━ 天誅組の変の舞台となった桜井寺の隣に住んでいた高橋直吉の記録『天誅組の編』━

天壽録ホ-ム

〈天誅組〉

八月十七日申の刻 
 天誅組総督中山侍従忠光卿が、吉村寅太郎・松本謙三郎・池内蔵太・宍戸弥四郎・磯崎寛・小川佐吉・伴林六郎・那須新吾・渋谷伊豫作・安積五郎・岡見冨次郎・中垣謙五郎・鶴田陶八・江藤種八・若巻養三郎・田前騫一郎・酒井侍二郎・嶋村省吾・安岡斧二郎・土井佐之助・沢村幸吉・森下義之助・長野一郎・平岡久作・安岡嘉助・山崎吉之助・岡見鉄蔵・林平吉郎・植村貞七郎・船田彦治郎・辻郁之助・原田一作・田中権之助・保母建・長野英太郎・水郡小隼人・竹下熊雄・乾十郎・石川一ら六十余名を従え、河内の国の観心寺に立ち寄って武器を狭山藩から徴収し、同寺の宝物であると伝えられている、昔楠正成が着た甲冑を借り入れ、早速中山忠光卿が着用。軍馬に跨り白旗を立て鐘や陣太鼓を鳴らし刀を抜いて押し立て、千早を越えて岡八幡社にて勢員を確認し、早足で五条代官所に押し入り、代官の鈴木源内・元締め長谷川岱助・御用人黒沢茂助・侍伊藤敬吉等の首を切り落とし、さらに誤って按摩師の嘉吉の首も切り、一旦桜井寺に本陣を定めたのち、代官及び手代の家族をことごとく皆縛って本陣に引き集めた。
その日の夜九時ごろ陣屋の書類を講御堂に移しその跡へ鉄砲を打ち込み、陣屋は悉く皆燃え上がった。
陣屋の中にあった花高稲荷神社は全く神力が無かったにもかかわらず、後に須恵村の統神社に移して敬拝された。


八月十七日 天誅組の乱を避け家族全員が野原尾町の高橋清兵衛のところに居たところ、紀州兵が二見城山から乱射してきた。

そのためさらに、今井村の羽根岩吉のところに逃れていたが、祖母のキミだけは、泰然と四五日遅れてやって来た。

自分は畠山畠蔵に肩車されて行ったのを今でも記憶している。


八月十八日 
代官の手代である木村祐二郎は十七日の夕方天誅組の荒巻早三郎・森本儀之助を相手に戦い負傷。須恵郷宿を営む庄屋の保田廣吉の家まで逃れていったが主人は受け容れを拒んだため、安田の召使をしていた寒川梅吉が玄関口で倒れている木村を背負って行き、大島の百間堤に捨てた。
それを見た大島の人が桜井寺の天誅組に事情を告げたところ、荒巻早三郎・安岡斧三郎が現場にやってきて木村の首を切り落とし、槍の先に差し立てて本陣に持ち帰った。
首を切り落とす際には木村の叫び声が川南の野原村まで達した。

本陣の桜井寺は菊御紋の御旗と紫地に菊御紋の陣幕を張り、諸国から数え切れないほどの浪士が続々と集まってきた。
中山卿は寺の三畳台にお座りになり、又鈴木源内とその他の首級は桜井寺の本堂前の手水石の上に置かれた。
渋谷伊與作がやって来て、石盤と一緒に持ち上げたが、その重さは二百貫余りであった。

同十八日は、早朝 天誅組の使者として、乾十郎がかごで十津川の郷に向かった。


同十八日、高取城主植村駿河の守に対して使者として那須新吾を差したてた。


八月十八日七つ時 代官鈴木源内とその他の首級を須恵村東口の刑場に掲げて衆人にさらした。
又戎堂に竹の柵を作り次の内容の高札を掲げた。


『近来いやしき外国人が渡来して以降 皇国の不可屈不可辱の儀を深くも被取脳震襟候処土地人民を奉預候雖諸大名耳如不聞目如不眩元来藩屏たるべきの義理を忘却し却って違勅し奸横島二久美氏、追々夷狄の術中江陥りおのれ 皇国の譲地中以夷狄の無縁たるも知らで類が事にて大和行幸 神武帝山稜春日社において御親征の猶奉防し族有之候実に依而不堪憤意義兵を招集し可迎達鑾與此表江今各役向其許を天朝者君也幕府者主也君臣主従之大儀を預会盟者不移時白下糺其罪事

文久三年亥年八月

大和国諸大名その他土人至迄

   右は戎堂真中に竹垣いたし札立置き申し候

一皇祖天神天地をひらき万物を生かし給いた皇緒その天地を総制したもう所である。すなわち皇帝は天地である。大宗主此敗に万民といえども慶衣肉孫であるから神は祝い、先祖がある限り臣であり、子でありすなわち、先祖の墓へ奉ってきたことと同じである。崇いまつれば忠孝は一つであるとされ、ほころびが無いものである。土地人民主家があるのも天皇家の臣であり主家のしるしである。家に衣冠あるものはみな天朝から受けたのは明白である。この臣君主従のわけを弁者土民それぞれその職業を理解し祭祀を助け、藩屏与した天恩に報いたてまつるべきである。これがすなわち天と人とが一致し大道日夜敬い奉るべき事である。

    文久三亥八月』 


以上の意味の文章を五条の高札場に掲示した。


八月十九日三在小堀左近の地役人内原庄治宅へ武器の兵が押し寄せたが本人はすでに脱出していたけれども、ついに妻と共に捕らえられ本陣につれてこられたが、夕方放免となった。武器・玄米三十石を没収。家屋敷は破壊された。


同日、中村の与市へ平岡鳩平が出掛け銀十貫と玄米弐十石を徴収してきた。


八月二十日二見村源右衛門が親不孝をしているという情報があり、死罪にしようとしたところ、親戚が嘆願したため弟の徳三郎に財産を譲ることで許した。


天誅組は武器として松の木で桶のような形の爆発装置を作りその試験を川原で、大勢の人が集まり実行したが失敗に終わった。
五条の各寺院は人足を多く、抱えており毎晩火を焚いており、天誅組の仕業か濠野村清右衛門の家は焼かれ、兼村天の辻も残らず焼かれ、富貴村の名迫治郎右衛門ほか二十軒・賀名生村和田の茶店四五軒・下市の廣藤その他同町の半分も焼かれてしまった。


同三十日勢能藩藤堂和泉守・同佐渡守は今井村及び副将柴山太郎左衛門ら多数で桜井寺に入った。


同三十日勢能藩藤堂和泉守・同佐渡守は今井村及び五条の寺院に大勢で来て宿泊した。


松平甲斐守・井伊掃部頭等は、下市の越部等へ出陣した。


植村駿河守への御感帖

『一筆令啓上候去月二十六日暁和歌五条表に屯罷あり候浪士共千余人その方の城に押し寄せ大小の鉄砲を打ちかけ、戦となり雑兵の内首を切り取ったもの七つ。捕虜としたもの五十人あまり。そのほかに、持っていたものを数々取り集め、またその方の家来はわずかに鉄砲薄手二人、その際にけが人も無く抜群の働きをされたことはひとえに常日頃から武の備えを心がけ、家来たちをしきたりどおりしっかりと指揮したお陰と感心極まりないことで、このようにお伝えするしだいである。

    板倉周防守

       大和 植村駿河守殿


    巻上 植村駿河守


浪士共天の川辻へ引きこもり、下市村に辺屯致し又は城下に押し寄せたけれども苦戦しており、そのため加勢したのは、井伊掃部頭・織田筑前守・同攝津守・片桐主膳正等で加勢するのにふさわしい人数を差し出すよう要請したところそのようにしてくれた。

    九月八日

 

九月二十二日奈良の御奉行よりお触れが出て五条代官所は紀伊様がしばらく預かるように決定された。又同時に高取様のお預かりとも決定された。

 紀伊侯に召し捕らえられた人の名

船田彦次郎・保丹健・水郡小隼人・辻郁之助・原田一作・吉田重蔵・田中権之助・十津川千葉定之助・

松井源蔵・十津川風見前田嘉一郎・同御箇野崎八右衛門ほか六人。


  彦根候へ召し捕らえられた人の名

宍戸弥四郎・植村貞七郎・那須新吾・林平吉郎・山崎吉之助・岡見旅蔵

藤堂候の家来の木沢某と戦い戦死したのは吉村寅太郎。


五条代官鈴木源内・本締め長谷川岱助・用人黒沢茂助・手代木村裕治郎・同恒川庄治郎これらのものは近年間違って幕府の言われるままに自分たちの都合のいいように朝廷と幕府とが同じであるかのごとく振舞って三百年の恩義を主張し開闢以来の天皇の恩を忘れ、しかも皇国を辱め外国人を手助けすることきわめて罪は重く、従って天誅を下し成敗いたすものである。

    文久三亥年八月十七日


乾十郎は、十津川を通って北山郷に来たが妻と一緒で、妻が臨月であり出産したが子は即死。妻と別れ

多武峰に出て藤堂勢に捕らえられた。


井沢宜庵は北山郷に逃れ、乾の妻と一緒に井伊候の隊に召し捕らえられた。


十月八日十津川郷を鎮める為渡辺相模守が東辻国書権佐をお使いとして派遣された。


八月二日朝須恵十王堂に高札を掲げるものがいた

『このたび幕府の松平春獄は恐れ多くも朝廷を軽蔑した。そのうえこのままではそれをやめようとしない。高台寺もすでに明かりは、無くなっているにも拘らず、幕府の権力を主張して調停を軽蔑している。

朝廷はまだ歳若い将軍に対して言えることは、朝廷は今でも誰が悪いのかを言おうと思っていない。幕府のためを心得て来て天皇家を軽蔑して来たこともよくわかっている。朝廷はこれに対しては何も畏怖ことが無い様子である。これらのことが最終的に国を憂う天誅として行動に走らせたものである。

    亥七月

この文書は裁判の件に関しいい加減なことをしているやからがいるので後日それを正そうとするものである。このところずっと陣屋の俗吏どもは賄賂に汚れ、裁判を正当に行っていない。そのものたちの名前を京都三条・四条の橋の上に表示して改善を願うものである。』



