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高橋直吉の「天壽録」
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   「天壽録」原本
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十津川郷士西村皓平著
十津川記事(上巻)を口語に翻訳し掲載

        十津川記事へ 



 初版 「天壽録」(現代語訳)

王政復古の号令発令された際の
高野山軍軍艦 十津川村佐古源左衛門高郷の襟章

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【高橋直吉】
安政4年に奈良県の五條で生まれた高橋直吉は、亡くなる大正8年までの63年間に及ぶ生涯の出来事を、「天壽録」として記録し後世に残しました。

【天誅組の変】
五條を舞台に、皇族中山忠照を担ぎ徳川幕府の直轄領地の五條代官所を襲撃、尊王攘夷派によって江戸末期に初めて起こった武力による討幕運動。
高橋直吉は「天壽録」の中でその事変の詳細を、前後の具体的な史実も交えて記録しています。

【金毘羅参詣の栞】
明治15年5月11日に五條を母親(キヌ)と妹(楽子)と3人で出発し、5月24日に帰宅するまでの約2週間、亡き父の遺志を慰めるため讃岐の金毘羅さん詣でに出かけた。
その時の道中記として、出会った多くの人々との会話の様子、道中の景色や史跡、人々の暮らしぶりなど詳しく描写しています。


「天誅組の編」
当時 桜井寺の隣に住んでいた
高橋直吉の記録
父久平衛の最後
金毘羅参詣の栞
直吉の母 林絹子

高野山へ納骨


































○平成21年5月8日   「天壽録(現代語訳)」100冊限定発行
○平成21年度寄贈先 五條市役所、五條市教育委員会、十津川村教育委員会奈良市立図書館
            桜井寺、講御堂寺、栄山寺、統神社 その他

○平成22年10月20日  佐古高郷の室東の墓碑修復祈年祭実施 (於、大阪市長柄墓苑)

