醤油の歴史文献・雑学

中国・周礼(しゅらい)と醤(ひしお)

醤油のルーツ
■醤油のルーツは「醤(ひしお)」
中国から伝わった穀醤がルーツか?。醤油のルーツは、食塩を混ぜた保存食である醤(ひしお)といわれている。原始時代は狩猟民族で、獲物を捕獲した時だけ食事ができたことから、自然発生的に肉を保存する為に食塩を混ぜた肉醤(ししびしお)が生まれたと考えられる。農耕民族になるに伴って、穀物と食塩を混ぜた穀醤が生まれ、仏教の伝来と共に穀醤の製法が中国から日本に伝わったとされている。
穀醤の渡来ルートは定かではないが、穀醤は、中国から朝鮮半島を通り九州に渡来したのではないかと考えている。大宝律令(701年)に、宮内省の大膳職に属する醤院(ひしおつかさ)で大豆を使った醤が造られていたとされている様に、穀醤はわが国で受け入れられ定着したのである。中国から伝えられた穀醤は、やがて、日本風に改良が加えられ、最終的にはわが国独自の調味料である醤油が生まれてくることになる。


中国の醤(ひしお)と日本の穀醤(こくびしお)

■『中国の[醤]は古代から続いている発酵調味料の一つで約3千年前に作られたことが記録されている。古代中国の有名な書物である「周礼(しゅらい)」には"百醤八珍”、「史記」にぱ”枸醤”(果物の醤)の文字が見られ、『礼記(らいき)』には”芥醤”(野菜の醤)という言葉や“醢醤、卵醤、醤斉”という言葉が見られる。このように、古い書物の中で、醤に関係する言葉が多く記載されていることからも、中国では醤は古くから人々の食生活に不可欠な調味料となっていたことがわかる。
最初の頃の醤は獣や家禽肉を原料として製造されたもので古代では”醢(カイ)”と称されている。その後、醤の種類も増え、魚介類が原料として使用されたものは魚醢と称せられた。さらに、農業が発展するのにしたがって野生植物の子実や栽培作物を原料として製造された醤(豆醤、麦醤など)が出現するようになり、特に大豆を原料とする豆醤と豆鼓(トウチ)が、多く製造されるようになった。そのなかの一つは醤油として発展することになる。
(宮尾茂雄 東京家政大学教授)

■『醤の文字は「周礼」にもあらわれる。鄭玄の付した註には「醤、謂醯醢也」とあり、醢と醤がおなじものであるとされる。漢代に「穀醤」が成立すると、区別のために肉や魚の醤は、肉醤、魚醤と記されるようになる。』
(国立民族学博物館研究報告 13巻2号)

■醤油の起源とされる穀醤
「国立科学博物館技術の系統化調査報告Vol.10 2008.March」、醤油製造技術の系統化調査/小栗朋之、から以下を引用する。
『醤油の起源とされる穀醤(こくびしお)で、大豆を原料とする「醤(しょう)」と「鼓(し)」がはっきりと文献に出てくるのは、6世紀の初頭(530~550年)の「斉民要術(せいみんようじゅつ)」である。この中で醤に相当するものを「醤」(大豆を原料とするもの)と肉醤、魚醤、むぎ醤、楡子醤に別けて説明し、そのほかに別項として「鼓(し)」(和名くき)という新しい大豆の発酵食品を記載している。
「醤」と「鼓」の製法を見ると、醤は部分麹による製法で現在の「味噌」の製法に似ており、鼓は大豆の全麹法で「たまり」のつくり方に似ている。しかし最終製品は、前者は粥状(液状)であり、後者は固体状で全く逆となっている。したがって、醤油の起源をどちらか一方だけに求めるのは難しいように思われる。
これらの製法は飛鳥時代に日本に伝わり、「日本の醤(ひしお)」として育ち、「醤」は平安時代の後半には、塩、酢、酒と共に調味料の一つとして大きな地位を占めるようになっている。その後「醤」は更に発展を続け、安土桃山時代の1597年には「易林本節用集」と云う本に、「醤油(シヤウユ)」として始めて出現する。(日本独自の醤油製法 - ”ほぼ等量の大豆と小麦を使って全量をバラ麹とし、塩水と混ぜて諸味とする” - は、江戸時代の半ば頃には出来上がっていたと云われている。)
現在の醤油の基本的な製造法は、各種の書物によれば18世紀後半には確立されていたと考えられる。醤油が生業として営まれたのは室町時代の末1530年代からで、西では湯浅、堺、龍野、小豆島、東では銚子、野田等利根川、江戸川の流域で発達し、文政年間(1819~29)には関東地廻り醤油が、関西下り醤油を凌駕して江戸市場を席巻するようになっている。』


