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「グッドオールドデーズ」

長沢英治 短歌作品集

歌集「一年の憂さ」

長沢英治の近作

"Those Good Old Days"

Tanka poems written by Eiji Nagasawa


更新: December 31, 2006

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★ はじめに ★

人は皆それなりの波瀾万丈の生涯を送る。他人との比較ではない。月給取りとして過ごした数十年。体よく言えば「私のビジネスライフ」だ。その渦中にあって試みたとすれば、どんな短歌を読むことになったのだろう。もちろん、凡夫の私にそんな余裕はなかった。また当時は短歌の素養も持ち合わせていなかった。

振り返って見れば良き時代だった。OB会などでは大方の人がそう言う。そんな会社員生活を、できるだけリアルに捉えて詠んでみる。まだまだ夢に見るのは職場のあれこれ。夢の中では、当時そのままのストレスを感じている自分がいる。臨場感のある歌が詠めそうな気がする。

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地下道を仕事始めと歩みゐて朝の流れに交じる安らぎ

(ちかどうを しごとはじめと あゆみいて あさのながれに まじるやすらぎ)

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一週間足らずの正月休みが長かったように思えるから妙だ。駅に着きいつもの通勤客に交じる時、何とも言えぬ安堵感を覚える。サラリーマン根性がとことん身についてしまった。さすがに和服姿の女性は減ったが、男たちのトレンチコートの裾からは、年始回りの礼服のズボンが見える。

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Feel easiness mixed in the stream of commuters walking underground in the morning of the first working day of the year

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訪ね来し人の不在にほっとする年賀と朱書せる名刺託して

(たずねきし ひとのふざいに ほっとする ねんがとしゅしょせる めいしたくして)

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年始回りに駆り出される。営業担当社に引き回されて、慣れない挨拶回りを続ける。先方が不在だったりすると、担当者には申し訳ないがほっとする。会えば大して昵懇でもない者に世辞も言い頭も下げねばならぬ。こんな時のために、確かに参上しましたと、用意した年賀用の名刺を置いて・・。

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Feeling a certain sense of security knowing that the person to be greeted is absent, leave there a card carrying the New Year message printed in the red-letter

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装ひし年始回りもけふまでといつもの背広に手帳を移す

(よそおいし ねんしまわりも きょうまでと いつものせびろに てちょうをうつす)

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正月のダークスーツの日々が終わる。地元に始まり、東へ西へと年始回りの二週間。例年のことだが、決して生産的な活動とは思えぬ。でもこれはお互い様だから、一方的に止す訳にもゆかぬ。いつものリズムで懸案に向かう時、いかにも古巣に戻った安堵感を覚える。出張も悪くはないのだが。

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As days of the New Year greetings in full dress are over now, transfer the datebook to the pocket of the everyday suit

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葦を刈る無言の吾の背後より時をり絡む淀の北風

(あしをかる むごんのわれの はいごより ときおりからむ よどのきたかぜ)

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自然現象と言っても、風の吹きざまには意志を感じることがある。一定の強さで吹き続けることなど殆どない。一定のリズムでもない。それが気まぐれにも見栄、意地悪されているかとも思う。ことによると冥界からのメッセージではと考えたりもする。詩歌で擬人化されたりするのもよく解る。

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North wind in the Yodo river sometimes entwines me from behind while cutting reed grass sedulously

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割り切れぬひと日終へむと日報を回転書棚に音たてて挿す

(わりきれぬ ひとひおえむと にっぽうを かいてんしょだなに おとたててさす)

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気分よく一日を終えられぬこともある。悶々とする昂ぶりを何とか吹っ切りたい。愚痴る相棒を見つけて飲みにも行く。でも、いつまでも引きずる。いつの頃からか、ひと晩寝ると、それが大層納まることを知る。時が経てば、新しい細胞が体中に増えて、古傷も糞尿として排泄される。

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Calling it a day that has not made me feel fine, put my daily report roughly into the revolving bookstand

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海を見つつ高層ビルに事務とりし身に地下街の夜のやすらぎ

(うみをみつつ こうそうビルに じむとりし みにちかがいの よるのやすらぎ)

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眼下に海を見る高層ビルのオフィス。誰もが羨ましがる職場環境だ。だが、移る日差しに変化する海の表情、風に騒ぐ海面を日がな一日眺めている訳ではない。会議や電話、来客に追いまくられ、気がつけば、窓外はとっぷりと暮れている。一日の仕事を終えて、駅に通じる地下街に入れば、店々の飾り付けにも、行き交う人々にも安堵感を覚えるから妙である。

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Having been at my desk all day long in the skyscraper looking out on the sea, feel at home now in the underground city in the night

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大寒の朝の後架の窓ちかく去らぬ小鳥の笹鳴きつづく

(だいかんの あさのこうかの まどちかく さらぬことりの ささなきつづく)

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平日の朝と違い、休日のトイレには時間の余裕がある。鳥の笹鳴きは春近しのメッセージだ。日差しのない北側なのに、小窓近くの植え込みで鳴き続ける小鳥たち。ふと、生まれ育った貧家の便所を思う。寒い用足しだった。でも、あの頃は、小窓に聞く笹鳴きにもっと心を躍らせた気がする。

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In the morning of the coldest day in winter, a dickeybird keeps chirping without leaving the spot near the little window of the restroom

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昼も夜も高層ビルのいづくかに身を置き過ぎし二十数年

(ひるもよも こうそうビルの いずくかに みをおきすぎし にじゅうすうねん)

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東京に最初ののっぽビル、霞ヶ関ビルが誕生したのが一九六八年。莫大な量の目安に、このビルで何杯などとよく言われた。今は東京ドームがその役。最上階のレストランや地下の飲食街。昼食も来客の接待もビル内で大方の用が足りる。日がな一日、ビル内をうろうろする会社員生活である。

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Working somewhere day and night in the skyscraper, see more than 20 years that have passed

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起きがけの夢に諍ひし同僚と並びて今朝の茶を啜りをり

(おきがけの ゆめにいさかいし どうりょうと ならびてけさの ちゃをすすりをり)

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世に虫の好かぬ奴はいる。多くの場合、理屈ではなく、生理的な拒絶感だ。自分には苦手だが、他の連中には普通の奴らしいのでなお困る。幼少時にも、学生時代にも、職場にも、入れ替わり立ち代わりそんなのが現れる。無視しよう、考えまいとしても、いつも心に巣食う。ライバルとも言える。意識することで人生のエネルギーを得ていたようだ。

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Having seen my bickering with the coworker in a dream just before my uprising at home, we now sit side by side at our office for tea in the morning

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話題すでに次期の予算に移りゐて職引くわれは頷くばかり

(わだいすでに じきのよさんに うつりいて しょくひくわれは うなずくばかり)

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来期の計画を論じる会議。立場上の同席だが、間もなく職を離れる身にとって、異論を述べる気にもならぬ。かと言って、まったくの無関心は皆に失礼だ。で、大勢に従う合点を繰り返すことになる。もし「来年はこの世にいない」と知る身だったとしたら、こんな不真面目な気分にはなるまい。

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As topics have already come to the budget for the next fiscal term, the one who retires shortly keeps giving a simple nod

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やまひゆゑ疎開よりわれ戻されて大空襲の遠き火を見き

(やまいゆえ そかいよりわれ もどされて だいくうしゅうの とおきひをみき)

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一九四五年三月十日未明、東京大空襲で真っ赤に染まった空。空襲警報下の板橋の家から見た。夜空の明るさで「新聞が読める」と人々が言っていた。前年暮れ、学童疎開の水上温泉から喘息で戻されていた。九歳の身に刻まれた戦争の記憶だ。まさに鬼畜米英との戦争なのだと感じていた。

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Given back home from the evacuation due to my asthma, I happened to watch the distant fire of the air raid on Tokyo

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削除キー叩けば寂し君の名の痕跡も無きリストと変る

(さくじょキー たたけばさびし きみのなの こんせきもなき リスト

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これまで住所録を新しいものに書き写したことはない。新たな知己を書き加え、不要になったものに斜線を引く。そんな繰り返しで、旧知となった者の名もページのどこかに残っている。それがパソコン時代に至り、削除キーのワンタッチで、どんどん名前が消される。追憶の手がかりもである。

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Feel sad about a renewed list of names that has appeared on the screen immediately on pressing the delete key and shows no more any evidences of my friend's existence

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新しき社員を迎ふる部屋べやに寮母の入るる三月の風

(あたらしき しゃいんをむかうる へやべやに りょうぼのいるる さんがつのかぜ)