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【諸業興廃録】・・・・高橋直吉の事業の履歴

○五條代官所へ注文受
 慶応二年二月より諸日用品の注文を受、下婢の補助を受け毎日数回の往復
○農業
 明治三年二月大島村の喜多善之亟を雇入れ、農業に従事す
(直吉が十四歳の年)
○野菜の殖産
 明治四年三月より野菜を作り、売り子数人をして旧代官所に売捌き多少の利益を見る
○五條県庁の諸品御用達
 明治四年三月 五條県庁の御用達の出入を許され、兄源十郎は役所用の諸用紙類を、自分は各
 官舎につき日用品をことごとく調達して大いに利益を占む
○桑園
 明治六年二月信州より木村某なる者来條、十津川郷に養蚕を訓え広めようとしたのを幸いに、
 桑園を作る
○湯葉製造
 明治八年五月 五條田中町の中八重の宅を借入れ、佐味村より政吉を雇い湯葉を製造。製品を
 地方に販売す
○便所設置
 明治九年 戸長役場の認可を得て、五條町の三十八か所に辻小便所を設け、農家より汲取り料
 として毎年玄米を四五石得る 
○地券台帳の販売
 明治九年 地券改正に対し大和地方へその台帳を販売、大利益を占む
○大阪市場へ産物を出す
 明治九年 大阪天満及び木津、難波の各市場に百合根・山芋等の産物を買占めて売り出す。
 その買付には林仁平をあたらせた
○葉煙草買占め
 明治九年 伊都郡山内・細川・下草、吉野郡平尾・茄子原、十津川郷の葉煙草を買入れ製造人に
 売りつけ、多少の利益を得
○晒木綿(さらしもめん)の売買
 明治九年一月 丹原富蔵及び熊吉等とともに紀伊の国伊都郡学文路村付近の生木綿を買入れ、
 吉野川原にてこれを曝し大和北部、河内、山城、近江の諸国に販売し、その利益を得る
○上之島に開墾
 明治九年二月 十津川村野尻で中井束を監督として数反歩を開墾したが、五六年後洪水のため
 失敗に帰す
○支那人と貿易
 明治十年二月 清国飢饉。我が地方の物産、じゃが芋を大阪市居留地の清国人アコンという者の
 手代で島源七との間に売買の契約をして数回に千四五百円の利益を占めるも最後の一回にその
 利益を失う
○日本紙製造
 明治十二年六月小島村栄山寺住職照山明浄、林源十郎、吉川文治郎等と共同にて寺の境内を
 使用して製紙場に充つ
○諸新聞雑誌
 明治十四年一月 東京、京都、大阪に発刊せる諸新聞雑誌の取次販売を開始し地方の便利を計る
○活版印刷業
 明治十四年二月 堺県宇智吉野郡役所が当地に開庁。その布告の諸用紙及び両郡の戸長役場に
 対する諸用紙等の御用達を為す
○各地に印紙売捌き店を開く
 明治十五年五月 下市及び上市に印紙売捌き店を開設す
○諸用紙売捌き店の許可を得
 明治十五年 十津川村の恩給者榎卯之吉、福井勝二郎、杉井貞雄その他数人の名義にて売捌き
 の認可を得当五條と下市、上市に売下所を設置す
○学事諸用紙の発行
 明治十四年 学事表式五十余種の出版を活版にして林源十郎と共同で愛媛県一般にその大取次
 を伊予国宇摩群川ノ江の星川憲逸に委嘱し大多数の売捌きを為し非常の利益を占む
○金魚の繁殖を計る
 明治十五年の春季 金魚の種を郡山町に買入れ、且つ伝授を受けて繁殖を計るも遂に成功せず
○孝経出版
 明治十五年八月 孝経の注釈を佐野煥先生に委嘱し活版に付し出版。大いにその利益を得る
○宋文天祥正気歌
 明治十五年十月 佐野煥先生の句解、自分の小引、吉田正義の題字であまねく世上に発せし
 版権免許を得たり
○勧解独案内
 明治十五年 判事福岡廣業の著述による書にして出版。大いに世上の高評を得る
○地券切換願の請負
 明治十五年 五條北ノ町に汎愛社を設け、社員として岡本泰一郎、岸本清麿、大谷直和、井上周蔵
 その他数名を使用して宇智・吉野両郡に取次所三十五か所を設け大阪府に出願の委任を受け
 大いに利益を得
○太陽暦の分版
 明治十五年 太陽暦の分権を得、出版せんと伊勢山田の本局に交渉する事数カ月。遂に契約
 成立せず
○通運会社の設置
 明治十六年 御所町の今村行重と謀り吉野郡十津川郷を経て紀伊国新宮に達する沿道に通運
 会社支店を設置せんと計画するもついに成立せず