周王朝・周礼(周禮)

■中国古典礼法の「三礼」
孔子は、礼を周公が残したすぐれた制度と考え、弟子に対する教育課目のひとつとして重視した。その後、礼は孔子の学の継承者たちによって文献の形にまとめられ、聖典となった。今日にも伝わる代表的なものは『周礼』(しゅらい)、『儀礼』(ぎらい)、そして『礼記』で、これを「三礼」(さんらい)と総称する。
「三礼」のうち、『周礼』は官僚制度を述べたもの、『儀礼』は各種式典の際の進退作法を具体的に記述したものである。これに対し『礼記』は他の二書とはやや性格を異にする。『礼記』の「記」とは「覚え書き」あるいは「注釈」を意味する。たしかに『礼記』の「郊特牲」「冠義」などの篇は、『儀礼』の注釈とも言える。



■「三礼」(さんらい)と周礼(しゅらい)
「礼」という表現は次の意味で使われている。すなわち『周礼』・『儀礼』・『礼記』などでは具体的な所作、あるいはその総称という意味で使われている。中国古典礼法の周礼(周禮)は、儒家が重視する経書で、十三経の一つ、『儀礼』・『礼記』と共に三礼の一つである。
『周礼』 Zhou-li(しゅらい:紀元前11世紀頃、周王朝初期の記録書)は、周王朝の行政組織を記録したものとされ、儒家が重視する経書で、十三経(じゅうさんぎょう)の一つで、古くは「周官(しゅうかん)」と呼ばれ、西周の周公旦(しゅうこうたん、武王の弟)が制定した行政組織を記録したものと伝えられるが、周王朝を理想化する後世の作と考えられている。
その内容は、周の政治制度、とくに役人の人員とその役割を記したもので、諸官職を「天官(中央政府)、地官(地方行政)、春官(神職)、夏官(軍事)、秋官(司法)、冬官(器物製作)」の六篇から成る約三百六十の官職名をあげて、職制、人数、職務内容を詳細に記し、儒家の理想に基づく国家組織と統治政策が記述されている。

■『周礼』は周公が作った官制を記した経典とされる。
天官冢宰(ちょうさい)に、「惟王建国、弁方正位、体国経野、設官分職」とある。鄭玄の注によれば、「惟王建国」は周公が洛邑を造営したこと、「弁方正位」は測量を行って正しい方位を定めること、「体国経野」は方九里の都城を営んで農地や集落を整えること、「設官分職」は天地春夏秋冬の六官を立てることである。

・天官(てんかん)
 中国、周の六官(りくかん)の一。冢宰(ちようさい)を長官とし、国政を総轄した。
・冢宰(ちょうさい)
 中国の官名。周代、六卿(りくけい)の一。
 天官の長。天子を補佐して、百官を統率した。宰相。大宰(たいさい)。
・天官冢宰第一にある膳夫の人容
 膳夫,上士二人、中士四人、下士八人、府二人、史四人、胥十有二人、徒百有二十人。

「周礼」には、天官の大宰が「三農に九穀を植え」とあり、その鄭玄(じょうげん)注釈に「黍,穫,税,稲,麻,大豆,大麦,小麦」を九穀といって、大豆を九穀の一つとしていたとある。

 
『纂圖互註周禮卷1,2』 P.32 ,P.31 漢鄭玄註/著 (国立国会図書館)

■「周礼」の「天官・膳夫」の条に『醤』の文字が見られる。
  天官冢宰第一
  「膳夫掌王之食飲… …用百二十甕」
鄭玄(じょうげん)注釈から、醤(シヤウ、ひしお=訓)とは、肉と穀類の麹を混ぜ、酒を加えて発酵させてできる液体調味料と思われる。