  大和義挙略歴  北畠治房の稿

文久三亥年八月十七日 夜丑の刻頃判林六郎が来た。

翌十八日には総人数は次のとおりであった。

京都から中山忠光氏と一緒に出たものは、吉村寅太郎・那須新吾・池内源太・(后子細川左馬ノ助)・上田宗児(後後藤眞義)嶋浪間(後長曾我部四郎)・伊吹周吉(石田英吉)・土居佐之助・森下義之助・森下幾馬・鍋島栄之助・前田繁馬(以上土佐人)尾崎濤五郎・保母健(以上肥前島原)松本謙三郎・宍戸弥四郎・伊藤三弥(後改鎌造)(以上参河刈谷)鶴田陶引・酒井傳次郎・半田紋吉・中垣健太郎・荒巻半三郎・江藤種八・小川佐吉(後宮田半四郎)(以上筑後久留米)吉田重蔵(筑前福岡)竹下熊雄(肥後熊本)渋谷伊與作(上州下舘)山口松蔵(丹後人)同勢三十四人。

又泉州堺より来たものは、田所騰次郎(土佐)。

河内狭山からついてきたものは、水郡善之助・水郡栄太郎(後正義)・長野一郎・竹林八朗・田中楠之助・鳴川清三郎・辻郁之助・杜本傳兵衛・東条龍之助・内田耕平(以上河内人)。

又、河内観心寺よりついてきたものは藤本津之助(備前)池田健次郎(江州大津)。

又、大和人で昨夜合流したもの伴林光平・青本精一郎・林彪吉郎・井澤宜庵・植村定七・岡見留次郎(水戸)原田亀太郎(備後福山)安田鉄蔵および治房等で、合計五十六人であった。

(その後九月下旬解散するまでの三拾余日の間の記事は別に記載しているので省略する)


この日五条の制札場及び近郷村に告示した文章は次の通りであった。

 

一 皇祖天神天地をひらき万物を生かし給いて皇孫その天地万物を総制し給える所である。すなわち皇帝は天地の大宗主であるがゆえに。万民といえども庶衣肉孫であるから、神は祖であり祖は神である。

先祖がある限り従であり子である。つまり先祖が仕え奉った様に仕え奉ることが忠孝のはじめであることは疑いの無いことである。

土地人民主あるものも王家の家来であり主家といっても従である。

従って位を持っているものも皆天朝から受けたものであることは明白である。

この君臣主従の分別を理解し武士も平民もそれぞれその職業に励み、政治を助け、藩の民として天皇の恩に報いるべきである。

これこそが天と人とが一致する本来の姿であり日夜敬い奉らなければならない。

 

又、二十三日五條において池内蔵太等が大和の諸藩に伝える文書を発した。


「近年外国人が渡来して以来皇国が屈するかのような辱めにあっている様子に天皇は心を痛めておられ悩んでいらっ

しゃる。

土地人民を預かっている諸大名は耳が聞こえぬ振りをし、目も見えぬ振りをしている。

元来藩の中心となるベき義理があるのを忘れ、返って外国人の間違った謀略に味方して外国人の計略に陥り、皇国が衰退し外国人の奴隷になるのも知らないのは嘆かわしいことである。

故に大和に御幸なされ、神武帝陵を御拝された上で春日社頭において御親征の御軍議をしようとしたがそれを妨げようとする者たちがいる。

これはまことに恐れ入ったことである。

そのため、我慢できずに昔を懐かしむ者達で正義の兵を挙げ、道路を清め、御輿をこの表に迎え奉るため令を発行候うものである。

あなたがたは、速やかに大儀は何であるかを理解して、われ等に同調するよう決定なさるべきである。」

 

八月二十五日朝 十津川の郷の兵簾村字天川辻の本陣に到着した者は九百六十人にのぼった。

この時直ちに五條に向かって、再び出師しようと軍衆に告示する檄文は左の如しであった。

 「今般旗挙げをした趣旨は将軍は何代にもわたり驕りにふけり、大名は往々惰弱に陥り奉り、預かっているところの土地・人民を我が物のごとく思い込み、贅沢や快楽の道具としか思わず、朝廷を軽蔑し奉り、夷狄を恐れ、誠に近来悉く勅命にそむいて大名を欺き、小人を誘い、いやしくも遊び女や悪いやつの手を引き、忠良を害し、不測の淵に臨ましめている事は、国家の裏切り者・夷狄(いてき)の奴隷というべし。

ゆえに、この賊徒を誅し、かの夷狄を打ち払い奉り朝廷の安泰を図り、一身を持って千万世の天恩に報い奉らんとするところ、幸いに汝百人不肖のわれらを捨てず、この義挙に協力してくれた事は大変満足なことである。

しかる上は賞には仇を撰まず、罰には親を言わず。名を争わず、唯皇国の御為だけを考え庶民を害することなく上下

心を一つにして公平に土地を取得すれば、天明に帰し。功有れば神慮に帰し、くしくも功を有すること在るべからざるものである。我等が若しこの義に反すれば、彼の元凶と同じ事となるであろう。

そうなれば即皇祖天神の冥罰を蒙り民人親族共に離れ、汝らもしこの義に背いて私するところあれば即兇徒と異なることはない。天皇の定めにより忽ち天誅により神罰を受けることになろう。汝等よろしくこの義を忘れることなくその罪を犯すことなかれ。」

 

因みに付け加えるが、後日、明治二年二月に奈良府から、去る文久癸亥の秋、当国南山の挙に参加した輩がその後どうなったのかを調査して報告するよう、指示が有った為、当時の記憶のまま十津川人二名の外これを除きその他数輩の生存を頭書に記し提出した取調の控書は左記のとおりである。

 

土佐 吉村寅太郎

文久三亥年八月御親征仰出されたのを以って聖?に先立ち奉の覚悟で中山前侍従を将師に奉って義旗を当南国南山に挙げた折、吉野郡鷲家口村に自殺。

因みに云えばこれより先文久二戌年春脱藩。島津国父を播州路に迎え大阪の同藩邸に入り、伏見寺田屋闘殺の後薩藩より本藩高知に引き渡され翌癸亥三月再び出京した。

       土佐 那須信吾

仝挙同所にて戦死。 因みに云えば、養父の那須俊平は、翌子年の秋七月九日鷹司邸にて戦死した。

       土佐 森下幾馬

仝挙同所にて斃れたか

       土佐 楠目清馬

仝挙同所にて戦死した。

       備前 藤本津之助

仝挙同所にて戦死した。

       参洲 松本謙三郎

仝挙同所にて戦死した。

       同  宍戸弥四郎

仝挙同所にて自殺

       大和宇陀 林豹吉郎 

仝挙同所にて戦死

       淡路人 福浦元吉 

仝挙藤本津之助と共に同所にて戦死した

       大和十津川人 野崎主計

仝挙に付き九月郷土に割腹

       同  深瀬繁

仝挙九月下旬北山郷白川村にて戦死した

       土佐 前田 幾馬

仝挙椿原村辺にて戦死

       同  鍋嶋栄之助

仝挙戦死

       肥後 竹下熊雄

仝挙十津川風屋村にて戦死した

       大和五條辺の人 植村定七

仝挙戦死した

       當国植村駿河の守家来 安田鐡造

仝挙戦死

       河内国向野村の人 秦正造

仝挙初瀬にて戦死した

       中宮寺宮臣河内伴林の人 伴林六郎

仝挙潰散後岩舟山に於いて就捕翌子年の二月京獄で斬られた

       江戸の人 安積五郎

       常陸下館 渋谷伊豫作

       因洲の人 磯崎寛

       水戸の人 岡見留次郎

       土佐人 安岡嘉輔

       同   安岡斧太郎

       同   森下義之助

       同   田所謄次郎

       同   鳥村省吾

       同   澤村幸吉

       同  土井佐之輔

       筑後久留米 酒井傳次郎

       同  鶴田陶司

       同  中垣健太郎

       同  荒巻半三郎

       同  江頭種八

   勢洲神戸領河内長野村 長野一郎  

       同  杜本傳兵衛

       筑前人 吉田重蔵  

同挙紀藩に逮捕せられ京獄に繋がれ翌子年七月同獄中に於いて殺される

   因洲松平伊勢の守の臣 石川一

   肥前島原の人 保母健

   勢洲神戸領河内神田村の人 水郡善之助

   仝  富田林の人 辻郁之助

   仝  法善寺村の人 田中楠之助 

   当国 五條の人 乾十郎

   備中松山の人 原田亀太郎

   吉野郡丹生神官 橋本若狭

仝挙潰散の後、京摂の間に居たが、春大阪において捕らえられ京都で斬り殺された

   当国五條の人 井澤宜庵

仝挙についてはいったん逃れたが再び捕らえられ遂に京獄中で死んだ

   正親町少将の家来富田林の人 三浦主馬

仝挙の後泉州堺に潜伏し後京獄で殺された

   泉州堺甲斐町開業医長野一郎の兄 吉井見龍

仝挙の節自家に隠れ南山に内応した事が発覚し、その年九月五日俗吏に大阪に捕送する途中、古市で自殺した

   勢洲神戸領河内長野村 吉年米馬

仝発覚の後一旦免れ再び京獄に繋がれ丑年の五月京牢中で殺された

   仝   竹林八郎

仝挙逮捕の後一旦免れ帰村す。翌子年七月天王山の戦いに馳せ加わり同十九日堺御門にて戦死した。

   筑後久留米 半田紋吉

仝挙潰散后、中山公子に従い長州に赴き、翌子年七月十九日鷹司邸に戦死した

   土佐   池内蔵太

仝挙后長州に赴きその后肥前五島沖に覆没

仝  島波 間

仝挙潰敗の后、中山公子と長州に赴き丑年の夏、故有って因幡の国堺で死亡

    筑後久留米 上田宗児

仝挙以来長州に在り、昨年の春伏見で激戦し遂にこの役で死亡

    同  小川佐吉

仝挙后長州に赴き昨年春伏見の役で激戦、傷を負い防洲で死亡

    郡山領下当国の椎木村常連寺住侶浄尚 

       青木精一郎

仝挙後因洲に赴き一昨年の秋以来京摂間に周旋し鷲尾侍従に従って高野山に赴き昨戊辰の年三月京獄で斬られた

    丹後 山口松蔵

仝挙后主人紋吉と共長州に赴きその後東西に奔走し終に又長州に帰り丑年の夏病死

    土佐 伊吹周吉

仝挙後長州に赴きその後四方に周旋し現在は長崎の遂撃隊にいる

    江州大津の人 池田健次郎

仝挙後長州に赴き現在も居るそうだ

    当国丹生神官 中井越前

仝挙后京摂間に潜居し、現在御親兵の中に居る

    伴林六郎の嫡子 伴林光雄

仝挙潰敗の時まで大阪に居て、父六郎の命を守り南山に内応した疑いが四方で起き、仝年の冬長州に赴き、其翌子年の秋に四郎(長曾我部四郎のことだろう)と契約して忠勇隊に移った。

