醤油の歴史文献・雑学

延喜式と醤油

■延喜式(えんぎしき)
『延喜式(えんぎしき)』とは「養老律令(718年)」の施行細則、つまり、平安初期以来宮中における年中行事や制度などを集大成した事務規定である。この律令は、奈良・平安時代の国家制度を知る古代法典で、永く貴族生活の規範となった。
延喜式は、醍醐天皇が左大臣藤原時平・紀長谷雄・三善清行らに勅して諸宮司の守るべき施行細則を撰集させたもので、それには律令の修正による律令体制への復活に対する天皇の願望がこめられていたと考えられており、当時の優れた学者十数名が延喜5年(905)から延長5年(927)までの22年かけて完成した。

平安時代に作られた我が国最初の行政要覧『延喜式』の分量は全50巻、約3540条に及び、官人の職務遂行上の諸規定をはじめ、祭祀や儀礼、宮中で使用する備品や調度類とその原材料、食品、医薬品、繊維製品等々の実に様々な物品が記されている。延喜式は施行細則としての重要性のみならず、あらゆる厨事素材等の名称・産地等を知る上の重要性をも兼ね備えている。

『延喜式』の構成配列は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、神祇官関係の式(巻1~巻10)、太政官関係の式(巻11~巻40)、諸司の式(巻41~巻49)、雑式(巻50)の50巻から成っていて、 内容は儀式・年中行事関係の規定、諸国から京へ運ばれる物品や運送日数などの規定、公文書の書式など、政務の運営に不可欠なものであった。
「神名式」は神祇官関係の式に含まれ(巻九~巻十)、この「神名式」に記載された神社を「式内社」と称し、また「神名式」単独で「神名帳」とも言う。


律令制下の行政機構
「巻11の太政官式も興味深い。律令制度で太政官というのはガバナンスということで、つまりは政府にあたる。内閣に相当するのは太政大臣・左大臣・右大臣・大納言2名・中納言2名・参議若干名である。これらは内閣の大臣で、実務は太政官の管轄にある中務(なかつかさ)・式部・治部(じぶ)・民部・兵部・刑部(ぎょうぶ)・大蔵・宮内の8省が分掌し、このほかにセクレタリー・ジェネラルにあたる少納言局・左弁官局・右弁官局の3局があった。
これらの政務や実務の特徴はひとえに「文書の行政」である。リテラル・ポリティックスこそが律令政治の正体なのだ。そこで文書の作成と保管とが最大の政治になっていく。そのため文書は「文殿」をセンターとして少納言局が管理し、外記(げき)たちがそのアドミニストレーションに右往左往した。これに対して内記(ないき)もあって、これは中務省に所属してもっぱら宮中、ことに天皇の動静を記録した。詔勅や位記(授位証書)も内記の仕事である。」 … 『延喜式』虎尾俊哉/吉川弘文館 1964


延喜式と延喜式神名帳
平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典の『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』とは、延長5年(927)にまとめられた『延喜式』の巻一から巻十をいう。延喜式巻一から巻十のうち、巻第一・二(神祇一・二)には、四時祭の大祀“践祚大嘗祭(だいじょうさい)”、中祀“祈年祭(きねんさい)・月次祭・神嘗祭(かんなめさい)新嘗祭(にいなめさい)・賀茂祭など”、小祀“大忌祭・風神祭・鎮花祭・三枝祭・相嘗祭・鎮魂祭・鎮火祭など”。
巻第三(神祇三)には臨時祭について規定、巻四(神祇四)には「伊勢大神宮式」で大神宮・荒祭宮などの座数、祭の種別や料など、また式年の造営などについて規定、巻五・六(神祇五・六)には「斎宮式や斎院式」、巻七(神祇七)には「践祚大嘗祭式」、巻八(神祇八)には「祝詞式」が続き、「日本という方法」の秘められた部分が細かく規定されていく。
巻九(神祇九)「神名上」、巻十(神祇十)「神名下」は神祇関係法規の適用される範囲の神社名を列記した神名帳であって、当時「官社」とされていた全国の神社一覧である。

延喜式神名帳に記されている、巻九・十の神名式には、神社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に「式内社(しきないしゃ)」、「式社(しきしゃ)」といい、天神地祇あわせて全国で3132座、2861処 【神社(式内社)は全国で2861社、そこに鎮座する祭神の数は3132座】 を国郡別に記載され、当時朝廷から重要視された神社であることを示しめす一種の“社格”となっている。「座」は祭神の数をあらわし、「処」は社の数をあらわす。延喜式において官社とされた神社は、神祇官から幣帛を奉られる官幣社と、国司から幣帛を奉られる国幣社の二つに分けられ、官幣(かんぺい)大社、国幣(こくへい)大社、官幣小社、国幣小社の順で格付けられていた。

○『延喜式』巻第九「天神地祇惣三千一百卅二座 社二千八百六十一處 前二百七十一座」

巻第九・十(神祇九・十) この巻には、神名の上(宮中・京中・五畿内・東海道)と下(東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)が規定されている。
天神地祇の総数は三千百三十二座で、うち大は四百九十二座、小は二千六百四十座とされている。大小それぞれに官幣に預かる社、又は国幣に預かる社があった。