■『周礼』の肉醤(ししびしお)
約3000年前の周王朝初期の記録である『周礼(しゅらい)』には「醢(カイ)」の記述がある。醢とは魚鳥獣の乾し肉を粟麹と塩と酒に漬けて醗酵させた肉醤(ししびしお)であった。この頃はたんぱく質を麹菌由来の酵素で分解して作っていたものであり、内臓と共に肉を漬け込んで内臓由来の酵素で分解するタイプの肉醤は漢代になってからである。いずれのしても周の時代から魚などを原料として調味料を得ていたことになる。

周礼にみる王の食事

■【周礼から原文の一部を抜粋】
「周礼」の天官膳夫の項
『膳夫掌王之食飲、膳羞,以養王及后、世子。凡王之饋,食用六穀,膳用六牲,飲用六清,羞用百有二十品,珍用八物,用百有二十瓮。』

【訳文:膳夫、王の食飮膳羞を掌り、以て王及び后世子を養う。凡そ王の饋食(きし)は六穀を用う。膳は六牲を用う。飮は六淸を用う。羞には百有二十品を用う。珍は八物を用う。は百有二十罋(おう)を用う。】

「鄭玄(じょうげん)注釈」から、言葉の意味するところは以下のとおり。
・膳は、肉類を主体とした食事(おかず)。
・羞(しゅう)は、穀物を主体に加工した食品(菓子・点心)。
・六穀は稲、粱(あわ)、菽(まめ)、麦、黍(もちきび)、 稷(うるちきび)。
・六牲(りくせい)は古代中国で神にいけにえとして捧げた六種の動物。王の食べ物とした動物。馬・牛・羊・鶏・犬・豚。
・六清(りくせい)は古代中国の代表的な六種の飲物。水、漿(果実の搾汁)、醴(甘酒)、涼(醴が酢酸発酵した物)、医(梅酒)、障。 また、清は酒の意味もある。
・八珍(はっちん)は珍味を揃えた盛大な料理・食膳のこと。牛、羊、麋、鹿、麕、豕、狗、狼。
・世子(せいし)は、実子(長男)で王位継承者。

王の食事とは以下の感じとなる。
「膳夫(料理人)とは、皇帝と皇后の世子(皇太子)のおかず・菓子、皇帝の食事を掌握する(官職)である。王は、六穀(粥)を食する。六つの家畜、馬・牛・羊・鶏・犬・豚を料理して食べる。六種の酒を飲む。菓子百二十品を(味わう)。八珍(八種類の料理)を作るには「醤」百二十かめを使う。」
・・・要するに、六穀・六種の肉・八珍の料理の調味料として120種類の多種類のを用いていたようです。
王の食事は「六食、六膳、六飲」などを中心とし、八珍の料理に「醤」を使う。 この中で「六食、六膳、六飲」が示すのは現在の食物と健康のつながり「医食同源」や「薬食同源」の考えであり、食物をきちんと管理して食事を取れば、体をうまく整えて、病気を治療できると考えていたようである。

【“キッコーマン 醤の時代”によれば、中国の古書『周礼』によると、政府の宴会用として、醤が百二十甕(かめ)備えられていたと記されており、なくてはならないものだったことがうかがえます。しかしここに書かれている醤は、獣・鳥・魚などの肉を原料とした塩辛の類であり、大豆を原料としたものでなかったようです。文献でみる限りこの頃の醤は、肉醤(ししびしお)または魚醤(ししびしお)だったということです。】


■「醤と醤油の淵源(えんげん)とその生産技術について」
包 啓安(Bo THI-AN)、岩手大学農学部80周年会報「創学80周年記念特集号」1982より一部掲載。

『人類における食生活の変遷と同じで,最初に現れて来た醤(ひしお)は、肉類を原料として造ったもので、古書では「醢(カイ)」と称しております。獣肉で造ったものを肉醤といいますが、また、肉醤あるいは醢醤ともいいます。醤油は、醤(ひしお)から変って来たので、そのルーツを探るには、醤の変遷を研究しなけれぽならないと思われます。ここで、周代以来、専ら肉醤を造っていたものなのか、あるいは豆で造ったものがあったのかという問題が出て来ます。
「周礼」に記載されている醤というものが、ただ肉醤だけを指すものなのかどうか、なお研究すべき所が多いと思っておりますが、この問題について解析して見ましょう。