同年冬に四郎と共に肥筑を志し、その後昨年春四郎等同盟した数十人と共に上京し、錦の御旗御総督宮に従随、かっての職務に戻られる同宮の御凱旋の供奉を終えて、今は亡き六郎が奉仕した理由により連れ帰って私宅に居住させ、今は宮室に呼び出されて勤務している

    河内富田林の人 和田佐市

    仝       浦田竹蔵

    仝       中村徳之助 

    仝長野村    東條曻之助

仝挙十津川にて死亡

八月十七日 天誅組の乱を避け家族全員が野原尾町の高橋清兵衛のところに居たところ、紀州兵が二見城山から乱射してきた。

そのためさらに、今井村の羽根岩吉のところに逃れていたが、祖母のキミだけは、泰然と四五日遅れてやって来た。

自分は畠山畠蔵に肩車されて行ったのを今でも記憶している。

「父 久平衛の死」

二十三歳 明治十二年 巳卯

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《公事》

○琉球国はその藩が廃止され県となった。

藩主は華族の位を得て東京に移住した。

○米国大統領グラント氏が大日本国に来遊されたが、至るところで歓迎を受けた。

○全国でコレラが大流行した。

 

《私事》

○五月二十七日親父の久平が流行しているコレラに罹り五條町大字須恵九十番屋敷の裏座敷で病没した。

病原は十津川村の戸長をしていた上杉直温という人が所用で泉州堺から十津川郷に帰る途中我が家で一泊し、嘔吐する事数十回にも及び、真性のコレラであったが幸いにも回復した。

それが伝染したものであると医師は証言している

上杉直温は、その後吉野郡の書記、北海道新十津川村村長を歴任した。

父は五十一歳を以って一生を終え、仮の葬儀として極楽寺で火葬した。

父に伝染した際の状況は、吉野川で鮎狩りを行い、暑さにやられ一日中下痢がひどく、一旦回復したが、その翌日朝再発しそれきりとなった。

父が病気になったその夜、母の指示で兄の源十郎と一緒に医師の丸山同雲の所に行き、特別に診察を依頼したが断られ、医師としての本来の務めの心も持たない無情の言葉に兄弟ともに腹を立てたものの、どうしようもなかった。

その医師の無情さが評判となり、やがてその医師は下市町善城に移転したが数ヶ月で病死してしまい、その後継者も無く、とうとう家財産を失う事となった。

主治医として井澤保民・近藤春斎・中澤近三。

尚、堺県立病院長森鼻医師を特別に招いた。

看護としては、母及び自分そして山木冨三の母イソの三人が当った。

親族及び他人の出入を禁止して西尾儀太郎の自宅を仮の事務所として戸長の中岩太郎が書記数人を引き連れてやってきて親身になって一生懸命尽くしてくれた。

患者の吐き出したものを遠方の地に捨てるという事が法律で決められているが、金銭の関係で運搬するものが居なくてやむを得ず看護に当っている自分が吐き出したものを担ぎ、事務所にある兄の源十郎の用意した予防薬を携帯して、兄と二人で上之島の藪の端まで運搬。

役所からは担当者として永井又三郎が来て、当時、履物商をしていた通称「針安」の所有地に捨てるよう指示した。

このように、自分達で汚物を運搬する悲しみを兄弟でそれぞれに語り、父の最期に至って思うように行かないことを思い、互いに涙を流しながら帰ったところ、その道すがら、多数の知人が見舞ってくれ、「飛ぶ鳥も落ちる程の勢いがある『萬久』にこのような悪い事が起きるとは一体どういう事なのか。しかも、世界中探しても二人と居ない程の善良な人物が悪魔に犯されるとは」と、いずれも涙ながらに声を掛けてくれた。

発病して三日目から通称まこ市という人が看護のためやって来た。

引き続いて源十郎兄は、葬儀の準備を叔父の吉川文治郎等に頼んでおいた。

名倉村の矢田貫道医師がやって来て、診察してくれたが、治療の甲斐なくとうとう息を引き取ったため、すぐに帰って行った。

死体は、納棺し、法律に基づき、患者となったとき初めて着用した黒羽二重の袷を着せたままで、普段愛用していた煙草入れ・短刀その他を棺に差し入れて火葬に付した。

棺は新平民の市兵衛と喜代松という二人の人夫を雇い入れた。これは吉川文治郎の発案によるもので、万一兄弟に棺を担がせて後日伝染してしまっては一家にとって大変な事になるという理由であった。

このように簡単な火葬を行ったため、後日、当地方ではこれまであったことが無いほどの規模で改葬を執り行う事となった。

また、その後母は、家事の取り仕切りを一切せず、諸国の寺院を訪れ神社仏閣を回って参拝し、益々厚く仏法を信仰する事となった。

今となれば父が亡くなる事前の兆候であったと思われるが、十二月になって梨園の花が満開になり又、深夜屋根の上で大音声が響き渡るのを耳にした。

また茶園に立っている六本の竹の先に切り込みを入れ、枝を挟み込んだのは、あたかも葬式用に使う幡や燈籠等と形が一緒であったと世間の人も皆悪い兆候であったのだろうと言っている。

十月十二日 父の改葬を行った。

午傳人は十一日に三十五名同夜には二十八名、同夜詠歌をあげる人達は十六人、当日の午傳人は二百十三名に及んだ。

五七日となる三十五日目の当日の午傳人は六十一名であった。


 寺院 講御堂 院主北浦便観  役僧  小僧

    大善寺下中 生蓮寺二見 成願寺木ノ原

    金剛寺野原 地蔵寺霊安寺満願寺

    金剛寺山蔭 栄山寺小島 安生寺今井

    地蔵寺島ノ 行円寺阿田 常福寺阿田

    地福寺久留ノ薬師寺野原 櫻井寺須恵

    櫻井寺小僧 宝満寺五條 同  小僧

  西方寺阿田 極楽寺五條 井上院須恵


 行列の際のそれぞれの役割は

 高張  林仁平 林忠八

    燈籠  矢田貫道 福塚亀五郎

    幡   乾浅十郎 福本伊平次

        丸谷清吉 高橋清兵衛

    四花  玉置芳野

    鶴亀  ラク

    香炉  林 大吉

    位牌  直吉

   棺   吉川文次郎   林源十郎

        スケ中川庄次郎 スケ藤井儀三郎

    天蓋  キヌ スケ トク

    棺付  堀江庄吉 贄川彦太郎 岡田忠七

        佐古洋彰 松下茂実  中井束

        中澤近三 中澤菊尾  松葉浅治 

        亀谷五郎


 病気治療に当った医師として参列したのは

       丸山同雲 井澤保民 近藤春斎 森鼻宗次 中澤近三


 葬式当日の食膳は三百五十人前を準備


 会葬者    本町 他衆は紀伊名倉 在部は小島 野原 阪部 佐味 岡 今井 等


 葬式費用は金百六十円九十五銭五厘

死亡日 明治拾弐年七月十六日

     (大陰暦では五月二十七日に当る)


○今年正月十四日目出度くも町内の日待講を経営した。

その翌日父が肩先が痛むと言い出し、庭にあるざくろの枝を折ったのは世間で言う丑寅の方角に位置するので金の神のたたりであろうと言った。

それに対して自分はそうではなくて寒さが厳しくなってきたのに拘らず川の漁をするのが好きでその為の疲労ではないかと答えた。

すると父は、そうかもしれないとすぐに按摩屋の竹次郎を呼んで摸ませた処、すぐに治ってしまった。


○発病する二日前に下痢が数回あった。

母は驚いて丸山同雲を呼んだところ、これは流行しているコレラではなく暑気当りだという診断であったが、その後引き続き下痢と嘔吐は勿論のことつらさに耐えられない様子となり、家族はようやく大病であることに気がついた。