延喜式と現在の「皇室」の祭祀

■宮中祭祀とは
『宮中祭祀とは、宮中で天皇が親しく行われる祭祀をいい、その起源は、『日本書紀』に記されている「神勅(しんちょく)」に求めることができます。その第一は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天孫降臨(てんそんこうりん)に際して、「此の宝鏡を視まさむこと、常に吾を視るがごとくすべし。ともに床(みあらか)を同(おなじ)くし殿を共にして、齋鏡(いはひのかがみ)とすべし」とおっしゃったお言葉です。これは「この宝鏡を私(=天照大神)だと思って宮中に祀るように」という意味であり、これが鏡を奉斎する賢所(かしこどころ)の起源です。《後の崇神天皇の御代に天照大神の神霊は宮中を離れ、鏡を奉じた倭姫命(やまとひめのみこと)によって伊勢へご鎮座されることになります》。… 祭祀の原初の姿はもはや知る術がありませんが、大宝元年(701)に制定された大宝律令から延長5年(927)制定の延喜式にいたり、今日見る体系的な祭祀の基礎が完成されました。律令時代には祈年(きねん)祭、月次(つきなみ)祭、新嘗祭が重視され、また大嘗祭、伊勢の神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)も最大の祭儀として、成立しています。
時代の変遷とともに祭祀も変化していきましたが、宮中祭祀の基本姿勢は、13世紀前半の順徳天皇(第84代)が著された『禁秘抄』の冒頭、「一、賢所(かしこどころ)。凡(およ)そ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす。旦暮あけくれ敬神之叡慮解怠(えいりょけたい)無く白地(あから)さまにも神宮竝(なら)びに内侍所(ないしどころ)の方を以て、御跡(みあと)と為(な)さず」という一文に尽きています。すなわち「宮中の作法はまず第一に神事、その後に他のことがあって、朝夕に神を敬い、かりそめにも伊勢の神宮、また賢所に足を向けて休むようなことがあってはならない」というものです。』(皇室まめ知識/日本文化興隆財団)

■稲作の神話と新嘗祭
『皇室の祖先神である天照大御神は、高天原で御みずから天狭田、長田といわれる斎田に稲を植えられ、秋には新嘗を聞こし召し、その神御衣を織り、お祭りをされています。さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原より葦原中つ国に降臨されるにあたり、「吾が高天原にきこしめす斎庭の穂をもって、また吾が児にまかせまつるべし」と神勅を下され、皇孫に斎庭の稲穂をお授けになりました。以来、歴代の天皇は「新嘗祭」を欠かさず続けられ、御代ごとに大嘗祭を斎行し、国民の平安を祈ってこられました。』(岩手県、御嶽山御嶽神明社)

『祈年祭は春の耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈るお祭りで、「としごいのまつり」とも呼ばれます。「とし」とは稲の美称であり、「こい」は祈りや願いで、お米を始めとする五穀の豊かな稔りを祈ることを意味します。稲の育成周期が日本人の一年といえます。農耕が生活のすべてであった時代、豊作を祈ることは国家の安泰、国民の繁栄を祈ることに他なりませんでした。そのため祈年祭は国家規模で執り行われ、奈良時代の『延喜神名式(えんぎじんみょうしき)』によると、神宮を始め全国2,861社の神々に幣帛(へいはく)が奉られていました。特に神宮には天皇が勅使を差遣されてお祭りが行われており、朝廷の崇敬の念が窺われます。』(伊勢神宮・神宮司庁)

■今日の皇室年中行事の一部(参考)
宮中祭祀は天皇自ら祭典を行われ、「お告文(つげぶみ=祝詞)」を奏上する大祭、掌典長が祭典を行い、陛下は拝礼される小祭、その他の祭儀の三つにわけられます。
「大嘗祭」は、日本の古代の即位に伴う儀式の形態をそのまま残しているとされます。延喜式では践祚大嘗祭と称され、ただ一つ大祀としての扱いをうけており、皇室・国家の至高の重儀とされてき​ました。

大嘗祭:大嘗祭は新たに即位した天皇が一代に一度だけ行う最も重要な宮中祭祀(さいし)とされる。伝統的皇位継承儀式という性格を持つものであるが、その中核は、天皇が皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。
祈年祭、毎年2月17日:三殿で行われる年穀豊穣祈願の祭典、豊作を祈願する。ちなみに「年」とは稲を意味し、稲穂を蒔(ま)く季節の初めにあたって、その豊穣(ほうじょう)を祈願する。祈年祭では、稲だけでなく五穀の豊穣と国の繁栄、そして皇室の安泰や国民の幸福なども祈願されます。この日は、宮中の賢所(かしこどころ)においても祭典が行われ、天皇が御親拝になられる。
神嘗祭、毎年10月17日:賢所に新穀(その年の最初に収穫した稲穂「初穂」)をお供えになる神恩感謝の祭典。この朝天皇陛下は神嘉殿において神酒と神饌を伊勢神宮に奉献する。
新嘗祭、毎年11月23日:祈年祭に対して収穫を感謝する。天皇陛下が、宮中三殿の神嘉殿(しんかでん)において新穀(初穂)を皇祖はじめ神々にお供えになって、神恩を感謝された後、陛下自らもお召し上がりになる祭典。宮中恒例祭典の中の最も重要なもの。天皇陛下自らご栽培になった新穀もお供えになる。飛鳥時代から続く重要な宮中祭祀。「新」は新穀を「嘗」はご馳走を意味する。