○綿実の検定薬
 明治十六年 本城久平の紹介により大阪松島町の神林栄の製造した薬品を以て地方へ販売の
 契約をするも販路拡張する能ずして止む
○不可飲の大取次
 明治十六年 山口県の福井忠次郎の製造した不可飲を大売捌きの特約を為し、売り子数十名を
 大和全国に木擇(もくたく)を鳴らして販売せしむ
○羊豚の牧場
 明治十六年六月 羊豚数頭北海道より買収して繁殖を計るも失敗に帰し数カ月ならずして止む
○諸新聞転売
 明治十六年十一月 上市町、下市町、御所町、高田町に諸新聞雑誌の売捌き所を設置す
○健胃散製造
 明治十七年 坂井清民の方剤に係る健胃散を製造し近畿各国に販売す
○大峰山の諸書出版上版権
 明治十七年六月 大峰山縁起その他の諸書を坂井清民の編集にてその版権を得て出版を為し、
 登山信仰者に一ヶ年で数千部を販売し多大の利益を収む
○諸新聞競争
 明治十七年五月 斯業者泉州堺の慶雲舎、河内の国長野村の戸賀駒吉、紀伊の国名午村の
 平井萬治郎等十三か所の売捌き店より大競売を始め、自分が設立した聚珍社を相手として乱売
 を始むるも屈せず之に當り、その結果一千四五百円の損失をきたすもついに勝利を得、河内長野、
 堺大小路、大和高田、御所、下市、上市、紀伊橋本、名倉、隅田、北見、高野山、九度山、笠田の
 十三か所に転売所を設置したり。新聞競争記に詳録せり
○マッチ用材
 明治十八年五月 前田隆禮の紹介を容れ、東京本所の新燧社(しんすいしゃ)と契約を為し当郡長
 玉置高良により、十津川郷山白谷山に伐材を許され、生木にて輸出せんと計画するも失敗に帰す
○夏炭製造
 明治十七年六月 坂井清民の発明にしてあまねく世上に販売す
○ぬれがらす製造
 明治十八年二月 坂井清民の発明にして婦人染歯の売薬区域外なり最も世上の高評を得る
○マッチ軸の製造
 明治十八年五月 十津川郷小原に水車を以てマッチ軸の製造をして神戸港に発送する
○戸籍台帳
 明治十八年五月 宇智、吉野両郡一円の戸籍簿の台紙を請負い、吉野郡国撩村に製紙場を
 設け、一千余円の利益を見る
○金庫製造
 明治十八年六月 奈良の阪田一郎及び林源十郎と自分の三人共同で合資を為し、大阪本田町に
 製造工場を設け奈良県一般の戸長に売捌き多大の利益を見る
○牛乳搾取業
 明治十八年十二月 讃岐国小豆島の中島吉太郎の勧奨を容れ、五條西川町に開始し後、鳥ヶ
 森に牧場を開く
○殺虫散製剤
 明治十九年二月 讃岐の中島吉太郎の発明であまねく地方に販売す
○奈良県各町村の地籍編纂
 明治十八年六月 地誌編纂部を設置、書記数名を雇入れ、二百余町村の地誌を編纂す
○和歌山県占ヶ島に牧場を開く
 明治十八年七月 占ヶ島に牧場を開設せんと、数頭の牛馬を積込み有田郡の渋谷傳八等と
 共同にて同島に航す
○地籍編纂業
 明治十九年四月 奈良県各町村の地籍編纂を請負うため正方館を設立し、林源十郎、松本長平、
 堀江籐七、乾宜恕、堀亀治郎、久保福一郎等と組合にて数名の技士を雇い、盛大に請負いを
 為すも遂に大失敗に帰す
○養鶏園
 明治二十一年一月 クキン鶏三百余羽を飼育したるも失敗せり
○麻疹薬製造
 明治二十年七月 麻疹大流行。その良薬として坂井清民の発明で、その効著しく、故に一日千服
 以上売捌き多分の利益を占む
○ガラス原料採掘
 明治二十一年五月 田辺奥にて白石採掘に従事す
○栄山寺鐘銘
 明治二十二年五月 栄山寺鐘銘を出版し汎く発行す
○大屋峠の隧道
 明治二十二年五月 小島と六倉の境界の大屋峠の川際に隧道を作り、夏季の減水に六倉浦の
 水流を止め、漁業をすることにつき、六倉村野牧に交渉を遂げ、六倉の宮脇岩蔵等と共同の事業
