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初富士を望めば父母を恋ふごとしわが来し方は悲しかりけり
点字紙よさやりある身もいや深くいたり得べきと学びぬ今日も
年のあした東天紅の聞ゆれば平和になりしおもひ沁みにき
缶切のし方おそはる春明けて風邪にこやれば肉親うれし
水餅にしてたくわへし白餅を宝の如く思ひしかのころ
捕獲されし噂ありにし片目犬元日の路次を淋しく行けり
今年こそ入試を期しぬ初田圃車窓にみつつ上京し行く
手拭下げ町の初湯に行きながら長生きうれし霜を踏みつつ
ふるさとの餅花挿せし古なげししひし目ぶたにいく年消えぬ
幸福はささやかなるかなひとり読む夜の炬燵に雪降る音す
冬に住む朝のね床の温かく欠け居し何かしみじみ復す
春待ちて暮しゐる日に枯枝に鳴声の来ぬ声なつかしも
媚ぶ声よ児を呼ぶ声よ夕映ゆるゆふべの路次にはや春近し
どこからか飼鶯の声聞ゆよろこび多き二月来りぬ
のびそむる二月の光うら若き薔薇色染ぬ障子のすみに
わが家の朽ちそめし塀東風かぜにひねもすきしむ音を立て居り
紐垂るゝ春の灯やさしうつし身に生きのしがひのある夜々は来ぬ
子に嫁の決まらむとしてうら楽し娘と呼ばむ持たざりしかな
いそしみて幸きき一家をきづくべし若きちぎりを祝がざらめやも
下萌ゆる春ならんとす忍びきしいく朝夕をかへり見にけり
湯たんぽの冷えくる早き抱だきつつ心淋しさ春待ちにけり
凍てゆるみ凍てもどりつつ日にけにも春となりゆく門辺の小径
下萌の土なつかしく一年の春かへり来ぬ生き栄ゆべく
はしかの子ね床に坐り遊び居り春のほほじろ遠きへに鳴く
クラクションの行き交ふ道に手をひかれ立ちすくみつつ悲しかりけり
診察待つ広き廊下の片隅にコーヒー牛乳買ひ元気出し居り
暗室の小さき椅子にかけ居つつ博士の人柄に胸あたたかし
二十年命とすがる短か歌捨てなば吾に何のこるらむ
二十年命とすがる吾が短歌かなしましむる春雛の声
目をしひて小鳥の声に耳さとし玉をまろばす声となげきて
老かなしビタミン摂れど肉体に生長をせむどこもあらなくに
世をこぞる花のやよひにかひもなき老の命と思ひ遊びき
老そめて倍賞千恵子の可憐なる唄に涙をもよほして居り
菫れつむ女のわらべ等も草原もやさしかりにき明治の頃は
ささやかなことにはあれど鉢に出し双葉のにひ芽けふのわが幸
命あるかぎりはと思ひ老なみに益なきことともわが思ふなり
セールスマンの条件の結びに声ひくく「誠実」の語を加へられにし
病む窓に遠きかけろの聞え来る春暁にしてかなしみにけり
病む窓に明け方いつも聞え来る遠きかけの音あわれそのかけ
遠きにて朝朝鳴きしかけの声絶えて聞えずいかになりけむ
肉うまき故に薄命の小じゅ鶏もまじりて唄う百千鳥かな
辿りゆく喜びをさへ今は持つ人の世の道かなしきかなや
あたたかき思ひも知らず老いそめてただうつし世の条理をぞ言ふ
花模様紅き衣桁の紐ごろも仕合せに似て春の夜半かな
遠ざかる故郷の春よながらへて酸川をわたる汽車の窓より
今は皆な没落をして知るべなきふる里駅を通り過ぎけり
家屋敷人に渡りしふる里の文庫倉よ悲し紅梅よかなし
海棠の花咲く蔵にたれこめて姉は縫ひにき家運没して
分家みな早く没して本家だけ残れる秋の魂まつりかな
商人の家系なれども代を経し金じき八槌車の紋よ
蜜柑まく初荷の行事今もありや雪多いかりしふるさとの町
しひし目の目ぶたの裏にたつかしく阿武隈川にわたす舟橋