そこで再び丸山医師を呼ぼうと兄弟で駆けつけたところ、その容体を聞いて、今流行のコレ

ラではなくて時節柄云々と説明ばかりして来診しなかった。

中澤医はその後鳥井戸に出張し、それを迎えに辻本卯吉を夜の一時ごろから差し遣わしたが翌朝の七時ごろになってようやく帰宅。

すぐに来診した。

翌二十七日各医者が次々にやってきてようやくのことでコレラと決定、法律に基づき届出をした。

燐家は勿論のこと、村中が大騒ぎとなった。

真っ先に駆けつけて来たのは、玉井市平で大層尽力してくれた。

辻本卯吉を使って、名倉の矢田貫道に通知させ、又和歌山に在る三道ノ宮に参拝させた。

官吏がやって来て家族一同を吉川文次郎の家に避難させた。

尚、自分に対しても避難するよう諭したが、自分は応じずに、父は自分の大元で有り生きるか死ぬかの瀬戸際で見捨てたとなればこれほどの不幸は無い。

もし感染するとすれば、もう既に病魔に罹っているはず、今から逃げるのは反って予防とならず、人の道に外れることをするのは耐えられない。

と話したところ、官吏は涙を流しながら応諾した。

また召使の中川楢太郎は病名に驚き、故郷の広瀬村に、一時避難したいと暇を願い出た。

同人にとっては十二歳のときから仕事をさせてもらって来た恩の在る主になるが、止むを得ないことだ。

兄源十郎は官吏の命令を守らず、表口から入ってきて台所で事務を執行した。

同夜十時になっても矢田医はやって来ず、何度も使いに呼びに行かせた。

家の表通りは通行を厳禁し、消毒薬を十分に散布した。

平素は町内で親交が多かったが、反って北之町の西尾儀太郎・玉井市兵衛・桶谷彦吉・金谷藤平等が徹夜で事務所に勤めてくれた。

病に苦しみながら父が話しかけてきた。

去年の場合と違って話し掛けようとしても声にはなっていない。

「爪の色が紫色になっているが、これはコレラではないか」。看護人はそれに答えて、決して流行病ではないと言った。

すると父は少し安心して「商売はいつも通りか」と聞いた。

その日の午後四時中岩太郎が中川庄太の姿が見えないのに気づき、中川庄右ヱ門宅に使いを走らせた。

そうすると庄右ヱ門の後妻は恩義を忘れ去るような事をしてはいけないと、厳しく叱って庄太を門衛として従事させた。

病人は午後四時頃から快方に向かい、糊を二椀食べた。

一同は大いに喜んだがそれもつかの間で、午後六時から再び苦しみ始めた。

父曰く、今までの医者の薬では良くならない。

原田浅治郎が良い薬を持っていると。それを聞きすぐにその薬を飲ませてみた。又曰く他に

何か良い薬はないかと。

苦しみは益々激しくなってきた。

ちょうどその時、堺病院長森鼻宗次が来診した上で表屋源蔵の宿に引き揚げた。

再診してもらおうと何度も使いを出したが、近藤・井澤の両医師と談話しており時間を経過した。

森鼻医師が再診し、父に対して、今しばらく我慢すれば快方に向かうので気を確かに持つ事が肝要であると言い諭した。

父は清らかな冷水を欲しがったが、直ぐに吐いてしまうのでしばらく飲ませなかった。

その内、父は一度座りたいので起こしてくれと低い声で言ったので、自分とイソの二人で起こしたところすぐにたくさんの灯火が見えると喜んで言った途端そのまま息を引き取ってしまった。

看護の甲斐も無かったと母及び自分の落胆は限りなかった。

死去の連絡を事務所に知らせると、すぐ棺桶が持ち込まれ、市兵衛・喜代松の二人がこれを荷い、南小路を通って田中町に出て神武遥拝所の下手を東に抜けて大溝堤を古池まで行き、それから須恵前を過ぎて極楽寺に到達した。そこで佐野市松は提灯を携えて官吏二名が付き添った上で火葬に付した。

火葬人は票山弥助である。

棺の中の父は、黒羽二重の五つ紋付に博多の帯、その他器物をたくさん納め棺の上下には帷

子の座布団を置き安座させられたままである。

兄の源十郎は父の煙草入れの煙管を、自分の銀張金口の煙管と取り替えてさらに小遣いとして円金を差し入れた。


  二十八日 納骨を叔父吉川文治郎やその他親戚の人々が持ってきた。

家の中にいた者は、皆厳重に予防薬を飲み、十分に消毒を受けていた。

第一番目の見舞いとして近所で菓子商を営む菊川政吉が土用餅を持参した。

表戸を開けば、山本イソの娘藤井トクが見舞いに来た。

当町の通行は七日間禁止し、縄を張り、番人が見張りをした。

昼夜の通行は桜井寺の表門から裏門を開き通行できるようにした。

佐野市松が表門から密かに外に出て吉野川の河原の飯屋で大酒を飲んで又忍び帰って来たが、嘔吐がひどく、どうしたことかと心配したが、幸いにも中澤医師が深夜に忍び入って見舞いに来てくれ、腹薬を飲ませたところ直ぐに効いた。

大吉門口の縄張りを越えて表戸を叩き「じいやん」と数回大声で叫んだが、隣家の人はその声を聞いて、皆気の毒がり、涙を流すものが多かった。

また矢田貫道医師が駆けつけて来たが、死亡した翌朝であったためどうしようもなかった。

父が死亡してから八日目でやっと縄張りが解除され、表戸を開くと厳重に消毒されており、商売の商品は残らず消毒で駄目になっていた。

砂糖桶等は其のまま河原に持ち出されて一つの山のようになっており、全て焼かれてしまっ

た。

吉川文治郎は、父の白骨を抱いて仏前に納骨した。

店を開くと、予防しておいた品物にも拘わらず、魚喜の妻が買い物に入ってきた。

これは実に義侠心から出たものであった。


二十七日、つまり死後十四日目に、東浄町の寿命惣という人を中心に外五人一組となって、詠歌を仏壇に挙げた。

是を機にその後十四日毎に誦経され、ますます盛んに追福された。


○八月一日 直吉が家督相続を届け出たところ、その日のうちに手続きは完了した。


○十月二十五日父の納骨をしようと、母キヌ・妹ラクと自分の三人で早朝に

出発し、橋本・学文路・家根・神野の駅を通り、高野山五大院に宿泊し、その夜日牌の法要を行い、翌二十六日奥の院に納骨した。

そして、家根駅に一泊し、三日目に帰宅した。

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金毘羅参詣の栞


○明治十五年五月十一日に出発し、同月二十四日までの二週間(旧暦三月二十四日から四月八日まで)讃岐の国琴平神社へ参拝した。往復の海陸とも至極平穏で帰郷した。

道中は古跡を訪ね神社仏閣はもれなく参拝する事ができた。


○十一日 晴天 午前五時五條を出発し、今井の荒木神社に到達する頃空は明るくなり、三在駅を通る頃になって太陽が小島山から昇ってきた。

住川村に出て風の森峠を越え五百家村に来ると三名の通行人に出会った。

良く見ると、なんと十数年以上前に五條から御所に転居した井筒幸であった。

そこから東は高取城・多武ノ峯・龍門嶽の連々たる大山を眺め西は金剛・葛城の有名な山を見ながら一里ほど歩いて行くと、前方に一人の旅人がいた。追い着いて見ると今井村の久保龍三であった。

二里ほど一緒に歩き長尾の駅で別れ、竹之内峠の近くまで行くと、それまでと異なり道は広がり通行人もそれまでの倍以上となり、荷車も非常に多くなった。

そこから下って河内の国春日駅に着く頃、丁度正午となった。

そこで角屋旅館に寄って昼食を取った。

その後人力車に乗って古市を過ぎ挙田で下車。八幡宮に参拝した。

 その昔大阪の陣の時に薄田隼人が戦死した松林を眺めながら、そこから二十丁北に進み、道明寺天満宮に参詣 して更に進んでいくと、西国三十三箇所の葛井寺である。

幸いにも浪花に帰る人力車がいたので、それに乗って平野駅に行き、大念仏に参詣したところ本尊の開帳が有った。

いずれも食事料をお供えし同寺を出発。天王寺から大阪南久宝寺町堺筋角の村松直三郎の宿に宿泊した。

時刻は午後四時であった。

自分は直ぐに商用の用件を済まそうと四方を飛び回った。


○十二日 晴天 村松宿は最高の料理どころか至れり尽くせりの持て成しをしてくれたので、若干の茶代を渡した。

朝食を済ませ自分は本町にある日本立憲社を訪ね、天満での商用を済ませ松屋町から帰る途中、桜井勝三及び羽根亀三と出会い、この数年間の立話をして村松宿に戻ると、同宿から川口町の船問屋に乗船の紹介をしていたためそこの店員が会いに来ており、又村松宿からは下使いの者と店主の老婆が川口まで見送りに出てくれた。

午後一時長崎行きの静清丸に乗り込むとすぐに出船し神戸に向かった。

神戸港で点燈しさらに西に向かった。

風は順風追風で翌十三日の朝、讃州の多度津港に到着した。

 大阪の川口を出発するとき一等の船客となってその席に着席すると、自分たち三人以外に客は無く、しばらく して五名の客が乗ってきたが、自分たちは先客だから依然上席に乗っていた。

ところが乗客の内二人は長崎の商人で、一人は伊予の国三津ヶ浜の開業医、一人は下関の者、残る一人は伊予国宇摩郡下分の星川傳平と言い、その長男の七次が肺病にかかって大阪に居るのを、傳平父母が見舞いに大阪に登ったところ、それ程のことは無かったため母を看護のため残して置いて、父の傳平は帰る所だという。

「君はどこのお方であるか」と問われ、それに対して「私は大和の国五條で聚珍社の社主をしている高橋直吉であり、母と妹を連れて、亡き父の生前の供養に讃州琴平神社に参拝しようとしている者である」と答えて言った。

それから船中では星川傳平といろいろ話が弾み、讃岐に行くのであれば是非伊予の自宅に案内したいと深く懇請してきた。

そうこうする内、一人の洋服を着た人が突然中に入って来て、私は当船の船長として勤務している者で、皆さんはさぞ退屈されている事だろうと思い四方山話でもしようと言って来た。

それから一層話は弾んでいった。

引き続き波は穏やかで池沼を走っているのと同様の様子であった。

その時俄かに汽笛の発声があり、船長は多度津に到着の合図ですと言った。

 
 ○十三日 天気は十二時から一時の間わずかであるが雨が降った。

曙の頃多度津に上陸すると、花菱新吾の宿の宿引男の案内で、我々一行に星川傳平が加わって朝食を食べた後琴平山に向かって出発した。

 ここで星川傳平とは、再会を約して別れを告げ進んで行くと程なく東に屹然とそびえている大きな山がある。

近くの農夫に聞くとこれが当国の名山の讃岐富士であると言った。

さらに少し進むと雨が降ってきた。

しばらく一つの店先で雨宿りをし、それから一時間ほど更に歩くと琴平に到着した。

神前で伏して数礼を尽くし参拝した。

母はやっと父の生前の供養をするため、これまで幾度と無く参拝しようと思ってきたがいつのまにか四年が過ぎてしまった。

今やっと境内に居るのが夢のようだと口にした。

ここで神饌料を差し上げ、しばらく境内に居て、十分拝覧してから市街地に降りるともう二時間ほどたっていた。

備前屋に入り上座に座ると店の人がやって来て、食事はいかがいたしましょうかと問うので、勿論最高の食事を出してくれと頼むと、予想以上の立派な食事をする事ができた。

食事の後又旅を始めると四国七十五番札所の善通寺に到着。

中に入り拝礼して外に出て見ると、すばらしく美しい五重塔が眼に入ってきた。

弘法大師の信仰者達がひっきりなしに参拝している。

そこから更に少し歩くと、多度津の花菱の宿の男が迎えに来ていた。

 その男に道案内をさせてそこに宿泊した。

夕食を済ませ床に横になろうとすると、三十八九の婦人が入ってきて「私は琴平に参詣する

途中でここに一泊するものですが、十六歳の息子と六十近い使用人と一緒です。故郷は作州津和名です。あなたはどちらさまでしょうか」と聞かれ、「私は大和の国五條から来ました。」すると、その女は涙を流しながら「よくもそのような遠方から来られました。大和と言えば私にとっては深い義理のある懐かしい国です。