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昨今は会社の独身寮も消えつつある。かっての新入社員には、自分でアパートを借りられるほどの収入は無かった。朝晩の賄いつきの寮に入れば気楽な日々だ。さして気の合わぬ同僚との相部屋も、今では懐かしい。テレビのある広間は夜更けまで賑わっていた。若さのエネルギーに満ちていた。

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Those rooms shortly to have new recruits are aired one after another in a March breeze by the dormitory matron

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リクルートスーツの群れを従へてさびしき肩が社内を巡る

(リクルート スーツのむれを したがえて さびしきかたが しゃないをめぐる)

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四月に入るや、リクルートスーツの若者を朝晩の通勤時に見かけるようになる。やはり自分の当時を思ってしまう。大きな工場に配属され、あちこち案内されるが、暫くはどこが何やら皆目見当がつかぬ。使いに出されて迷う者も。そんな若い連中に妙に優しいのが、定年間近の古老たちなのだ。

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Leading a party of incoming employees dressed in a recruit suit, the lonely shoulders go the round in the company building

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事務服の娘らに交じりてけふのわれ人気メニューのパンを食ひてみつ

(じむふくの こらにまじりて きょうのわれ にんきメニューの パンをくいてみつ)

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昼食は社員食堂で済ます工場勤務と異なり、市街地のオフィスではランチタイムの外出が格好の気分転換。明るい洋風レストランから横丁の小料理屋など、選択の幅は広い。「あそこが旨い」の口コミで、あちこち場所を変える者。昔の「めし屋」のような狭い店に日ごと通う無精者もいる。

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Joining girls dressed in office ware, try at first a taste of the bread for today's most popular set meal

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スープ啜る沈黙ありて食卓に不運の人の話題ふたたび

(スープすする ちんもくありて しょくたくに ふうんのひとの わだいふたたび)

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情けないことだが、人が寄ればひとの噂が出る。その寄り合いに不在の者が順に槍玉に。それが不運の人となると話は尽きない。ひとの不運を租借して自分の幸運を味わうのだ。自分の利害から遠い者の話題はそれほど長くは続かないから面白い。世はゼロサムとの感覚を人は本来持つらしい。

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After the wordless moment sipping soup, people at the dinner table come back on the talk of the man in misfortune

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筋書きを追ふかたはらに司会者は黙せる者への言葉を探る

(すじがきを おうかたわらに しかいしゃは もくせるものへの ことばをさぐる)

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職場の会議には退屈なものが多い。たまに、その進行を見事にこなす奴がいる。全員に参加意識を持たせようと、出席者への気の配り方がスマートだ。だが、会議の進め方が見事でも生産的な内容が伴うとは限らぬ。事業がうまくいってない時の会議は憂鬱だ。出来れば蚊帳の外にいたいのだ。

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Proceeding according to scenario, the host still looks for a trigger to address silent participants

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擦れ違ふライン河畔の人らみな重き鍵束たづさふるらし

(すれちがう ラインかはんの ひとらみな おもきかぎたば たずさうるらし)

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障子や襖、開けっ放しの玄関に馴れていた者が、西欧で生活をすることになると、その鍵の文化にまず驚かされる。金庫、自宅、中庭、表玄関、郵便受け、自転車、自動車、職場玄関、事務室、デスク、ロッカー。まるでポケットに鉄屑だ。それを得意げにじゃらじゃらさせているから面白い。

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Everyone passing by me along the riverside walkway of the Rhein seems to carry around with a heavy bunch of keys

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四十年来し方述ぶる引退の言葉は暫し部屋に澱めり

(しじゅうねん こしかたのぶる いんたいの ことばは しばし へやによどめり)

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リストラで職場を去る者が珍しくない昨今、退職してゆく同僚への礼も粗雑になってきた。居酒屋などでのごく内輪の集まりでさよならだ。無事に会社生活を終える定年退職者にも、かってのような大仰な送別会は姿を消した。自己の来し方を振り返りつつ、一同に向って感慨を述べる場面も希となった。家族的な雰囲気があってこその会社人間。まさに様変わりした。

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The parting words given by a retiring colleague touching his 40-year service settle down in the room for a while

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五月病いつしか癒えて管理図をつくる作業に日々なじみゆく

(ごがつびょう いつしかいえて かんりずを つくるさぎょうに ひびなじみゆく)

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四月に入社し、社員研修を終えた仲間のうち、最初の失速者がでるのが五月。折角よいスタートを切ったのにと、理解に苦しむもの、気持ちは分かるといささか納得するもの。同僚の反応もさまざま。子供の船出を喜んだ親にはショックだ。割り切れなさを胸に踏みとどまった者にも時が流れる。

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Recovering imperceptibly from May blues, freshmen's hypochondria, adapt myself to the daily round to draw a control chart

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噴水のマイナスイオンに深呼吸して商談の待つビルを目指しぬ

(ふんすいの マイナスイオンに しんこきゅうして しょうだんのまつ ビルをめざしぬ)

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マイナスイオンの効用が言われている。血液をアルカリ性にして体調を整えるとか。気分をリラックスさせると言う。激しい水流やしぶきに触れた空気が電子を得て陰イオンとなる。噴水の飛沫に触れる近さに立てば、思いなしか爽やかな気分になる。大仕事の前にはシャワーを浴びるべきかも。

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Breathing deeply in the minus ion of the waterworks at Station Plaza, start for the building where a business negotiation waits

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あをあらし窓打つ夕べ議案書のわが退任の項をたしかむ

(あおあらし まどうつゆうべ ぎあんしょの わがたいにんの こうをたしかむ)

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企業の多くは三月が期末だ。いくら規模が小さくても前年度の総決算はせねばならぬ。株式会社なら、形ばかりでも、株主総会がこの作業の絞めである。さほど実感のなかった役員でも、辞めるとなれば、大仰だがその由が議案書に載らねばならぬ。国の九割の会社がこんな無駄な書類作りに。

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In the evening with the noisy dash of May storm on the windows, check the draft bill that covers my forthcoming resignation

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異国語にて語らるゝ時その言葉本意得しごと新たな響き

(いこくごにて かたらるるとき そのことば ほんいえしごと あらたなひびき)

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他所の国の言葉を使うとき人は感じる。コミュニケーションの物足りなさだ。文化的背景を知らぬ言葉を連ねていると言う気後れだ。外国の歓楽街で客引きから卑猥な日本語で呼びかけられたりするとぞっとする。自信のあった自分の異国語も、ひょっとすると無作法な奴と聞かれてるのかも。

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When the message is given in a foreign language, there often comes a friendly overtone for its intended meaning

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商談の食事のレジを済ましたればレシートに一輪の薔薇が添へらる

(しょうだんの しょくじのレジを すましたれば レシートにいちりんの ばらがそえらる)

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歓楽街で渡された一輪のバラなどを持つ深夜の帰宅。何とはなしに気まずい。かといって途中で捨てるのも申し訳ない。呉れた人に対してより、可憐な花に申し訳ない。昼間の会食後に職場に持ち帰るときも同様だ。仕事とはいえ、同僚たちの反応を気にしてしまう。花にとっては迷惑な話かも。

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Finishing the checkout of my business lunch with clients, the cashier gives me single rose together with the receipt

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疾走の新幹線のE席に沈み眺むる朝の天空

(しっそうの しんかんせんの イーせきに しずみながむる あさのてんくう)

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月曜日の早朝の東京行は常に満席。網棚には一週間分の着替えなどを入れたバッグが並ぶ。サラリーマンの大方は座席に深く沈んで眠り込む。ところがこれが下車駅ぎりぎりまでは眠らない。深く沈んだ姿勢のままうつらうつら。窓からの景色でどのあたりかを知る。じんわり頭は仕事モードに。

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Subsiding into the window seat of a bullet train, look up the roof of heaven early in the morning

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デーベーの機関士と目の合ひたれば声高にわがドイツ語ためす

(デーベーの きかんしとめの あいたればこわだかにわが ドイツごためす)

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ドイツ国鉄(DB)の電気機関車の力感みなぎる勇姿。鉄道好きなので停車中の国際列車の先頭の機関車をしげしげと見る。運転席の高い小窓から顔を出す機関士。つい、最高速度は、と聞いてみた。百六十キロと答えが。「通じた!」、大学で単位すれすれだったドイツ語が。満足して客車へと。

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Catching the eye of the locoman of Deutsche Bundesbahn, try to talk out loud in poor German

