十津川記事巻之上
このような状況下、我が十津川郷でも早速集会を持ち銃器を購入する事となる。さらに、丸田藤左衛門・その子藤助等が村人を誘い大阪の人、萩野正親を招きその流派の炮術を学び、その他の人々も競って武芸を鍛錬し始めた。 それより先、天保の末頃乾丘右衛門・丸田藤助・西田久左衛門等は甲府の遊学士杉山辡吉を招き剣法の教えを受け、千葉佐仲・田中主馬蔵の兄弟は紀州の田辺に行き紀州藩士某某に就いて分布を学び、高取藩の撃剣師杉野楢助に就いてその術を学んだ者ものべ数十人にのぼる。 ○九月 上平主税・藤井秀麿を総代として意見書を五條代官内藤杢左衛門に持参し、本郷は、古来からの由緒を引き継ぎ、それ相応の力を国家のために尽くしたいとの考えを申し出たところ、代官は大いに喜び、願の趣旨は江戸表に伝えておくので、益々武芸の備えを充実し、いざという時の命令に備えるようにと言い渡された。 安政元年 ○正月 元丹波亀山の藩士永澤俊平がやって来て、乾丘左衛門・上平主税・前田清左衛門・その子雅楽・中井主殿・吉田源五郎・丸田藤左衛門・玉置豊前・千葉定之介等と出会い、大いに国事に関して憤慨談論して、文武を講演した。また、肥後の人、波多野右馬之助も来郷し、国事につき談論した。その際、十津川郷民は、かって元弘の昔、護良親王が十津川郷に落ちのびてきた際の苦難を追憶し感慨はこの上なく、ついには、俊平と相談して、尊詠を堅石に彫り刻み、これを永久に伝え、以てわが郷の気節の励みにすることと決定した。その後訳あってまだ実現していなかったものの、やがて四年八カ月後にようやく尊詠に因み、碑石を蘆廼瀬川(あしのせがわ)上流の字瀧峠にある古松の下に建築した。その碑面は綾小路卿の筆跡により、以下の内容である。 琵琶乃音毛昔爾変江天物凄志蘆廼瀬川廼瀬々廼水音(びわのねも むかしにかえて ものすごし あしのせがわの せぜのみずおと) 正二位陸奥出羽按察使前権中納言源有長誌 その石碑の題字には「護良親王御詠」の六文字を刻み、石碑の背後には次の詩を記した。 報主何辞隕此身於今雄烈宛如神傷心無限琵琶詠感激他年幾許人 従四位美濃守石井在正謹識 恭題 護良親王尊詠碑陰 九条公府侍臣城谷需拝撰 清吟彫片石仰慕代甘棠松翠千年色琵琶遺響長 同じく俊平の詩文あり今その詩を写せば、すなわち 「曾斯天歩是艱難忠直義雄何厭瘢若欲知濘龍泣血一篇隊拭瞳看」 ○安政五年正月 深瀬繁理・丸谷民左衛門・沼田京蔵・上平主税等が京都にのぼった。もともと繁理は諸国を歴遊し多くの人々との交友関係があったことから、繁理氏の紹介によって他の仲間たちは初めて長州藩の大阪留守居役宍戸九郎兵衛・村田二郎三郎の二氏と会い、時事を語り合い、やがて物産を交易する約束をするにいたった。その後一時食塩、蝋燭、干魚等を輸入した。但し、交易とは名目上で、その実互いに行き来する事によって国事を密議せんが為であったといわれている。又この頃わが諸氏は雲濱梅田源次郎を京都の住いに訪ねたところ、先生は喜んで迎え慷慨扼腕し時事を痛論し、其れを聞く者は皆感動し憤慨した。 ○四月 五條代官内藤氏が病没した。五月になってようやく、五條は近江の信楽代官多羅尾民部の預かりとなった。やがて、その役人として藤尾藤作が五條代官所に着任するや、わが十津川郷は総代を送り其の着任を祝賀した。すると藤尾氏は次のように和歌を詠み、その答礼とした。すなわち 「流れての世にたのもしきとふつ川 人の心も神ながらにて」 ○此の月(五月) 十津川の諸氏は再び京都の梅田雲濱を訪ねた。先生が繰り返して言うには、貴君らの十津川郷が、朝廷に於いて昔から由緒のある事は人々がよく知るところである。そのうえ、今日はまさに重大な局面を迎え、内憂外患まことにかってない国難が迫っている。今この時期に貴君らが発奮しない事には、まことに持って不忠のそしりを受けることになろうと。諸氏はこの言葉に励まされ益々その志を強固にしたといわれている。この日、梅田雲濱の紹介で、一同は粟田殿に参上し執事の伊丹蔵人に面会した。その後まもなく、丸田藤左衛門・野崎主計・玉置政左衛門等が伊丹氏を訪ね、十津川郷の由緒書き一通を粟田殿に提出し、同時に十津川郷産のシイタケ一箱を進呈した。後日十津川郷が殿下の厚遇を被ることが出来たのはひとえに此の事があったためといわれている。