■宮中三殿について
『宮中三殿とは皇居内吹上御苑の東南にある、賢所、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称で、皇室の祭祀は主としてここと各地の山陵で行われています。明治22年に完成した三殿の高い土塀を巡らせた敷地の広さは約7260平方メートル、その中央に賢所、向かって左が皇霊殿、右が神殿となり、いずれも銅葺きの総檜による入母屋(いりもや)造り。
賢所は左右両殿より大きく、三殿はそれぞれ廊下で結ばれています。賢所の次に位置づけられる皇霊殿は、神武天皇から昭和天皇に至る、124代の天皇や歴代外天皇、皇后、皇族方をお祀りしています。
また神殿には、八神(天皇の守護神である八柱の神)、天神地祇(てんしんちぎ=天つ神、国つ神)が祀られています。構内には、三殿に付属して神嘉殿(しんかでん)、神楽舎、綾綺殿(りょうきでん)、奏楽舎、帳舎(あくしゃ)といった建物がありますが、神嘉殿では新嘗祭が斎行され、綾綺殿では新嘗祭に先立って鎮魂祭の古儀が行われます。』(皇室まめ知識/日本文化興隆財団)


延喜式と調味料・副食

延喜式と主食・副食
奈良・平安期における「醤(ひしほ)」は、『養老令』(養老2年,718年)と『延喜式』(延長5年,927年)によってうかがい知ることができる。『養老令』の「大膳職(だいぜんしき)」条には、朝廷での会食を担当する「大膳職」と呼ばれる役所が置かれ、「主醤(ひしほのつかさ)」という役人によって「醤」や「未醤(みそ)」(現在の味噌の祖)がつくられていた。この条によると「醤」は主に調味料として使われていたほか、税の品目や官吏の給与としても用いられており、人々の生活の中に、ある程度定着していたことがうかがえる。

平安時代に作られた延喜式に主食・副食・調味料を担当する職があった。延喜式は養老律令(718年)の施行細則を集大成したものである。延喜式では、「主醤(ひしほのつかさ)」は「大膳職」の別院「醤院(しょういん)」として独立した役所となり、引き続き「醤(ひしほ)」の製造を担当した。当時の「醤」の原料は、大豆、米麹(こうじ) 、もち米、小麦、酒、塩で、その配合割合については延喜式により知ることができるが、つくり方についての記述はない。

宮内省の中に副食・調味料などの調達・製造・調理・供給などを担当する「大膳職(だいぜんしき)」、主食である米に関する支給・管理などを担当する「大炊寮(おおいりょう)」があり、主食と副食を担当する部署が違っていた。内膳司は天皇、太上天皇、三后の食膳(供御:くご)を造ることを掌る官司である。
主食である米は他の食材と区別され特別な扱いであった。主食として貴族は米(強飯、姫飯、粥、重湯、乾飯)、庶民は雑穀類と米の混食が一般的であった。

※1:大膳職は、「内膳」が天皇の私的料理番であるのに対して、「大膳」は諸臣へ下賜する饗膳など、公式宴会の調理を担当。食物調理、諸国の「調」である醤・肴・菓・餅等を管理した。
※2:大炊寮は、神事・仏会その他宴会の際の炊飯支給、諸司の食料支給管理及び諸国から収納される米穀に関する事務を担当。主食である米飯は他の食材と区別される特別な扱いであった。
※3:内膳司は、天皇の食膳「供御」の調理を担当。 トップは「奉膳」と「正」で、供御に関する一切を管理監督する。 もとは高橋・安曇の2氏が世襲制の「奉膳」とされたが、のち他氏からもトップを任じることになって別に「正」を置いた。

■大膳職
律令官司には大膳職が置かれ、その長官たる大膳大夫の官位相当は正五位上であり、これは内膳司の奉膳や内膳正の正六位上より四級上の位階である。その官舎は、内膳司と隣接しており、ともに食膳を職掌としていたことから、官人や調理に当たる料理人は相互に交流があったことを窺わせている。
鵜飼・江人・網引などの雑供戸(品部)が所属していたが、延暦17年(798年)及び同19年に、これら雑供戸は大膳職から内膳司に移す太政官符が発給されている(『類聚三代格』四)。この為『延喜式』には、江・網曳などの名が内膳司のみに見られる。内膳司の膳部が人手不足の時は、大膳職の膳部が臨時に加勢するということもあったとのことである。大膳職の所管の所には、醤院・菓餅所・菓子所の名が見え、醤の醸造や餅・菓子の調製も同職の役割であった。