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面映ゆき銀の器に銀の匙アイスクリームの舌触りよし

(おもはゆき ぎんのうつわに ぎんのさじ アイスクリームの したざわりよし)

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学校を出て社会人になってもフォーマルなテーブルマナーを要求されるような食卓につく機会は中々ない。まずは目上の人達に伍しての体験。燭台にゆれるローソクの明り。西洋皿の両脇には沢山の銀の食器が。そこへ新聞ほどもある大きな重たいメニューが渡される。さあ滑稽な場面が始まる。

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Selfconsciously facing the silver plate and using the silver spoon, enjoy ice cream being soft and pleasant on the tongue

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「虹を掴む男」を見てより五十年眼つむれば虹はわが身の内に

(にじをつかむ おとこをみてより ごじゅうねん めつむればにじは わがみのうちに)

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戦後の貧しさの中で見た映画。原題は異なるが、邦題の「虹を掴む男」に惹かれた。空想癖のひどい主人公の話だが、当時の日本人は誰しも白昼夢に現実逃避をはかったものだ。さて、それなりに勉強もし、仕事もしてきた今、こうした空想癖はすっかり消えた。満ち足りた日々とも思えぬのに。

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It's 50-years since I saw the film "A Man Chasing Rainbows", and I see now rainbows within my own body when I close my eyes

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墨の香を散らしながらに画仙紙に書に挑みをり常ならぬ妻

(すみのかを ちらしながらに がせんしに しょにいどみをり つねならぬつま)

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「長時間わき目もふらず」が出来なくなった。俳句を作るほどのちょいの間の精神集中ならともかく、まとまった作品に取り組む場合どうしても息切れしてしまう。その癖、「せっかく調子が出てきたのに」と家人の邪魔の所為にする。その場その場のより小刻みな行動が積み重なる日々となる。

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Creating atmosphere with roomful scent of sumi ink, my homemaker concentrates on calligraphy on the drawing paper, in an unusual manner

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最終列車出でて静まるコンコースけふの明かりが次々に消ゆ

(さいしゅうれっしゃ いでてしずまる コンコース きょうのあかりが つぎつぎにきゆ)

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終電に乗ることはあっても、その後の駅が閉じられる様子を見る機会は中々ない。採集の新幹線で着くと、駅を出る乗客を追うように電灯が次々と消されてゆく。トイレや電話などで手間取っていると、たちまちあたりが薄暗くなっている。それが、在来線のホームでは、まだ宵の口の賑わいだ。

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Becoming quiet after departure of the last train, the Shinkansen concourse is losing the day's lights one after another

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キャプテンの母の名といふエノラ・ゲイ銀色の機体なほさらさるる

(キャプテンのははのなという エノラゲイ ぎんいろのきたい なおさらさるる)

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原爆機の愛称に母親の名をつけるとは。ミッションの恐ろしさに耐え兼ねて思わず母に縋ったのか。「親は刃をにぎらせて人を殺せと教へしや」は与謝野晶子の詩。戦場で人は撃つときも撃たれた時も母の名を呼ぶのだろうか。それにしても母の名を冠せられたやいばが人目に晒されているとは。

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It's said Enola Gay was named after the captain's mother, while she still shows her silvery fuselage in public

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「いつくしみ深き」と歌ふ声のやみ病室より医師とナース出で来ぬ

(いつくしみ ふかきとうたう こえのやみ びょうしつよりいしと ナースいできぬ)

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死因の第一位はガン。激しい痛みに襲われる終末期。死に直面する苦闘を癒すもの。やはり宗教なのだろう。ホスピスの患者みんなが皆、常々敬謙な信者ではなかった筈。旅立つあの世への心の準備。楽しみな旅の案内であって欲しい。宗教者の臨終業務は重要。ぽっくり寺も中々の人気だが。

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From the sickroom where "Benevolent God" was sung in chorus, doctors and nurses are just coming out

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草木のまばゆき緑それのみが終戦の日のをさなき記憶

(そうもくの まばゆきみどり それのみが しゅうせんのひの おさなききおく)

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疎開の記憶の背景はいつもまばゆい緑だ。山懐の温泉町。雪の記憶はない。一九四四年の秋から翌年の春までは喘息で東京に戻されていたからだ。大空襲があって再び集団疎開に。整列して玉音を聞いたその日。したたるような緑に囲まれていた。先頃、その場所に行ってみたのだが。どこに緑?

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The blinding green of vegetation, that is the only memory the little child picked up for the day of the termination of war

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玩具屋でいつも地団太を踏みし子がアタッシュケースを手に出勤す

(おもちゃやで いつもじだんだを ふみしこが アタッシュケースを てにしゅっきんす)

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 幼児は折々駄々をこねる。思いが通らないと地べたに仰向けにひっくり返って我が儘を言う。これを見て、親は別だが、居合わす者は大概にこにこしている。面白いことに、この情景をヨーロッパでも見た。一般には躾の厳しい国々の子供達だ。三歳までは意思表示の仕方も万国共通なのかも知れない。

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My son, having been a toddler always stamping his feet at the toyshop, now goes to business with briefcase in his hand

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春日町白山巣鴨と地下走る車内にしのぶ古き町並み

 (かすがちょう はくさんすがもと ちかはしる しゃないにしのぶ ふるきまちなみ)

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 昭和四十年代初めまで路面電車は人々の足だった。網の目のように都内をカバーしていた。今でも都電の夢をよく見る。その後の地下鉄は大方昔の都電通りに沿って走っている。懐かしい電停の名がそのまま駅名になっている。電車通りの街並みの賑わい。今の地上の大通りに、その面影はない筈だ。

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 On the subway car passing those stations with good old town names, I'm calling to mind the old appearances of such streets

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黒々と投票用紙に4Bの鉛筆で書く馴染みなき名を

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萩の花つづく山路のふくらみに歌碑ひとつあり風のやさしき

 (はぎのはな つづくやまじの ふくらみに かひひとつあり かぜのやさしき)

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 歌碑や句碑。全国のいたる所にある。不勉強で殆ど知る歌や句に出会うことがない。石に刻まれた碑文だが、古いものは風雨に曝されていてすこぶる読み難い。最近は耐候性の優れた人工石材もあるようだ。歌集や句集の自費出版に大枚をはたくより、庭の片隅にそれらしいものを残すのも一興かも…。

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  There's a poetic stela on the little space along the long-lasting mountain pass with flowers of lespedeza, and there blows a friendly wind

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 (くろぐろと とうひょうようしに よんびーの えんぴつでかく なじみなきなを)

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 「一本の鉛筆があれば私は〜と書く♪」の美空ひばりの歌が好きだ。投票ブースに入ると両隣から鉛筆の走る音。候補者の名前をおもむろに書き出す。思いのほか太い文字が現れる。リアリティーのある頼もしい名前に見える。いつしか迷いは消え、その候補者を応援する気分が自ずと高まってくる。

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  There's an unfamiliar name being filled in fat face on the ballot paper with the 4B-soft-lead pencil

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萩の花つづく山路のふくらみに歌碑ひとつあり風のやさしき

 (はぎのはな つづくやまじの ふくらみに かひひとつあり かぜのやさしき)

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 歌碑や句碑。全国のいたる所にある。不勉強で殆ど知る歌や句に出会うことがない。石に刻まれた碑文だが、古いものは風雨に曝されていてすこぶる読み難い。最近は耐候性の優れた人工石材もあるようだ。歌集や句集の自費出版に大枚をはたくより、庭の片隅にそれらしいものを残すのも一興かも…。

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  There's a poetic stela on the little space along the long-lasting mountain pass with flowers of lespedeza, and there blows a friendly wind

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いさかひを避くる嗅覚の身につきしわれにせつなき百舌のたかなき

 (いさかいを さくるきゅうかくの みにつきし われにせつなき もずのたかなき)

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 このままがましと言う思い。下手に動いて現状を悪くすることはない。普通の人が人生でいち早く学ぶことだ。動いて得をする奴もいる。世の成功者と囃される輩だ。ほんの一握りの連中だ。そんな大成したものが、バブル崩壊などで、挫折をすることがある。下手に動いて損をする教えとなるのだ。

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  With an internalized sensitive sense of smell to avoid any struggles in life, I hear agonizingly the piercing call of the shrike

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花のごとちりばめられて宴席に女子社員らは笑みを絶やさず

 (はなのごと ちりばめられて えんせきに じょししゃいんらは えみをたやさず)