 をなさんと計画するもその実行に及ばずして止む
○煉瓦の製造
 明治二十一年一月 野原村の瓦谷清七と共同にて煉瓦を始む
○水害地の牛馬の買い占め
 明治二十二年九月 和歌山県下日高郡にて水害のため飼牛売却するもの多し。有田郡廣村の
 渋谷善七と共同で船舶を借り入れて数十頭を買得す
○塵芥業
 明治二十三年二月 五條町一般の塵芥を集め、農家へ売却することにして久保龍蔵と共同事業
 として宮ノ前にその場所を設け、盛んに執行するもついに失敗
○小島山官林払下げ
 明治二十三年十月 林源十郎、久保久平及び自分の三名共同にて官林払下げに着手、西尾
 長三を代理人として奔走せしむるも、其の極み不許可に終る
○大和地誌出版
 明治二十三年六月 教科書の許可を受け奈良県下に販売し多大の利益を見る
○豊太閤桃山御殿の屏風
 明治二十三年十一月 唐招提寺に桃山御殿の屏風が百隻あり、これを売却すると講御堂の住職
 北浦鞭寛が持ちかけてきたので、三菱、三井、渋沢等の大家に通知を出した。いづれも手代が
 やってきたが、その話は誤傳であったため意のごとく至らず
○勅語習字本出版
 明治二十四年三月十日 教育勅語を村田海名の筆にして出版
○健牛湯製造
 明治二十四年八月 牛馬の良剤として大いに販売す
○天理教会の教書
 明治二十五年三月 大阪朝日新聞社の記者関徳氏と同伴し、丹波市天理教会に至りその出版を
 迫るも遂に成らず
○葬具貸し
 明治二十五年十月 増田友吉と共同にて斯業を営むも中止す
○北山郷富くじ
 明治二十六年一月 北山郷の開路費(道路造成費)のための富くじを補佐す
○遊郭設置請願
 明治二十六年 五條町鳥ヶ森に遊郭の設置を計り増田友吉、松下源平等と請願の運動
○炭鉱試掘
 明治二十六年十月 越中国北岸にて炭鉱を発見、千葉富壽、松下茂実、塩崎利吉等と共同、
 その利を占めて止む
○堺段通
 明治二十九年七月 堺製の段通を製造せんと設計する
○第四師団の御用達
 明治二十七年二月 陸軍省の認可を得、各師団へ御用品調達の命を受け凍豆腐を宇品の
 兵糧部へ吉川文治郎、林源十郎と三名共同にて納品し多少の利益を得、三名宇品に出張し
 帰途宮島に遊び帰国す
○戦利軍艦の引き揚げ
 明治二十八年五月 清国威海衛の港内に沈没せる致遠號、寶筏號の二艦引上げの許可を得、
 村山龍平に謀り、神戸港にその事務所を置き水潜夫・汽船等の準備のため多大の出資をし、
 遂に止む事となる
○五條醤油株式会社
 明治二十八年五月 林源十郎、松本長平、戸谷治三郎、堀江藤七等と組織し東出町に製醤場を
 置く
○東洋牧畜株式会社
 明治二十八年 大阪市北区に同社を設置し発起人千葉富壽、松下茂実、井谷重衛門、岡本徳永、
 北幾太郎、芳田秀太郎、船津弥八郎、島田龍、阪口武文等と大阪ホテルに数回集合し、その都度
 会長に林源十郎を互選、資本金十万円とする
○吉野印刷株式会社
 明治二十八年 上市町に設置し林源十郎、古沢宗治と三人が合資、その支配人は中井束を撰定
○水力電気発起
 明治二十九年十月 熊野郡那智の瀧の水力にて大阪に送電を計画せり
○水道設置計画
 明治二十九年十一月 大阪市内へ山城国清瀧より水道を布設せんと松下茂実の発起にて、千葉
 富壽らと共同設計す
○ランブロ金専売願出
 明治三十年一月 本城房吉の考案を容れ、千葉富壽と製工所を設置す
○根緒の専売願
 明治三十年二月 正永良燕と三味線の根緒の発明したのを買得して共同出願す
○吉野印刷株式会社
 明治三十年四月 林源十郎、島田龍、古澤宗治、阪口民文、樋口善兵衛、船津弥八郎池田米蔵等と
