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林 キヌ




















十津川村出身の医師杉村隼人(森田節斎の学友)が森田節斎の媒介で、当時五條の豪家であった林家の跡取りとなった。
隼人の長男・林源十郎(初代)が成長し、当麻屋の娘山本ナオと結婚して出来た子供が林キヌである。
杉村隼人は、二人の子供をつくった後、どうしても医者として人を救う事の生きがいを捨てることが出来ず、次男を連れて江戸に行き医者としての人生を再び始める事となった。
やがて、故郷・十津川村の杉村家の本家に跡取りが居ないため、分家である隼人に十津川に帰り杉村家を継いで欲しいと請われ、十津川に戻る事となった。
一方、五條の林源十郎一家は、源十郎が商家であるにも拘らず、森田節斎の弟子となり、学問と剣術に明け暮れ、商売を顧みなかったため、やがて家は没落していった。
商家でありながら商いに身を入れず没落していく林源十郎の一家に対する周囲の目は、当然のことながら冷たく、源十郎の死後、残された山本ナオと林キヌは杉村隼人を頼って十津川村に行き、しばらくそこに寄宿することとなる。
やがて、キヌが15才になった時、林家を再興しようと母娘で再び五條に出た。数年で母は病死し、残された林キヌは独り大阪に出て、商家で商いの勉強をする事3年。
キヌが20才になった時三度び五條に帰り、改めて林家の再興を目指す事となった。
その際、五條の旧知の人々から「大澤屋」の主・高橋久平衛を紹介され結婚。
二男一女をもうける。長男は林源十郎・次男は高橋直吉・長女は楽子と名付けた。
「大澤屋」は五條代官により「萬屋」の名称を受け、「善財餅」・農業・日用雑貨の御用商など20年余り夫婦で懸命に努力した結果、ある程度の蓄えも出来た。
そして幕末、五條を通過する土州・長州の勤皇の志士達は、誰にでも面倒見のよい林キヌを頼り、そして命を助けられた志士の数は数え切れないほど居たという。
そのような経緯で、維新後も新政府の官吏達から事あるごとに気に掛けられようになった。
反面、人の世話にならない。相手がどれほど位が上の人であろうとも自分の考えを主張しへつらわない。という性格で、その様子は、キヌの死後、「高野山へ納骨」の編でも偲ばれる。
女性でありながら、誠に立派な人物であったようである。
高橋直吉

安政4年、日用雑貨商を営む「萬屋」の次男として五條に生まれる。 母林キヌの方針で幼い頃から家庭教師に付き、又寺子屋に通い十分な教育を受ける。一方で、父や兄(林源十郎)から商いの手ほどきなどを受け、14歳の頃には既に農産物の商いを使用人を使って行っていた。
自宅が、勤皇の志士達の出入も多い家であったことから、後に新政府の要職に就く人々との交際の基盤も幼少の頃から培われていった。
直吉は、青年時代から村の世話役等にも任じられていたが、むしろ事業の面白さに魅力を感じたようで、生涯に手がけた事業の数は、「事業興廃録」によれば
100をはるかに超えている。
又、交際範囲も広く、多くの名士達から尊敬され、相談を持ちかけられ頼りになる存在であったようである。
直吉は
40歳になると直方と改名した。筆書きで「吉」と「方」が似ていたためであろうか?
この「天壽録」は母林キヌの残した記録と自分が書き残した記録を晩年になって整理したものと思われる。
直吉は、
64歳になった21日に死亡。死因についての記録は無く、今となっては知る人もいないが、60歳の頃、急性肺炎に罹り一時医者に見離されたこともあったことから、あるいはその関係の病死か?

林源十郎 「萬屋」の長男として生まれる。幼名は房治郎。商家の生まれでありながら、幼い頃から母林キヌの方針で、十分な教育を受けた。
明治に入り徴兵制が施行される頃に、徴兵を免れるため母方の林家の継承者となり林源十郎と名乗ることとなった。
自由民権運動が盛んになると、源十郎は自由党に入党し、板垣退助中島信行らと街頭演説を頻繁に行うようになる。
役所からは、御用商人として源十郎が商いを継続することに懸念を抱くようになり、「萬屋」の商いは、弟の直吉が引き継ぐこととなった。
直吉のよき相談相手でもあり、又面倒見のよさから人々に慕われていたが、晩年は中風を患い、長期療養の末明治38年に病死した。
松下茂實
(ページ)
48,49,50,54,
68,81,82,87,
92,94,99,103,
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169,・・・・・・
・・・・・・・・・・
254,255,256
264,265,266,
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佐古源左衛門高郷(十津川)の次男として生まれる。
幼名馬之助。
佐古高郷と高橋久平衛
(林キヌ)の間で馬之助と高橋の長女楽子を将来結婚させる約束をしており、馬之助は、高橋に医学を修得する費用等全般の面倒を見てもらい、やがて医師となり結婚。
十津川村の大洪水の後、北海道新十津川村への住民の移住の際には、北海道まで付き添い医師として同行した。
開業医としては、最初橋本駅前で開業したが、後大阪の堂島裏町
(現在、大阪毎日新聞社のある場所)に移転した。     
多くの使用人を抱え、又直吉の次女昌子を養女として乳母を付け盛業であったが、日向のゼン石鉱山に絡み山師にだまされ多くの財産を失った挙句病気となり、京大病院に入院。長期間の療養の後死亡。
坂井清民
(ページ)
84,86,87,88
91,92,94,95,
96,103,120,
140,142,144
155,156,160
170,189,240
和歌山県出身。その昔坂井大膳を先祖とし、後は代々医師の家に生まれ、幕末清民は五條に居住。
高橋家とは、直吉の父母の代からの親しい付き合いであった。
長女坂井操はやがて直吉と結婚するが、商家を守るには操は不向きであったらしく、直吉との間に女子二人を設けたが、清民の了承のもと、やがて離婚した。
直吉とは、医薬品「健胃散」の開発販売や身内の石碑の碑文をかくなど親交は継続し、直吉のよき相談相手でもあった。
高橋楽子












