上田氏の起こりは、上田宗箇の十代の祖・武田七郎丸盛義が信州の上田に住んだことに始まります。この盛義の父は武田甲斐守盛信で、母は小笠原信濃守宗長の娘でした。これによれば上田氏の出自は武田氏ということになります。しかし、盛義の幼い頃に父・武田盛信が死去したため、母方の祖父・小笠原宗長に養育され、後、小笠原氏を称することになりました。



 上田宗箇の長子で、母は太閤秀吉の妻・北の政所の従姉妹にあ

    初代 上田重秀の墓

たる杉原家次の娘。 江戸幕府は、その草創期に各大名やその重臣から人質(証人)を取り、江戸城内の証人屋敷に住まわせていました。上田重秀も父が浅野家の家老であったため、その証人として、永らく江戸にありましたが、寛永九年に三代将軍・家光にお目見えして、旗本に取り立てられました。同十二年に近江国野洲郡において五千石の知行地を拝領しました。同十四年には、島原のキリシタン一揆に家来を率い参陣しています。
 重秀は後に麻布白金に臨済宗妙心寺派の寺を建立し、代々の葬地としました。寺名は重秀の名をとり、重秀寺(ちょうしゅうじ)と号されています。

 寛文元年七十歳で病死。法号は重秀寺殿穐林宗清大居士。

 妻は旧太閤の家臣でその後、浪人していた村井監物晴泰の娘。
 弟は重政といい、広島で父の跡を継ぎ、浅野家国老となり、子孫も代々、その職にありました。

 


父は堀甚五衛秀嵩、母は上田重秀の娘。母の実家の養子となって、その家を継ぎました。  延宝三年、定火消役に就任し、布衣(ほい)着用を許されました。元禄元年、御持弓頭をつとめ、同十二年に西丸御留守居となり従五位下・周防守に任じられました。 正徳三年76歳で病死。法号は知性院殿快厳禅活大居士。
 妻は、秋元隼人正忠朝の娘で秋元越中守冨朝の養女として嫁いできました。秋元越中守冨朝の男子に、絵島事件で大奥取締りのため、辣腕をふるった老中・秋元喬知がいました。実父・忠朝は冨朝の弟で四千石を領しました。
  重則には、二男一女があり、長子・義鄰は家を継ぎ、次子・忠就は戸田周防守忠春の養子となって、その家を継ぎました。一女は大坂御船手・八木勘十郎高補(四千石)の妻となっています。




 
母は秋元忠朝の娘。
 
享保三年、定火消となり布衣着用を許されました。同五年には、将軍・吉宗から佐倉野飼の馬を賜り、自ら火災の地に乗りつけたり、家士にも乗らせ、その馬力の優れたことを誇りとしました。同七年、百人組之頭に就任、同十二年、大目付となり従五位下・周防守に任じられました。享保十三年の吉宗の日光社参には大目付として供奉、同十七年御旗奉行に移りました。

 元文二年、七十三歳で病死。法号は瑞光院殿徳輝鳳林大居士。 

 妻は小普請組・水野兵部忠次(三千石)の娘、後妻は内田出羽守正衆(一万五千石)の娘。

 義鄰には、一男一女がありました。男子は十三歳で病没、女子は中奥小性・蒔田讃岐守廣蕃(三千七百石)の妻となりました。



 父は大番頭・秋元隼人正忠朝(四千石)。先代・義鄰の男子が早世したため、その養子となりました。

 元文五年、定火消となり布衣着用を許されました。延宝三年、百組之頭となり、寛延三年、西丸御小性組番頭に就任し、従五位下・能登守に任じられました。宝暦三年、西丸御書院番頭、同九年、本丸御書院番頭、明和三年、旗本の極官といわれる御留守居となりました。

 安永元年六十七歳で病死。法号は真龍院殿仁海道義大居士。

 妻は芸州浅野家国老・上田主水重羽の娘。これは義當が上田氏の血系でなかったため、初代・重秀の弟につながる家系より嫁いできたものです。

 義當には四男四女がありました。長子は義陳といい、その妻は黒田大和守直純の娘でした。上田家の嫡子ですでにお目見えも済んでいたにもかかわらず、家を継ぐ前に三十九歳で没してしまいました。次男・元長は御先手・竹中彦八郎元昶(一千石)の養子、三男・義珍は母の実家に男子がなかったため、芸州・上田主水義敷の養子となりました。四男・永朝は老中・秋元凉朝の養子となっています。長女は室賀式部正馮の妻に、これは初代・重秀の次女の婚家にあたります。次女は帝鑑間詰・脇坂淡路守安親(五万一千石)の妻、四女は姉の没後、室賀式部正馮の後妻となっています。



 戸田弥十郎忠汎の次男。その祖父・戸田忠就は上田家二代・重則の次男にあたります。先代・義當には義陳という嫡子がいましたが、家を継ぐ前に没し、弟たちも他家の養子となってしまっていたため、血縁の義篤が迎えられたものです。

 安永三年、定火消となり布衣着用を許されました。天明二年、御小性組番頭に就任し、従五位下長門守に任じられました。ところが、同四年三十七歳で急死してしまいます。

 法号は少林院殿禅山厳道寿大居士

 妻は老中・堀田相模守正亮の娘。

 義篤には義茂、義實の二男がありました。義茂は家を継ぎ、義實は西丸御書院番頭・大嶋雲四郎義順(二千石)の養子となりました。

 上田氏にとって、三代から五代まであたりが一番盛んなときでした。老中・秋元氏、堀田氏とも姻戚関係にあり、就任した役職も御小性組番頭、大番頭、大目付、御留守居と幕府において重要とされるものでした。しかし、次の義茂あたりから非役でいることが多くなり、あまり振るわなくなってきます。



 母は堀田正亮の娘。

 寛政十一年、駿府御加番となり駿府に着任、文化元年、火事場見廻を勤めました。

 文化八年、四十二歳で病死。法号龍翔院殿徳翁山宗隆大居士。 

 妻は柳之間詰・森佐渡守俊春(一万五千石)の養女。実父は関播磨守政富(一万八千石)の次男関主水富昌。

 義茂に男子二人がありましたが、長男は早世し、次男・義處が家を継ぎました。




 母は森俊春の養女。

 文化七年、火事場見廻を勤め、同十一年に定火消役に就任しました。

 天保三年三十八歳で病死。法号大慈院殿機山円応大居士。

 妻は若年寄・京極周防守高備(一万千百石)の娘。

 義處には、一男一女があり、男子義苗は家を継ぎ、女子は中奥御小性・森川刑部俊迪に嫁ぎました。



 母は京極高備の娘。

 嘉永二年、中川御番を勤め、安政二年定火消役

      八代 上田豊之助義苗

となり、布衣着用を許されました。

 万延元年、四十五歳で病死。法号大量院殿雄山義剛日信大居士。

 妻は西丸御側役・森川伊豆守俊朝(六千石)の娘。

 義苗には、義路、義命の二人の男子と一女がありました。



 母は森川俊朝の娘。

 万延元年に家を継ぐも、まもなく死去。その跡は弟の義命が継ぎました。

法号清獄院殿一桐知穐大居士。



 母は森川俊朝の娘。

 明治維新を迎えたのは、十二歳のときでした。維新政権に恭順を示し本領を安堵され、陣屋の置いてある近江国野洲郡服部村に移住しました。成人して後、放蕩がたたり隠居させられ、家は姉の鏘が継ぎました。 

 重秀寺本堂 上田重秀開基の寺