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 2003年11月28日(金) 毒を食らわば、皿までも・・・
 
 なんともいえぬ怠惰さである。
 もはや日記すら書けなくなっているとは。
 一番の理由は、「書く」ことへの情熱が消えかかっているからだろう。
 メールにしろ、手紙にしろ(意味は同じだけど、方法が違う。その違いはお わかりだろうけど)、まったく筆不精になってしまった。
 中学生の頃から、書くことだけは冷めることなく続けてきたのに、
 ようやく立ち上げたSO−TAI−KI草創の時期は、恐ろしいくらいに
 打ち込んでいたのに。
 ああ。年をとるということは、こんなにも熱が枯れていくのだろうか(泣)。

 とグチを書いてもしょうがないんだけど・・・。

 2番目の理由は、パソコン。
 新しいパソコンを使い始めると、ホームページをつくったり更新したりしてきた古いパソコンは立ち上がりが遅いし、フリーズしやすいし、おまけにマウスの調子も悪くなって、どうも使いづらい。
 新しいパソコンにソフトもデータも全部移していきたいのだけど、その時間はなかなかできない(時間はあっても、大変すぎて躊躇しているといった方が正しいかも)。
 よって、日記を更新するのも、「ああ、めんどくさ〜」なんて思ってしまう今日このごろ。どうする、アイフル〜♪

 そういえば、武富士のCMがTVから消えた。もちろん、フリーライター盗聴事件が発端だけど、そもそも、消費者金融のCMでなんで女の子たちがあらわな姿で踊らにゃいけないのか、常々理解に苦しんでいたので、私としてはセイセイしている。それでなくても消費者金融のCMはまだまだはびこっていて嫌なんだよ。

 だいたい、「ご利用は計画的に」というフレーズは、クレジットカード会社が言うならまだしも、消費者金融を利用すること自体、すでに計画性がない証拠。これほど建前と本音が矛盾している業界もないだろう。小口融資が活況なのをいいことに、東京三菱BKまでが「たまにはばばんと」とCMを打っている。「オレオレ詐欺」でころっとだまされる日本人が、冷静になって消費者金融を上手に利用するなんて、やっぱり難しいだろう。

 思わず脱線してしまった。

 しかし、世の中を見渡すと、暗いニュースばかり。新聞を読んでも悪いやつがこれでもか、これでもかというぐらい出没してきて、さすがに感覚もマヒしていく。トリビアの泉じゃないけど、へぇーで終わっていることが本当にこわい。

 自衛隊イラク派遣ももはや時間の問題。しかもなーんも議論せずにだ。犠牲者なしに貢献するなんて可能性は、どう考えても少ない。なし崩し的に戦闘状態になって、後戻りできないときが迫っているのかと思うと、新しい年が明けることすら気が重くなりそうだ。

 ブッシュはC調に、わずか2時間半の抜き打ちイラク滞在で、兵士たちを鼓舞する。
 「アメリカの平和のために闘ってくれてありがとう」みたいなスピーチをした けど、やっぱりきゃつは自国のことしか考えてないんじゃんか、と思ってし まった。どうにも浅はか。

  あとはとにかくお金、お金、お金の話題ばっかりだし。

  とにかく明るい展望がほしい。
  未来を生きる子どもたちのためにも。
  
  


 2003年11月17日(月) とりあえず・・・
 
 13日の日記、またしても途中で眠気に負けてリタイア。タイトルだけ先につけて、本題に入る前に放棄したので、これじゃあ「へえのゆくえ」のそのココロもさっぱりわからない(笑)。

 要するに、世間で人気のTV番組『トリビアの泉』を初めて観た感想を書こうと思ったのだ。

 はしょって言えば、もう関西エリアで延々ロングラン放送している『探偵ナイトスクープ』の小枝の小ネタ集にも似ていると思ったのだが、バカバカしさにおいては小ネタ集の方がはるかにおもしろいし、いまや伝説的にさえなっているネタもいっぱいある。それにくらべりゃあ、「へえ」ブザーがなかったら、かなり負けてるよ、トーキョー。そんなことを書こうと思ったのであった。