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 気が付かなかった。職場の旅行が女性社員には評判が悪かったことを。と言っても今は昔の話。だらだら続く宴席で、上司や男性同僚の話し相手をさせられていた。早く女性仲間だけにと思っていたようだ。男にも宴会嫌いはいる。破目を外す酒飲みの相手は苦手だ。そんな男に女性の同席は救いだった。

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Being constellated like flowers in the beanfeast, girls are trying to keep wearing a smile

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間髪を入れず言葉を挟み合ふ議論の末の長き沈黙

 (かんぱつを いれずことばを はさみあう ぎろんのすえの ながきちんもく)

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 議論の応酬と言うが、激しくなればなるほど、噛み合わなくなるようだ。それはいつの間にか、相手の言葉の本意に反応するのではなく、相手の顔色や目つきに感情を昂ぶらせるからだ。間髪を入れずの反論はそんなもの。もっと筋道の通った反論を思いつくのは、いつも深夜の家路にあるときだ。

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  After a debate where words were exchanged quick as a flash, the long period of silence now says

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別れ際に触れしその手の冷たさを思ひつつ暗き地下街に入る

 (わかれぎわに ふれしそのての つめたさを おもいつつくらき ちかがいにいる)

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 人との別れは余韻を残す。大層な別れなら暫くは周囲の景も目に入らぬ。が、日常のちょっとした別れでもそれなりの後を引く。その間に言い忘れたことを思いつくこともある。考えようによっては、この時間が最も相手に集中している時では。会っている時には意外と雑念に捕らわれることが多い。

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  Still in mind the coldness of your hand on parting, I'm going into the dimmish underground shopping area

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不始末をなじる顧客の電話受け夜の事務室に策をめぐらす

 (ふしまつを なじるこきゃくの でんわうけ よのじむしつに さくをめぐらす)

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 順調なときは仕事も楽しいが、顧客の苦情処理となると憂鬱だ。怒り狂っている相手への対応。平身低頭のみでことは解決しない。西洋人のように肩をすぼめて「無理なものは無理」と開き直ることも出来ぬ。誠意を感じてもらえる態度と現実的な解決策が求められる。あれこれ考えるうちに夜が更ける。

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 After hanging up the phone from the customer rebuking our mismanagement, plan a counterplot at the nocturnal office

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年甲斐もなく文末に括弧「笑」と書きしメールをいま送信す

 (としがいも なくぶんまつに かっこえむと かきしメールを いまそうしんす)

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 インターネットは若者の世界とついつい思ってしまう。どうしてどうして沢山の中年、熟年が参加している。結構そこで若者ぶった振舞いをしている。アダルテスント(adultescent)は若者文化を楽しむ中年を言う。相手の見えぬ世界だ。そんなことで若返った気分になれるなら悪くはないだろう。

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  Unbecoming of my time of life, put the word "laughing" in parentheses at the end of the sentence and hit the send button to let it go

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イメージのとどかぬ辺りを模索する量子力学とけふも苦闘す

 (イメージの とどかぬあたりを もさくする りょうしりきがくと きょうもくとうす)

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 学習も想像力の及ばぬ領域になると中々進まない。物理や数学も日常の事柄で何とか類推出来るうちはよいが、格好なアナロジーが見つからなければ、公式の丸暗記。大方はこのあたりで嫌になる。退屈なゼミに参加するより、昼休みの校庭のソフトボールが楽しみになる。これが普通の人と諦める。

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  Still today, I'm puzzled to study quantum mechanics that never gives an idea for practical visualization

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独り居の老人の家に常ならぬ明り点りて人の出入りす

 (ひとりいの ろうじんのいえに つねならぬ あかりともりて ひとのでいりす)

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 ひと世代めぐって、かつての新興住宅地が過疎化している。塀をめぐらした格好な家々が続く。多くが独居老人の住まいだ。子供たちはそれぞれ職を得て別の土地に落ち着いてしまったのだろう。農村の過疎化と異なるのは、やがてそこに小さな家が建ち並び、幼児たちのにぎやかな声が戻ることだ。

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  Lights are unusually on in the rooms of the house of an old man living solo, and people are in and out there

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渡すもの受取る者の手際よさ駅頭に今朝もティッシュ配らる

 (わたすもの うけとるものの てぎわよさ えきとうにきょうも ティッシュくばらる)

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 毎朝のこと。乗換駅へ急ぐ人の列。その大きな流れに逆らって立つ者たち。昔なら手渡すものはマッチ。今はティッシュの包みだ。決して人の流れの邪魔にならない。アイコンタクトもなく素早く手から手へ渡される。時に馴れぬものが、有難うなどと丁寧に受け取ったりするとリズムが狂ってしまう。

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  As usual, tissues are passed out this morning in front of the station, givers handing them deftly and passers-by receiving them in a twinkling

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さすらひてけふ得しものとポケットよりティッシュの包み二つ取り出す

 (さすらいて きょうえしものと ポケットより ティッシュのつつみ ふたつとりだす)

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 ときには自分の今日の成果を思う。希にはまずまずの達成感に浸ることもあるが、大方はストレスの残る一日の終りだ。自らの未熟、不徳を恥じるより、まわりの我侭や不親切に腹が立ってしまう。理につくよりも浮世の情に流される日々。こんな生き方で心のポケットに何が溜まってゆくのだろう。

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  Having wandered around the town, take two packs of tissues out of my pocket as todays earnings

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いま暫し並びゆかむと心地好く香る少女に歩幅あはしぬ

 (いましばし ならびゆかんと ここちよく かおるしょうじょに ほはばあわしぬ)

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 初めてヨーロッパを訪れて驚いた。女性がみな香水の香りを十メートルも引きずって歩いていたことだ。四十年も昔だ。出張の土産には勧められるままにシャネルの六番。ところが女房の方は使う機会もなく、鏡台に何年も置いたまま無駄にしていた。それが今では、男までがコロンをつけて町へ出る。

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 Wishing to walk for a moment side by side with a girl wearing perfume agreeably, try to walk with her steps

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子の寝顔をりをり見つつ乳母車押す菊坂の若き父親

 (このねがお おりおりみつつ うばぐるま おすきくざかの わかきちちおや)

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 父親の育児参加の話になると、手本とされるのが北欧の国々。町中や公園で乳母車を押す男たちの映像だ。父親の育児休暇の取得率はノルウェーでは九十パーセント、こちらは一パーセントに及ばない。女性の職場進出はどの国でも進む。樋口一葉のような才長けた妻を持てば乳母車を押すぐらいは。

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  Looking from time to time toward his baby being asleep, the young father pushes the pram going uphill at Kikuzaka

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ノーと言へる文化はうれし外資系の職場に移り過ぎし半年

 (ノーといえる ぶんかはうれし がいしけいの しょくばにうつり すぎしはんとし)

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 「○○課長!」、「××主任!」の呼びかけが、やたら飛び交う職場。職階名が対話の端々に聞かれる。仕事が終わっても部長さん、課長さんと呼ぶ文化だ。西洋の会社にはこの軍体調がない。重役も平社員もボブ、ジムと呼び合って事が進む。でも、そのボブに呼ばれてクビを言われることもあるのだ。

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  Making me feel comfortably the culture that can take no for an answer, a half year has passed since I moved to the office of a foreign affiliate

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値も質も競合品が勝れりと知りつつすがる長きよしみに

 (ねもしつも きょうごうひんが まされりと しりつつすがる ながきよしみに)

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 良くて安価な競合品がすぐ現れる。ビジネスの世界だ。強敵の出現だが、顧客の方もおいそれと乗り換えるわけではない。切り替えることのリスクの評価が必要だ。守る側も必死。が、やがて客のしらじらしい態度に気づかされる。信じていた恋人が別の男に秋波を送る様子を目にした気分である。

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  Knowing that the competing products are ahead in both price and quality,, throw myself on the long-lasting friendship with the client

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朝刊に勤めゐし社の株価みてそれより朝餉ゆるゆる進む

 (ちょうかんに つとめいししゃの かぶかみて それよりあさげ ゆるゆるすすむ)

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 永遠に存続すると思われた大企業。そんな名のある会社が破綻する。合併や買収で社名も変る。OBたちにはそれでも昔の職場の今を追う。人生の関わった過去を消すわけにはいかぬ。昔の名前の面影もない新たな社名だが、すぐさま親しみを感じる身近なものに。現役の連中には既に別世界なのだが。

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  After checking in this morning's paper the share price of the company I used to work for, take my time eating breakfast

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いつになく我が柏手の音澄めり職引きてよりの新年迎へ     

 (いつになく わがかしわでの おとすめり しょくひきてよりの しんねんむかえ)