今も心に秋山裾の蒲波見ゆ岨老松の騒ぐ音聞く
四十雀ひそかに売りし農家ありき弁天山のさそふ思ひ出
ふる里に初めて電燈つきし夜菓子貰ひしも父母のもと
店の自転車に遠のりして帰らざりき叱られて泣きし春やふる里
校倉の鳩に小石を投げつけて零点にされし友よ母校よ
中学に入りて健児をほこりにき松令橋の下の泳ぎ場
少年雑誌に蜜柑三つをのせられし年玉なりき父母の膝下に
すくすくと育つ身体を褒めてくれし亡き祖母恋しふる里の風呂
ひとりにて厠に行くを恐れしかふくろふ鳴きしふる里の森
鳥籠に目白を入れて吾に呉れし畑の中の下婢の里かな
柿に下げし目白しまはぬいきどほりは下女に向けし少年の日よ
つくばひにわらべの頃の初雪に南天の果の赤かりしかな
家家の白壁高く夕照れるふる里のさま目ぶたに残る
うら若きスヰトピーの蒼等と春待ち恋ひぬ窓の机に
鳥鳴きて春はのどけし文学は吾れを欺くものにありとも
あはれなる心なげきに一生を悲しく賭けて詠みし歌これ
おぼろ月鳩の声してうるはしきあせりし一生悲しかりけり
口を糊す足しにもならぬわが歌を書きし色紙の泣かまほしけれ
しづかなる日和を待ちて蒔かむとす芙蓉の種を惜みて居りぬ
幸うすき日とな思ひそ紅椿小雨にぬれて咲きゐるものを
今も悲し仙台高工の桜並木よ花吹雪く日に卒業したり
卒業の実習了へし草原に野火かこみては夢を語りき
ノート片手に行き通ひにし頃思ふ実桜にほふ図書館の道
森に来てほととぎす鳴くさみだれの寮の夜々かなノート調へて
高工と小さく入れたる銀バッチあはれ誇りなりし旅の汽車にて
よろこびも悲しみもいく年月か萩の黴章と別れにしより
泳ぎに行き友が蟇口落したる広瀬川の瀬よ変らずありや
大屋根の端にて鳴ける朝雀空かがやけり夏立つらしも
子雀にかくやさしく鳴く声がありぬ日の出に夏は来りぬ
はつ夏を鳴く雀等よコンクリートの都会の屋根も足りて殖えしや
孤独にて常に孤独にてありしかば楽しげに鳴く雀親しも
空青く雀等鳴けば日暮まで悲しむ事は吾にも無きや
はこべふえ鳴く子雀の声ふえぬ来ぬ幸福も待ちて思へや
元気出し生きよ癒えよと今年又青嶺ゆひびく諸蝉の声
たち花咲く文教室に窓洩れて学べる声や山かげの里
夙く起きて早き老かも朝朝の日のい出たのし新緑のころ
小さき缶からに山蘭植えたのしみとせり夏は来たりぬ
新しき柄杓がバケツに浮び居り喜び持ちて夏は来りぬ
そばえして朝日さし来る燕の子ふるさと思ふ夏は来りぬ
ゴールデンウヰーク過ぎてしまへば窓若葉いよよ白はえ薫りて来るも
枝さきの毛虫を焼きて小さき庭に和ごむ思ひをして居たりけり
思ふことしばしわすれて風薫る庭のいく鉢は心うれしく
初蝉の明るさ胸に通ふのか口笛吹き居り庭の子供は
いつくしみ足らざるいく鉢はしきやしこの降る喜雨に飽き足りたらむ
身にしみる家根の夕陽よものなべて梅雨に入りゆくにほひ持つ頃
戦前は梅雨の蛙がきこえたるこの辺なりし今も住み居り
折りふしにあをく思ひはことなれど吾に親しき夕ぐれの空
過分なるごとき気さへして吹きかよふこの涼風にうち呆けて居り
酸き梅の出て来る中をたのしみに握飯かみし如き一生よ
ラヂオより高嶺駆鳥り聞ゆなり旅せぬ吾れをまねきて聞ゆ
夏の月溝川にほふ涼み台夜夜の談笑ここにして湧く
八月かな遠く聞ゆる盆踊蚊帳にしみ入る夜の秋意よ
夏暮るる軒の簾を吹きあほつ雨風涼しきちきょうの花
夏も早や小雨する日の暗がりの甕に昼鳴く鈴虫の声
障害なくば歌のまねびもせざりけむ喜ぶべきかあはれむべきか