 今夜もお風呂に入りながら、日記のタイトルなんざ考えていたりして、バカなアタシ。

 しかし、冷静になって考ええたら、そもそも日記なんだから、こう長々と書く必要も、政治談義する必要もないんじゃないかと思ったりする。ウケ狙いな日記というのも、やっぱり違うんじゃないだろうか。

 本来は、今日は何したカニしたということに終始すべしであろう。

 そういうことで言えば、今日は天気もよかったので、懸案だった玄関先のガーデニングを決行。寄せ植えを2つつくってみた。宝塚はもともと園芸関係の店が多いのだ。この春閉園したファミリーランドの跡地も、庭園を有料で見せ、ガーデニングの店を出していたりするし、市の3セクみたいな施設でも園芸関係のところがある。今日はそこで植木鉢と花を買い込んで、アバウトなレイアウトで寄せ植えにちょーせんしたのだった。

 今のところ見栄えはいいけれど、問題はここから先。過去にいろいろと花を植えたけれど、じまんじゃないけどうまく育てたこともなかなかない。玄関先で咲いていたものがいつのまにかまた隅っこで鉢と土だけになっている、てなことにならないことを祈るのみ。

 ああ、結局だらだらと書いてしまった。「ジゼル」についても書くつもりが、仕事が入ってまた延期の憂き目に。まあ、気長にお付き合いしてね。

 って、私は誰に言っているのだろう(笑)。


 2003年11月13日(木) 「へえ」のゆくえ

 衆議院選に思いっきり脱力したと思ったら、保守新党はなくなる(もともと存在感はゼロに等しかったけど)は、土井さんは辞任するは(土井さんがいないと存在感ゼロに近いけど)で、結局おいしいところをさらっていったのは、公明党だったという恐るべき結末に、ほぼ絶望的になった。いったい、誰のための日本なのか。低い投票率は、義務を放棄して無関心に生きている大人とその子どもたちなんだろう。ちなみに、日曜日の朝、日記を更新した後で二度寝を決め込んでいた私の枕もとに娘が書いた伝言が1枚。「はやくおきないと、せんきょは8じにおわっちゃう」と書かれてあった。そのとき朝の9時半ごろ。朝の8時と間違えたのだろうか。

 月曜日の夜、夫が新聞に当選者の議員がずらりと書かれている新聞を広げていたら、娘が「だれが一番?」と聞いてきた。うーん、選挙の何たるかを娘はまだ知らないけれども、とりあえず棄権をむさぼる人間だけにはならないような気はする。

 わが選挙区では民主の新人が勝利し、どぶ板選挙路線で泥臭く立ち回っていた自民の議員は落ちた。民主が本当にいいかどうか、迷う気持ちも多分にあるけれども、(特に田中康夫を大臣にする案を発表したときは「なんじゃそら」と思ったよ)、9月の運動会の昼休みに省エネやルックであらわれて、とりあえず保護者と握手(もちろん本人から)して回る姿を見たときは、「ああ、いやだ、いやだ」とうんざりしたもんだ。

 
 2003年11月9日(日) ケ・セラ・セラ

 ほんとにもう、なんでやというくらい、1回の日記の更新に何日もかかってしまった。まずは、7日の分から読んでください。

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 ただいま9日の真夜中4時。FMNHKの「ラジオ深夜便」で加賀美幸子さんのDJを聴きながら、ようやく7日分を仕上げた。これって、日記とちゃうんちゃう、と我ながら苦笑しつつ。今はなぜかくしゃみが止まらない。風邪がすっきり治っていない証拠だろう。

 昨夜は9時すぎに娘とバタンキュー。そのまま朝を迎えてもよかったのだろうけど、ふと目をさますと、窓から差し込む月の明かりがあまりに美しく、いよいよ目が冴えた。このところ、夜中の月光が本当にきれいなのだ。西の空に一筋の光が落ち、隣家の屋根を煌々と照らして、ブラインド越しにこっちの部屋までもうっすらとしかもくっきりと差し込んでくる。このまままた眠ってしまってもよかったのだけど、ようやく気持ちもしゃんとして、なんだかこうしてパソコンに向かっているのだった。