■内膳司
朝廷には律令官司として内膳司と大膳職が設置されていた。この内膳司の長官職奉膳を独占的に勤仕したのが、高橋姓濱嶋家である。この高橋氏は『日本書紀』に景行天皇の東国巡幸に同行し、白蛤の膾を調理して献上した磐鹿六鴈命が膳大伴部を賜ったことに由来する氏族である。
高橋氏は律令国家になった後も、志摩守の職を世襲的に補任されており、この慣例は近世にまで及んだのである。内膳司の長官も、高橋氏と安曇氏が任じられた際は奉膳と称し、他氏族であれば内膳正であったことも、彼らが特別な一族であったことを窺わせるのである。天皇の食膳に奉仕する内膳司の高橋氏と安曇氏は、供御の他にも神饌の調進にも携わり、ことに大嘗祭や新嘗祭においては、高橋氏は鮑の汁漬、安曇氏は海藻の汁漬を準備する役割を担った。安曇氏が神膳行立の順位争いに敗れて、平安時代初期には没落したが、その役割は高橋氏と伴氏の何れかから代行を定めるとされた。… 庖丁式の流派として、高橋氏と伴氏があった。

■米について、「租」と「年料舂米」、「庸米」と「年料租舂米」
いわゆる「米」は、加工の過程で、頴稲(ワラつきのイネ)→穀(モミ)→舂米(つきまい,脱穀したいわゆるコメ)という段階を踏んでいくわけだが、古代の税制を見ると、全部の用語が出てくる。ここでは、分かり易くするために、順に「イネ」→「モミ」→「コメ」という表現を主に使いる。なお、当時の尺度では、イネ1束からモミ1斗が得られ、さらにそれを舂いてコメ5升を得たようである。
租庸調の「租」は、収穫の約3%を納めるものであるが、「2束2把」とか「1束5把」と言われるように、イネの状態で納めた。イネを出挙して、その利稲を舂(つ)いてコメにして都へ送っていた。これを「年料舂米」という。これは、コメが重いことから、海に近い22ヶ国に負担国が限られていた。
なお、これとは別に「庸米」と呼ばれるものがある。令の規定を見ると、中央の諸官司に属する衛士・采女などの食料には「庸」が充てられることになっていて、この庸は当然「米」であったと考えられている。しだいに庸調の未進がひどくなり、庸米が不足してくると、新しく「年料租舂米」という制度ができた。これは、18ヶ国を指定して一定量の租穀を舂かせて備えさせ、中央からの命令があれば、それを都へ運ばせた。18国の多くは、上の年料舂米負担国と重複している。

<七草粥>
七草粥の原型も平安時代の法律『延喜式』に登場している。七種粥といって、米、アワ、キビ、ヒエ、ミノ、ゴマ、アズキの7種の穀物を煮込んだおかゆで、宮中のやんごとなき方々が1月15日に食べる習わしだった。下っ端の役人は米にアズキを入れただけの簡略版だったが、赤い色は生命の象徴で、悪霊を祓うとされた。


延喜式と醤油・味噌
奈良時代ごろには日本で作り始められていた調味料の味噌や醤油の原型となる「醤(ひしほ)」からは、時代の移行とともにさまざまな「穀醤(こくびしお)」が派生した。その中の一つに「未醤(みしょう)」がある。この未醤が現在の味噌の祖先となり、そして「醤(ひしほ)」が醤油の祖先となったといわれている。「醤」と「未醤」とがそれぞれ異なるものであると、具体的に示した最も古い記録が『延喜式』である。これらは室町時代に入り「薄垂(うすた)れ」「垂れ味噌」などにつながり、さらには「醤油」に発展していったと考えられている。



延喜式と供御醤(くごびしお)
延喜式の書かれた時代には、液体状の醤を得るために諸味を圧搾するという方法は考案されておらず、醤を熟成させている容器の中にザルを入れて、その中に溜まってくる液体をすくうことで液体状の醤を得ていたと推測される。
延喜923年の『延喜式』には、大豆3石から醤「供御醤」1石5斗が得られることが記されており、これは発酵物から少量の醤油を採ったことを意味する。
また、延喜式に記載されている「供御醤」とは、皇族・貴族のために醸造した液体状の「醤(ひしほ)」で、黄麹菌で醸造すること・全麹とすること・もろみに餅を加えることとある。原材料は延喜式の巻三十三大膳下・造雑物(ぞうざつぶつ)法に『供御醤料、大豆三石、米一斗五升、蘗料、糯米四升三合三勺二厘、小麦・酒各一斗五升、塩一石五斗、得一石五斗、用薪三百斤』である。この記述から、醤油の祖の「醤(ひしほ)」の材料が、大豆、米、もち米の麹、小麦、酒、塩を原料として発酵させた液体状の調味料であることがわかる。供御醤の材料に入っている蘖(ひこばえ)料は、麹料(よねのもやし)=米麹と思われる。「醤(ひしお)」を作る際に用いる薪の数が大膳式下造雑物法条では、「用薪三百斤」と定められている。この薪の存在から加熱処理回を行っていたことがわかる。

この記述に従い平安時代の醤油を醸造して味わったことが、「平安時代の醤油を味わう」(新風舎/松本忠久著)にある。
この「供御醤」を財団法人古都大宰府を守る会『都府楼11号・梅花の宴』で、次のような方法で再現している。
①小麦一斗を搗精して蒸す。
②炒って磨き粉末にした大豆三升五合を①の麦飯に入れ、土中に埋めて麹を作る。
③黄色の麹がついたら2~3日干してさらす。
④塩二升五合と水八升を加えてまぜ一沸させる。
⑤これを冷まして先程の麦麹を入れ、桶に入れて日陰で保存。
⑥一日に何度かかきまぜ、およそ七十日で出来上がる。
延喜式における「醤(ひしお)」は、大豆に対して5%の小麦しか使われていないが、後世の「醤油」は大豆と同量の小麦が使われている。これは現在にもつながる原料の配合割合である。古代の液体の醤は原料からすれば「タマリ」のようなものと思える)