大道に妻のみつけし百円のすだれ安しよ夏が又来ぬ
生涯を何かあせりて過ぎたりき祭りの笛を聞くたびなげく
聞き居ればくぐもりて鳴く鳩の声雨の朝明に聞ゆるものを
功名を目ざして学ぶはかなさよしきりにやさし雨の鳩の声
勤めより帰り来し妻い出そめし蝿打てば夕べ淋しかるべし
い出入に門の小さき鈴鳴らしささやかなれや朝顔の花
まだきより早や起きいでて家族等の夏すこやけき朝顔の花
つまる溝汲み出しあひて吾々の二軒仲良き朝顔の花
気軽く種をくれたる人は亡しその朝顔もなくなりしかな
硯笘コップに挿せし一りんの渕色ふかき朝顔の花
かく住みて厠の古きくち塀にあはれに白し夕顔の花
朝まだき小さきラヂオを流れ出る神の言葉よ悲しきまでに
五月雨のしぶき降りつつ今日もまた小さきラヂオに知見ふえをり
何もかも小さくてすむ吾がたつき新しき蝿帳買ひて夏来ぬ
入れてある茄子漬見えて夏となる小さき蝿帳心満たしむ
つつがなき帰り道日の傾きて涼しき風の吹もかなしも
かっけ病みて朝露の土踏みたりしただ耐えたりしかの夏あはれ
洗ひをへて温かき湯をかぶる時の嬉しさあはれ冬の行水
冬ながら鳥肌たてて行水す古武士のことを思へば何ぞ
修養にあらず鍛練にあらずすべの無きなり冬の行水
若葉青葉しげらふ春となりにけり行水するに早や苦労なし
破れ庇夏の月洩るべくなりぬ行水しつつ詩吟さへ出づ
行水に涼む夕べはかなしかりきいく年過ぎしかくし住みつつ
秋を鳴くこほろぎ淋しひそやかに昼行水の釜を沸かせり
門外に一歩も出でぬ年月よ行水をしてはげむ文学
算数の問題出してと言ふ子等と夜々安き梅雨の一灯
梅雨に住むささやかながら一灯下ある夜は買ひしものを分ちて
ひとりして病の床に幸福の明るき面を考へ居たり
家の棟に沁みて鳴きゐる法師蝉怠けし夏も早や過ぐるなり
更けて汲む共同井戸に月涼しなどかこの世を愛さざらめや
いつの日も貧しきままに過ぎにしが盆の畳新し子の賞与にて
新しきトタンに替へし厠屋根柿の落葉のすでに溜まれる
新しき集金人がねもごろに言ひて去りゆく夏すだれかな
童べ二人葉かげの蝉に逃げられて塀の外にゐる町昼ねかな
つけつけともの言ふ老になりしかど新しき世を憎むにあらず
病む吾に小さき虫かご吊りくれぬ学びの中に育ちゆくかな
つつがなく夕餉の箸を持つ幸よ今日の身に沁む鈴虫の声
職ありてささやかながら夕ぐれの飯あたたかし新生麦うまし
熱き茶に何かひしひしと新秋なり蘇り来るファイトかなしも
端近き畳に朝日のりそめて来鳴く色鳥声うれしもよ
朝霧に色鳥の声しうつしみの生けれる幸をわが思ふなり
朝まりのつけば心も爽快に今日をいそしむ老のさちはひ
真乙女となりし娘の父親にさむらふ秋の昼餉聞ゆる
いとなみのみなささやけきわが路次に菊の香かおる秋も深みて
たわわにもあらぬわが家の柿の実に鳴き声が来る憎からざりき
終点より濡れかへりつついつもより村雨多きみ秋なるかな
いち早く秋となりゆく空地にてしほから蜻蛉捕りし声すも
夜半の空地初こほろぎが鳴きてをりわが待つ秋は近づくらしも
朝の虫家のまわりにすだきつ涼しき秋となりにけるかも
虫の声聞くべくなりぬこのごろはくらしのゆとり少し得たりき
土掘りて西瓜のくづを埋めにける穴のあたりの夜々の虫が音
朝宵に村雨降りて塀さきの空地にしるしこほろぎの秋
オカメ、ミツカド、エンマ、ツヅレサセ等鳴きつつ秋も半ば過ぎたり
雨戸さす夜寒に秋のなるなべにツヅレサセだけまだ鳴きて居り
ほそぼそとツヅレサセのみ残り鳴きあたたかき夜のうら悲しかり