 前作『こころ』では、毎朝うんざりするほど陳腐なドラマを見せられて、結末まで駄作だった朝の連続ドラマだったけれども、秋から始まった『てるてる家族』は、昭和の時代のノスタルジーとともに、ドラマそのものが面白く、役者が上手く、せりふが泣かせる。いわゆる異色のミュージカル仕立てで、ある意味きっちりと演出されているのに、どこかアドリブ臭くて、それが一層ドラマを生き生きとさせている。私にとって朝ドラは近年、ほとんど関心がないか、腹立たしいかどちらかだったけれども、TVドラマ自体、ますます観なくなっていたのに、こんなによくできた朝ドラはないだろうと思うほど、気に入っている。土曜日は都合によりなかなか見られなくて残念なのだが、平日はTVの前でかぶりつき状態だ。

 その中で歌われていた『ケ・セラ・セラ』を久しぶりに聴いて、心に沁みた。ケ・セラ・セラ、なるようになる〜♪先のことなど、わから〜ない♪

 まるで私のこと?と思うようなこのフレーズ。
 このHPも何かに背中を押されるように始めたけれど、最近はなかなか更新もままならず、心焦るばかりだった。気分転換に何度かリニューアルはするも、本来の機能はまったく果たしていないのが心苦しかった。
 ときどき全く知らない人からメールが来るのだけれど、そういう人に限って、あまりにも単刀直入に「○○について教えてください」と妙に枝葉末節なことをお尋ねになってきたりする。その人にとっては重大な問題かもしれないので、無視することもできず、できるだけ誠実さを装っている(笑)のだけど、この間は、すでにリンクをやめているはずのページで書いた話題にちょっこっと書いただけの「○○○子さんの電話番号や住所を知っていたら、教えてください」なんてメールが舞い込んで、唖然としてしまった。いわゆる有名人の詳細を私が知ってるわけがない。第一、彼女の連絡先を知りたい理由は何なのか。それを一個人サイトの制作者に聞いてくるとんちんかん。幸いなことに、今まで嫌がらせなメールをもらったことはないけれども、HPを開設するということは、誰が読んでいるかわからないのだなあということを、あらためて自覚したのだった。もう一度、ページをきちんと整理する必要もありそうだ。

 それでも、細々とやっていれば、しばらく音信不通になっている人、一度しか会っていない人、直接会ったことはなくてもHP経由でお知り合いになった人がぽつりぽつりとあらわれて、読んで嬉しいメールを送ってくださったりしている。それは、それはありがたい限り。こんなもんでも、続けていてよかったなあと悦に入る。現金なのである。

 河内長野市で起きた大学生による家族殺傷事件。高校生のGFも自分の家族を殺して、二人でしばらく暮らしてから自殺しようと企てたという話は、もちろん私にもショッキングな事件だった。なくなったご家族は本当にお気の毒だ。ご冥福を心から祈らずにはいられない。

 けれども、新聞やテレビが声高に報道するGFのHPの内容の不気味さは、私も熟知したわけではないけれども、あの年頃の不安定な精神状態については、私にも十分当てはまった。もちろんリストカットとは無縁だし、ゴシロリというような特別変わったスタイルに走ったわけではないし、家族を殺めようと思ったこともない。

 けれども、親を簡単に憎悪したり、誰も私のことをわかってくれないといった程度の悩みは、思春期に誰もが経験する通過儀礼のようなものだと思う。むしろ常套句のように「心の闇」と言い表すメディアの方が安直だし、不健全ではないか。あんたらは、どれだけ清廉な人生を生きているのか。

 それをあっさりと殺人に結び付けてしまう未成年の心理は、私にもわからない。ただ、これほど日常茶飯事的に殺人事件が横行し、未成年の凶悪犯罪が増加している中では、まったくあり得ない話だと驚かれると「それは違うやろう」とも思ってしまう。世の中は事実は小説より奇なり。しかも、7日の日記で私が見た映画は、実話がもとになったりドキュメンタリーだったりする作品だった。ジゼルというバレエ作品だって、恋を成就しないで死んでしまった少女の霊、ウィリが、男たちを踊り殺すという恐ろしい話である。

 ついでに言えば、ユネスコの無形文化遺産に指定されたという嬉しいニュースが飛び込んだ人形浄瑠璃(文楽という呼び名の方が好きだけど)だって、心中だ、復讐だと、げに恐ろしいドラマのオンパレード。