文字の創出は、必ずその物の存在を前提とすることです。ですから「醸」という字の出現は、必ず肉を原料として造った物が存在したはずです。そして「醤」の字の出現にも、必ず非肉、すなわち植物性原料の製品が存在したはずです。それですから、この二つの言葉は、違った内容と意義を持っている訳です。「周礼」の著者は、この事実に基づいて、この二つの字を非常に明確に使い分けています。
農業の進歩と共に、大量の穀物が取穫され、豆類は、主な蛋白質給源となって醸造領域に入って来て、人民の需要に段々満たなくなった肉類に代わるようになったことは、自然の発展法則だと考えられます。これが「醤」の字出現の歴史的背景であり、この場合は、狭義的な「醤」であります。そして、すべての事物は、簡単から複雑へ、低級から高級へ、単一から多様へと発展するように、醢の後に次いで、多くの植物性醤類が造られていましたが、醢と醤の間に、外形及び生産方法が、同じ共通性を持つ物を「醤」と呼ぶのは当然でありまして、これが広義的な「醤」であります。
「周礼」には、内饗という官吏の職務を「百羞、醤物、珍物を選び、これをもって饋(おくり)物とす」と定めており、食医の職務は「王の六食、六飲、六膳、百羞、百醤、八珍を掌る」とされております。ここに記載されている「醤物」「百醤」の醤は、広義的な醤であることは、極めて明らかであります。「周礼」にある「醤用百有二十甕」というのも、豆醤を含んだ広義的に醤であるに違いないと考えられます。
「周礼」等の早期古書に、大豆をもって醤を造った記載は、まだ発見されていませんが、これまで紹介した記載から見ても、肉醤の外に、豆を含む植物性原料で造った醤があったことは明らかであります。これらの製品は、民間で製造されていたぼかりでなく、統治階級の宮廷でも、主要な調味料として、造られていたのであります。』

周礼(周禮)」鄭玄の注釈とは

■周礼(周禮)」鄭玄の注釈とは
現在通用している『周礼』は、『十三経注疏』に収められた後漢の鄭玄注、唐の賈公彦疏が付けられた『周礼注疏』である。鄭玄は、『周礼』を太平を致すための周公制作の書として重視した。もちろん『周礼』は礼経であり、書聖が描く太平世界における国家構想も礼教主義的統一国家における強力な中央集権体制を打ち出すために構想された官制そのものであった。『周礼』は「周公居摂して六典の職を出し」(家宰鄭注)太平を致すための官制を述べた、層礼法の最も備われる礼経と鄭玄が明言している。
『周礼』は『周官』とも称する。周代の官職制度とその職掌について記した書だが、かなりの部分が理想で占められた、士人の必読書である。この書物は周公が製作したと伝えられ、「天官冢宰」、「地官司徒」、「春官宗伯」、「夏官司馬」、「秋官司寇」、「冬官司空」六篇に分かれている。
後漢末の鄭玄(127-200年)が各儒家の説をまとめて全書にし注を入れた。疏者は唐代に名を知られた儒家賈公彦である。『周礼』は宋代の士人に特殊な作用をもたらした。それに記された政治、教育上の理想を十分に理解して受け入れたばかりか、制度改革の依拠にもしたのである。
天官冢宰(ちょうさい)に、「惟王建国、弁方正位、体国経野、設官分職」とある。鄭玄の注によれば、「惟王建国」は周公が洛邑を造営したこと、「弁方正位」は測量を行って正しい方位を定めること、「体国経野」は方九里の都城を営んで農地や集落を整えること、「設官分職」は天地春夏秋冬の六官を立てることである。

