醤油の歴史文献・雑学

江戸時代の「醤油の製法」

江戸時代の醤油の製法
『大日本物産図会・下総国醤油製造之図』

三代 歌川広重(1842-1894)(野田市立興風図書館)

『下総国醤油製造之図』から文字部を拡大

「醤油は葛飾郡野田海上銚子等より出すこと夥し 小麥を炒り大豆に和して麹をつくり塩を咊して大桶にいれて熟せしとき布の袋に包ミて〆器に入て搾り樽に詰て諸國に出す就中野田の(亀甲萬)ハ上品にして八升六合入を一樽と定む」

江戸時代の醤油の製法
■醤油の材料「大麦」から「小麦」への変化
江戸前期にみられる『雍州府志』をはじめ『日本歳時記』貞享四年(1687)や『本朝食鑑』元禄10年(1697)などの醤油の製法では、いずれも原料には大麦が使用されている。大豆とペアーをなす麦が小麦に定着するまでには時間を要したことがうかがえる。
元禄期に継ぐ宝永期の『大和本草』宝永五年(1708)の「豆油(シャウユ)」の項には『豆油ハ大麦大豆ニテ作ル製法アリ又小麦ニテモ作ル』と、小麦でも作るとある。そして、1712年の『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』によると「凡市鄽之醤油皆用小麦也。用大麦味不佳ナラ」とあり、大体、店で売っている醤油は小麦を用いている、大麦を用いたものは味がよくない、といっている。
この二十年後の『萬金産業袋(まんきんすぎわいぶくろ)』〔享保17年(1732)〕には、「小麦」を使った製法のみが紹介されている。そして十九世紀の記録になるとほとんどが小麦を使った製法となる。
『経済要録』文化10年(1813)では、『豆は…小麦麹と調和して、醤油を極上品に造り出すべし』と、小麦を原料に使うことが優れた製品を生み出すとしている。従って十八世紀中には醤油の原料に小麦を使用することが一般化していたものと思える。

■『料理物語』寛永20年(1643)からの醤油の記述。

正木醤油 
「大麦一斗白につきいり引わる、大豆壱斗味噌の如く煮る、小麦三斗も白にして引わる、右之大豆煮候て麦のこに合せ、粉を上へふり、板の上に置き、にわとこの葉を蓋にてねさせ候、よくね候ハヽ塩八升水弐斗入つくり候、同二番ニハ塩四升水壱斗、こうじ四升入、三十日置きて上げ候也」

【精白した大麦一斗と小麦三升を炒って、挽き割り、粉にする。大豆一斗を煮て、麦の粉と合せ「にわとこの葉」(スイカズラ科の落葉樹。茎・葉は煎じ薬)を蓋にして麹(こうじ)をつくる。麹が十分生育した後、塩水(塩八升、水二斗)麹四升を混ぜ、三十日間寝かせてつくる】

■『雍州府志(ようしゅうふし)』貞享元年(1684)による醤油作り
醤油という名の物の作り方を記した最も古い記録は、貞享三年(1686年)に刊行された山城国(京都府南部)の地誌である『雍州府志(ようしゅうふし)』で、炒った大麦と煮た大豆を原料とした醤油の製造方法が記されています。この醤油の製造方法は、小麦の代わりに大麦が使われている以外は、ほぼ現在の醤油と同じです。



『雍州府志』貞享元年(1684)に記載の醤油の製法
『醤油。倭俗汁謂 醤油。其製法煮 大豆 熬 大麦 各有 其量両種。共合 之為 麹。及 其熟 則盛 大桶 合 水加 塩是亦有 其量。而後毎日両三度以 械滾 合 之。械竿頭横 小片木 其滾 之也。似 以 櫓械 操 舟。故謂 械。倭俗櫓棹謂 械。又滾 之謂 掻。凡及 二七十日余 盛 其糟於布嚢 置 石於其上 而搾 取其滴汁。以 是煮 諸物 而食 之』とある。

『雍州府志』の現在訳文
『わが国では「醤の汁」のことを、俗に「醤油」と呼んでいる。煮た大豆と炒った大麦を併せて麹を作り、それに塩と水を加えて大樽に入れ、毎日三回、船の棹(かい)のような竿でかき混ぜ、七十日余りの後に、出来た糟(もろみ)を布の袋にいれ、その上に石を置いて、滴したたる汁を搾しぼり取り、これでいろいろなものを煮て食べる』とある。
ここにみられる製法は後世のものと変わりがないが、原料には小麦ではなく大麦が使われ、また圧搾して搾った汁にまだ火入れが行われていない。