 サロメという神話的物語がある。これも映画化され、もうすぐ公開されるというチラシを映画館で見かけたのだけれど、オスカー・ワイルドの戯曲絵画作品でも有名な話だし、オペラにもなっているようだ。

 義父であるヘロデの祝祭で踊りを求められた娘サロメ。サロメに魅入られたヘロデは踊りの褒美に何でも与えようと言う。そこでサロメは、自分が求愛するもなびかない預言者ヨカナーンの首を求めた。ヘロデは彼女の要求を抗いきれず、ヨカナーンの首をはね、サロメに差し出すのだった・・・。

 美しく感動的な物語にも惹かれながら、こんなおどろおどろしい、非人道的で残忍な物語が語り継がれ、芸術家が繰り返しモチーフとして愛しているのは、なぜだろう。人間の中に喜怒哀楽がある限り、これはもう避けて通ることはできないのかもしれない。言うまでもなく、世界はカオスに満ち満ちている。

 河内長野の事件を知ったとき、私が思ったのは、このサロメだった。大学生には彼女と恋に落ちる前から自らの不安定な精神状態を母親に訴えていたという。そういうときに妖しげな魅力をはなった、こちらも家族とはうまく意思疎通できない女子高生とのっぴきならぬ関係にはまり込み、若さゆえに思いつめ、冷静さをうしなった中で、彼女の求めを実現させるために凶行に及んだ。軽率きわまりない。取り返しもつかない。けれども、ストーカー男が別れを告げられた女性を執拗に追いまわし、あげくは命を奪ってしまう昨今だ。決してあり得ない話ではない。

 こんなとき、重要なのはユーモアの存在だ。笑い飛ばしてやり過ごし、現状を耐える術が、こういう人たちには欠落してしまう。だからこそ、人間にはユーモアが必要なのだ。

 思いっきり迂回したけれども、『てるてる家族』にはユーモアが散りばめられている。ちょっと苦しくなるような場面でも、そのユーモアが救いになり、しかし根底にある人生のペーソスを視聴者にしっかりと感じさせる。それを感じ、涙できる人は、本当に幸せだ。

 ケ・セラ・セラと口ずさんで、心では泣きながらも笑う人間と、常軌を逸したサロメに魅了される人間。誰の中にも両極端が共存している。要はそのバランス具合。幼い子供には心なごむ童話とこわいおばけの話が必要なように。

 泣き笑い人生、万歳。なるようになるさ。それって、今日の選挙で人生が決まる候補者の気持ちでもあるよね〜(ってちょっと皮肉?)。


 

 2003年11月7日(金) インディアンサマー

 仕事に翻弄されているうち、10月は終わってしまっていた。家の近くの銀杏の木が少し黄色く色づいている。しっかし、夕方でも上着がいらないほど、空気はぬるい。11月といえば、もはや晩秋に向かっているはずなのに、気温は初秋。こんな陽気を、インディアンサマーというらしい。小春日和という日本語もあるけれど、それもちょうど今時分の、ぽかぽかとした日和のこと。ただ、春というよりは夏っぽい感じがする。久しぶりに、窓を全部開けてみたけど、まったく寒くない。半そででもOKな感じだ。とはいえ、こんな、おかしな気候のせいで、軽く引いた風邪がなかなかすっきりしない。昨日、朝起きたら声が出なくて、ちと焦った。今日になっても、鼻やのどの調子は相変わらずである。

 忙しかったわりには、結構芸術月間でもあった。映画もけっこう観た。『フリーダ』は、波乱の人生を駆け抜けた女流画家、フリーダ・カーロを描いた作品だったけれど、もう随分前からその人生を知り、メディアを通して作品を観、森村泰昌がフリーダに扮した「私の中のフリーダ・カーロ」も観てしまっていた私にとっては、よくできた映画だなあという以上の感動がなかった。ただただフリーダを演じる女優の頑張りぶりや夫、ディエゴを演じる俳優のそっくりぶりだけが印象的で、物語の中にどっぷり入っていけなかったのだ。主人公のプロフィールを知らず、一切の情報を持たずにこの映画を観たなら、きっと見えてくるものも違っていただろう。

