 
宇宙を見破った在り方について、それはどういう在り方かといったら、何もかも、無念夢想とあるように、自分の観念でどうのこうのという取り扱いをすることを、自分の都合の上からの事をいっさい止めたんです。そしてもう徹底的にそれを止めてしまったら、ごらんなさいこれ(身)を取り扱うとか、外部のものを取り扱うとか、これ(身)の関係を取り扱うとかいうような事がすべて無くなるんです。そうすると宇宙というものが始まったのが誰も分からないのと同じように、その分からないで出来たものが分からないで今、存在している、その実態のまんまに生活が保証されるんです。

 と言うが、しかし、生活の保証されずに自死するものは毎年数万人もいる。
 
 義衍氏はまるで見てきたような話をするが、古き祖師の誰一人としてそのようなたわけた話をした者は居ない。そんな禅僧が五、六百年不出の名僧と評されるのだから世間の評判とは当てにならないものである。

 弟子である原田雪渓に印可を与えたいきさつは知らないが、原田雪渓も「地球上のすべての物質が「法」そのままの有り様で存在し、」
と師の言い分を踏襲しているが、師が悟っていなければ当然、弟子も悟れるわけがない。

 昨今の禅林に、真に禅の極意に到達した禅僧の見当たらぬ事を憂えるばかりである。 
禅の悟りとは 鈴木大拙の誤り 原田雪渓の誤り
 
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