延喜式と未醤(みしょう)
延喜式の「大膳式下」の「造雑物法条」には「未醤量。醤大豆一石。米五升四合。蘖料。小麦五升四合。酒八升。塩四斗。得一石。」という記述が認められる。味噌の祖の「未醤」の材料が、大豆、米、小麦麹、酒、塩を原料とした固体状のものである。供御醤と同じく「未醤」の材料に入っている蘖(ひこばえ)料は、麹料(よねのもやし)=米麹と思われる。


■延喜式と酢
延喜式の「造酒司(みきのつかさ)」のところに米酢の造り方が次のように記載されている。
「酢一石料。米六斗九升、糵四斗一升、水一石二斗。(中略)酢起六月、各始、醸造。経レ旬為レ醞、並限四度」(酢一石(180L)をつくるためには、米六斗九升(124.2L)、よねのもやし(麹のこと)四斗一升(61.5kg)、水一石二斗(216L)を用いる。六月に仕込み、十日目毎にかもし、これを四度にしてなる」
陰暦六月に仕込んで10日ごとに4回に分けて醸造し、発酵期間が40日間であるとされており、原料の使用割合まで記した最古の記録といわれている。


■延喜式と酒
延喜式によると、「造酒司(みきのつかさ)」なる役所が酒造りを担当し、上納された各地の米を使い、酒部(さかべ)という専門の家柄の人々が醸造を担当していた。臼殿で仕女が米をつき、移動式の韓かまどで米を蒸し、麹殿で麹(よねもやし=米麹)をつくり、酒殿でもろみを仕込んでいた。
発酵の終了したもろみを濾し、この酒に、さらに蒸米と米麹を入れて再発酵させ、再び濾すという「シオリ」法「造酒司に、“醸造,旬ヲ経テ醞(しおり)卜為ス”とある」でつくられる「御酒(ごしゅ)」。あるいは 水の代わりに酒を用い、こうじの量を多くし、甘味を強くした「醴酒(れいしゅ)」。毎年、秋の新嘗祭の節会酒として、水を少なくし、濃厚甘口とした「白酒」。それに久佐木(くさぎ)の灰を加えた「黒酒(くろき)」。その他、麦芽も併用した「三種槽(さんしゅそう)」。もろみを臼で磨った「すり槽」等、10種類にも及ぶ酒が記されている。
※:「造酒司(みきのつかさ)」とは、皇室の御用に供する酒・「醴(あまざけ)」、および酢などを醸造し、宮中の節会(せちえ)・儀式の際に、酒を供奉することなどの仕事を司る役所であった。


■延喜式と漬物
漬け物は、奈良時代には登場していた。延喜式には塩漬け、醤漬け、酢漬け、粕漬けなどが記載されているが、上流階級など限られた人々に食べられていた。 『延喜式』内膳司漬年料雑菜条によると、春には蕨(ワラビ)や芹(セリ)、蕗(フキ)、瓜、薊(アザミ)など、秋には冬瓜(トウガン)や蔓菁根(カブ)、茄子(ナスビ)といった野菜の他、桃子・柿子・梨子など果物も漬けられていた。
・「醤漬瓜九斗。 料塩、醤、滓醤各一斗九升八合」
・「醤漬冬瓜四斗。 料塩八升八合、醤、滓醤、未醤、各一斗六升八合」
・「醤菁根三斗。 料塩五升四合、滓醤二斗五升」
・「醤茄子六斗。 料塩一斗二升、汁滓、味醤、滓醤各一斗八升」

以下は、全日本漬物協同組合連合会「漬物の歴史」より一部を引用したもの。
○「奈良時代の多くの漬物を、総合的な製造法として示したのが、醍醐天皇の延喜5年に編集が始まり、25年目の延長8年(930)に進献された延喜式です。延喜式には塩漬、醤漬、糟漬、楡木(ニラギ)、須々保利、搗(ツキ)、荏裹(エツヅミ)の7種類が記載されています。」
○醤漬(ひしおづけ):「延喜式には、鰒(あわび)や鮒、鰯などの魚介類の「醤(ひしほ)漬け」と思われる食品の名前が見えることや、長屋王家跡から出土した木簡には「醤漬けの瓜(うり) や茗荷(みょうが)」などの記述がある物が発見されている。こうしたことから、古代の「醤」は液体状のものと粘体状のものがあったと考えられる。醤漬は醤、未醤、滓醤のような「ヒシオ」、すなわち現在のたまり、あるいは味噌類似のものに野菜・山菜を漬けたものです。瓜、茄子、冬瓜が出ていて瓜9斗に塩、醤、滓醤各1斗9升8合の配合と記載されています。
この醤漬は、タイ・アユ・アワビなどの水産物の漬け込みが初期の頃行われ、野菜はかなり遅れ、現在の味噌漬の主力である大根は、平安朝中期以降で後冷泉天皇(1045年)の頃の藤原明衡日記に『香疾大根(カバヤキ)』というのが見られるまで出てきません。」