 それよりは、天保山の美術館で開催していたフリーダ・カーロ展を、仕事を優先してパスしてしまったことが悔しいぞ。優先した結果、仕事が進んだかといえば、さにあらず。やっぱりしたいことは初志貫徹で実行して、あとは落とし前を自分でつける方が絶対正しいと反省した。いつか、はるかメキシコまでいって、本当の彼女の絵とご対面するしかないのだろうか。そっちの方が大変やん(笑)。

 『大好きな先生』というフランスのドキュメンタリー映画も観た。フランスの片田舎にある13人しかいない小さな小学校が舞台。ドキュメンタリーだから、小さなエピソードの積み重ねで、感動的なストーリーというわけでもない。登場人物も素人だけだが、それだけに、子どもたちのキャラクタが愛らしく、一切の飾りを排除した演出と編集が素晴らしかった。フランスといえば、どうしてもパリのお洒落な人々を想像しがちだけど、農業立国フランスのほとんどは、実は地方の田舎なのだ。経済的にも自然でも厳しい環境の中で生きているフランス人の姿が描かれているところも、この映画の魅力だろう。あんまりよかったので、翌日、娘を連れてもう一度見に行った。同じ映画を2日続けて見に行ったのは、初めてだった。

 先週木曜日は、関西学院で開催された沢知恵のコンサートにも行った。当日、まだチケットがあると知って、無料という手軽さもあって行ったのだ。相変わらず歌もピアノも上手いし、おしゃべりも面白い。ただ、彼女のコンサートには、無料というパターンが多いということもあるけれど、必ず超一見さんが何割かいて、そういう人を取りこむために、いつも同じようなMCとか選曲になりがちなのだ。それは、一見ではない者にとってはちと退屈。何か新しい切り口もほしいなあなどと、贅沢なことを思ってしまった。そのくせ、♪死んだ男の残したものは〜♪と、お風呂で娘と歌う私がいるのだけど(笑)。

 翌日にはサンクトペテルブルグバレエアカデミーのバレエ公演『ジゼル』を鑑賞。これは夏にチケットを買っておいたもので、ずっと楽しみにしていた。芸術系の中でも、バレエは長い間遠い存在だった。実家には3大バレエのレコードがあったり、若い頃に、リヨンバレエ団の『サンドリヨン』を観に行って感動したことはあるにせよ、娘がバレエを習いはじめたことで、ようやく、作品を鑑賞しようという気持ちになってきた。その娘の発表会でバレエ団が演じた『ジゼル』でストーリーの面白さを知った頃、ちょうとジゼルを公演するサンクトペテルブルグバレエアカデミーのチケットが発売されたので、思わず食いついたというわけだ。

 これについては、ぜひ別のページをUPしたい。とにかく、ジゼルこそ、このサイトの根底にあるテーマ、「愛と死とお墓」を描いたバレエ芸術なのだから。来週にはと思っているので、お楽しみに。

 おとといは『マグダレンの祈り』という映画を観に大阪へ。1996年までアイルランドに実在した、女性を強制収容する修道院での、カトリック・キリスト教の歪んだ一面を社会に告発するように製作された作品。公開当時はバチカンから猛烈な抗議があったそうだが、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞し、話題になった。
 水曜日はレディース・デイだったので、女性が大勢(その中でもちらほら男性の姿が。ちょっと異様だったけど、ご本人もそれを気にしてか、端やら一番前の席に座っていた)訪れていた中で、明らかにカトリックのシスターとおぼしき人がいらした。こういう、いわば宗教の恥部を描いたような作品に関心を持っているシスター(あるいは作品の内容をチェックするというような意味もあったのかしらん)と時間を共有することができて、なぜか密かに嬉しかった私であった。隣の席の女性は、始まるなり舟をこぎはじめた。首ががくんと倒れるたびに私の視界に入ってきて、思わず起こしてあげたい気分にもなったけれども、そういうことってあるよなあとも思う。せっかく楽しみにして観にきたのに、どうしても眠ってしまうということ。『8人の女』は、私も真ん中の記憶がすっぽり抜けている(笑)。

 

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