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 人は「心機一転」がことさら好きだ。ご破算で願って勝負のやり直しとなる。今度は幸運に恵まれるとの期待からだ。新年の顔合わせや新年度の挨拶で必ず言われる。ところがこの翻然と変った筈の心持が数日を経ずしてぐずぐずになる。ちっとも変らぬ自分らしい自分がいつもの日程を追っている。

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  Unusually, my handclaps are sounding clear here on the New Year's visit to the shrine since my retirement

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あでやかに着飾りし娘ら三人を追ひ越しがたし錦小路に

 (あでやかに きかざりしこら さんにんを おいこしがたし にしきこうじに)

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 他人を追い抜くとき、いささかの抵抗を覚える。身体が触れ合うほどの小路ならなおさらだ。追い越した自分の背中をどんな目つきで追ってくるのか。いや、競争社会だ。そんな小心者では抜擢人事にはありつけぬ。背後から襲われることを恐れるな。度胸ばかりで、情けに無神経な人間になれってこと。

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 Hesitate to walk past those three elegantly dressed girls going ahead in the narrow aisle, Nishiki alley

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帰宅すれば臭気おぞましき母の部屋妻は黙ってたたみ拭きゐる

 (きたくすれば しゅうきおぞましき ははのへや つまはだまって たたみふきいる)

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 生老病死。何不自由なく過ごす日々なのに、時として突きつけられるのが人の世の四苦。特に老病死だ。避けられぬことと分かっていても、直面すれば悲しみ狼狽する。他人の苦しむ姿に、それが自分の未来だと知りながら実感できぬ空しさ。

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 My mother's room was stenchful when I arrived home, and my wife was cleaning the tatami mats quietly

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千早振る神の森ぬけ町中に百円ショップを探す夕暮

 (ちはやふる かみのもりぬけ まちなかに ひゃくえんショップをさがすゆうぐれ)

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 町なかの鎮守の森。大して大きな神社でもないのに、別世界に入った気分だ。いかにも神さびた境内の雰囲気である。折しもセンター試験をひかえて、受験生の親子連れがひっきりなしに訪れる。高い梢に烏がしきりに騒ぐ。吉なりや凶なりや。

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 Having come through the grove of an ancient and honorable shrine, looking for an 100-yen shop in the street at dusk early-evening

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かたどほり氷河を覗きし一団がカフェの温もり乱し入り来る

 (かたどうり ひょうがをのぞきし いちだんが カフェのぬくもり みだしいりくる)

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 グループツアー。案内されるままに観光スポットを訪ね短い滞在で次へと促される。悠久の時を刻む大氷河に魅せられる暇もない。「確かに見た」で踵を返しホテルの喫茶店で「ああ暖かい」と仲間との談笑。こんな旅でもまた楽しいものだ。

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A group of tourists having just seen the glacial valley for form's sake comes into the cafe destroying the warm atmosphere

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駅名はインスブルック夜汽車いま山々かくす闇に停車す

 (えきめいは インスブルック よぎしゃいま やまやまかくす やみにていしゃす)

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 バーゼルからウィーンへの夜汽車だ。コンパートメントのクシェットに機嫌よく横たわっていたが、列車が停車して室内に4人目の客が加わった。ドア側の男が渋々寝台を座席に戻す。窓外には駅名のみが明るく照らされていてあとは深い闇。

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  Where the station sign tells Innsbruck, the owl train is stopping in the dark putting the mountains out of sight

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奈良町に入るや妻らは軒ごとの身がはり猿に声あげ歩む

 (ならまちに いるやつまらは のきごとの みがわりざるに こえあげあゆむ)

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 軒先に吊るされた赤い縫いぐるみ。「身代り猿」は庚申さんの魔除けのお守り。一軒一軒のそれを丁寧に観賞する女性群。だが男たちはすぐに飽きてしまう。いつの間にか仕事の話などを始めている。でも女房たちと連れ立つ安堵感がそこに。

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  On entering the Naramachi street, wives are walking lifting up their voices on those stuffed monkeys hanging in effigy from the eaves of houses standing in a row

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ボール箱一個の私物はや届きわれのすべてが職場より消ゆ

 (ボールばこ いっこのしぶつ はやとどき われのすべてが しょくばよりきゆ)

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 しがらみから開放される気分。が、縁の切れる淋しさもある。格段に狭くなる世間。何でも自分の裁量で出来る自由な時間がたっぷり。でも何がしたいのかが分からない。そんなとき、職場から私物一切が返されてくる。取り付く島を失う思いだ。自分の居らぬ職場では何の差し障りもなく業務が進む。

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  Just received at home one board-carton box that had gathered my personal effects, and everything relating to me now disappeared in the office

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妻子らの談笑にわれも入るべしとインターネットの画面を閉ぢる

 (さいしらの だんしょうにわれも いるべしと インターネットの がめんをとじる)

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 ゲームおたく、ネットおたく、さもなければワーカホリック。家族との団欒の薄い父親像だ。そうあってはいかんと自制することもある。だが言われるほど歓迎されていない空気を感ずる。まさに「亭主は元気で留守が…」の雰囲気。こんな家族でも何か異変に遭遇すればたちまち団結するから面白い。

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  Thinking I'd better join the party of my wife and children talking cheerfully, exit from the Internet browsing

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たづね来し兵隊姿の父親を疎開の宿に友は誇りき

 (たずねこし へいたいすがたの ちちおやを そかいのやどに ともはほこりき)

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 父親が景気の良い業界で働いていれば、その家族も世間に対して何か誇らしい気分になる。「お国のために」の時代だった。病身で兵役につけぬ父を持つ児童には肩身の狭い思いがした。軍服姿の父親たちが集団疎開のわが子を尋ねて折々やってくる。そんな時、同じ隣組の子として招かれたりすると…。

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  My little friend was proud to show his father in full regimentals just paying a visit to the evacuees' lodging house

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職終へし甲斐なき日々ねと妻言ふもこころ乱さず本を読みつぐ

 (しょくおえし かいなきひびねと つまいうも こころみださず ほんをよみつぐ)

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 亭主の定年に「長い間、ご苦労様」と暖かく労ってくれた細君。が、数週間を経ずして、この不活発で不健康で引きこもりの同居人を抱えてしまったことに気づく。畢竟、嫌味のひとつも言うことになる。小言を言われても動じない亭主にまた腹が立つ。亭主の方は余生とはこんなものと達観している。

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  Keep reading a book, being not disturbed by what my wife says; you spend days of retirement without much result

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山下りしハイカーわれらデパートの香水売場を足早に過ぐ

 (やまおりし ハイカーわれら デパートの こうすいうりばを あしばやにすぐ)

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 居心地の悪い場所がある。女房との外出で化粧品や婦人服売場で待たされるときなどだ。見てはいけない商品に囲まれている感覚だ。ところが女性の方にはこんな気分は起こらぬらしい。紳士用下着売場などでも平気であれこれ品定めをしてくれる。共同参画社会の実現が難しいとはとても思えぬが。

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  Just finishing the day's hill walking, we, a group of hikers, are passing briskly through the perfume section of a department store

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ガソリンより高価なる水エビアンを飲みつつあゆむけふの五キロを

 (ガソリンより こうかなるみず エビアンを のみつつあゆむ  きょうのごきろを)

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 昔は水道の水をがぶがぶ飲んだ。駅のホームなどにも蛇口が上に向けられた水飲み場もあった。いつの頃からかそれには目もくれず売店でコーラを買う若者が出だした。水道があるのに馬鹿らしいことをすると思っていたが。喉が渇いたときには水道の水でも美味い。今は水筒に代わってペットボトルだ。

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  Pulling often at the bottled water, Evian, that costs money more than petrol, have today's five-kilometer walk

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遠ざかる昭和を生きしいささかの気概を見せる反戦の弁

 (とおざかる しょうわをいきし いささかの きがいをみせる はんせんのべん)

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 反戦を広言することの憚られる世になりそうだ。時代がひとめぐりしつつある。 衣食足った世にあって人々は平和の有難さを意識しなくなった。テレビのバラエティー番組では威勢の良い愛国主義者が人気者になる。反戦を唱える出演者が虚仮にされる図は情けない。人は混沌を無意識の内に望むのか。

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  Showing a bit spirit having survived the Showa Era that is getting far past, speak against war

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傷痍軍人のかつて並びしその角に娘ら叫びをりイラク支援を

 (しょういぐんじんの かってならびし そのかどに こらさけびをり イラクしえんを)