■鄭玄(じょうげん)と周礼(しゅらい)
鄭玄といえば中国の後漢時代を代表する大学者である。彼が儒教の古典である五経のうちの『春秋』を除くすべての書物の注釈に筆を染め、『易経』『書経』の注釈は逸文が伝わるだけであるものの、『詩経』の注釈、それに『礼経』である三礼、すなわち『儀礼(ぎらい)』『周礼(しゅらい)』『礼記(らいき)』の注釈は完全なままで今日にまで伝わり、最も依拠すべき権威あるものとして脈々と生命を保ち続けている。
鄭玄(127~200年)が三礼、すなわち『儀礼(ぎらい)』『周礼(しゅらい)』『礼記(らいき)』の注釈にとりかかったのは諸説があるが、霊帝の建寧二年(169年)から始まった第二次逸事の禁の期間と考えるのが妥当である。後漢末の混乱しきった社会情勢の中で党鋼を契機として執筆された三礼注は、注釈という本質的な制限はあるものの、その注釈申にしばしば苗代の制度、風俗習慣、俗語を傍証に引く。「礼造材学」といわれるが三礼の中でもその根幹をなすのは他ならぬ『周礼』である。

  
「纂圖互註周禮卷第一」
「纂図互註周礼(さんとごちゅうしゅらい)」 漢鄭玄註/著 (国立国会図書館)、1403年癸未の年に鋳造した銅活字で印刷された「周礼」の注釈書。

中国王朝時代と日本の対照年表

中国王朝時代と日本 対照年表

 ・『周礼』(しゅらい)は、周(西周)王朝初期の記録書。
 ・後漢王朝末の鄭玄(127-200年)が周礼に注を入れたのが、「周礼(鄭玄の注釈)」。
 ・「周礼(鄭玄の注釈)」 が書かれた当時の日本。

中国(漢)の『漢書』(かんじょ)によると、紀元前1世紀ごろには、倭人(わじん、日本人のこと)が100あまりの小国を作っていた、という。漢での日本国の呼び名は「倭」(わ)と記されており、日本人のことを「倭人」(わじん)と記している。
また、別の歴史書の『後漢書』(ごかんじょ)によると、1世紀半ばに、倭(わ)の奴国(なこく、現在の福岡県あたり)の王が、漢に使いを送り、皇帝から金印(「漢委奴国王」と刻まれている)などをあたえられたという。
中国の歴史書『三国志』のうちの、魏の歴史書の『魏志』(ぎし)に、倭人についての記述である倭人伝(わじんでん)によると、2世紀後半に、卑弥呼が邪馬台国の女王となる。


古代の調味料「醤(ひしお)」の歴史

古代の調味料「醤(ひしお)」の歴史
『なら食』研究会代表 横井啓子/ http://narasyok.com/report2.html より一部を引用転記する。

その「醤」の成り立ちといきさつを追ってみることにしよう。そこには律令国家と仏教という二つの大きな流れに影響を受けていることに気付く。
まず、稲作が農業の中心として定着した頃、わが国の風土、四季の寒暖などから食べ物を保存することが絶対的に必要とされた。その必要性が知恵と工夫を生み出していったことは確かなことだろう。これら食物文化の進歩が保存技術を発達させていく中におぼろげながら「醤」の存在を推しはかる事ができる。つまり人々が自然発生的に食物を塩に漬け保存するうちに、発酵・熟成して旨みを持つことを体験的に学んでいき、穀醤(こくびしお)の醸造条件が整うことで、生活に根付かせていったと推測できる。しかしこの種の「醤」が遺物として残る可能性はきわめて乏しいため、存在を確認することは困難である。

中国の周時代(日本では縄文時代)の最古の礼書『周礼』に膳夫「醤用百有二十甕」とあり醤の初見とされている。120種類の醤を用いていて、これらの醤は主に肉醤、魚醤と考えられる。また春秋時代『論語』には「不得其醤不食」とあり、戦国時代頃の『礼記』には「芥醤(野菜の醤)」が見られる。周時代から前漢以前までは醢(かい)が主流ではあるが、『周礼』には「醤、謂醯醢也」とあるように、醤と醢が同じであると解釈される。漢時代(日本では弥生時代)に入り、穀醤(大豆が主)が主流になっていくと、それまでの肉醤、魚醤とは区別されるようになる。
その背景には、漢時代に入ると人口が3倍以上と飛躍的に増加して、前時代まで肉・魚類を使った醤の原材料に困難をきたしてきたこと。また漢時代に農業技術に革命的変化が起きたことである。前漢の農機具は鋳造であったが、後漢では鍛造に代わり強度も増した。鉄器の生産量も数倍となり、それまでの人力のみであった牛耕農法が変化していき、大量生産が可能な大豆は、輸送・保存も容易であったことが挙げられる。ところで大豆などマメ科の植物の根には、茎根粒菌という細菌がいて、土中に含まれる空気の窒素を、栄養分として使いやすい硝酸塩に窒素固定する。つまり「土を肥やす」働きを持つことから、農業が天下の根本と考えた漢の武帝の時代には、大豆栽培面積が作物全体の4割を占めたという。