も少し詳しく話をお聞きしたい」と言われたが、「私ども三人は明日宮島まで行こうとしており、これから切符を買いに行かなければならないから」と断って、外に出て切符を買って来て再び宿に戻った。

ところが母は、今から宮島に向かって五十里の船旅をするよりはむしろ和船(手漕ぎ舟)でもいいから出来るだけ早く中国に渡りたいと言い出した。

私と妹は汽船のほうが安全だから宮島にお参りしたらどうかと勧めたが、一向に聞き入れる様子も無く、やむを得ずその切符を払い戻してもらい、備前田ノ口港に船で渡る事とした。

先ほどの津山の婦人は沢山の菓子をくれて、

「私は岡山に向けて汽船で渡りますので、ご一緒させて頂きたいのは山々ですが、残念ながらここでお別れするしかありません。

ご都合がつけば是非一度津山にお立ち寄りください。粗末な家ですが何日ご滞在いただいても結構です」と言ってくれた。


 ○十四日 晴天 早朝から中国地方に渡ろうと思い立って、前夜から花菱宿にいた大阪人二十四名の一行と
 宮島に一緒に行こうと約束していたが、やむを得ず断ったところ、その中の二
人が自分たちに加わって田ノ口港に
 行くこととなり、都合五名で和船を一艘借り入れてすぐに出帆した。

津山の人はその別れを惜しみ海辺まで見送りに来てくれた。

海上は波も穏やかで田ノ口港に到着した時刻は十二時であった。

その海岸の宿舎で大阪から来た夫婦と一緒に昼食を食べた後、急いで由加山に向かおうと、その宿の桝屋伊兵衛に挨拶をし、酒屋に寄って空になった瓢箪に酒を満杯にし、又割烹屋で折り詰め弁当を買って田ノ口を後にし歩く事わずかばかりで小高い松山が見えてきた。

そこに登ると眼下には八島を遠く望みはるか向こうには四国の山脈が横たわっているのが見えた。

広々とした海上を眺めればそこはあたかも積雪の原野に降り立ったかのように実に美しい景色である。

母は、陸地に居る事を喜び、安堵の気持ちを表し、杯を何杯も飲み干し大層な喜びようであった。

そんなこんなで、歩いていくとやがて由加に到着した。

島屋旅館で食事を注文したが、母は食事が出てくるのを待ちきれず又瓢箪を取り出してお酒を飲み、思わず時を過ごしていった。

 島屋は有名な旅館であり、丁寧な食事を出してくれた。それから由加神社に参拝し、由加に下り空になった瓢 箪に酒を買い求めて少しばかり歩いて行く

と、ある駅に到着。

ここが又すばらしい景色で、母は肩の瓢箪を下ろしてくれと命じ、懐から杯を取り出して待っている。

実に愉快な旅行である。

次の駅に今にも到着しようとするとき、宿引きがやってきた。

その宿引きの案内で進んで行き、駅の名前を聞いたところ林の駅と言った。

旅館の名前は吉福屋重蔵である。

この旅館に入ると、午後四時三十分に亭主が挨拶にやってきた。

「今日の正午頃由加山を出発してきたがここの駅まで何里ほどあるか」と自分が聞くと、亭主は笑いながら、「四十丁程しかありません。どうしてそんなに時間がかかったのですか。」と聞かれ、自分は、「酒を飲み、すばらしい景色を眺めていたため、知らず知らずのうちに時間が経過してしまったのだろうか」と答えた。

浪花の夫婦は、「私達はこれからもご一緒したいのですが、残念ながら日時に余裕がありませんので、ここでお別れすることにしたい」と、すぐに仕度を調えると出発して行った。

自分たち三人が、入浴を済ませ夕食に就くと隣の座敷にまた夫婦連れの客がやってきた。

 二人とも挨拶にやって来て、「先程からお話を伺えば、本日ここにご宿泊されるのは、明日吉備山にご参詣さ れるためだそうですが、私共もそのつもりでここに宿泊を決めましたのでご同行をお願いしたいものです。私 は近江の国犬上郡多賀尼子町の武内彦平と申します。」と話しかけてきて、その夜は遅くまで互いに話に花を咲かせた。


 ○十六日 晴天 午前七時にその宿を出発。

五人の一行で進んで行くと、昨夜の宿の下働きの男が駅の外まで見送りに来た。

次の駅は天城駅で、その地方は耕地の多い土地である。

また撫川駅別名早島を通過すると、非常ににぎやかな町で倉敷町と言う町があった。

ここは、岡山味野の中央で実に商売が盛んで、色々な物が寄り集まった地区であり、病院・遊郭・芸子・取り調べ所などが設置されている。

又岡山県の進歩には驚かされる。

至る所に小学校が見事に新築されており近畿地方の及ぶところではない。

次の駅の藤戸の駅を越えるとそこは備中の国吉備津神社がある。

五人の一行は参拝をして備前の国一ノ宮に向かって道を急いだ。

しばらく進むと一宮神社に到着した。

参拝をして門前の茶屋で休憩をした。時刻は午前十一時である。

そこからは、人力車五台を連ねて正午に岡山に到着した。

そこの炭屋新兵衛の宿で昼食をとり、山陽新聞社があったので新聞を買おうとしたが、「内務省から発行停止の命令が出されているため今日は休刊している」とのことである。

 そこで私は、あえて「国許に郵送したいので、既に発行されている新聞でも良いからよろしくお願いしたい。 只どのような記載の仕方をされているのかを知りたいだけです」と言うと、受付の者はそのことをすぐに上司に連絡 し、三名の社員が奥から出てきた。

「君はどこの方ですか」と尋ねられ、「それ程の者ではなく大和の国五條の聚珍社の主である」と答えると、社員は、「それはそれは、大変懐かしい、先だって政談演説で五條をよく存じ上げています。」とすぐにお茶お菓子を出し、もてなしてくれた。

そこを出て、岡山新聞社に行くと、聚珍社の知人が居て、是非一晩泊まってくれと勧められたが、同行人もいて彼等の都合もあることなのでと、近いうちに再会する事を約束してそこを去った。

岡山は平坦な土地で、岡山城が平地に建っており四方は、丘山が遠くにあり南方は海湾、海岸まではわずか一里しかない大都会である。

そこから人力車に乗って進むと、程なく藤井駅に着き、炭屋佐吉の宿に一泊する事とした。

今日進んだ距離は七里でその内二里は車に乗り、五里は徒歩であった。


○十七日 晴天 炭屋佐吉の宿を出発し藤井駅を通過して一日市駅まで進んだ。その駅を越え、賀ヶ戸駅に着いたところで枚方屋久兵衛の宿で休憩。

そこから大内駅に行き、その土地の名所である臥龍の松を観覧し、印部駅を通過して片山駅に到着。そこの鶴屋市兵衛の宿に入って昼食を食べた。

その宿の主人の勧めで武内夫婦と五人で一艘の船を借り播州赤穂に向かって六里の海上を航行した。

 順風に乗って速度も速く、予定時間より早く一時に到着した。

そこでは当時の四国・中国地方の流行歌「ハイハイソレソレ歌」を至る所男女の区別無く歌っている。

又当地周辺は田んぼを耕すのに多くは馬の力を使っているため牛の姿は見えなかった。

赤穂では加賀ノ屋源太郎の宿に泊まる事とした。

同宿から案内人を出してもらい赤穂の旧城を見物した。

元禄年間の四十七人の義士の石碑を拝見し線香を供えた。

それから本堂に入り、四十七人の木造の像を開帳してもらったが、驚く事にその彫刻はまるで生きているかのようである。

自分たちで敵討ちを果たそうと辛抱強く抱いた志と悲しみが顔の表情に顕れているのを見て、誰が涙を流さないものが居るだろう。

その後も各所の古跡を残らず訪ね宿に宿泊した。


○十八日 晴天 朝早くに仕度を調え加賀ノ屋源太郎宿を出発し、東に向かって徒歩で進んで行くと杉の木駅に着いた。

その北十八丁程のところに尼子義久の城跡が遠くに眺められた。

左島駅を通り、正条駅(現在の龍野駅)を過ぎいかるか駅に到着したところの餅屋長蔵の家で昼食を取った。

そこでは名所の折附の松を見物した。

 そこからは、東にある西国三十三番札所の播州書写山に登ろうとした。

ここで江州の武内彦平夫婦と別れた。

そこからは人力車を雇い書写山の麓まで来た。

そこで別の案内人を雇い入れて書写山に登っていくと、途中は厳しく険しい坂道が続いていたが頂上は至って平坦であり、その上見事な絶景である。

伽藍やその他の堂等を見て回った。

中には後醍醐天皇の御建造物もあった。

武蔵坊弁慶の学問所、及びその時使った机などもまだ残されていた。

又、一本杉と言う大きな杉の大木があり、左甚五郎がその杉に天人の彫像を彫刻したところ、天人の彫像がどこかに飛んでいってしまったというその跡が残っていた。

非常に珍しいものである。

それから沢山の宝蔵物を拝覧して阪本村まで降り、山田屋という百姓の宿に入った。

この地には大通りがある。これは因州鳥取に通じる街道である。


 ○十九日 夜が明ける頃山田屋を出発。

姫路街道に出て南の方角に向かい進んでゆくと午前十一時に姫路に到着。

旧城の見物をした。

おきく皿屋敷の井戸を見てから中井屋旅館で昼食を取り、曽根天神に参拝し曽根の松を観覧した。

 そこから石造の宝殿に入り三間四?の浮石をじっくりと見てそれから又尾上神社に参詣した。

初老の松を見物し茶店で休憩していると天下茶屋生まれの女が、これから下関に芸者奉公に行く途中で一人の老婆を連れているのに出会った。

自分たちが上方に帰るのを聞き懐かしがってか、こちらから別に聞いた訳でもないのに、十八九の女は涙を流しながら、「私の生家はもともと相当な家柄であったが、父を亡くしてから母の手で育てられ遊芸は十分に仕込まれたが、母の長期に及ぶ病気のため遂に家財産が無くなってしまい、仕方なく奉公に出ることになった。天下茶屋に残した母の生活だけでなく、大病なのも顧みないで金策が第一と、別れて此処までやって来たが、ひと時も母を思わないで歩いた事は無かった。」と身の上話をした。