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 ヨーロッパのある町。公衆トイレで用を足す。出ようとすると入口のカウンターに小母さんが座っている。はて有料だったかと、「ハウマッチ」と問うと「思し召しで」と言われる。チップなどのこの「思し召し」が困る。十円なら十円、百円なら百円と言ってほしい。思し召しの相場を知らぬ者には。

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  At the street corner where broken soldiers once stood soliciting contributions, girls now cry for assistance to Iraq

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白木蓮おぞましく散りし道を来て職場に余す日々の思はる

 (はくもくれん おぞましくちりし みちをきて しょくばにあます ひびのおもわる)

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 死屍を晒すと言うが散り敷いた桜の落花は美しい。比べて白木蓮のそれはまことに不潔である。車に撥ねられた野良犬が置き去りにされている図だ。さて、世を食み出した己が老躯は如何なりや。汚らわしいと避けられる身となるか。ましてその死屍たるや。とても人の心にひびくものであろう筈がない。

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  As the white flowers of lily trees have fallen nastily on the alley I'm coming through, think suddenly of the last few days I'm going to spend at the office before retirement

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はしなくも定めし宿の小窓よりマッターホルンを見上げてをりぬ

 (はしなくも さだめしやどの こまどより マッターホルンを みあげておりぬ)

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 たまたま通された高層ビルの応接室。思いがけず富士山が見える。当然、商談の始めの話題となる。名の知れた山の姿は誰の心にも焼き付いている。しかし余所者にとっては、その実物をしっかり見る機会は天候の具合で中々ない。イメージ通りのその姿を目の当たりにすればまさに感無量となる訳だ。

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  Out at the room's little window of a hotel that was chosen in a lucky twist, I gaze up to the Matterhorn

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 絨毯につばき一輪散り落ちてみだらにも見ゆ赤き姿態の

 (じゅうたんに つばきいちりん ちりおちて みだらにもみゆ あかきしたいの)

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 椿の花は首からばっさりと落ちる。りんと咲いていた花が突然床に落ちてだらしなくへたり込む。静かな書斎ならぼたりという音に気づく。ホテルやレストランの飾花なら早めに取り替えられるので床に落ちた花房を見ることはまずない。乱れた姿態をありのままに周囲の目に晒すことが出来るだろうか。

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  A piece of Camelia has just fallen on the carpet and will stay there exposing its body to be perhaps viewed sensual

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折々に脚を組み変へ留学の楽しかりしを少女は語る

 (おりおりに あしをくみかえ りゅうがくの たのしかりしを しょうじょはかたる)

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 商談の席。顔合わせから暫くみな姿勢がよい。脚を組む者はいない。ましてや商品の売り込みに来た訪問者は畏まったまま。やがて買う側の態度が崩れてくる。口調も姿勢も横柄になる。脚も組めば腕も組む。近頃は女性もやたら脚を組む。脚も長くなったようだ。就職の面接ではさすがにそこまでは。

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  Crossing or uncrossing her legs at intervals, the girl student talks how enjoyable it was to study abroad

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ひとつ部屋の新生児らは代はるがはる涙なく泣きゆゑなく笑ふ

 (ひとつへやの しんせいじらは かわるがわる なみだなくなき ゆえなくわらう)

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 ガラス越しの新生児たちを眺めていると心が癒される。無垢とか無邪気の言葉の思い浮かぶひと時だ。世間の垢やしがらみに汚されてゆく将来を思ったりする。でも生まれ出づるものの持つ生命力は猛烈なもの。生存競争では友人でも親でも殺しかねない。残忍な本性に愛を教えても手抜かりは起こる。

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  Those newborn babies sharing a nursery room take turns crying without tears, or smiling for no good reason

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思ひがけぬ父の叱咤にをさな子のはじめてつくる鬱の表情

 (おもいがけぬ ちちのしったに おさなごの はじめてつくる うつのひょうじょう)

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  体中で泣き、笑い、そして安らかな寝顔。この赤子に新たな表情が加わる。泣くでもない、笑うでもなく安らかでもない顔つき。言葉の分からぬ赤子だ。父親の顔色を読み取っての反応。無邪気な顔に突然現れた不快感の表情だ。顔面筋の作る初めてのヒトの表情。これを成長の証と喜ぶべきなのか。

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  Coming flush on its father's strong discipline, the little baby wears a gloomy expression for the first time in its life

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 荒びゆく世に顧みる軍国の礼儀正しき少年われを

 (すさびゆく よにかえりみる ぐんこくの れいぎただしき しょうねんわれを)

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 礼儀正しさは緊張感のある場面で発揮される。世の中がぴりっとしていれば人は規律を守る。問題は世間をひきしめている力の中身だ。徹底した道徳教育、宗教上の戒律、大きな国家目標達成のために強化された公権力など。ある時は自由と混沌にあこがれ、ある時は規律と連帯感を望むのが我々人間だ。

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  Living in the world getting wilder, recall the young boy myself having been courteous in the heyday of militarism

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 意表つく君の笑顔に尖りゐしわが論調のくづれはじむる

 (いひょうつく きみのえがおに とがりいし わがろんちょうの くずれはじむる)

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 人の論調などはいい加減なものだ。議論が沸騰すればお互いの剣幕に益々エキサイトする。敵意が丸出しになる。小理屈の応酬が際限なく続く。どうでもよい議論に限ってこんなことになる。これが自己の利害や欲望に深く関わることであれば「駄目なものは駄目」と、議論などは決してしないだろうに。

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  Coming across you unexpectedly beaming at me, the aggressive tone of my argument starts to wilt

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 定年を控へしわれに複雑なる仕事の電話は日ごと減りゆく

 (ていねんを ひかえしわれに ふくざつなる しごとのでんわは ひごとへりゆく)

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 淋しいことだ。世の中との関わりが目に見えて薄くなる。発揮してきた問題解決能力ももはや頼りにされぬ。思い出話が日々の時間を埋めるようになる。世間からは早くも過去の人物として扱われている。家庭にあっても大黒柱の地位も自覚も失われている。思い描いた余生の幸とはこんな境遇だったか。

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  The number of calls that deal with a complicated subject is decreasing every day as I'm known to retire shortly

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 かさね来しわが出張の締めとなる新幹線に駅弁開く

 (かさねきし わがしゅっちょうの しめとなる しんかんせんに えきべんひらく)

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 車窓の景色を見やりながらの食事。出張族の楽しみのひとつだ。あれこれ選り好みは面倒なので大方は幕の内弁当。それも十分もかからずに済ましてしまう。かと言って一時間ほどの乗車では弁当は買わない。食前食後の余白をたっぷり持ちたい。食べ終わると間もなく満足の眠りに落ちるのが常だが。

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  Having repeated business trips during my active life, open the box lunch on the last Shinkansen I'm finally taking in line of duty

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 愛国とふ言葉を嫌ふ君もゐて「阪神タイガース」とメガホンを打つ

 (あいこくとう ことばをきらう きみもいて はんしんタイガースと メガホンをうつ)

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 共通の敵を持つとき、俄かに群れはまとまる。そして人はその属する集団に価値を見出そうとする。敵にこっぴどく敗れればこの団結は乱れ、あの群れの興奮が馬鹿馬鹿しくなる。が、暫くすればまた敵らしきものが現れる。そして群れる興奮に人は酔い始める。群れに加わらぬ者は人に非ずとまで言う。

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  Though deeply disliking the word patriotism, you are now in the group beating clappers and cheering "Hanshin Tigers" "

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 ゴーギャンの絵に真向かへる事務室のわが席を継ぎし人を励ます

 (ゴーギャンの えにまむかえる じむしつの わがせきをつぎし ひとをはげます)

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 事務所の壁に書画が掛けてある。人は文化の匂いを好む。読めぬ書でも理解不能な絵画でもだ。ビジネスライクな仕事ぶりの求められる職場。空気にいささかの和らぎも欲しくなる。文化的と思われるものが身近にあることの安堵。造詣が深いわけではない。本物を掲げる必要など毛頭ないのであろう。

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  Give the man a pat on the back, who has just taken over my desk at the office facing the Gauguin's painting

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 捨て難くいまに持ち来しロッカーの書類ひたすら破りゐる日々

 (すてがたく いまにもちこし ロッカーの しょるいひたすら やぶりいるひび)

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 書類や資料の沢山つまった書棚やロッカーがデスクの周りに配置されている。職場での地位に応じて増加する占有スペース。つれて書類ロッカーの数も増える。日々の事務処理に必要な資料の比率がどんどん減ってゆく。常日頃、不要の書類を捨ててこなかった無精者ゆえのこと。何だか恥ずかしい気分。