 吉野印刷株式会社を吉野郡上市町に組織し取締役としてその役員に当選せり
○北海道の枕木
 明治三十年六月 米国人と約し、露国の鉄道用の枕木を契約す
○石材切り出し
 明治三十年十一月 備前国児島郡味野村田ノ口にて石材山買入れ、東京に輸出せんと千葉富壽、
 松下茂実等と共同事業となし、当時の代議士桜井徳太郎が東京においてその?悴(ジンスイ・力を
 尽くす)を為す
○奉公人口入株式会社
 明治二十八年九月 大阪に同会社を組織。資金三万円。千葉富壽、林源十郎、松下茂実、井谷
 重衛門、岡本徳永、阪口武文等にして専務取締の選挙に及び何れも辞して受けず。やむを得ず、
 数百円を捨て中止す
○殖産事業
 明治二十八年 千葉富壽その他数名の共同として和歌山県熊の浦奥山に杉・檜を植え込まんとす
○吉野川橋梁
 明治二十九年五月 岡本徳永、磯田清平等と五條・野原間の橋梁を完成させて通行人の便を計らん
 と出願するも成功せず。この出費ニ百円
○大阪絹糸紡績株式会社
 明治二十九年 大阪絹糸紡績株式会社を資金六十万円にて成立す。自分も取締に当選
○大阪演劇株式会社
 明治二十九年九月 同会社の大株主となりたるも火災の為多大の損失を来す
○煉瓦製造株式会社
 明治二十九年十月 和泉国岸和田に煉瓦製造株式会社を設置し千葉富壽等とともに役員に撰定
 せらる
○栄山寺遊船
 明治三十年三月 遊船五艘、ハツテラ三艘をして栄山寺遊客の為、数人組合を組織す
○牛皮製造株式会社
 明治二十九年十一月 千葉富壽、井谷重衛門、塩崎利吉、紙谷重良、中川範治、狭間信隆、
 林源十郎、松下茂実その他数名と組織を為し、大阪府伊丹の小西新左衛門の製造場を買入れ
 尼崎に開業せんとす
○肺病の特効
 明治三十年五月 緋鯉を、小島の溜め池数か所に作り、照山知光に委嘱して繁殖し、他日肺病の
 良薬たる原料を作る
○硯石掘り出し
 明治三十年六月 流星が数多く墜落してきたため、若本幸吉、照山知光等をして掘り出させ、
 帝国大学に献納せんと数人をして着手するも遂に取得できず
○墓地買得
 明治三十年五月 五條共同墓地の隣地を藤原久三郎より買入れ、増田友吉と共同にて坪買を始む
○チン牧場
 明治三十年一月 千葉富壽、堀重信と共同して吉野山にチン牧場を開設。繁殖の上は輸出する
 事に成す
○製紙場
 明治三十一年二月 和歌山市外の嘉家郡に洋紙を製造せんと和歌山市の川島單及び久保久平の
 三人にて組織す
○仏教日刊新聞発行
 明治三十一年 仏教新聞発行の為め西尾長三、千葉義親をして、各国十三宗の本山の管長より
 賛同を得て、大阪寺町の寺院を借入株式会社を設立せんと、岡本徳永を始め、数十名の発起人を
 募り、大いに奔走するや、五條宝満寺の梁瀬作禮も?悴(ジンスイ・力を尽くす)少なからず。
○株式会社三有社
 明治三十一年 大阪土佐堀四丁目に三有社の土地建物及び諸機械を金壱萬七千円にて正永
 良?より買得。五萬円の会社と為し、その役員としては社長千葉富壽、正永良?を専務、又
 取締として高橋直方、林源十郎、阪口民文、岡本徳永、谷迫行輝、吉永秀治、島田龍、井谷重衛門、
 監査には舩津弥八郎、樋口喜兵衛を以てす
○城山遊楽園に加盟す
 明治三十二年二月 城山遊楽園に加盟出資す
○吉野宮の集金
 明治三十二年十二月 吉野宮宮司、堀重信と約し、吉野宮建造資金を汎く募集するための参謀となり
 各国に渉り、数十名の委員を募る
○大和倶楽部
 明治三十四年六月 岡本徳永、正永良?、島田龍等数名と大和より大阪に上る諸士の便を計り
 大和倶楽部を大阪南地に設立する
○東京市越中島払下げ
 明治三十四年 窪尾智導と共同にて越中島を払い下げたり。一万七千坪にして、千葉貞幹、
