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幸福はささやかなるかなさざめ雪ふり積む音す夜の炬燵に
病む吾れに縁日に行き求めたりせつなき百三十円の冬ばら
ふふみそめし冬ばらの紅き一輪にまぎれむとする日向ぼこ淋し
日当たりの冬ばらの紅きややややにほぐれむとして香をはなつ
末の子が三時すぎまで日のあたる軒に冬ばらの棚を造りぬ
冬のばら日の出さしくる軒下に一輪紅くかはらぬたづき
山の手の路次にいつしか住み古りて形ばかりの松飾るなり
老いそめて妻にも子にも吾が寿命惜まれざりき春迎ふなり
台風に荒らされたりし町川の仮橋わたり年賀に歩く
元日の盛り場に来て着ぶくれし吾が愚かなる影曳きて居り
春近きうるほひさして夜々の仮田のはてに北極星見ゆ
白き胸こなたに向けて槻の木に鳴く立春の四十雀見ゆ
癒えざらむ淋しさ持てり炬燵にも春梢に鳴くほほ白聞こゆ
伸びそめし春の日脚がうら若き明るさ染めぬ障子のすみに
石塊にもゆる早春の糸遊よ淋びしかりし冬も別れはてたり
春寒き巷の中に住み古りて床屋の路次を出入るしづけさ
朝の大路初つばめかけて吾が鞄かすめ行きしに心明るく
あらそひて不信に満つる中にしてあはれ真珠のごとしおぞかるまこと
誰れよりも主はみじめなる生涯を送りたまひき親しかりけり
椒欖の香りのごとき親しみに聖書のページわれ開くなり
パンのほかに幸あるをしみじみ知る教会のなごむ集ひに居りて
ほのかなる幸福感に眠るなり戸樋のかなづる春の雨の夜
新しき学びに心はずむなり日就寮のすもも咲く窓
ジフテリヤにて死にたる齢をかぞへ見る彼岸の入りの花をあげつつ
朝ねしつつ富の力にあこがれぬ彼岸桜がさき初むるなり
朝々の熱き茶親しあきらむる心やすさをわれもおぼえて
ゆかりうすき老にも温かき物賜ふかなしきまでに君が思ひやり
人恋ひし障子の引手小さなるかへるでの葉が張りませてあり
今朝まりのつきて身体の調子よくよろこびいそしむ老の生淋し
意地悪き汲取人とけんかしてたまりし厠さびしくにほふ
命悲し日ごと来て飲めり庭隅の古石油かんにたまれる雨を
家人に親しむ初夏となりにけりつとめ終へ来しセルに着がへる
夜々の梅雨の灯下にうち睦む銀座に買ひし菓子を開きて
新しきバケツに杷杓がうかび居りいつしかにまた夏は来にけり
新しきトタンに替へし厠屋根ここだく柿の落花たまれり
気の軽く種子をくれたる人逝きて今年も垣のあさがほの花
今朝剪りてコップに入れし朝顔の水吸ひ上げてゐる硯り箱
つけつけと思ふがままを言ひにける人も許せる齢になりて
吾が庭の木に鳴く蝉に逃げられて塀の外に居るわらんべ二人
あららかに窓の簾をあふち吹く雨風すずし桔梗の花
時々の見あぐる思ひさはざまに無花果の上の夕ぐれの空
まあまあのくらしなるべし庭さきにおしろひの花宵々ひらく
桔梗の花をよすがにたちそめし秋涼しさを親しみて居り
法師蝉鳴きそめにけりわが倦まず先人のすすみし跡辿るなり
天の原涼しき秋の初風が渡り行くなり夕暮の空
家の棟にしみて鳴き居る法師蝉怠けし夏も早や過ぐるなり
葉ごもりに白き芙蓉の花二つ朝の曇りにしづかなりけり
昼飯のあと熱き茶を入れ直し秋となり行く親しきに住む
いちじくの枝の皮にしみ果にしみて甘さとなるかこれの白露
夜々のこほろぎ集く塵穴にほの酸く甘く野菜屑の香す
明日の幸をわがねがひつつ家族等と寝どこならべるこほろぎの声
すなほなる紫苑の花にしづかなる秋のひかりがあたりゐるなり
うつ伏せの方が眠れる気がしつつわが聞いてゐるこほろぎの声
朝々の万朶の露やすこやかに日々いそしむを吾が幸とせり
秋草のなべての性か日あたれど芙蓉はさびし朝々咲きぬ
秋の日を吸ひて豊かにふくれたるふとんを並べ祭日のすぐ
老いて死ぬ摂理うらがなし戸の外の夜寒に鳴けるこほろぎの声
吾が妻がみやげを持ちて帰りくる頃なり柿に夕時雨止む
しづかなる冬に入るなり葉がくれに添のごとき熟柿親しく
朝ごとに戸口に来てる野良犬に愛情涌きつつ冬になりそむ
朝酒をのみてあきなひに行く屑屋を長屋うらやむ冬となりつつ
うすら寒くなりたる路次にあたたかき人里の匂ひうち流れたる
一すじの喜び短か歌に生くつはぶきの花落葉がくれに
初霜の降りし寒けさしみ通り干柿はみな甘くなり初む
病さびし子が今朝し方くれ行きし干柿食ひて日向ぼこりす
老いに入るわれに淋しき幸福なり旧知のごとくぬくとき炬燵
木の枝にあふるるばかり太陽のぬくみをうけて貧しきふとん
病み耐へて炬燵にひとり居る夕べ雀のむれが夕陽呼ぶなり
掻きさがしバタ屋は去れり社会層にやはり下積の吾が住む路次を
大根煮るゆふべの仕度にほふなり肉親の愛そこはかと涌く
二十年命とねがふ短か歌捨てなばわれに何のこるらむ
しひし目をなげきて止まず愛しき書なでてさすりて思ひみだるる
うつしみに生長をする何所もなし心淋しく老いそむるなり
目をしひて落魄の中に老ゆる身に天理を説きぬ笑はしやがる
魚を焼くにほひ厨の方よりす寒くしづまりかへる夕べに
「歳月」以来の歌そこばくを選んで印刷しました。あの時より二年近くになります。齢もいよいよかさみ、心身もますます衰へます。そして希ふ歌の境は実に実にはるかにはるかに遠い彼方の高嶺です。すでに日暮れ道遠しです。いや日はとっぷりと暮れ果てました。よろぼふたどたどしき足もとでは何処まで行けると言ふのでしょう。
この歌くず! 今の私の全力です。
町裾の溝川の泥の片すみに残瑞を保つ泥鱒のような分際ですが、いぢらしくも「歳月」に點ずるがら相応な畫龍點睛をひそかにあはれに思はれます。「歳月」の中にさし挟んで置いて頂ければ幸甚の至りです。
一九五九年二月