大名、旗本、御家人が拝領する屋敷は、おおよその広さが決められていました。五千石から七千石の旗本は、二千坪(6612u)がその基準でした。上田氏の屋敷もおそらくその程度の屋敷地を持っていたものと思われます。



 
幕末の弘化年間に描かれた『芝新銭座上屋敷』の絵図が、上田氏の子孫家に残っています。その絵図によれば、屋敷は表と奥に区別されており、その通行は鈴口一ヶ所に限られていました。台所は表と奥にあり、玄関も表だけでなく奥様用として、奥にも設けられてありました。
 表には玄関の脇に進物口があり、さらに内玄関がありました。玄関の板敷きを上がったところに十二畳の広間があり、さらに使者の間、書院、小書院、用部屋、役所などと呼ばれる部屋に続いて、殿様用の居間が設けてありました。さらに玄関に隣接して、土間の稽古場がありました。
 奥の方には十畳の居間のほか、松の間、次の間、二の間、三の間、茶の間、右筆の間などがあり、さらに奉公人の部屋が多く設けられていました。湯殿も二つあって、上と下に分けてありました。表に比べて、奥の方に部屋が多く、湯殿も設けられてあるのは、表の家来には長屋などの住まいが宛がわれているが、奥勤めの女性はその多くが住み込みであったからにほかなりません。
 そのほか、家臣の長屋などが屋敷地内にあったのですが、絵図面には描かれていませんので詳細はわかりません。





 上田氏の屋敷は、初代・重秀が拝領した愛宕下藪小路にはじまり、幕末までに四度替わっています。

一.寛永十二年 愛宕下藪小路(現・港区西新橋2丁目付近)  初代・重秀拝領

     愛宕下薮小路 屋敷跡


二.寛文八年 愛宕下福島小路(現・港区虎ノ門2丁目付近)  二代・重則拝領

       愛宕下福島小路 屋敷跡


三.宝暦四年 外桜田(現・千代田区霞ヶ関2丁目付近・現在警視庁) 四代・義當拝領
 寄合・土岐八左衛門屋敷と交換。

       外桜田 屋敷跡(警視庁辺)


四.文政七年 大名小路(現・千代田区丸の内2丁目付近)  七代・義處拝領
 田沼玄蕃頭御預地を長屋とも拝領、引越し料百両が下し置かれました。

  大名小路 屋敷跡


五.天保五年 芝新銭座(現・港区浜松町1丁目付近)  八代・義苗拝領
 この新銭座の屋敷は、小普請組・神尾隈五郎屋敷のうち切坪にて拝領、引越し料百両が下し置かれました。この屋敷については、下記の江戸切絵図を参考にしてください。上田家の屋敷は浜御殿(現在・浜離宮)の近く、松平肥後守の屋敷に隣接した所にありました。また、幕府の貨幣鋳造所・新銭座がそばにあったので地名として呼ばれていました。

    芝新銭座 屋敷跡


        芝新銭座屋敷 江戸切絵図と現在地の比較


 
四代・義當の時に下屋敷を拝領し、幕末まで所有しました。深川小名木川通り(現・江東区平野1丁目付近、現在その跡には深川警察署があります)にありました。このほか、幕末の武鑑では青山宿というところにもあったようですが、確認できません。
      深川 下屋敷跡