老いて死ぬ摂理うらがなし戸の外の夜寒にいまだすだくこほろぎ
苦しかりし暑さも峠越しにけり初法師ぜみ夕法師ぜみ
貧しくもよろこび多し子供等と並びねる夜の馬追の声
我がほかは気付かざれどもこの夕べ蜩ひとつ鳴きぬ露けく
天の原涼しき秋の初風がわたりゐるらし夕暮れの空
咲きそむる芙蓉の白き花二つ貧しく住めどしづ心かも
いちぢくの細みきにしみ果にしみて甘さとならむ白露悲し
昼飯のあと熱き茶をいれなほし秋となりゆく親しさに住む
一人して昼のね床に起き伏せば秋となりゆく雨だれの音
芸術の難きは知れり一冊に残さまほしきわが歌かなし
生くるため心ひたぶるに傾くる願ひ悲しき歌集抱きて
目白去り四十雀来て町中のわが小庭にも秋思悲しも
奨学金をもって恩借となす心かなしき希望持つ心かな
すなほなる紫苑の花にしづかなる秋のひかりはあたりて居たり
朝日にほふ千草の露やささやけきよろこび事も喜びとして
人里の夕餉のにほひあたたかくただよふ秋の暮を帰りぬ
夕空が真蒼なる日よスモッグになやむ都も晩秋となり
名を染めし醤油工場の黒塀に向ひて並ぶ秋の小家等
秋ふけし軒にあそべる雀等のころがせるもの落ちて音せり
秋ふかく淋しくなりしわが路次に学校の声ひと日聞ゆる
ふくよかにはぐくまれゆく女童の千代紙折りてあそびゐる秋
天高く野はまんじゅしゃげ捕ひたりたのしき秋となりにけるかも
日ごろ世話になりがちと茗荷とりて知るべの人に持ち参じたり
夜々の家のまわりにうち騒ぐ唐もろこしに安けかりけり
夕映に揚げて居るなり学び舎の運動会の若き勝鬨
末枯にこの安らぎありぬくき風しづかにわたる日をなげくかな
たなびける小春の空や人生も過ぎしが如き淋しさ秘めて
キヌカツギ小店のさきに見る頃なりあの思ひ出も遠きをおもふ
朝々の熱き茶親しあきらめの心安さをいつか覚えて
あはれなるわが感傷をさそふかな眠りにかへる夕映からす
家づとをととのへ持ちて駅通り急ぎつつあらむ夕しぐれかな
いつはりのはびこる中に光りにき星の光のごとく悲しき
はてしなき砂漠のごとき人生にひそむ希望ぞ悲しかりける
誰れよりも主はくるしみの生涯を過ぎたまひぬと親しかりけり
家興せしわが祖父はかかる時耐へたるべしとわれも耐へたり
許し貰ひし四年の夜学あくろふの森を通ひて怠たらざりき
農閑の灯下親しく読むならん二千六百年史借りてゆきたり
さいはひの年となれかもあかね空つくれる方の初鶏のこえ
もうけなき駄菓子屋たたみ移転せしあの夜のちちろ秋ごと思ふ
思ひ切りて数学教授の木の札を駄菓子あきなふ軒にかけにき
すすめられてパチンコ一台置きしかど同情の少数来りてあそぶ
嘲笑あり善意あり世間の目やうやくなれてあきらかに見ゆ
いつもいつも家賃待ちくれし家主の門の茂りを今でも思ふ
日給にて軍事工場に職のある噂を聞きて妻は応募す
子も連れて町に太鼓焼おごりくれぬ妻をかなしく思ふ夜の雨
アパートの四畳半の冬ぬくかりき英語ならひに来る知るべの少女
豆腐汁親しきかなや老いそめて煮炊きといふも飢に足らしむ
湯豆腐のそばにグラスの一杯あり至れる老のたのしもよ今宵
十一月さちはひ深き日々に似て小春障子のかげに暮らせり
木の枝にほしひがままに太陽のぬくみをうけてこよひの蒲団
雨あとのこのぬくき日を掌中の珠ともなげくよはひ老いては
朝寒の雨戸あけつつさしのぼり行く日天子うらなつかしも
東紅のさし来るなべに水気たて雑草の露草はみなしづかなり