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  Picking up one after another from the bunch of papers in the file cabinets that have hardly been thrown away during my active life, keep tearing it every day

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 遠き地の子に頼らむと老女去る亡夫と築きし屋敷を捨てて

 (とおきちの こにたよらんと ろうじょさる ぼうふときずきし やしきをすてて)

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 西洋の友人には死ぬまで借家で通すと言うのがいる。持家があっても子供が住んでくれるとは限らない。保守の費用も馬鹿にならぬ。将来の資産価値も疑問。などと考えれば賃貸住宅で過ごすことにも理がある。しかし年寄りには家や部屋を貸し渋る風潮もある。結局、資産を売って老人ホームへと・・。

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  The old woman now leaves for a distant location to hang on her son's sleeves, giving up the mansion house built together with her late husband

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 無人駅の日向の匂ひともなひてノースリーブの少女乗り来る

 (むじんえきの ひなたのにおい ともないて ノースリーブの しょうじょのりくる)

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 混雑する都会の電車ではそんなこともなかろうが、がら空きのローカル線では、駅ごとの新たな乗客には車内の視線が集まる。顔つき、髪型、服装から手荷物に至るまでが睨めまわされる。突飛な身なりでもしていれば次の駅で更に上手が乗り込んで来ぬかぎり衆目の的だ。見られて嬉しい人もあろうが。

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  Wearing smell of the sunshine of the ghost station, a girl in sleeveless blouse is coming on board

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 谷水のゆたけき辺り村の子に交じりて泳ぐ吾子に手を振る

 (たにみずの ゆたけきあたり むらのこに まじりておよぐあこにてをふる)

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 子供たちを連れての夏休みの帰省。昔は村落にも沢山の子供がいた。真っ黒に日焼けして活発な連中だ。なまっちろい都会の子はいかにも目立った。田舎の子に交じって動き回る己が子を見て喜んだものだ。それが、田舎から子供が消えた。たまに見かけても野山を駆け巡るあの逞しい子供たちではない。

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  Sketch a wave at my little boy swimming among children of the village at the spot with still water of a mountain stream

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 蜻蛉追ふ子らと入り来し山道の文化二年の墓石に触る

 (あきつおう こらといりこし やまみちの ぶんかにねんの はかいしにふる)

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 田舎には古い墓所が随所に見られる。大方は日当たりの良い丘の斜面に点在する。大層な墓石はないが、漬物石ほどの石の面には年号などが読み取れるものもある。文化二年は二百年も昔だ。まさにご先祖様に見守られている景である。町の墓地なら先祖代々と一括りにされる一人一人がここには…。

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  Coming up to a mountain path together with my children chasing dragonflies, now touch a roadside tombstone inscribed with "Year 1805"

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 原爆を落としし国を憎む老いに左翼と詰る若き君らが

 (げんばくを おとししくにを にくむおいに さよくとなじる わかききみらが)

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 「安保反対、ヤンキーゴーホーム!」四十年ほど前、多くの若者や学生が叫んでいた。反米デモや集会に参加していたあの頃の一途さが懐かしい。深い思慮のもとの行動ではなかった。群集心理の昂りとお祭り騒ぎの快感。動員された大半はそれに酔う。軍隊、右翼、左翼。人を集めれば同様の昂奮状態が。

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  You babes and sucklings! Can't name the old man, who keeps hating the country that dropped A-bombs, as leftist

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 聖戦と信じたる身の惨めさに南瓜の花をけふも数ふる

 (せいせんと しんじたるみの みじめさに かぼちゃのはなを きょうもかぞうる)

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 天邪鬼と罵られ、斜に構えて世を生きるにはそれなりの勇気も要る。大方は世の流れにつく。その流れを加速する役目を担う。押し付けられた価値観なのに。やがて自らの信念であったかのように他人に押し付ける。そして自分の愚かさに気づく。だが、大多数は反省もなく次の風向きを探っているのだ。

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  Being bum about having believed it as holy war, have another day only counting the squash blossoms

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 幼子を吾に預けて電話する妻の語れる岩手の言葉

(おさなごを われにあずけて でんわする つまのかたれる いわてのことば)

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 同郷の友人との会話らしい。始めはお国訛りもちょっぴり。が、たちまち相応じてまったくの田舎言葉に。流暢でいかにも楽しそうだ。自分には真似の出来ぬ言葉を妻が話す。でも外国語ではないから大方の内容は理解出来る。リズミカルな話しぶりを聞いていると、何だか妻が誇らしく思えてくるのだ。

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  Leaving the little baby in my hands, my wife starts speaking over the telephone in the dialect of Iwate Prefecture

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 差し迫る下期プランの下書きに盆の休暇のひと日を過ごす

 (さしせまる しもきプランの したがきに ぼんのきゅうかの ひとひをすごす)

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 所詮は画餅のプラン。現に上期も目標には及びそうもない。なのに。将来を暗く描くことが出来ぬ。実績を伸ばせ、努力目標を掲げよと上から叱咤される。結局は夢のプラン。大方は下期の出だしから予算未達成に。それでも時には神風も吹く。達成率百二十パーセントなどと有頂天になることだって…。

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  Make the pressing draft budget at home for the second half year killing one full day out of my Bon Holidays

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 日に焼けし父親たちは居酒屋にけふの野球を語り尽くせず

 (ひにやけし ちちおやたちは いざかやに きょうのやきゅうを かたりつくせず)

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 近郊の大型店に押されて青息吐息の町の酒屋。それが週末の夕方には居酒屋と化して賑わう。草野球を終えた男たちの溜まり場となるからだ。付き合いゴルフや腑抜けとなったごろ寝だけがサラリーマンの休日ではない。町内の仲間とスポーツに興じる連中もいる。職場とは異なる空気を深く吸いながら。

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  Sun-baked fathers can't stop talking about the day's sandlot game at the pub of the town

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やまひより癒えしと告ぐる友人の笑顔を映す今朝のパソコン

 (やまいより いえしとつぐる ゆうじんの えがおをうつす けさのパソコン)

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 朝はまずパソコンを開くことが習慣になった。世の定年族でもなければ多くの人が深夜にプライベートのメールを打つ。外国からのものもこちらが寝ている時間に送信される。さて今朝はどんなメールが。すぐ返事を書きたくなるもの。二日三日置いて冷静に、或いは凝った文章を楽しむ返信もあるのだ。

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  My friend is smiling this morning on the PC screen with a message telling he's recovered from illness

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 寂れゆく商業地区のただなかに九階建ての葬儀社の建つ

 (さびれゆく しょうぎょうちくの ただなかに きゅうかいだての そうぎしゃのたつ)

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 駅前の目抜き通り。軒を並べていた銀行や百貨店が消えた。暫くは更地となっていたその辺りに高層ビルが建ち始める。マンションである。生活に便利な都心の住居が庶民の手に入るような価格となる。また、本通に面して高層ビルの葬儀社まで現れた。小金を持つ高齢者が増えているのを当て込んで。

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  In the heart of the decaying commercial zone,a nine-story building for the funeral home has been built

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 わが語気の高飛車となりし工場への電話の後のにがき茶のあぢ

 (わがごきの たかびしゃとなりし こうばへの でんわののちの にがきちゃのあじ)

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 恥ずかしいことだ。いつの間にか互いの立場に傾斜をつけてしまう。「下工程はお客様」などと品質管理のスローガンもそうだ。顧客からのクレームに営業部隊は生産現場を烈しく詰る。忘年会などで「皆様のお蔭で」と感謝もされるが何か空々しい。お客様が神様でなかった時代もあったことを誰が知る。

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  After hanging up my phone conversation with the manufacturing department that lifted my voice authoritatively, have a bitter cuppa

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 続けゐし趣味の英語をつかひゐるテーマパークの二度の勤めに

 (つづけいし しゅみのえいごを つかいいる テーマパークの にどのつとめに)

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 趣味や特技を生かす仕事につければ幸いだ。現役時代ほどの収入はないが世の中に貢献しているとの実感が持てる。あれほど多忙だったホワイトカラー時代なのに。こうなってみると何ひとつ世の役に立つスキルが身についていない。お茶汲みや使い走りを生涯させられた給仕で終わってしまった気分だ。

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  Going to his second business, a theme park, were he can use Enlish that he kept learning as a hobby during his active life

