江戸時代、譜代大名とともに徳川幕府の要職に就任し、その政権の一翼を担っていた旗本たちも、維新政権の誕生により、著しい混乱に巻き込まれることになりました。

一.いち早く、維新政権に恭順をしめし朝臣となった者

二.徳川氏に従い、のち静岡藩士となった者

三.ただちに禄を離れ、民籍に帰した者

 その進む道はさまざまでした。

 慶応四年(明治元年)正月二十九日、鳥羽・伏見での敗戦、将軍・慶喜の江戸への逃げ帰りなどで、悲観的な情勢に陥っていた徳川幕府は、老中・小笠原壱岐守を通じて、「西国に知行地を持つ面々は、それぞれの知行地へ赴くことを許す 」旨通達しました。 これを契機として、西国に知行地を持つ旗本は、維新政権に帰順し始め、上田氏も江戸を離れ、近江国を目指すことになりました。




 二月二十八日に江戸を出達した上田家主従は、大総督の行軍が江戸へ向かっているのを知り、途中で出遭っては何かと差障りがあるので、宿々で待機しながら、やっと京都にたどり着くのです。四月五日のことでした。このとき、当主の上田義命はわずか十二歳 。早速、参朝して「勤皇願」を差し出しました。
 こうして、京都に滞在していた幾人かの旗
            太政官よりの本領安堵状
本たちは、五月十五日になって本領を安堵されることになるのです。上田氏が徳川家から与えられていた表高は五千石でしたが、知行所内の新田開発などで、実高は五千七百八石 になっていました。太政官はこの実高を安堵し、以後の維新政権下における序列や軍役負担の基礎となっていくのです。この時点において、京都で本領安堵された旧幕臣は、高家八人、交代寄合十六人、寄合五十五人、三千石未満旗本五十八人でした。
 五月二十八日、いまでの交代寄合、高家などの徳川政権における称号が廃止され、交代寄合以上は中太夫、千石以上は下太夫、百石以上は上士と改められました。これより、上田義命は下太夫となって、触頭・内藤甚郎、板倉小次郎の下に属することになりました。



 翌明治二年十二月二日、太政官布告は「中下太夫士以下の称号を廃し、すべて、士族、卒族と称す。禄制も相定め候」と布達しました。これで、五千七百八石の知行所を領していた上田氏も、新禄制により、百五十石の廩米受給者となり、その身分も京都府貫属士族に処せられました。さらにこの布告で家来たちの処遇について「その家来ども、三代以上相恩の者は、相応の扶助くださるべく候」とし、いままで、中下太夫に扶助されてきた家来たちを維新政権が引き継ぐことになりました。続いて、翌明治三年五月二十三日の布告で、旧主に奉公していた期間、旧禄高、戊辰戦争の出兵の有無により、年限つきの扶助金を支給し、それと引き換えに士籍を剥奪し、平民籍に移籍させられることになりました。これは、大名家臣の場合、最下位の足軽、あるいは藩士の家来(陪々臣)に至るまで、卒族廃止の際、士族に編入されたのに比べ著しい差異がありました。
 平民となった上田家旧臣たちは、旧知行地内の諸村に帰農していきました。明治七年一月調べの『服部村方印鑑帳』では「壱番屋敷上田義命、弐番屋敷潮田尚明、参番屋敷岸本政吉、八拾弐番屋敷根尾誠之進、八拾参番屋敷村井春作」とあって、最終的に上田義命に従っていた者の名前を知ることができます。



 京都府士族となっていた義命は、明治四年に大津県貫属となり、服部村で成人していくのですが、この頃より放蕩がはじまり、やがて廃嫡させられ、その家は姉とその夫が継ぐことになります。
 その後、上田家の一族は東京に居を移します。明治十五〜六年のことと伝えられます。旧幕時代の屋敷地はすでに上知してあったので、新たに駒込に土地を求め、そこに住むことになりました。そして今に至り、現在の当主で十六代目となります。