旗本の知行形態には、知行取りと蔵米取りがありました。知行取りは実際に領地(知行地)が与えられ、ここから年貢を収納し、大名領に準じた独自の領内経営を行っていました。蔵米取りは領地は与えられず、幕府の直轄地から収納した蔵米の中から決まった額の米が支給されました。



  初代・重秀が寛永十二年に賜った知行所は、近江国野洲郡内八ヶ村でした。現在、守山市域に含まれる森川原、服部、立花、小浜、中主町に含まれる木部、比江、小比江、吉川の各村で、そのうち、木部、小比江は他の領主と相給でした。
 この辺りは、大名領や旗本の知行地が錯綜していた土地でしたが、拝領高が五千石、三千石、五百石というように整数で表されているのが特徴でした。別表の上田氏の知行所でも、斗、升、合まで細かい数を組み合わせて整数に仕上げていることに驚かされます。 また、幕末にはこの辺りの開発が進んで、表高に比べ実高が増加していました。上田氏場合でも天保二年の時点で、実高が五千四百四十石ほどになっており、四百四拾石の剰余がありました。軍役、助郷役をはじめ土木工事のに人夫などは、表高によって負担することになっていたので、領主、村人にとつても表高をずっと据え置くことは有利でした。そたのめ、この辺りでは新規開発された田畑を帳簿外としておく例が多くありました。

近江国
野洲郡
知行地  寛永高帳  元禄郷帳  天保郷帳  旧高旧領帳 
 森川原

555.213

555.213

555.213

555.213

服部

825.753

814.000

935.785

935.785

立花

369.328

369.328

370.324

370.324

小浜

586.250

586.250

587.470

587.470

木部の内

703.922

703.922

703.922

703.922

比江

1061.740

1061.740

1061.740

1127.346

小比江の内

164.154

182.340

182.340

182.340

吉川

733.640

744.457

1043.000

武蔵国
高麗郡     

高萩

608.207

下高萩

72.040

太田ヶ谷の内

209.866

川寺の内

46.352

野々宮の内

56.741

岩淵持添の内

253.150

 

5000.000

5017.250

5439.794

5708.756

 


 
 天保二年に吉川村が上地を命じられ、その替地として武蔵国高麗郡の内で六ヶ村、千二百四十六石を与えられました。新たな知行地は、高萩村、下高萩村、野々宮村(以上埼玉県日高町内)、川寺村、岩淵村持添(埼玉県飯能市内)、太田ヶ谷村(埼玉県鶴ヶ島町内)。これにより、上田氏の知行所は近江国に約五分の四、その残りを武蔵国に有することになりました。
 畿内・西国の旗本領は中世以来の旧家や、大名の分家など知行高の大きい旗本が比較的多く、これらのなかには藩領に準じた独自の領内経営を行うものも少なくありませんでした。



 上田氏の場合も近江国野洲郡服部村に陣屋をおき、江戸から派遣した家来と現地採用の者で、その統治を行っていました。十数年前に私が現地調査をしたときには、陣屋跡地は畑、民家、雑木林、産土神社の境内地などになっていました。そこには手水鉢、鏡石などが残されており、往事を偲ばせてくれま す。 また、近くにある法泉寺境内には上田家に仕え、この地で亡くなった家来の墓が数基残されています。
          上田家服部陣屋跡地
 



 平成二十三年三月に滋賀県野洲市の木部自治会から発刊された『木部誌』というものがあります。これは郷土史としてはとても優れた出来栄えのもので、地元に残る古文書をもとに史実に基づいて編纂されたもので、大いに評価されるべき内容のものだと思っています。
 この『木部誌』に上田家の財政事情に触れた部分がありますので抜粋して紹介させていただきます。
「御殿様御勝手向きを文化八年より御省略にて凡千三百両と決められたこと、しかし追々入用が増加し文化十三年にいたり借財が百六十貫目余になり、郷中へ引請けるよう求められた。御屋鋪御賄金は、昨年千六百両と願ったところ、辰年より千七百両と取り決めとなったことなどが知られ、領地の村々から勝手向きの簡素化を強く願っている。上田氏も他の旗本の例に漏れず、財政事情は逼迫していたようだ。」