実に気の毒な事であるが旅行の途中でもありどうしようもないため別れ、そこから歩いて高砂に出て志方屋宗兵衛の宿に宿泊する事とした。

時刻は午後五時であった。

 
 ○二十日 晴天 午前六時志方屋を出発し尾上の松・尾上の鐘をそれぞれ閲覧した。

この鐘はその昔、竜宮から陸に上がって来た物であると言われている。

その真偽は知らないが珍品である事は間違いない。

その後又進行を始めしばらく行ったところで手枕の松を見物。

そこから人力車に乗って明石に到着。人丸神社に参詣して海面を見渡すと、すぐ向こうに淡路島が見える。

 海上約一里ほどの距離で誠にすばらしい景色である。

明石の海岸で昼食をして、そこから東に向かって大蔵谷駅を越え舞子の浜まで行くと実に絶景である。浪木の松が海面に写っている。

蒸気が天高く走っているのが見え、その間漁船が沢山浮かび海上は全く鏡のようで、南は淡路の岩屋を眼下に眺め、東は金剛山あるいは双子山の懐かしい故国の山脈が見える。

泉州灘はその麓にあるものと思われる。

松林の下を歩いていくと舞子が踊り跳ねているかのように見える。

又道路は九州・中国に行く街道であるので人馬の通行量も非常に多く、母は喜んで「もうすぐ大和の葛城山や和歌山の加太が見えるはず」と言いながら少しばかり歩くと一の谷に到着した。

そこで休憩を取り敦盛郷の墓に参拝した。

七百年の昔をしのんで名物の敦盛そばを食し、又、瓢箪を取り出し酒を杯に注ぎ車夫にも飲ませてやった。

夕刻に須磨駅に到着し、松屋新左ヱ門の宿に宿泊した。


○二十一日 晴天 早朝から出発の仕度を急ぎ、松屋の主人を案内役に、名高い須磨寺に参詣した。

敦盛の菩提寺をはじめ、その宝物や二十四箇所の名所を次々と拝覧してから清盛塚を参拝。

築島を通って和田岬を回って兵庫を通過。湊川の下流を越えて神戸までやってきた。

 海岸の洋館がある居留地を見て周り楠公に参拝した。

生田神社から福原に出て遊郭で真田楼を訪ねた。

かつて五條で大工をしていた兵庫安の娘のシズが娼婦として堕ちて来ているので、一時間ほど面会をして、その後神戸に到着。

午後一時五十分発の上り列車に乗り込んで西ノ宮駅で下車した。

広田神社に参詣後、午後二時三十分発の列車で大阪梅田駅に到着した。

すぐに人力車で南久宝寺町の村松宿に行き宿泊。

その日は村松宿の下女の案内で母と妹は近くの各所を見物してきた。


 ○二十三日 晴天 早朝から千日・道頓堀・心斎橋を歩いて見物。

午後一時に大阪を出発し住吉神社に参拝。

安立寺町から堺に入り材木町大道の山内屋お吉を尋ね、一時間ほど昔話をして、その後夕刻

に大小路の薩摩屋の宿に宿泊。

その日は大寺・妙国寺に参詣した。


○二十四日 晴天 堺大小路の薩摩屋の宿を出発し福町・三ツの各駅を通過し長野まで来て昼食。

そこから観心寺の永楽屋の宿で休憩をして観音菩薩に参詣した。

石見川を通って大沢峠を登り行者に参詣してからしばらく休憩を取り、大沢寺まで降りてきて薬師如来に参詣。

 無事帰宅したのは午後六時ごろであった。



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高橋直吉氏の母堂林絹子の略伝


林氏の名は絹子。和州宇智郡五條の人である。

その祖父の和州十津川の儒医杉村隼人が五條にやってきて、学友の森田節斎翁の媒介で、五條の豪家であった林家の跡取りとなった。

林家は代々農業・商業を兼業する家であり従って、隼人翁は医者を続ける訳にいかなかった。

そうこうして、翁は二人の子を授かり長男を源十郎、次男を某と言った。

二人の子はすくすくと成長し、やがて長男の源十郎に林家を継がせ、自分は次男を連れて崎陽に行きのんびりすごし、その内江戸に行き医者を開業し、数年を経過した。

ところが、杉村家の本家の家系が今にも耐えかけていることを聞き、翁は自分の郷里である十津川に帰り其の杉村の本家を継いで旧姓に戻った。

それ以前、源十朗は五條の當麻屋と通称されている山本家のナヲと結婚して、文政八年乙酉年七月三日に林絹子が生まれた。

源十朗氏は性格が非常に優れて偉く、気概を持っており、いつも家の仕事は顧みず、森田節斎の弟子となって学問を学び、又剣術も優れており、好んで当時の剣術の達人たちと交際をした。

そのため、家の財政状態は非常に落ち込んでしまった。

林氏が名乗られ始めてまだそれほど経っても居ないのに没落してしまうこととなった。

それ以降、妻のナヲは林キヌを女手で数年間養育していたが、家の経済はますます貧しくなってしまった。

そのような時にも、五條の親戚は林氏の母子に近付こうとせず、誰一人として助けてくれるものは居なかった。

其のうち終に、母子は五條を出て十津川に祖父の杉村隼人翁を頼って行った。

林氏絹子が八歳の時であった。

絹子は成長するに従って気性が強く物事に屈せず誠実でまっすぐな性格を持ち極めてしっかりとした考えを持つようになった。

そして翁の影響を受けているまだ十二三歳の頃、既に林家を再興しようという志を固め、十五歳になると翁の家を出て母を誘って五條に帰り、母子で裁縫や織物の仕事を始めた。

それから数年後に母が病死した。

そこで、絹子は奮い立って決心し大阪に出て商家に奉公に出て毎日朝早くから夜遅くまで頑張って仕事に励んだ。

中でも商業を中心に経験を三年余り積んだ後、年齢が二十歳になり五條に帰って独りで商業を始める事とした。

幸いにも松屋又兵衛・横屋籐衛門の二人が、同じ五條の高橋久平衛翁の処で仕事をしたらどうかと勧めてくれた。

そこで絹子は、自分の志を成し遂げるためには、このまま一人では難しいと解り、又久平衛翁のためであれば、自分は十分に役に立つであろうと理解し、その嫁入りを了承した。

この時点では、久平衛翁は独身で、母と妹を養っており極めて貧困状態であった。

林氏絹子(キヌ)が嫁いでからは、絹子は姑には従順に仕え、妹はやさしく愛情を持ってかわいがり、夫婦で力をあわせ主として農業をする傍ら、菓子餅を焼いたり漁をしたり又は紡織もして朝早くから夜遅く皆が寝る頃まで働いた。

食事は粗末で着る物もろくなものは着ていなくても恥ずかしいと思わず、なりふりかまわず一生懸命頑張ったため、数年もするとようやく、蓄えも出来てきた。

そこで益々商業を拡張し野菜・乾物・雑品を商いし、屋号を「萬屋」と称した。

人は通称「萬久」と呼ぶようになった。

嘉永 年 月 日 初めて男の子が生まれた。房次郎(後に源十郎と改名)と名付けた。

商売は益々順調に拡張し、夫婦は益々質素な生活で頑張って仕事に励んだ。

安政四年丁巳の年七月五日次男が生まれた。名前は直吉と名付けた。

慶応元年五月八日さらに女の子が生まれた。楽子と命名した。

その後、翁は妹のツルを五條の吉川文次郎に嫁がせた。

既に明治の初め、房次郎氏がまだ年も幼かった頃から翁夫婦は朝から晩まで二十年余り一生懸命仕事に励んできた。

翁は既に四十を過ぎた晩年、商業をする事に疲れていて専ら兄の房次郎に任せるようになった。

また林・高橋両家の後継者を決めるに当たり、房次郎の名を源十郎と改め林家を継がせる事とし、紀伊の国伊都郡名倉村の医師矢田寛道の妹ツル女を嫁にもらう事とし、次男の直吉を高橋家の後継者とした。

其の時点では楽子はまだ幼少であり、したがって杉村翁と同郷の山手村佐古源左ヱ門高郷の二男松下茂実の嫁にする約束をして、松下氏に医学の勉強をさせた。

以前、林源十郎氏が祖父杉村隼人翁の家に居た頃、ある日穏やかに林キヌ氏を戒めて言った。

汝が父祖の事業を再興したいという気持ちは、それはそれで良いが後に汝に子供が二人出来たならば、其の内一人は必ず医学を学ばせなさい。

そもそも医学は小技であるといっても、万物の原理を駆使して生命を司る仕事である。

私が現在、郷里の五拾余ヶ村で感謝されているのは、かつて医学を東西で学んで来たからこそである。

其のとき、林キヌ氏は翁の訓戒に従うことを約束した。(即ち、楽子の許婚者である松下茂実に医学を学ばせた。)