■『本朝食鑑』元禄10年(1697)


本朝食鑑 巻之二 造醸類十五 醤油「大豆一斗を水漬けしてから十分煮る。精白した大麦一斗を炒って挽いて粉にする。これらを混合して麹をつくる。塩一斗と水一斗五から六升を混合したものと麹を一緒にして大桶の中に取る。次の日から毎日三から五回撹拌し、七十五日経ったら中に簀を丸くして立て、内に濡れ出る液(醤油)を汲み取る。これを「一番醤油」という」
「(一番醤油で出た)渣 かす と四から五升の麹、塩水(塩一斗と水四から五升)を混ぜて毎日撹拌し、三十日ないし四十日したら簀を立てて内の醤油を汲み取る。これを「二番醤油」というが、これはうまくない」

■『和漢三才図会』正徳2年(1712)による醤油作り

『和漢三才図会』には『これ(諸味)を搾って油を取る。油の色は浅く味はよくない。一沸かし煮立ててから桶に収め、一夜すると色は深黒で味もよくなる。そのカスを再び塩水にまぜてかき混ぜ油を搾る。これを二番醤油という。味は大へん劣る』とあるように、醤油に火入れをすることも行われるようになる。

搾った油を煮立てると色も味もよくなるとあり、十八世紀の初めには火入れの効果が知られていた。また、ここには二番醤油についても言及されている。二番醤油については、すでに『多聞院日記』に「唐ミソ二番」の名で二番醤油作りが行われているが、『本朝食鑑』にも「二番醤油」の作り方が詳しく載っている。醤油作りが始まるとその搾り滓を再利用した二番醤油作りも行われるようになっている。
二番醤油が作られる一方で、諸味に増量剤を添加した醤油も作られていた。井原西鶴の『好色一代女』貞享三年(1686)には『当座漬けの茄子に、生醤油を掛けて』と『生醤油』の名がみえる。近松門左衛門の世話物初作『曽根崎心中』元禄16年(1703)初演の主人公徳兵衛は醤油屋平野屋の手代で、徳兵衛が丁稚に「生醤油」の樽を持たせて得意先回りをする場面が出てくる。ここにみられる生醤油は、生一本と同じく、純粋でまじりけのない醤油のことと思える。この生醤油に対して生でない醤油も作られていた。

また、『萬金産業袋』に『是(搾り取った醤油)を此ままにてつかふ時は、生しやうゆにて風味よくかろく何程に暑気の時も、少も出ず、よろしけれ共、今当代のねだんにては中々売当にあはねば、中古よりもどしといふ事を仕出す。酒屋のふんごみ粕三貫目に、水壱斗塩三升いれ、よく煮立てればどびろくのことくなる。
それをよくさまし置、しやうゆ壱斗の中へ、右のもとし四升か四升五合の割を以て諸味の中へいれ、袋にいれしめ木にてしぼる』とある。 生醤油は風味もよく、日持ちもするが、価格の点でなかなか商売になりにくいので、諸味一斗に対し四升~四升五合の割合で「もどし」を加えてつくるとある。

■『料理集』享保18年(1733)による醤油作り
醤油
一,大麦五升 大豆五升 右大豆天日にてよく干 二つ割にひき割 皮をさり 右まめ麦よくあらひ とり合ふかし 給べかげんに成候節さまし 椛にねせ申候 椛に成候節 天日にて 水壱斗五升へ塩六升七合五勺入よくせんじ おりを引さまし 右豆仕込二日に二度づつかき廻し申候 日数四十日程過候て 椛三升七合五勺入 日数四十日程過 餅米壱升へ水六升入かゆに焼よくさまし入申侯 日数廿日程過候て酒のごとく懸申候 右壱番取候跡へ水壱升に塩三升入せんじ よくさまし置入侯て 四十日程過椛二升入 日数六十日程にて二番をとり壱番へとり合遣候て能候 大豆麦多く仕候はゞ 右せんじ塩段々多く入候てよく候 信解院せうゆにて秘法に候 口伝色々あり大豆麦多く仕候はゞ 右せんじ塩段々多く入りてよく候 信解院せうゆにて秘法に候口伝色々あり

一,又法 小麦五升いり候て引割 大麦二升五合そのままにて潤し大豆三升いり候て二つ割に仕に候て 右の煮汁にて三色ともに こねさましおき 板尺むしろ壱枚敷 其上へ青葉を敷 むしろを二枚その上へかけねせ 椛に成侯節 はらはらとなり申程に干塩三升 水壱斗三升入せんじよくさまし 右の大豆椛を仕込申候十日斗も手を付不申 其後かき廻しすみ合立候節 すを立申候 土用の内せんじ置 十月霜月の頃仕込申侯