日本の弥生時代(中国では漢時代)の土器には塩を煎熬していた土器や、蓋ができる壺が発見されていることから、発酵塩蔵食品が造られていたと考えられる。そこで、漢時代までの「醤」が、稲作の伝播と共に東アジア各地へ伝わり、わが国へも伝来していたと考えられると、おそらくわが国在来の発酵塩蔵物は大陸の「醤」の影響を受けたと推測できる。日本での醤の類いが、縄文時代末頃から弥生時代にはあったといわれていて、果物・野菜・海草などを材料とした草醤、魚による魚醤、穀物による穀醤の3種があったようだ。

さて、中国は北魏時代に入り、西暦532年から549年頃と推測される世界最古の農業技術書『斉民要術』(中国山東省の賈思勰(かしきょう)が著した華北の農業・牧畜・衣食住技術に関する総合的農業専門書全10巻)には、今の醤油の製造法とよく似た穀物が原料である「穀醤(こくびしお)」の造り方が解説されている。山東省は古代中国で最も繁栄した地域で重要な塩産地である。編まれた6世紀は日本に仏教が伝来してきたときと重なる。これらの史実に於いて、この時代には大陸から製造方法とともに「醤」が伝来しただろう。


日本では、次第に草醤(果物・野菜・海草などを材料とした醤)は漬物へと発展し、醤は大豆を原料とした穀醤でほぼ一本化していく。仏教の影響を強く受けていたことから、あまり動物性の原料の醤は好まれなかったと思われる。醤は途中で分岐していくと考えられるが、既に奈良時代には両者の中間のような調味料(垂汁)が『奉写一切経所告朔解』に記されていて、おそらく宮中で出されていたのだろう。  

古代の醤の存在を示す木簡がある。飛鳥時代の頃の木簡で「醤五升 不乃理五升」と書かれている。また平城京の大膳職跡であると推定される遺跡(奈良市佐紀町)が昭和36年に発見された。ここから木簡が39枚発見され、木簡として初めて重要文化財に指定された。その指定第1号が、奈良時代、平城京での生活において「醤」が欠かせなかったと推測できる『寺請(てらこう)木簡』である。
 
また、わが国で最も古い法令『大宝律令』(701年)によって、朝廷で使う醤の製造を制度化されている。宮内省の組織のひとつであり宮中の食事を取り扱う「宮内省大膳職」のなかのひとつに「主醤」という二人の官吏がいて醤類の製造を管理していた。のちに独立して「醤院」という部署となっていく。この史実により前代までに、すでに「醤」が普遍的であったことを示していると解釈できるのではないだろうか。
25巻にも及ぶ東大寺の『正倉院文書』からも「醤」の文字は散見でき448個にも及ぶ。このことから「東大寺写経所」の人々(別当や経師・題師・装こう・校正など)にとって、精進の蛋白質食品「醤」は極めて貴重であったということが推測できる。また『万葉集』のなかにも「醤」と言う文字を見ることができることから、醤の広がりを推測できる。

奈良時代の藤原氏の氏神である春日大社(創建768年)で、春の例祭、申祭が(849年から)行なわれている。平安期の『延喜式』に記載通りに調理されたお供え御棚神饌(みたなしんせん)に「醤」が用いられていることからも、前時代の奈良時代の祭事の折も「醤」が用いられていたと推測するのは強引だろうか。  

これら数多くの史実から、『大宝律令』によって朝廷で使う醤の製造を制度化は、710年平城遷都されたのちも引き継がれ、いよいよ奈良時代、発達期を迎えていったことが容易に推測できる。当時の調味料のなか、塩は別格としても、「醤」もなくてはならない調味料であり、なかでも「穀醤(こくびしお)」は、仏教の殺生禁断という仏教の根幹にかかわる精進を守るための菜食に絶好の味付けとして存在し、こののちの時代も、その時代々の味覚の要求に応じて発展していくことになる。  

