聚珍社のページへようこそ聚珍社は2015/5より株式会社 としてスタートしました 本文へジャンプ
聚珍社 イメージ

          大阪長柄墓地(現在の北霊園)


聚珍社の由来
中国の清王朝に入って間もなく(1630年代頃)それまで印刷の事を「活字版」と呼ばれていたが、「活字」は雅趣に欠けることから「聚珍版」と称されるようになった。
その後、日本においては幕末頃から印刷機器が使われ始め、明治に入ってから急速に普及することとなる。
明治13年(1879年)、大和の国、五條の高橋直吉は大阪の三有社から活版製造用機器を購入。三有社の社主正永良凞(りょうえん)の養子鉦吉郎を呼び寄せ仕事の指導にあたらせた。
その活版印刷の会社を「聚珍社」と名付けた。
名付け親は、江戸末期から直吉の学問の師匠であった五條の学者としても名高い佐野煥先生であった。
そののち、印刷業は全国に急速に展開し、各地で「聚珍社」という社名で印刷業を始めるものも増えた。
今でも、その一部に、聚珍社の社名が残存し、また印刷とは無関係の「聚珍社」も登場することとなり現在にいたっている。
イメージ
   
墓碑には、故人の人物像を永く後世の子孫に伝えるために施された刻文のあるものが残されています。
当時の著名な文人や学者に依頼し簡潔な文章にしたため、それを墓碑に彫刻したものです。
中には文筆の達人に特別に下書きをしてもらい、その筆跡を彫ったものも残っています。
しかしながら、100年以上経過すると、石の種類によっては風化が進みほとんど判読できないものも数多い。
墓碑の文字が判読不能となれば復刻はほとんど不可能といわれています。
従って、判読が何とか可能な段階で復刻しておくことが祖先の遺志に沿うことになるでしょう。