慶安二年の「軍役人数割」では、五千石の上田氏の場合、騎士五人、数弓三人、鉄砲五人、槍持一〇人、手替三人、旗指六人、侍九人、立弓一人、手筒一人、長刀一人、甲冑持四人、馬印三人、草履取一人、鋏箱持四人、茶弁当一人、馬の口付四人、沓箱持二人、雨具持一人、押足軽四人、葥箱二人、玉箱二人、五騎の口付五人、若党五人、槍持五人、具足持五人、小者五人、長持一棹四人、少荷駄五疋五人の計一〇三人の家来が必要でした。
 しかし、江戸も中期以降になると、この家臣数も相当省かれているのが通例でした。上田氏の場合も、安政三年の江戸詰め家来が六十二人、陣屋詰めが五~七人でした。その史料によれば、同姓の者 も多くいるので、これはおそらく部屋住みの者も加えているのであろうと思われます。実際、扶持していた者はもっと少なかったようです。さらに「軍役人数割」では、騎士五人とあるから馬も五頭、それに主人の馬も必要であったにもかかわらず、馬は一頭しかおりませんでした。



 上田氏の場合、家臣の役割名称は江戸中期まで、家老、
   慶応二年の昇栄武鑑 槍印や知行地、家臣名などが記されている
用人と呼んでいましたが、幕末には年寄、用人となっていました。分限帳などが残っていないので役職ごとの家臣名を知ることは困難ですが、『武鑑』(江戸時代、書店が独自に調査・編集した大名・旗本の名鑑)により、一部の重臣の名前を知ることができます。『明和武鑑』によれば「家老・根尾丈之進、用人・上坂小市左衛門、高山幸左衛門」。幕末の『昇栄武鑑』では「年寄・根尾丈之進、用人・中場仲、高山幸左衛門、藤巻信左衛門」。これにより、家臣も譜代であることがおおよそ推測することができます。 


 
 上田家の家臣団については、まとまったものはありませんが、各所で保存されている古文書類から、その一部をうかがい知ることができます。以下紹介していきましょう。

 
 出陣図巻 上田家所蔵

 いま、上田氏の子孫家には、安政年間に描かれた『出陣図

  上田家年寄 根尾丈之進

巻』というものが残っています。それには戦支度をした家臣が描かれており、さらに姓名まで記されています。これは上田家のお抱え絵師によるもので、おそらく江戸詰めの家来のみ描かれているように思えます。先頭から順にその名前を列記していきましよう。藤巻信介  高山幸左衛門  中場満之亟  岡田 貢  荒井平次兵衛  村井春作  潮田宇平次  宮本牧太  里見金吾  高山 湊  水野八十之進  高橋惣次  根尾八重八  坂井市兵衛  岡田正  高橋精一  日下部平兵衛  佐 三郎  荒川伝蔵  三嶋小兵太  高坂源蔵  北村久左衛門  岸本政吉  福川英蔵  岡田金平  上野俵三  里見十蔵  高橋元江  日下部鈺三郎  宮野久蔵  菅野泰五郎  福田吉蔵  根尾丈之進 

以上三十三名、このほか中間、小者が二十九名(名前は記されていません)、計六十二名が描かれています。  

   
兵主大社文書
 文化・文政のころ、上田家の知行地内にある兵主大社と上田家が、野洲川の簗漁をめぐって争いを起こし、その一件にかかわる文書が、兵主大社に残されています。それにより関係した家臣の名前を知ることができます。西村多三郎  里見十蔵
 同じく、兵主大社に残る文書で、上田家の衣服献納に対する礼状の草案と思われますが、宮司の井口宰相から根尾丈之進に宛てたものがあります。

  
芸州上田家文書
 もと、芸藩浅野家の国老をつとめた茶道上田宗箇流家元家に残る、弘化年間の文書により、旗本上田家の家臣を知ることができます。
年寄 根尾丈之進  上野俵三  里見十蔵  宮本辰平

  
公文録 国立公文書館蔵
 
明治維新のおり、上田家の陣屋詰め家来が維新政権に提出した文書が残っています。それには差出人として二名の名前があります。北村善次郎  臼井権右衛門

  
服部村方印鑑帳
 上田家の家臣は陣屋のあった服部村近辺に居住しましたが、明治七年の『服部村方印鑑帳』でもその名を知ることができます。弐番屋敷 潮田尚明、参番屋敷 岸本政吉、八拾弐番屋敷 根尾誠之進、八拾参番屋敷 村井春作


   木部誌
 上田家の知行地があった野洲市木部の自治会が発刊した『木部誌』によれば、通行手形(野洲市木部田中家文書)に「上田弥右衛門家来」として、次の名前があります。田中喜兵衛
 また、吉川村の庄屋らが上田家の服部陣屋に提出した口上書(野洲市吉川辻家文書)にその名前がみられます。
西村多治郎 田中喜兵衛