このように大化改新(645年)から奈良時代末(794年)までの150年間ほどで、わが国の前代からの体験から学んだ知恵と、大陸の食文化を取り入れ模倣・摂取するなかで取捨選択しながら、わが国独自の「穀醤」を作り上げてきたと推測でき、この「穀醤」が、現在の醤油の始元(ルーツ)ではないかと思えてくる。   
平安時代に入ると、『延喜式』(927)の交易雑物の項には、大豆が全国からの租税として納めた物産品として記されている。また具体的な醸造法がないまでも「醤」の原料の配合や製造量が明記されている。また平安京の東市で月に3回、「醤」などを売る店が51軒あったことも記述されている(奈良から売りに行っていたらしい)。この時代に編纂された日本最古の漢和辞典『和名抄』(903年)にも、「醤」の和名を「比之保(ひしお)」と記されるまでになっていく。  
当時の宮中貴族の饗宴では高杯(たかつき)と呼ばれる置き台に皿をいくつか置いて食材を盛り付けている。料理は単品で鯛、鯉、鱒、蛸、雉などが皿に盛られ、手元には4種類の調味料「酢、塩、醤、酒」が小さな器「四種器(よぐさもの)」に盛られて食膳に置かれ、各人が好みの味付けをして食していたことがわかっている。  

更に時代は下り、室町時代中期から江戸時代初期までの140年間、興福寺の多聞院という子院の僧侶達が、代々『多聞院日記』を書きつづけてきたその中にも、多くの「醤」の記述がある。これら木簡や文献などから、奈良は醸造の発信地であったといえる。

ここで、現在の日本人にとっても大変身近な大豆を見てみよう。弥生時代に伝来したとされていたが、縄文時代の遺跡の多くからマメ類が見つかっている。史実に記載された大豆は藤原宮(紀元694~710)の木簡に「九月廿六日薗職進大豆」とある。また、正倉院文書中には「大豆」が散見している。越前国からの荷札木簡にも「生大豆玖足立参拾陸文東別四文 天平宝字二年八月二日」と記されている。後者は年代からみて東大寺の造営のときに生大豆(未成熟なうちに収穫した大豆)9足を36文で購入したものと読める。承和7年(840)には五畿内七道の諸国(全国)に黍、粟、稗、麦、大豆、小豆、胡麻の栽培が勧められている。このように大豆は五穀の一つとして全国に栽培が奨励されていた。実際には畿内地方に多く、照葉樹林文化的作物として焼畑などで作られている。近代に至るまで連綿と続けられてきた焼き畑は、高度経済成長期に入り完全に終焉を迎えたのである。  


さて室町時代は、武家が公家社会のしきたりを次第に吸収し、礼法が確立していった時代で、禅宗を中心に起こった武家文化は、茶道や本膳料理が武家社会の礼法(主従関係の確認の場)として生まれ、四種器の調味料の他に味噌や醤油、味醂、といった現代のものに近い調味料なども使われるようになったことがわかっている。ただ当時はまだまだ貴族階級や武家社会でしか使われない高級な調味料であったようだ。  
安土桃山時代(1597年)日常用語辞典である『易林本節用集』に「醤油」の文字が始めて出てくる。料理に使う調味料として現在の「醤油」にかなりちかい液状にまで工夫され、調理法の発達を促すにまでに至った。  現在の「醤油」に近いこの調味料は、町人を中心とする貨幣経済が発達し、物資の流通も活発化してくると、徐々に庶民にまで普及するようになっていったのである。  

このように、たとえ大陸での風土条件で生まれた伝統的嗜好品である『醤』であっても、日本人の経験により培われた知識と技術と、わが国固有の麹菌とで、発酵調味料に変化、進展させてきたのである。なかでも穀物を原料とした「穀醤」は文献にあらわれた『大宝律令』を初めとすれば「醤油」へと変化するまで約900年続いたことになる。その後の「醤油」にあっては、まだ400年余りで、いかに「醤」が現在の日本人の味覚形成に影響を与えたかがわかる。つまり古代の「穀醤」は、日本人が醸成させながら現在へと繋げてきた調味料「醤油・味噌」のルーツといえる。  このように食べ物の変遷流動は、歴史の流れを端的に表現し、時代の一面を推し量ることができる。


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