■『廣益國産考 こうえきこくさんこう 』天保15年(1844)刊 による醤油作り
國産考 五之巻 醤油より『五人口に暮らせる家にては、酒樽の古きを三つ調ふべし。一樽に大豆六升大麦のつきたるを六升づつはつくられるもの也。三樽にては豆壱斗八升麦壱斗八升也。此の麦を炒鍋(いりなべ)にて炒り、半分はあらく臼にて引きわり、半分はいりたるまま豆を煮てひとつにまぶし、花を付くる也。

花を付くる事は、五月より九月十月上旬迄は、家の隅物置杯の土間に菰(こも)を敷き、其上に筵を引き、それへ右豆と麦と合したるを凢そ暑さ一寸五分位にして夏は上に覆いをする事なし。九月に至らば菰一枚十月上旬には二枚も重ね覆ひをすべし。尤覆ひをする前に薄(すすき)の葉を少し糀(かうぢ)の上に置くべし。

又杉の葉を焼きて其灰を少し糀の上にふりかけ置けば必ず花よく付くとてする事なり。何國(いづく)にても家毎に造るは六月土用中に仕込むなり。ただねせ[莚に入れおくを云ふ]て上に覆ひする事なく置けば三日めには上面(うはつら)に白き花付く也。其時手にてくだく事なく上を下へかへし、其まま置き、夫より二日たてばよく花つく也。其時両手にてもみほごし日に干すべし。

是を樽に仕込むには、豆一斗八升ならば一升鹽(しお)のわりに壱斗八升鹽を入れ、水は三升のわりに五斗四升入るべし。是を三升五合のわりに入る人あれども、味ひ劣る也。極上の醤油にせんと思はば、二升七八合のわりに水を入るべし。仕込みたる砒には日々交棒(まぜぼう)にて上下になるやう交ずべし。大體凢廿日も立ちて四斗樽[豆六升麦六升仕込むたる也]一挺分に糀二升に米壱升五合たき甘酒につくりて入るべし。

又酒のかすをとかし入れてもよし。
又米壱升五合に糀弐升をかゆにたき入るもあり。斯くすれば醤油の味ひ格別宜し。
凢七十五日も立ちぬれば味ひよく熟する也。其時左の図のごとき籠をもろみ[しぼらざるをいふ]の中に立て、其かごの中に溜まりたる醤油をくみ取り、つきたる跡を袋に入れしぼるべし。』
(中略)「手造りの醤油は色白きとて嫌へるものなり。搾りあげて一遍火を入るべし。火を入るるとは鍋にいれたぎらし、凉(さま)して樽杯に入れ貯ふべし。翌三月に成りて、又一へん右のごとく火を入るべし。然すれば色付く也。又殕(かび)出づる事なし。」


 『廣益國産考』の醤油造りの挿絵

上の「國産考 五之巻 醤油より」意味は次のとおりである。
五人家族の家で醤油をつるのであれば、大豆、大麦それぞれ一斗八升ずつ用意する。麦は炒って、半分は粗く挽(ひき)割り、半分はそのままとする。
豆は煮たら麦と混ぜ、麹をつくる。麹づくりは、家の隅の土間に菰(こも)を敷き、その上に筵(むしろ)を敷いて、豆と麦を合わせたものを約一寸五分程の厚さに敷く。夏はこのままでよいが、九月であれば筵一枚、十月上旬なら二枚覆う。
覆いをする前に、杉の葉の灰やススキの葉を原料の上に置くと麹がよく出来る。全国どこでも家庭で醤油をつくるのは、六月の土用中に仕込む。
(麹ができたら)樽に仕込む。塩は大豆と同量使用する。水は麹三升につき五斗四升必要である。仕込み終ったら毎日交棒(まぜぼう)で掻き回すこと。約七十五日たった頃、味もよく熟成する。
そうしたら「もろみ」の中に籠をたて、籠(かご)の中に溜まった醤油を汲み取り、溜まらなくなったら、その「もろみ」を袋に入れて搾る。手造りの醤油は、色が白いと嫌われるが、搾ったあと一度鍋で煮立たせるとよい。冷して樽に入れ貯蔵する。三か月たったらもう一度これを行なえば、色もよくカビることもない