粟田殿はその後、中川の宮、賀陽の宮、久邇の宮と順次改号あらせられた。 ○この年の初めから交際のある梅田雲濱が十津川を訪れ、野崎主計の家に数日滞在した後京都に帰った。これ以降、十津川郷の諸氏は京都との間を行き来し、しばしば先生を訪問してはひそかに天下の形勢を窺う事となった。 ○九月四日 梅田・伊丹の両氏及びその他有志の人々が数多く幕府の嫌疑を受け、ことごとく江戸に護送された。その後、梅田氏は翌安政六年九月十四日病のため獄中にて死亡し二度と帰らぬ人となった。有志の者たちは深くこの死を惜しんだ。一方、伊丹氏はその後嫌疑も晴れ、幸いにして再び京都に帰還する事が出来た。伊丹氏は維新後昇進し、現在は元老院の議員となっている。 当初捕吏が梅田氏の家の門までやってくると先生は事態を理解し泰然として「妻啼病床児叫飢云々」の詩を詠じながら妻子や門人に別れを告げ捕吏に従った。此の時野崎主計の弟野崎民蔵が先生の塾に居てその現場を見聞していたと云う。 又、長州人の赤根武人も現場にいて、事態がひっ迫している事を悟り、かねてからの密談に関係する書類を全て隠滅した。当時事件の関係者として我が十津川郷士に捕吏の手が及ばなかったのは、全て此の時の赤根氏の処置の賜物であった。 以前、上平主税等が十津川に帰郷する際に梅田先生が古歌として次の詩を与えた 「コシテユク人ヲバサキニ立田山我身ハツユニヨシスルルトモ」 ○十二月 千葉定之介が材木の売買の争論に関して江戸は神田九軒町の信濃屋庄三郎という者を被告に江戸勘定奉行大澤豊後の守山口丹波の守へ訴え出た。その際、郷中の訴願については従来、上方の奉行所に出頭する場合は、上訴と唱えて麻の裃を着用し奉行所の玄関から入り松の廊下を通って吟味席下の縁側に参上するのが昔からのしきたりであるから、千葉は江戸においても上方と同様にしようとしたが、その筋から通知が無い限り訴え出る事は認められないと申し渡された。従って、千葉はその内容を十津川郷の某々に報告し、速やかにその筋の添え状を入手して江戸に寄こすように依頼してきた。 ○六年三月 水戸藩の葉山仙蔵と称する者がやって来て、上平主悦・丸田藤左衛門等を訪れた。彼が言うには、護良親王の旧蹟を探し訪ねる為の旅との事である。途中河津国王神社の表木(誹謗などを書かせる木)に書きつけてあった歌に「慕いゆく道にしあればとをつ川岩瀬篠原いとはざりけり」と書かれていたとのことである。 また、葉山仙蔵が上平主悦を訪ねた際は、訳あって主人は留守だと使用人に伝えさせたところ、時節柄対岸に岩ツツジが咲いているのを見ながら取りあえず「岩ツツジイワヲ過ギナバ諸共ニ赤キ心ヲシラデ行クラン」と書きつけて差し出した。 これを見た主人は、玄関まで出て来て会い、宿泊を許可し終夜互いに語り合ったと言われている。葉山氏は又、玉置山に宿泊した際に仏法僧という鳥の鳴き声を聞きしきりに深山幽遼の情況に感銘し一首の歌を詠み次の日丸田父子のところに行き出し示したと云う。 葉山氏は各地を潜行した後、病んで大阪の旅館で死亡。本名は桜任蔵であった。 ○四月九日 前田雅楽、原田左馬之助が千葉の依頼に応じて五條代官所を経由し京都町奉行大久保伊勢守と小笠原長門守の官庁に行き、勝手に郷中の総代であると称して上訴するに当たり、江戸のしきたりに沿って江戸勘定奉行所への添え状を請求し、其れを受け取り雅楽は江戸に向かった。十津川郷中はそれを聞いて、会議を開き、このたびの千葉の訴えはつまるところ個人的な問題である。にもかかわらず、あの二人は郷中総代の名を乱用したばかりか、まして雅楽は未だ居候の身分である。もしこの事を不問に付したならば将来十津川郷全体の取締に影響してくるであろうと、当時五條村に滞留していた上平主悦等へその措置を依頼し、念のため総代数名も五條まで出向き上平と会って評議をしたところ、もはや事ここに至ったからには、このまま上訴の手続きを取らせる必要があるとはいうものの、その責めは問わざるを得ないという結論に達し、玉堀為之進・佐古源左衛門・前田清左衛門を総代として加え江戸に行かせた。但し、江戸に到着次第雅楽は速やかに帰郷させ、総代としての立場は喪失せしめることを推し進めるように約束した上で行かせた。