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つぎつぎと仲間を失ひし過激派の労組の事務所に点る秋の灯

 (つぎつぎと なかまをうしないし かげきはの ろうそのじむしょに ともるあきのひ)

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 だしぬけに左翼系の上部団体を持つ労働組合が組織される。戸惑う会社。そんな時代があった。やがて会社の肝いりで穏健な組合が作られる。長いものに巻かれる社員たちが集まりたちまち多数派に。気勢のあがっていた過激派の組合もオルグと呼ばれる数人のみが法で守られている立場をとり続ける。

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  An autumn lamp is lit in the office of the radical labor union which is losing its group members one after another

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 操車場売却さるると聞きてより坂埠に貨車の影を見ぬ日々

 (そうしゃじょう ばいきゃくさるると ききてより はんぷにかしゃの かげをみぬひび)

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 坂埠は貨物の操車場につくられた勾配線。貨物のひと列車がここに引き上げられ、その連結している貨車を放して行先別のレールに配るためのもの。通勤電車がこの操車場に差し掛かると必ず目をやった。夜をついて到着した貨物列車を見ると何だか勇気が沸いた。今やトラック便に放逐されてしまった。

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  On hearing the news that the marshaling yard would be sold, pass my days without viewing the railway wagons on the sorting slope

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 衣食足れるサラリーマンらは闘争の言葉にも奮ひ立たずなりたり

 (いしょくたれる サラリーマンらは とうそうの ことばにもふるい たたずなりたり)

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 あの頃は春闘の時期になると、社員たちは「闘争」の鉢巻や腕章をつけたものだ。一流企業のひしめく丸の内あたりでもよく見た。それが商談などの接客中には外すようになる。昼食に出る昼休みにも外す。やがて鉢巻も腕章も引き出しに入れられたまま。労組の役員に促されても無視される運命になる。

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  As the salaried class does no longer have a hunger for food and clothing, it's hardly inspired with the word "annual labor offensive"

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 よく笑ふセールスマンが休日の電車のすみにつくねんと居り

 (よくわらう セールスマンが きゅうじつの でんしゃのすみに つくねんとおり)

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 人のイメージは簡単に定着する。その人間の生き様のほんの一場面で得られた印象でだ。自分の知るその人らしからぬ振舞いを見たりすると大いに驚嘆する。偕老同穴の女房も亭主の職場での横柄な態度を知らぬ。社員もこの上司が家庭ではただの粗大ゴミなのを知らぬ。見えねばイメージも湧かぬのだ。

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  The usually giggling salesman is found in the corner of a holiday train with his lonely figure

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 十年の虚ろなる余生をかく終へし母を鉄扉の内に去らしむ

 (じゅうねんの うつろなるよせいを かくおえし ははをてっぴの うちにさらしむ)

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 平均寿命が伸びて晩年と言える時期が誰にも訪れる。十年、二十年と無為に過ごせぬ長さだ。大方が衣食住に不自由しない連中である。中には芸術や文学で輝かしい晩年を実現する者もいる。が、ひと勝負するには億劫な年齢だ。脳味噌も体力もついてこない。公園や縁側の日向ぼこには長すぎる時間だ。

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  Having spent ten years of her last days going soft in the head and died in this way, my mother is now sent behind the iron door of the crematory

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 温みゆく水割りを手に持ちしまま若きらの歌に笑み送るわれは

 (ぬるみゆく みずわりをてに もちしまま わかきらのうたに えみおくるわれは)

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 ノミニケーションなどとよく言われた。柄でもないのに飲み会やカラオケに付き合う。居心地はよくないが、機嫌よくしている仕事仲間の気分を害してはと笑顔を絶やさない。中には気を遣って「一曲どうですか」とマイクを渡してくれる者が出る。手本にすべき付き合い上手な奴がここにもいたのだ。

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  Holding motionlessly in my hand a warming glass of whiskey with water, fix my eyes with a smile on the singing young people

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 酒を断つ者またひとり増えたるが同級会の会話賑はふ

 (さけをたつ ものまたひとり ふえたるが どうきゅうかいの かいわにぎわう)

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 同級会が活発だ。参加者は中高年。自らの行方も定まり、遠い来し方を共に語り合う仲間が欲しくなる。ややもすれば酒でエンジンをかけていた会合とは違う。懐旧の情念が誰をも饒舌にする。人生の勝ち組も負け組もない。みなあの頃に戻る。前途洋洋とそれぞれが言われていたスタートラインへと。

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  The class reunion is having a lively conversation although there's another participant who has abandoned alcohol

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 はるかなる星雲の中の双子星わが卒論のテーマとなりき

 (はるかなる せいうんのなかの ふたごぼし わがそつろんの テーマとなりき)

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 夫婦は双子星(連星)のようだ。互いの引き合うバランスで広い世の中を渡る。その一方が何かの拍子で消滅すると大変だ。訳の分からぬ世間の秩序の只中に放り出される。その行路に新たなバランスを得るまでに時間がかかる。宇宙のあちこちでそんな現象が。まさに色即是空、空即是色の世界である。

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  The twin stars in the far galaxy; have decided to do a study of them for my graduation thesis

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 叡山の曇れる辺り見やりつつ車内に思ふ午後の会議を

(えいざんの くもれるあたり みやりつつ しゃないにおもう ごごのかいぎを)

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 重要な打ち合わせが目前に迫る。ああ言われたらこう言うなど、あれこれ方便を模索する。こうしたとき、西洋人は会議前に散歩などの運動で身体を若干疲れさせておくらしい。席上では神経は鈍感な方がよい。会議がエキサイトしたとき、徒に巻き込まれぬためと言う。真似すると睡魔に襲われるかも。

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  Looking sometimes from the train window into the cloudy sky where Mount Hiei would show its peak, still think of the meeting forthcoming in the afternoon

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 この年も友のひとりの訃報ありてパソコンの名簿が一行繰り上がる

(このとしも とものひとりの ふほうありて パソコンのめいぼが いちぎょうくりあがる)

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 人生も峠を越せば年賀状の数も減る。さびしいが詮無いことだ。年に一度の賀状交換のみでつながっていた知己もぽろぽろと欠けてゆく。お祖父ちゃんお祖母ちゃんに初めての賀状を書いた孫の方は今年から遊び友達への何通かも書き始める。交友の世界は広がる。その世界から忘れられつつあるものも。

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  This year again,receiving a letter telling one of my friends passed away, the roll of names on my PC moves up by one line

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 労働者たる自意識のもはや無きものらの捨てしことば「団結」

 (ろうどうしゃ たるじいしきの もはやなき ものらのすてし ことばだんけつ)

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 資本家に搾取される労働者。皆そう思って「団結」を叫んでいた。世の中の下積みとの意識も強かった。それがいつの間にか世界一の賃金を得ている自分達になっていた。格差社会が進み、フリーターやニート族が世の下積みとして出現。自分らはまだ幸せと裁量労働なんてのも受け入れることになるか。

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  As people already lost their self-consciousness that they belong to the industrial class, they've given up the word "union"

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 高齢化社会を論ふ若きらは姥捨山の古事にも及ぶ

 (こうれいか しゃかいをあげつらう わかきらは うばすてやまの こじにもおよぶ)

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 出生率が低下している。百年後の日本の人口が半分になると言う。更に進めば江戸時代の規模に。そこいらで安定すればそれも悪くない。何しろ資源の乏しい国だから。問題はその過渡期に訪れる超高齢化社会だ。裕福な年金生活を送れる筈がそうもいかなくなる。長寿が喜ばれぬ時代がもうすぐ来る。

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  The young who discusses the current aging society finally touches the story of granny dumping as legend goes

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★ あとがき ★

 二年間にわたり毎週、これまでに詠んだ歌のうちから一首を取り上げ、短いコメントとともに掲載してきた。七十歳を過ぎて来し方を振り返れば、事柄のすべてが懐かしく思われる。

 百余首を取り上げたいま、まだまだ過去へのノスタルジーも覚めやらぬところだ。しかし、この秋に四十年近くも連れ添った妻が急逝してしまった。何かにつけ「昔は良かった、楽しかった」と共感してくれるパートナーを突然失った。共に歩んできたこれまでを独り振り返るのも詮無いことだ。

 この際、 前に向かって一層歌作りに励みたい。この秋の悲しみの底から生まれ出てくるものを追ってみたい。

  二〇〇六年十二月三十一日 ・ ・ ・ ・ 長沢英治

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長沢英治の近作

英治歌集「一年の憂さ」

英治歌集「蹌踉として」

英輔歌集・上

英輔歌集・中

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