(ページ)
53,68,81,109
121
高橋久平衛と林キヌの長女。
早くから佐古高郷
(十津川)の次男馬之助と許婚が成立しており、16歳で結婚。
「天壽録」では楽子については、名前以外あまり詳しく書かれていないが、直吉を尊敬し慕っていたのは確かである。
「金比羅参詣の栞」では、母と直吉に連れられて二週間の旅をする。
松下茂實
(馬之助)と結婚してからは、家事は家政婦任せ、子育ては乳母任せの生活であったが、茂實が病気になってからは家政は大変だったようである。
持ち前の楽天家である一方、地位を傘にきて権力を振りかざす人間には見向きもしないという十津川人の血を受け継いだ性格だったようである。
豊岡に退いてからは、大洪水の夜の様子が記されている。隣家に助けを呼ぶ際に金ダライをたたいて呼んだが、その際の金ダライは赤いタライだったという後日の話である。
高橋久平衛
(ページ)
3,4,137
「萬屋」の初代主人。直吉の父。
林家の再興を目指す林キヌと結婚後、二人して商いに精を出し、商いを軌道に乗せ蓄えも出来た晩年は絵画・俳句・釣り等を楽しみ楽隠居していたが、流行のコレラに罹り死亡。
坂井操



(ページ)
84,96,132,
140,141,150
153,154,156
162,164,189,
268,271
坂井清民の長女。
医師の娘として文武の教育を受けたが、商家の家政を取り仕切るには、幼い妻には荷が重かったようである。
二子を設けたが長女栞は
28ヶ月で病死。
次女昌子は幼くして松下茂實に養女として出し、やがて直吉とも離婚。
医師の娘らしく、気丈夫な性格だったようで、後日
226事件の際には薙刀を小脇に、馬にまたがり上市の屯所に駆けつけたそうである。
波乱に満ちた人生であったが、晩年は、龍門寺の尼僧として静かに生涯を終えた。
佐古洋彰


(ページ)
48,49,50,54,
61,68,81,82
128
佐古高郷の長男で医師。玉置芳野と結婚し二人の男子を設けたが、林キヌが脳充塞で生死の境をさまよっていた際、父高郷が病死。
洋彰自らも、林キヌを見舞おうとして仕度をしている折に、脳充塞で短い生涯を終えた。
洋彰の死後長男高英・次男盛彰は松下茂實が引き取って育てることとなり、妻芳野は一人東京に行き、千葉貞幹の紹介で大審院判事安井重三と結婚。
その子
安井英二は、後に近衛内閣の内務大臣、文部大臣を歴任した。
上杉直温
(ページ)
50,61,83,84
102,116,117,
120
嘉永元年生まれ。幼い頃から頭脳明晰で、明治維新の際は官軍の兵として従軍のすえ、負傷した。
その後、宇智吉野郡の書記を経て、明治
29年北海道新十津川村村長、明治34年十津川村に帰り村長となった。
千葉貞幹

(ページ)
49,155,187
192,199,211
嘉永5年十津川永井生まれ。
幼少の頃より学問に力を注ぎ、明治
7年、司法省入省。
大津裁判所長、岡山、神戸各裁判所長を経て、明治
39年大分県知事。
明治
44年長野県知事を歴任した。
神戸裁判所長時代には直吉に自分の進退について相談する記述がある。
佐古高英




(ページ)
230,250,254
255,266,267
268,270
佐古洋彰の長男。幼名泰太。
父洋彰が若くして脳充塞で急逝した後、弟盛彰と共に叔父松下茂實のもとに預けられる。
茂實のもとで医学を学び、医師として開業。
大正元年に十津川に戻って山崎で開業。
以後僻地の医療に人生を奉げた。
妻志津は賀名生の「皇居」を護る名家・堀家に生まれ、直吉の仲人で高英と結婚し内助の功を尽くした。
高英・志津夫妻の高徳をたたえ、昭和44年山崎の地に頌徳碑(しょうとくひ)が建立された。
堀重信

(ページ)
28,37,45,86
125,141,200
201,202,204
206,209,230,
244,245
南朝「皇居」、吉野宮宮司。
初代賀名生
(あのう)村村長。
兄の
沖垣斎宮(おきがきいつき)は、天誅組の変では、隊長として活躍し、また、鷲尾侍従を奉じて高野山に立て籠もった高野山義挙では、十津川の
佐古高郷らと軍監として出陣した。
重信は十津川村の大洪水の際には村民救済の中心となって働き、所有する山林を処分するなどして北海道に移住地を確保。
新十津川村への十津川村村民の移住に大いに貢献した。