冬立つや生きながらへて朝々の飯と味噌汁あな親しもよ
夙く起きて二枚の戸繰る朝々の露霜冷ゆる冬菊の花
着古しのでとら繕ひ貰ひ来て着そむる冬の心親しさ
散りしける落葉あつめて香ばしき焚火親しむ老となりつも
ポケットより蜜柑とり出しもてあそぶ女児の幸福冬が来りぬ
帳りかへし障子をしめてひとの窓幸福に見ゆ冬の日ざしに
消壷より遂ひ払ひたる野良猫にあはき感傷寒くなりそむ
節約して買ひにし石油ヒーターよ夜々ささやかにあたたかかりき
捕獲されし噂立ちける老いし犬また姿見せいたわられ居り
つつがなき雨戸しむれば一寒灯うら安きかな今日も終りて
美しきひたきが垣に来鳴きたりみ冬づきゆくたつきたのしも
足れるにはあらねどたつきしづかにて電気アンカに床ぬくめにき
金なければ首なき思ひあけくれに日々しつづけしわが一生かも
肉親の情縷のごとし灯の下におほ根のにほふ夕餉囲めば
冬厨朝々待てる野良犬がいつか家族等の愛をあつめき
柱時計うれしき音す年末の賞与の一部出して買ひにき
スキーより帰り来りし子のつとのみすずの飴も心うれしも
病む吾れに縁日に行き、求めたりせつなき百三十円の冬ばら
ふふみそめし冬ばら紅き一輪にまざれむとする日向ぼこ淋し
日当たりの冬ばらの紅きややややにほぐれむとして香をたてつ
末の子が三時すぎまで日のあたる軒に冬ばらの棚を造りぬ
冬のばら日の出さしくる軒下に一輪紅くかはらぬたつき
詩に生きてこの喜びをひとりい抱く落葉に埋みつはぶきの花
わが心安らぎを得て今日もまた茂吉歌集のページをとぢぬ
救ひ得し思ひしてまた導びかる涙さしぐむ茂吉の歌よ
とこしへと思ふ孤独のまさびしくひとり行くなりこの道けふも
しひし目をなげきて止まずかなしき書なでてさすりて思ひみだれき
パンのみに生きざることを早きより聖きみ書に学びけるかも
械橈の薫るが如き思ひして聖きみ書をあけし頃かな
思ひ出はひとり心にい抱かなむ親しく語るものならなくに
事遂げし安堵の如く暖き小春日和も過ぎてしまひぬ
ひとり遠く乏しく暮す長子より送金あるたび沁みてせつなし
子孫にのこす歌集小さく拙なれどおのが遺産のつもりなる悲し
病さびし子が今朝しがたくれゆきし干柿食ひて日向ぼこりす
朝々の霜ふる寒さしみ通り干柿は固く白粉を噴けり
店頭の干柿見れば冬かなし故郷の軒も柿干すらむか
太鼓焼早や出はじめり住み馴れて町の寒さもうらなつかしも
裸木にまだ鳴いて居る夕雀入日を呼びてあそべるらむか
わら灰をたっぷり入れてわが火鉢したしむけふのしづ心かも
変りゆく故郷を思ひひとりしてもちひを炙るわが火鉢かも
正月の火鉢を今年楽しむと楢丸の炭はづみけるかな
短日の心さびしくわが老をわれとかばひて今年も暮るる
六十四才あはれなりけり七十に比してはそぞろ若き気もして
私は明治三十三年福島県に生れ、昔の官立仙台高工を卒業以来、数学の教員などをして来ました。
先に歌集「歳月」を出してから十年、其の間の歌で文学的にほひのあるものを二百首ばかり集めて、この歌集(歳月抄)を編みました。
孜々として学ぶといへど其の進歩たるや実に遅々、天分の少なきをなげくばかりです。しかし、たとへ牛歩の進みでも生きてる限りは進むべきと思ひます。のぼり得ない高嶺を口惜しく眺めながらでも進むべきと思ひます。
先頃結婚した長男の花嫁が来て、淋しい吾が家にうひうひしい明るさを漂よはして行きました。やがて出来る子孫にかかる歌風の祖父のあった事を知らせたい、ぐちな私の願ひでもあります。
一九六四年十月