それ以来、源十郎に主として商業を任せ、源十郎もまた商業に精を出すこととなった。

一方で源十郎は若い雇い人たちを率いて農業にも精を出した。

果樹桐桑を多く栽培しており、今ではそれらによる利益は大層多い。

久平衛翁は既に年老いて、いつも悠々自適、世間に関せずの生活をしており、人物は豪傑で人の面倒見がよく、淡々と又あっさりとしている。

相撲を観戦するのが好きで、又射的や狩猟をするのを喜ぶ。

そして、相撲の興行がある度に、林キヌ氏は二人の子と一緒に翁を誘い観戦に連れ出した。

又、春と秋には吉野川に船を浮かべ漁をするのを楽しみとした。

人々は之を羨み、翁は五條一の気楽な人であると言ったものである。

明治十二年六月二十四日、たまたま流行の病気にかかって寝込むことわずか二三日で亡くなってしまった。

それからは、林キヌ氏は家の事は何もしなくなり嫁の矢田氏に全て任せ、自分は隠居となって仏事を行い、翁の法事毎に必ず近隣の年寄り男女を招いてお経を上げ食事を提供し、もっぱら翁の冥福を祈ることに専念した。

それ以外には、姑を看護する程度で又農業は楽しみの範囲内で行う程度であった。

明治十四年直吉氏は一つの店舗を開き聚珍社と名づけて活版印刷業を開始。

印紙売捌き、売薬・新聞・雑誌等の販売を始めた。

暫くして林キヌ氏は和歌山県の医師坂井清民の次女操を迎え、直吉の妻とした。

明治十六年十一月三日のことであった。

又、松下茂実は既に医者として独立しており、そこで楽子と結婚させ、明治十七年四月紀伊国伊都郡橋本駅で開業させた。

林キヌ氏の子供三人が皆、医者の子と結婚したのは、もともと林キヌが希望していたことである。

そしてある日、源十郎と直吉を呼び次のように云った。

自分は既に六十歳である、

望みもほぼかなえられ、やるべき事もほぼし尽くしてきた。

唯一つ気がかりなのは、姑のことだけである。

今姑の歳は九十歳近くなっているが、まだ元気である。

そうは云ってもそうそうそばを離れないで付きっ切りな訳にも行かず、自分もまた最近脳充血を起こしており、独りで姑の看護を続けるわけにもいかない。出来れば誰か一人看護する人をつけて欲しいと。

そこで、二人の息子は言われたとおりにした。

これによって、キヌ氏は自由になる時間が出来、いつもは直吉氏の別家に寝起きして、日中は本家と別家の間を行き来し、姑や孫と遊んで暮らした。

又特に楽子を可愛がって毎月必ず娘の嫁ぎ先である松下氏の家を訪ね、其の度に十日間ほど泊まってきた。

又時には子供・夫人・幼い孫たちを連れて京阪や近畿の社寺あるいは名勝を探訪した。

また、酒もかなり好きであり、自分からいろいろな花を栽培することも好み、花畑の中に少しの余地も無い程に花を植え、雑草の一本も無いほど手入れをして土も非常に肥沃であった。

林キヌ氏がよく口にしたのは、未熟な人のすることは、大抵は粗雑で煩わしい事をするのを嫌がるが、そのようなことでは上手く行くことは少ない。

自分がやっているように花壇も培養してやればどんな花でも必ず開くし、どんな実でも必ず結実する。

林キヌ氏はこのようにして暮らし、又源十郎氏兄弟は林キヌ氏を大事にし、一生懸命尽くした。

世間では、五條で一番の気楽な人だと評判であった。

明治十九年六月二十日 夕暮れ時たまたま花壇で遊んでいると、俄かに脳充血を起こし、同月二十六日午前七時に六十二歳でこの世を去った。

其の年は久平衛翁が亡くなってから七年目の同月同日であった。

翌日五條村の極楽寺の墓地にある翁の墓の中に一緒に埋葬した。

キヌ氏には三人の子供と、四人の孫がいる。

長男は大吉、次は琴子、その次は旺助。四人目の山作は先にあの世に行っている。

いずれも源十郎の子であり、直吉と楽子にはまだ子がいない。

かつてキヌ氏が病気になった際、松下・矢田・坂井の三人の医師が昼夜傍に就き、五薬を調合させ、地方の有名な五名の医師がやって来て診察にあたり、子供・婦人・孫も手厚い看護をし、親戚や、かつて林キヌの世話になった人々もやって来て床下から去ろうとしない。

ここまで治療の全てを尽くし、看護もこれ以上の無い手厚い看護をし、一つの手落ちも無いにも拘らずとうとう回復することが出来なかったのは、もともと其の病気はどうしようもない手の打ち様の無い病であったため、薬の効果も無かったのである。

ああ、これが命というものなのだ。

それ以外にも林キヌ氏のため御霊神社に足を運び回復の祈願をする人は毎日二百名余りに上ったそうである。

又葬儀の際には遠近からの会葬者は、五条郡長玉置高良氏を初めその部下の官吏や、老若の男女を初め四百名ほど。

この地方始まって以来のかってない程大規模な葬儀であった。

それ程にも氏は徳望が篤かったことの現れである。

当初、氏が林氏の久平翁に嫁いでから夫婦で心を合わせ一生懸命に頑張り、他人に頼らないことを主義として、貧しくても志を曲げることなく、難しいことでも諦めることなく頑張った結果成功したものである。

子供たちの教育に力をいれ、そのために多くの先生を選んで学ばせ又、親戚の子供たちを養育しあるいは勉強をさせ、あるいは結婚の世話もしたその数は数十人に及ぶ。それ以外にも氏から鼓舞激励されて勉強をし、職に就いたものも数多くいる。

又常に慈善に心掛け寄付する事を好み、貧困で困っていることを聞くと直ぐに手を差し延べてやり、女手一つで頼るべき者がいない人には家を貸してやったり、米や金をあげたりした。

其の恩恵をこうむった人は非常に沢山いる。

しかしながら、自分は常に質素な生活を続けた。

以前、キヌ氏が不幸にして母親と二人五條で暮らしていた際に、疎んじて親戚として見ようとしなかった者達も、今になって昔からの親戚のように親しい付き合いを望んで集まって来る。

又既に商売も繁盛するようになってからも必ず毎年冬の三ヶ月の間はキヌ氏が自ら善哉餅というものを作り、毎晩家の後ろの戸を開けてそれを食べに来る人に食べさせてあげて来た。

ある時人がなぜそのようにしているのかを聞くと、かつてこの餅を作ることから商売を始めた頃、自分が家事を執っている間は毎年冬に自分で是を作る事で、一つには家を再興する気持ちの支えとし、一つには子供達に成功するのは生半可では出来ないものであることを教え込ませようとするためであると答えた。

林キヌ氏は又常に交際を大切にし、親しい人・疎遠な人・金持・貧乏人の分け隔てなく、気が合えば必ず親しい付き合いをした。

直吉はかつて、氏と妹とを誘って讃岐の金毘羅さんから中国地方に一緒に旅をした。

其の途中、船の中で伊予の豪農である星川傳平氏と同船した際、一日中話をしていたが、話が印刷のことに及ぶと、星川氏の依頼に応じて、帰国後聚珍社の職工矢野市蔵を送って、星川氏の二男の憲逸氏が印刷業を伊予の国宇摩郡川ノ江市街に開業するのを手伝わせた。

今では相互に行き来し親密にしている。

又帰り道で播州の古跡を訪ねた際偶然出合った江州長濱で大きな商売をしている竹内彦平夫妻と一晩同宿し、あたかも昔からの知り合いのように語り合ってから、今でも手紙を通して商売のことを話し合っている。

遠くに居てもこの様にしており、近くの人との交際は、以前氏が松下の家に居て俄かに発病した際、地方の人々がそれを聞いて毎日数十人も見舞いに来た。五條と橋本の間はそのため人力車の運賃が一時大変な高騰をした事もあるほどであった。

交際の範囲の広さについてはそれ程のものであった。

自分が明治八年三月に五條に来た時、ある日たまたまキヌ氏と話しをする機会があったが、其の時氏は直吉・楽子の二人の子を自ら連れてきて、私に勉強をさせてくれるように依頼した。

それからは直吉は、仕事の合間を見ては、毎晩勉強をしに約四年間やってきた。

病気や事故があったとき以外は今だかって一度も休む事は無かった。

是はキヌ氏の励ましがあったからこそであろう。

又、私が妻子を郷里から迎える際、長旅の労をねぎらってくれたり、又私がたまたま、金銭で苦労していると金を出してくれたり、又かつて私の妻が大病にかかった時、何度もやって来て妻を介抱してくれたり、どうして欲しいか尋ねてくれたりした。

その懇切丁寧な面倒の見方は、実の親子のようで、全て、氏の交際は誠意に満ちた付き合いであった。

以前、キヌ氏が亡くなってから後のことであるが、直吉氏が、林キヌ氏が生前いつも座っていた場所の横においていた文書箱の中を見ると冊子があった。

是は、キヌ氏が生前の数十年間の大事な出来事を記録したもので、備忘録であった。

それとは別に、一つの封筒があり、其の中には氏が三人の子供の為に経済・商業・交際等の要点を書き残し、三人の子供への遺訓として残したものであった。

最近になって、直吉氏がそれを持って私のところにやって来て、

「老母は不幸にも幼い時から独りとなり、祖父の教えに従って早くから志を立てたとはいえ、大変苦労を重ねてようやく三人の子供達の基礎を築いてくれその上で、これから生きていく兄弟三人に授け、さらに人生を終えるに当たって、これから生きていく子供達の為にその家を維持していく教えを残してくれたことは、是ほどまでに隅々まで心配りをしてくれていたことに頭の下がる思いである。

かねてより、ひそかに思っていたが、生前の老母は、幼い頃からのものの考え方、生き方が普通の人とは少し異なっていた。

そして自分の略伝を作って、この遺訓とあわせ子孫に伝えることで、老母が、一家を立てることの難しさ、子孫を思いやる心の深さを、教える事によって、永く子孫に与えることの出来るものを授けようという氏の考えであった。

是非、氏の伝記を作って頂きたい。」

と氏の残した日記を差し出し、懸命に依頼し続けた。

そこで、私は氏の事を詳しく聞き、是まで私が十四年間見てきた氏の行動も思い出し、又氏から受けた恩も浅くは無いことであり、是まで見聞きしてきたことや、日記に記されている内容などで氏の略伝を書いたしだいである。

                                   
備後の国旧福山藩士 楯岡斧蔵 誌

 

 

 

 