■延喜式と寿司
古代の殺生禁断令(肉食禁止令)による動物性タンパク摂取の観点から、肉の代わりに魚が重視され、最も典型的な形で米と魚の食文化が発達していった。『延喜式』(927年)には、各国が鮨を税として納める規定があり、伊勢の鯛鮨、近江・筑紫の鮒鮨、若狭のアワビの甘鮨、讃岐の鯖鮨などが朝廷に献上された。この鮨は、魚や肉を塩と炊いた飯のあいだに浸けて「めし」を乳酸発酵させ、魚や肉が白く酸味を帯びたものを食べる熟鮨(なれずし)を指す。いずれも肉や魚を保存することが目的であり、コメは食べずに肉や魚だけを食べ た。
現存する近江の鮒鮨の製法は、フナを数十日のあいだ塩漬けにして塩抜きしたのち、桶にフナと米飯を交互に詰め、重しをして 一、二年置いておくという簡単なものである。交通機関が未発達な古代において、生鮮食材を遠くまで輸送するには、長期保存に耐えるような工夫が必要になったのである。

「すしの食文化」東京家政大学博物館紀要 第4集から以下を引用する。
「平安時代、『延喜式』(967年成立)の主計の章に、すしを貢納すべき国とすしの種類が並んでいる。それらの国は九州北部から、四国北部、中国地方東部、近畿、東海と北陸の一部にまで広がっている。すしの種類はアユ、フナ、雑魚、サケ、アメノウオ、アワビ、イガイ、ホヤ、イノシシ、シカなどである。漬け方の細かい部分は分からないが、租税として都に集められ、親王、内親王、内舎人(うどねり)に至るまで決まりに従って分配されたとある。かなり保存のきくなれずしと思われる。」


■延喜式と麺
延喜式による小麦粉と米粉に塩を加えて作る麺の索餅(さくべい)は、うどん、素麺(そうめん)の原型と考えられている。うどんは切り麺だが素麺は延ばす事によって細くつくることができる。小麦粉の練り粉をねじって揚げた索餅が約千年を経て素麺になったという。
索餅とは、奈良時代初期から食べられていたわが国最古の麺で、和名で麦縄(むぎなわ)とも書かれた。いまのところ、天武天皇の孫・長屋王の邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が、もっとも古い記録である。もともと索餅は古代中国の後漢(25~220年)や唐(618~907年)の文献にたびたび出てくる言葉で、日本へは唐代に伝えられたとされている。


延喜式』巻三十三、大善下には、「索餅料」として材料と必要な道具類が次のように列記されている。「索餅料 小麦粉一石五斗、米粉六斗、塩五升、得六百七十五藁。手束索餅 亦 同。」とあり、索餅は小麦粉七、米粉三の割合で混合して作られていた。
『延喜式』巻三十三、大善下の「年料」には、索餅を作るための材料・道具類が記録されている。「小麦三十石・粉米九石・臼一腰・杵二枚・篩三十二・ほとぎ十六・紀伊塩二石斗・調理台八脚・刀子四枚・竹百五十株・乾索餅寵十六。頭巾・前掛け・自衣・したみ。」
これらから索餅の作り方を推考すると、
①小麦粉に米粉と塩を混ぜてよく練る。(明注:『延喜式』の記述に従うと、小麦粉・米粉・塩の割合は 100:30:9 または 100:40:3)
②できた生地を布に包んでしばらく寝かせ、塩を馴染ませる。
③生地を薄平たく伸ばし、刀子で細長く切る。
④切った麺を更に細く伸ばして縄のように縒り合わせる。
⑤竿にかけて干す。
となる。


延喜式と平安貴族の食膳

■延喜式と平安貴族の食膳
調味料にみられる身分性 … 「醤と鼓その時代的変遷」東京大学/菊地勇次郎 から以下に引用する。
『延喜式のなかから、生物(なまもの)、熬物(いりも の)、茄物(うでもの)、韲物(なますもの)・汁物・漬物・餅菓子などの料理に使う調味料を拾うと、塩・酢・醤(ひしお)・未醤(みしゃう=みそ)・糖などのうち、塩はともかく、醤を使うことが多い。 また瀬戸内海の沿岸や畿内、山陰道など、京都に近い諸国からは、調(ちょう)として醤大豆が貢納され、平安京の東市には、51軒の醤店(しょうてん), 西市には、32軒の味噌店が開かれていた。〔延喜式〕 こうして豆醤(まめびしお)の類は、平安時代に、その効用が食生活のなかに定着するとともに、需要も大きくのび、塩・酢とならぶ調味料となったのである。
ところで平安時代の末ごろ、左大臣藤原頼長が記した日記、台記(たいき)の仁平二年(1152)二月二七日の条に御息所方(みやすんどころがた)の大饗(だいきょう) という宴のようすを記したなかに、その日の酒肴について、主客のまえには、台盤(だいぽん、現在のテーブル)のうえに、餲餬(かっこ)以下の唐菓子四種、梨以下の木菓子(くだもの)四種、雉・鯉など四種、飽(あわび)など四種と細螺(さざえ)など四種に分けた生物を調え、箸(はし)と匙(さじ)をそえたわきに、小窪器(こくぼうつわ) と呼ぶ容器に「塩・酢・酒・醤」を入れておいた。