■『和漢三才図会』と『萬金産業袋』にみる現在の醤油作りの関係
「しょうゆの科学と歴史」財団法人日本醤油技術センター/田上秀男 より以下を引用する。
『現在、「しょうゆ」と言えば、通常、8 割以上のシェアを占める「こいくちしょうゆ」を意味する。この「こいくちしょうゆ」の作り方の特徴を歴史的視点で整理すると、
①大豆と小麦がほぼ等量、
②麹菌を使用する、
③バラ麹(甘酒や清酒を作る時の米麹のような形状)、
④原料を全て麹とする、
⑤清澄な液体調味料 の5つのキーワードが挙げられる。
これらの、5つの特徴が揃ったのがいつの時代か、川の流れに例えて文献に基づいて遡って行くと、江戸時代の中期に至る。1712 年の和漢三歳図絵(わかんさんさいずえ)、1732 年の萬金産業袋(ばんきんずわいぶくろ)の記載により明確となる。』

中世の料理書『今古調味集』

『今古調味集』
江戸期の写本、原奥書に天正八年庚辰(1580) 信州山家住人 折井内近助人道源祐閉の料理書より、「醤油 味噌 酢 香物之事」の記述より醤油の項を抜粋する。

■醤油
「麦一斗炒破、大豆一斗煮て二色共麹とする塩一斗右小麦の挽割、たると大豆と交麹とす、右三品桶に入水二斗五升を入て杓子にて頻々とかきまぜるなり、尤初一ケ月斗は頻々かきまぜ夫より朝夕暮三度程撹尤十二,三ケ月にて 醸成とす、扨一年程して程布袋に入て絞なり、又好みにて酒粕豆液など入和して絞る時は悪節事なりと言も、夏月は勿論秋冬と言も、久敷成て色、かび出又は虫などを生じ易し又だしに和調ば酸気を出し大いに味を失うなり、家醸の如は全て酒粕の類を用ゆべからず又事節を好時は、右の中へ末糀二斗ばかり入れとくと年月を経て絞り用時はそれ甘味なり、右之仕入方は八味と言積りなり、但し六味とは水一石に、麹六斗の積を以て仕立るを言なり」

■大麦醤油  
「大麦一斗二升研賑 大豆一斗塩一斗右両品糀とする事 小麦の 如して水二斗を用いて成醸する事前の如して宜し」

■溜り醤油  
「製法右前の如く(大麦醤油の意)にて宜し桶中へ簀をたつ 但竹にて籠を作り桶中 へ立其中へ溜たるを汲取り用ゆ外に法有にあらず 但し備前紀伊播磨三州の醤油皆鹹ヲ宗として又甘きなり 然共上下有り 先湯渉成物を最上トス 作再交物有なり能 吟味すべし 或は水をさし和布扨煎て其汁へ調和し又は酒粕など入又豆液の類を入 右の類ヲ用ゆる時ハ決して鹹の内に苦酸の気ヲ帯して悪敷又酸気を発して煮汁の味を 失して品身悪敷して腐り易すし能々得心して味ひ仕立べし」

醤油の隆盛と大量生産

■醤油の隆盛と大量生産
江戸時代初期(17世紀前半~後半)は、上方の醤油が人気で、高価な「下り醤油」(たまり醤油や澄み醤油)が船で大量に江戸へ運ばれ、関東醤油の倍近くの値段で販売されていた。元禄年間(17世紀末~18世紀冒頭)になると、江戸近辺の北関東で醤油づくりが盛んになり、味も“江戸っ子”の嗜好にあった「関東地廻り醤油」(濃口醤油)が生産されるようになる。この濃口醤油が好まれて、蕎麦、天ぷら、鰻の蒲焼、寿司、煮物など、江戸の食文化を作り上げた。

江戸時代初頭まで、関西の「醤油」は「たまり醤油」が一般的で、17世紀中頃から清酒を漉(こ)す技法を転用した醤油のもろみを漉し取った「澄み醤油」へ移行し生産が増大していった。江戸では、紀州の「たまり醤油」から濃口醤油の転換は元禄十年頃だという。
18世紀末の『辰巳婦言』寛政10年(1798)には「うどんやの汁つきをもって醤油を六文」買いに行く、といった記述がみられ、醤油が身近で安価な調味料として利用されようになっている。