○母親が病気で見舞い品を贈ってくれた人の名

中岩太郎 西村皓平 中澤近三 西尾儀太郎 菊川政吉 上杉直温 西尾義太郎 紙谷重二郎 西尾栄吉 藤井儀三郎 山本七九郎 栗山藤作 楯岡斧蔵 等八十九名

○六月二十七日葬式の手伝い人

西尾儀太郎 西尾栄吉 中岩太郎 山本宗吉 林平造 吉川文二郎 久保梅吉 藤井儀三郎

中八重 中岩吉 保田藤八郎 佐野先生 西村皓平 玉置高良 上杉直温 中澤近三 

栗山藤作 中岩太郎 山本七九郎 等二百六十五名

 

○六月十六日及び十八日は搾取しておいた牛乳が皆理由も無く腐敗していた。

実に不思議なことで、是はその数日後に大きな出来事がある前兆であったのだろうか。

○六月二十日(旧暦の五月拾九日に当たる。)母が発病した。

迅速に頭部を冷やそうと、直吉が操に井戸水を汲んでくるように指示した。すると未だ新調したばかりの井戸の釣り縄が三ヶ所切断していた。

実に不思議なことだと思った。

○六月十八日十九日の両日は、母はすこぶる元気で、兄の源十郎の家と自宅の間を、たすき掛け姿で、何回か行ったり来たりして家事を手伝った。

これは後々の為に、どうすべきかを教える為だったのか。

○母はいつも祖先の杉村隼人の事を忘れる事は無く、子孫は出来れば医者にしたいと願っていた。

そのため今現在の親戚で医者になっているものは、玉置泰悦・中澤近三・杉村泰蔵・松下茂実・坂井清民・矢田貫道がいる。

○母が病気の際、参加者八十一名で桜井寺に集まって延命の祈願を行った。

○数人の僧侶が講御堂に集まり、延命の読経を三日間行った。

○氏神の御霊神社や統神社で祈祷をした人の数は、四百名に及んだ。

○葬送に際して、弔辞を受けた人達

△十津川 杉村周平 佐古要三 杉村藤雄 杉村善吉 中井策 上杉直温 西村皓平 玉置泰悦 玉置セン 佐古哲馬 西尾周治 杉村泰吉 佐古泰太 中井立作 ?卯之吉 植田岩太郎 岡本泰一郎 △京都同志社楯岡斧蔵△大阪吉田正義△下市小畠政次郎△川上村荒木政利△和歌山県高松作二郎 土屋孫三郎 児玉仲児 岡本寛治 鈴木純貞 高橋義七郎△大阪村山龍平 大阪朝日新聞社△伊予の国川ノ江星川傳平△大阪鈴木市松△上州高崎武内彦平△福岡県岡上五郎 

その他百余名あるが省略する。

 

 

 

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高 野 山 へ 納 骨

○明治十九年十一月八日(陰暦十月十三日)この翌日の十四日は仏教では重夜と云われ福日とされており、以前母親のキヌが橋本駅の松下医院で突然脳充血症に罹り、まさにその命があの世に入ろうとしていた時、幸いにも松下茂実という妹婿の尽力により薬の効き目があって一命を取り止めたが、そのことがあってからは、母親が言うには、

「自分が脳充血に罹ると先ず気を失った状態になる。

そして十月十四日が重夜にあたり有り難い好い日であるので、何時も念仏を唱えて極楽に行こうとしているのに子孫達がそれを邪魔するものだからなかなか思い通りに行かない」

としばしば笑い話をしていたが、その丁度一年後に母親の遺骨が入った骨箱を祭って翌日十四日に高野山の霊地に納骨出来るように支度をし、最後の別れとなるので親戚及び近隣の人々五十余名を招待して仏前に観音経、御詠歌などを奉納した。

橋本からは妹のラクもやってきた。

○九日(旧暦十四日)早朝五條の自宅を出発した。

近所の人々が見送りの為、山のように集まっている中を称念寺前で一旦皆に挨拶をし、そこからは東浄を通って突貫町に出て新町の中橋で人力車を雇い、前の車は源十郎、中央の車はラクが乗り、後の車に直吉が乗って三台連なって橋本に向かった。

車夫に急がせたため、一時間で松下茂実の館に着いた。

そこでは母親の骨箱の到着を待って様々の珍しい菓子や煮物等のお膳を用意しており、母親

の生前と同じように賄いをしてくれた。

又隣家の大久事菅野氏は仏壇に向かってお参りをしたが、実に親戚以上に人情の深いことである。

又近所の人々は母親が生前橋本に居た頃を偲んで多くの人が参拝に訪れた。

林・松下・高橋の三人で高野登山に出発。

松下が先ず最初に骨箱を腹部又は背に負って馬に乗り、橋本町から紀伊の川の北岸に出た処、そこに近所の人達が数十人程見送りに来ていた。

一人一人に挨拶をした。そこから船で南岸の三軒家浦に渡り、松下は又馬に乗り、林・高橋の二人は人力車で三軒家・丁田の駅を通り過ぎて学文路に着いた。

苅?堂に参拝し石堂丸の古跡にある玉屋與次右ヱ門の所でしばらく休憩した。

その後、馬方の熊治を連れて阿根坂を下り、歩いて阿根に到着した。

中屋旅館で休憩し、骨箱に茶菓をお供えした。

又お膳もお供えして自分たちもここで昼食をとった。

そこから阿根橋を渡った所で松下は馬から降り、替わって林が馬に乗って少し行き、その次に高橋が馬に乗って七八町ほど行った所で、高橋が誤って懐の紙入れを道端に落としてしまった。

すぐに拾おうとして馬上から飛び降りたところ、なんと馬がびっくりして茶店に飛び込んでしまい、高橋は街道に倒されてしまった。

すぐ立ち上がって馬の居場所を探してみると、何を思ったのか馬は茶店の奥座敷の手前まで入って止まっている。

素早く馬の轡を取って外に引っ張り出したが、蹄の踏み込んだ痕で畳十畳を破損してしまった。

そこで修理代として相応の弁償金を亭主に渡そうとしたが亭主は受け取ってくれない。

そして亭主は「あなたのような名士の方に責任はなく、馬そのものが自分のところに飛び込んできたのです。この事は家が栄える前兆だと思われます。従って弁償してもらおうなどと考えても居ません」と言った。

それはさて置き、損害を与えた分だけでも受け取ってくれるようにと申し出たが一切聞き入れてくれず、やむを得ず謝意を表しただけで再び馬に跨り次の村に向かった。

そこに林と松下が供の熊治を引き連れてやって来て、先ほどの件を話した所、一同大笑いとなった。

そこから峰に上っていくと平坦で四方の眺めが実にすばらしい場所である。

この地は明治五年播州赤穂浪士の村上四郎を始めとして七人が日本最後の仇討ちをした土地である。

かれこれと話をしながら少し進んでいくと神野村に到着した。

そこの花屋旅館で休憩をする事とし、例によって骨箱に茶菓をお供えして拝礼をした。

一時間してから其の旅館を出て南方に進むと十一丁程行った所に不動坂があり、そこに大きく「高野山第二十五区一等官林字天狗嶽」と標示が書かれた木が立っていた。

大木の茂みは山奥まで続いており、四十九廻り登ると一つの殿堂が焼失しており、焼け石だけがあった。

これは再建計画があるとのこと。門前の茶店でしばらく休憩してから花折坂を登り女人堂で礼拝をした。

其の傍を大学村の生徒が散策しており、高橋に向かってしきりに挨拶をしていた。

これは五條の講御堂の弟子の坊さんで覚道という人であった。

そこを出て南小田原町の宿坊五大院に向かって急いだ。

林は馬に乗ったまま一つの出張所の前を通り過ぎたところで馬が暴れて飛び出した。

其の小屋には案内所と大きく書かれた看板があった。

中に数人の役人が居て小屋の外に飛び出てきて、大声で当境内に馬を乗り入れては駄目だと叫んだ。

ところが林は既に町家に駆け込んでおり五大院の近くで馬を下りたところ、役人が三四名追いついて、怒りながら「乗馬が禁止ということは女人堂に掲示してある。勅旨でさえも下馬して通るのは当然なのに、どうして乗ったまま通過したのか」と言った。

それに対して皆は「禁止の掲示がされていたのは気が付かなかった。しかし其の為に案内所があるのではないか」と、何かと言い合いをしているところに五大院の出迎えの役僧がやって来て同院上段にある座敷に案内された。

昔からの祖先の菩提寺であるので大いにご馳走になった。

○翌十日(旧暦十五日)早朝から父の位牌を見ていると、「明治十二年巳卯年五月二十七日に没す 義道円明信士」と横に書かれ彫刻されている。

其の年の八月七日八日の二日間にわたって母親キヌ・直吉・ラクの三人で此処にお参りして収めたものである。

幸い其の空いたところに「蓮閣貞証信女明治十九年旧暦の五月二十七日没す。享年六十二歳 俗名林キヌ」と書いて、それをすぐに彫刻の依頼をした。

日牌料を納め読経のお願いをしたところ、院主は応諾して十名余りの僧侶を呼び集め約三時間にわたる法要を営んでくれた。

午前十一時に同院を出て奥院に行き、骨堂に骨箱を納め、三名は熊治を伴い帰途に着いた。

神野村に降りて花屋に入った。

兄の源十朗は、馬での乗り入れを禁止されている土地を、馬に乗って通過したことを非常に喜んで、お祝いをしようと精進料理を止めて魚や肉の料理で酒も飲み三時間余りそこに居た。

そこを出て阿根峠で休憩を取り、満月を眺めながら学文路駅まで行き、玉屋與右ヱ門の宿で夕食をとり、そこからは人力車で橋本に向かって帰りを急いだ。

清水村に来ると、橋本から出迎えの人数十名が来ており、一緒に杉本浦を渡ってその夜は松下館に一泊した。

翌十一日の正午に橋本を出発し、林・高橋の二人は無事五條に帰った。

 そもそも、骨箱を高野山に納めるのは仏教によって各家のしきたりである。

ところが骨箱を持って馬に乗って高野山を登り、その上禁止されている霊地を馬に乗った

まま通過したと言うのは、いまだかってない事である。

この事は、母親が生前そのような人生であっただけでなく死後も相変わらずであったと言

う事であろう。


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