この四つの調味料の容器を四種器(よぐさもの)というが、陪膳(ばいぜん=はいぜん)のまえには「塩・酢・醤」それ以下の人々のまえには、「塩と酢」だけをおいたと記している。 当時の貴族たちは、めいめいに箸と匙を使って、まえの料理を、一枚だけ空のままでおかれた皿にとりわけ、四種器の調味料で、好みの味にあえながら食べたが、主客と陪膳や身分の高下によって、四種器の内容には違いがあったのである。 そうしたなかで、もっとも略されても、塩と酢だけが残されたのは、この二つの調味料が、基本の味で、欠かせなかったからである。 とすれば、「酒と醤」は、それ以上の味ということになる。』


■「日本の米と食文化/香西みどり」から以下を引用。
『日本料理の形式は時代とともに変化してきた。平安時代にみられる「大饗料理」は宮中貴族の饗宴に用いられた宴会料理で、中国の影響を大きく受けている。(略)調理においてはだし汁をとったり調味料で煮るということはなく、各自が塩や酢で味付けをしていた。そのため調味料が別皿になっており、その調味料の皿数も身分によって異なっていた。
身分が高ければ、塩、酢、酒、醤の4種であるが、少納言や弁官以下、主人などは塩と酢の2種のみであった。平安時代に藤原忠通が1116年に行った大饗料理の台盤上の様子が記録に残されており、献立内容は飯、調味料、生もの、干物、唐菓子、木菓子(果物類)で調味料は塩、酢、酒、醤(ひしお)であった。
このときの家主の食卓は客よりも簡素で、皿数は8皿程度で客の1/3くらいしかなく、調味料は塩と酢のみである。(略)大饗料理にみられる食器については各料理を盛り付けた容器の大きさがほぼ同じで、主菜、副菜のような料理の序列が明らかでなく、調理法も素材をそのままか簡単に加熱した程度のものである。』


■平安貴族の宴会料理
以下の引用文献[金猫堂-歴史百話]
『平安時代後期1116(永久4)年の貴族の宴会メニューが伝わっている。主人公は藤原忠通が関白太政大臣藤原忠実の嫡子として若干19歳で大臣に列したことを祝う「任大臣大饗」(初めて大臣に任じられたことを祝賀する饗宴)の献立である。
献立は「正客」「陪席の公卿」「少納言弁官」「主人」の四段階に分かれており、分析の対象になったのは「正客」である。料理は「唐菓子」「水菓子」「生物」「干物」に分かれている。ではその内容を見てみよう。

永久二年任大臣大饗の献立




唐菓子四種は
「餲餬」(かつこ):餲は蚕のことで、小麦粉を繭の形に練って揚げたもの。
「桂心」(けいしん):餅で木の枝の形を作り、先端に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの。
「黍臍」(てんせい):油で揚げた餅、中央がくぼんだ形をしている。
「饆鑼」(ひら):手の形やアワビの形の煎餅。
水菓子四種は
「獼猴桃」(さるなし):径2-3cmの球形の漿果。野生の果実を採取して食用とした。キウイフルーツの原種とも考えられている。
「小柑子」(しょうこうじ):酸味の強い小型のみかん。
「干棗」(ほしなつめ):棗は日本では栽培されていないので、野生のものを採取して乾燥し、主に薬用とした。
「梨子」(なし):直系5cmくらいの小型の梨がこの時代すでに栽培されていた。
干物四種は
「蚫置」(あわび):つまり干しアワビのこと。
「蛸」(タコ):読んで字のごとく干したタコ。
「鳥干」:鴨肉の干物であるらしい。
「楚割」:薄く切った鮭の干物。

そしていよいよメインディッシュとも言うべき「生もの」である。ここには16種類の食品が並んでいる。
左の膳の「貝蚫」はアワビ、「栄螺子」はサザエ、「白貝」はハマグリ、「石陰子」はウニの一種と考えられている。右の膳の「蠏蜷」はカニ、「雲丹子」もウニ、「小丹子」はキシャゴ(小さな巻貝)、「石華」はトコロテンであるという。ここまでは、みな肉でも魚でもない。中央の膳の「海月」はクラゲ、「老海鼠」はナマコ、ここまでは貝と海辺の小生物である。そして「蝙蝠」と「モモキ,コミ」、すなわちコウモリと鳥モツである。
ここではじめて獣肉が現れる。「鯉膾」 「雉盛立」 「鱒盛立」「鯛盛立」は読んで字のごとく、鯉のなますと、おそらくは焼いたキジと鱒と鯛である。28品目の料理の前に並んでいるのは、四種の調味料、塩・酢・酒・ 醤と飯(おそらくは白飯)、そして箸と匙である。』