江戸時代後期になると江戸で使用される醤油は、上方醤油(下り醤油=澄み醤油)から関東醤油(濃口醤油)が大半を占めるようになる。関西では「うすしょうゆ=薄口醤油)が主流となり「澄み醤油」は姿を消していく。そして、幕末になると江戸は、利根川近辺で製造される「濃口醤油」が江戸の市場を制圧した。
19世紀(文化・文政期、1804-30年)に入る頃までには良質な醤油が大量に生産されるようになり、特に江戸という大消費地を抱えた関東において著しく、関東の醸造家が上質な「関東地廻り醤油」(濃口醤油)を大量に生産して江戸の需要を賄うようになっていた。
醤油の価格は、江戸初期の頃は米の3~4倍と高価だったが、江戸後期になって手工業的に大量生産できるようになると安くなり、1升(1.8リットルで50~70文くらいだった。同じ量の米の1.3~2.7倍くらいとなった。
『経済要録』文化10年(1813)には「近来は関東造家も、皆能く精好なる醤油を作り、年々江府に出る所、二百四十五萬樽に及ぶことなりと雖ども、絶て餘れる説のなきを見れば、此亦頗る大なる物産なり」とある。

幕末期の『守貞謾稿』嘉永六年(1853)には「江戸ハ、大坂ヨリモ買漕シ、又、近国ニテモ製シ出ス。下総ノ野田町、常陸土浦等ヨリ出ル物上製也」と、相変わらず上方の製品が江戸に回漕されてはいるが、野田や土浦では上方に劣らない上等な製品を生産し、大消費地江戸に出荷している様子を伝えている。

和漢三才図会 巻第百五 醤油

『和漢三才圖會』わかんさんさいずえ
<醤油の名についての記述>
「醤油」倭名比之保、本邦俗加油字、其未搾者為醤、似為二物、
【醤(和名は比之保(ひしほ))わが国では俗に油の字を加える。まだ搾しぼらないものを「醤(ひしほ)」というので、醤と醤油は別物としてよい】

<和漢三才圖會>
醤「和名比之保」豆釀也、今造法、大豆一斗、炒塵磨去皮、精麦一斗、一夜浸水、豆麦混合、●麹、別用塩二升六合水一斗、一沸去渣冷定、和豆麦、盛桶、毎月向陽、攪至十余日、密封二十日、而成、俗謂比之保未醤、
「醤」は豆釀也、とある和漢三才図絵の記すところは、原料は今日の醤油にほぼ同じであるが、実は俗にいう比之保未醤である。

<醤油製法についての記述>
【醤油には大麦を原料にしたものと、小麦を原料にしたものがある。つくり方は、大豆1斗をよく煮る。精白した麦1斗を炒って粗(あら)く挽く。これらを一緒にして麹 (こうじ)をつくる。塩1斗と水2斗5升を混ぜて煮る。これを冷まして桶に入れ、そこに豆麦麹を入れてよく撹拌(かくはん)する。
夏は75日、冬は100日で出来上る。これを搾り、油を取る。油を取った液を一度煮る。色は黒くなるが、味はよい。搾った渣(かす)を使って再び仕込み、同様の方法で液を取る。これを「二番醤油」といい、味はすこぶる劣る。市販されているおおかたの醤油は、みな小麦を用いており、大麦を使ったものは味がよくない。そのため市に売っている醤油は、皆、小麦で造ったものである。未醤(味嗜)及び醤油は、本邦で一日も欠くことのできないものである】

『和漢三才圖會 』(正徳5年<1715>刊)


合類日用料理抄

『合類日用料理抄』 巻一「醤油之類」
合類日用料理抄(ごうるいにちようりょうりしょう)元禄二年(1689)初版の料理書。書かれている内容は、広く秘伝口伝・聞書の類等から料理に関する事柄を丹念に集めて再編成したものであり、江戸時代の料理百科である。

「醤油之類 醤油の方」
一、大豆壱斗 煮ル
一、大麦壱斗しらげ炒引わる
一、小麦三升 炒て引わり粉にす。右三色能々まぜねさせ申候
一、水弐斗 一塩壱斗

水の中にて塩をもみくだきすいなうにてこし右の塩水をにやしひえ候ほど二日も三日もさまし仕込申候、其時糀八升入桶の中にてもみ合一日に二度宛かき申候、五十日の間如此仕候其後中白米壱升ヲ水八升にて粥にたき此かゆを入物いくつにも入すえり不申候やうに成ほど早クあふぎさまし能冷候時右の醤油の中へ入よくまぜ其後も初のごとく一日に二度づゝかき廿一日過候てあけ申候
二番醤油は右の粕の中へ水壱斗塩五升前のごとくせんじさまし候て其時糀をも四升入又毎日二度づゝかき候て廿一日過又中白米壱升ヲ水七升にてかゆにたき前のごとくさまし仕込申し候
其後も毎日二度づゝかき五十日ほど過て上ルなり此醤油何時も成候へ共同は六月のあつき時分仕込てよし


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