ところが、総代等が到着したにもかかわらず、雅楽を帰郷させるどころか千葉の訴訟に関与して又は、千葉の代理となり数回にわたり願書等を提出した末に、その年の七月三日、ついに上訴は却下される事となり、其の請書を提出しその帰途京都奉行所、及び五條代官所にもその内容を届け出し、八月に帰郷しその顛末を皆に報告した。但し前田清左衛門は病気のため江戸に残った。事ここに至り、総代等の振舞は意外にも昔からの十津川郷に昔から伝わる例格を失う事となり、容易に収まりのつかない事態となり、郷中は又物議を引き起こす事となった。そのためその月の二十八日 百石毎に三名を出し、川津村に集会し、(当時郷中の見附高は千石であった)さらに花岡佐五右衛門・丸田藤左衛門・上平主悦・玉置幸右衛門(玉置氏は病のため出席しなかったと云う)深瀬和平の諸氏をも招き共に議論してついに江戸に行った者たちあるいはその親戚より謝罪書を徴求し上平主悦・植田利祐を総代に選び五條ならびに京都に行かせ、此のたび提出した届け出書に関係なく従来から十津川郷が行ってきた上訴のしきたりを今後も残すよう願い出る事と決定し閉会した。時に九月十六日であった。 其れに基づき総代が出発し両庁に出頭上願したところ仔細なく従来の通り上訴は差し支えない旨の了承を得た。従って総代等は此の内容を江戸勘定奉行にも通知しておいて頂くよう五條庁に依頼した上で帰郷した。これを上訴の一件と称して騒がれた事件であった。 ○総代が江戸に行った月の二十日、材木方総代として上平主悦、沼田京蔵、前田清左衛門、玉堀為之進、吉田藤吉、寺尾兵助、佐古源左衛門、藤井織之助、原田佐馬之助、山本喜平等が願書を五條代官松永善之助に提出し本郷は昔より租税は免除されてきた土地であるのだから、境内から輸出した木材に紀州藩が新宮の湊で課税する口銀と云うものは一切免除されるようその筋と掛け合って頂きたいと請願した。また同時に一同で今すぐその筋に請願に赴く事もやぶさかでないので、いずれにしてもご指示を頂きたいと。すると、難渋している内容を書面で提出するよう申し渡されたので、直ちにその要点を列挙して其れを提出した。また嘉永元年の冬、乾丘右衛門、高田定之進、丸田藤左衛門等は和歌山に行き、次のように訴え出た。「近年新宮藩に於いて、過酷な新法を設け、口銀と称して上流から輸送する木材に課税し取り立てが極めて厳しいため我々への影響は甚大であり、皆難渋に耐え難い状況である。可及的速やかに新法を停止して頂きたい」と。すると、新法を停止するよう新宮藩に通達し、またその趣旨を我が五條代官山上藤一郎にも通知されたものの、その後も一向に新法は停止されることなく、従ってまた再び同様の上願をする必要が出てきた。ただ未だにそれは実現していない。 ○文久元年某月 梅田雲濱氏の門人で若狭の行方千三郎がやって来て繁理の家にしばらく逗留した。 ○文久二年正月 土佐藩の北添佶馬・依岡権吉・曾和傳左衛門が河津村に来て野崎主計と会談した後帰って行った。同二月、薩摩藩の志々目献吉・上村玄庵・江夏荘七等が十津川にやって来たが、たまたまわが諸氏はすでに上京した後であったので彼等は直ちに京都に向かい京都で面談した。これが薩摩の志士との交際の始まりであった。此の事があってから京都の十津川郷士たちはしばしば薩摩藩の小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵等の諸氏をその藩邸に訪ね会談をした。また、此のころ京都木屋町の池庄樓において初めて長州藩の桂小五郎と面会した。 ○九月 村田二郎三郎が同藩の小沢忠右衛門と中村五一を誘って十津川郷を訪れ会談した。
○十津川郷士が京にのぼる際は、当初は御池通八幡町の生箸屋彦兵衛方を宿舎としていたが、その後御車町今出川の伊勢屋嘉吉方に移転した。 ○三年三月 将軍徳川家茂が上洛した。我が郷は旧例に倣い鹿皮三十枚を上呈しこれを祝賀した。平岡源蔵、尾中織衛、榊本総兵衛、植田柳蔵らが此の総代として上京した。此のころは世の中は益々不穏な空気に包まれ、列藩の主従や有志の輩が続々と京都に集まり、中には尊王攘夷の思想を主張する者もあり、また中には佐幕開港の考えに同調する者もおり両派入り乱れて京の都は内外ともに紛糾してかってない程のにぎわいとなったという。 |