江戸料理における醤(ひしお)と鼓(くき) … 「醤と鼓その時代的変遷」から引用・編纂。
『味つけは、各人が食繕で行なった平安時代の習慣が、中世のうちに調理中に味付けしてしまう仕方に変わるとともに、醤や鼓の姿がどのように変わって江戸から現代まで伝えられてきたか。万葉集の巻一六に、誰の短歌とも知られずに、 酢・醤(ひ しお)・蒜(ひる)・鯛・水葱(なぎ)を詠める歌と題された「醤酢(ひしほす)に、蒜揚(ひるつ)き合(あ)へて、鯛願ふ吾にな見えそ、水葱(なぎ)の奨(あつもの)」(醤と酢に蒜を混ぜて鯛を食べたいと願っているのに、私に見せるな水葱の羹など,羹は汁の意)と、奈良時代の食生活をうかがわせる一首が、ひっそりと収めてある。この歌に詠まれている「醤」はもろみのようなもので、しょうゆの原型といわれ、その醤に酢を合わせたものが「醤酢」で、当時は高級な調味料であった。

「料理物理」の万聞書(よろずききがき)には、正木醤油の製法について記され、また江戸時代中ごろの「和漢三歳図会」巻一〇五 造醸の部に、大豆鼓(だいずくき)について、鼓は調味料として用ひず、味噌や醤油が、それに代わったと記されている。
それは、中世に調理法が大きく変わり、味噌が、精進物の域を越えて、酢・酒と並ぶ調味料になり、近世の初めには、醤油と砂糖が広まるとともに、江戸時代には、遊民となった武士や富を貯えた町人たちが、衣食住に数奇を凝らしたので、調理には工夫がこらされ、しだいに精緻になったからこそ味噌や醤油が主役になったのである。

たとえば、鰹の出汁を前だしと後だしに分け、だし溜さえ活用するなどの工夫を重ねたすえ、「新撰庖丁梯」に調烹諸煮汁法として 「古へは下地 ・甘湯などの名を呼り、今はだしとのみいふ」 とあるように、鰹の出汁の甘さと渋さを生じ、出汁で味の濃淡を調える仕方などは、いくつもの調味料を段階を重ねて使う調理法のなかでは、効果の少ないものになり、五味調和の鼓や醤の効用は、忘れられてゆく。
だから、豆腐一品で百種類の料理を考えた「豆腐百珍」など、いろいろと食品の性質を活用した百珍類の料理本にさえ醤を使った例は少く、料理に季節感を盛り込むのに、香辛料に工夫 しても、醤や鼓を思い出すことも少なかった。まして江戸時代の後半に、関東で味醂を使うことが多くなると、味醂だしさえ考えられて、古い調味料の影(醤や鼓)は、いっそう薄れていった。』


延喜式と肉食禁止令(殺生禁断令)

江戸時代初期では、徳川綱吉によって「生類憐れみの令」(1687年)が発布され、あらゆる生き物の殺生が禁じられた。このように長い歴史のなかで殺生禁断令は幾度も発布され、肉食禁忌の浸透を促していった。
一方、物忌(ものいみ)令については、平安時代の「延喜式」(927年成立)にも、宮中に神事がある際、獣肉を食べたものは3日間参内できないという禁制があった。獣肉の六畜(ウマ・ウシ・ヒツジ・イヌ・イノコ・ニワトリ)の肉を食べた者は3目間物忌み(一定の期間、飲食・行いを慎み、心身を清めて家にこもること)するよう規定されている。
この時代には獣肉に対する穢れの意識が強まり、肉食が物忌みの対象となったと考えられている。しかし、対象は六畜の肉に限定され、シカなど主要な狩猟動物の肉は含まれていなかった。このことは、「延喜式」の「内膳司」の節料に、『近江国元日副進猪鹿(近江国は元日に猪・鹿を副え進れ)』とあるのに合致するので、その頃はまだ猪、鹿肉が使用されていたことが分かる。

「江戸時代の食文化は多岐にわたるが、『日本書紀』第29巻には、天武天皇4年(675)4月17日に諸国に詔して「今後、漁業や狩猟に従事するものは、檻や落とし穴、仕掛け槍などを作ってはならないとし、4月から9月までは、魚をとること、また牛・馬・犬・猿・鶏などの肉を食べることはいけない。禁止を犯した場合は、処罰かある」と記されている。この肉食禁止令以来、牛,馬,犬,猿,鶏の肉を食べることかできなくなった。しかし、猪,鹿,熊などの野獣類は禁止の対象にならなかった。」(日本食生活学会誌「江戸時代における獣鳥肉類および卵類の食文化」江間三恵子)

飛鳥時代、律令国家体制を築いた天武天皇4年(675)の五畜「肉食禁止令の詔」(殺生禁断令)でも、禁止されたのは、イノシシとシカは対象とはなっていなかった。肉を「ニク」と読むのは音読みで、日本語としての訓は「シシ」に過ぎず、イノシシ(猪)・カノシシ(鹿)・カモシシ(羚羊;れいよう)は、古来から日本人が食べ続けてきた肉であった。しかし殺生禁断令以降、次第に肉が穢れたものと意識されたところから、イノシシやシカも穢れの対象となり、基本的に口にすることは避けられていった。
奈良時代には仏教信仰が伝わり、大台・真言の両密教が貴族に重んじられ普及した。そして、殺生禁断「肉食=悪しきもの」の思想が貴族から庶民まで伝わり、平安時代の後期には貴族の饗応食から獣肉食がほとんど用いられなくなった。



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