 殿井隆興の両氏をして安田善三郎に交渉を始む
○醋酸製造
 明治三十五年九月 殿井隆興と共同にて醋酸製造業を熊野の木炭山を使用して製出せんと東京市
 本郷区柳島の日本醋酸株式会社へ通勤してその製造法の傳得を受く
○保険会社の支店
 明治三十五年十月二十日 神戸の河井増蔵の交渉を容れ、米国のエク井テーフル会社の奈良県
 全部の支店権を得る
○塩田買得
 熊本県八代郡文政村の塩田三十一町歩、その小作米三百六十五石を五萬円にて買い下げ、明治
 三十五年一月に発端、三十六年二月に至り其の所有主である細川侯爵より同奉行松村元治の名義
 にて半額(十万円の価値あり)にて払下げを得。一萬円は自分の出資。二万円は勧業銀行にて
 村田保の尽力に依り一番抵当、二十五ヶ年賦、又残る二万円は肥前竹尾の大串勝治の銀行にて
 本質となす
○日向の?石金鑛
 明治三十七年二月 司馬市太郎と共同にて元島津候が事業せし日本有名の金山を買得してその
 事業に着手する
○吹山金鑛の試掘
 明治三十七年三月 日向国児湯郡三納村にて旧金鑛なる吹山を試掘す
○天包鉱山
 明治三十七年十月 日本高名の安質母尼鉱山を松下茂実、中垣行完及び自分の三名共同事業と
 為し、大進行にて採掘を為す。之は九州における第一等の鉱山なり
○天川鉄鉱
 明治四十年 自分の発起にて洞川村ほか数か村に渉り試掘。十三鉱区千百余万坪を許可したるを
 東富蔵、吉川重輔、大島甚三植田理太郎、榎本某の合計六名の共同事業となし、その事務所を
 洞川、和歌山、大阪、五條に置き、技士数名を雇入れたり。この費用金六万円余。自分は東京に
 行き、頭山満、月成効太郎の尽力により、三菱へ一時金四十万円にて売約するも、共同人五名は
 承認せず
○賀名生で白銀の鉱区
 明治四十年十一月 那瀬を始め数大字に渉り五百万坪の試掘を出願するも見込みなく、五百円余
 出資して止む
○大阪難波元町に印刷所
 明治四十一年六月 大阪市難波元町の日本手形製造印刷会社を二万円にて買得しその翌日
 一千円の利益を得て売却す
○五條魚市場
 明治四十二年六月 須惠町に県の認可を得て魚市場を設立するも、一ヶ月後自分の都合上退業
 する
○大阪芝居前茶屋
 明治四十三年十月 大阪市南区西櫓町の老舗を千六百円にて買入れ、その支配人に松下源平を
 従事さす
○湯川肥料石灰焼
 明治四十三年十二月 湯川に発見せし大理石及び石灰を採掘。三十年の契約にて悉皆三十か所余
 に対し信証金を差し入れ石灰焼を開設する
○大理石発見地を得る
 明治四十四年十月 阿波国那賀郡賀茂と谷村の共有山にある大理石を契約し貴・衆両議院建築石
 材部の認可を得て百五十万材納付することに決し、八千円余り投資せり
○鳥ヶ森に石灰窯二個を設け農家用肥料の為め販売す。大正元年二月なり
○湯塩大理石
 大正元年一月 湯塩及び那瀬にて発見、契約するも其の用途に立たず
○山田亜炭坑
 大正二年 宇智郡大阿太村の山田鉱区八万六千百六十三坪を試掘し出費八百八十円を投じ遂に
 成功するに至らず廃業に帰す
○硅石山
 大正二年四月 宇野領なる小島山に発見。其の地主と無年期にて契約す
○大沢寺一ノ瀧の冷泉
 大正二年十一月 鉱泉水として契約を為しラムネサイダ鉱水として製造せんとす
○白砂採取
 大正三年五月 和歌山県伊都郡隅田村中島において、磨き砂を採取するや、多少の利益の上
 五條町の扇本米店に百三十円の利益を得て売却す
○白砂発見
 大正四年一月 牧野村字中野に発見。採掘するも中途で止む
○硅石礬土(ばんど:アルミナ)山
 大正五年二月 和歌山県伊都郡恋野村大字恋野字真砂山の採掘の契約を為す