上田重秀が、徳川幕府の旗本に取り立てられたのは、重秀の父・上田宗箇の武功によるものでした。 上田宗箇は武将であるだけでなく、茶人としても有名でした。迫りくる敵を待ちうけながら、悠々と竹を削ってつくったという茶杓『敵がくれ』が、いまも茶道上田宗箇流・家元家に残されています。また、海音寺潮五郎の短編小説『万石の茶坊主』や『週間朝日』に1年間連載された、津本陽の『風流武辺』などの主人公としても知られています。



 上田宗箇は、永禄六年(一五六三)桶狭間の戦いの三年後、尾張国星崎に生まれました。幼名を亀丸、後に左太郎と名乗りました。諱(いみな)は重安。宗箇の父・重元は織田信長の家臣・丹羽長秀に仕えていましたが、 宗箇の幼い頃に亡くなり、その後は祖父・重氏に養育されました。また、宗箇は近郷の禅寺でも修行を続け、その能書ぶりが有名になり、これを聞いた丹羽長秀が、侍童として召し 出しました。十二・三歳の頃と伝えられます。
 天正十年本能寺の変が起こりました。この折、宗箇は丹羽長秀の四国征伐のための陣にあって、大坂にいました。同じく征討軍に加わって大坂城に入っていた信長の甥・織田信澄は、明智光秀の娘婿であり、光秀の旗揚げに 加担する動きがあったため、丹羽長秀はこれを攻めました。このとき、宗箇は 大胆にも従卒一人だけをつれて城中に入り、信澄の首を獲て、一躍勇名をとどろかせることになりました。



 天正十三年に丹羽長秀が没すると豊臣秀吉は、丹羽家中から八人の将士を抜擢し、自己の直臣としました。その中には後の五奉行の一人となる長束正家らとともに上田宗箇の名がありました。
 秀吉の近臣となった宗箇は、九州遠征、小田原の陣などに加わり、武人として勇猛な働きを見せ、後に秀吉より賞され、北の政所や浅野長政の妻のいとこにあたる杉原家次の娘を嫁がせました。これには秀吉が自ら媒酌の労を取ったと伝えられています。また、豊臣の姓を賜り、従五位下・主水正に叙せられ摂津の令となりました。
 この頃、宗箇の伏見の私邸には、当時一流の武人たちがしばしば訪れ、歓談したことが記録に残っています。




 
関ヶ原の戦では、旧主・丹羽長秀の遺児・長重が石田三成に
  上田宗箇着用の甲冑
呼応して、その居城である加賀国小松城で旗揚げしたため、宗箇はその応援に赴きました。しかしながら、その途上敗戦の報が入り、軍を引き返しましたが、戦後、越前にあった所領は没収されてしまい、この頃から、剃髪して自ら”宗箇”と称するようになりました。



後に紀伊和歌山に所領を得た浅野幸長に請われ、その家来となり一万石を宛がわれました。豊臣家が滅んだ大坂夏の陣では、泉州樫井の戦に敵の猛攻を阻む大功を挙げて、徳川家康・秀忠父子に拝謁を 許され、家康から「今にはじまらぬこととはいえ、このたびの働きは別して感賞に堪えず」、秀忠からは「茶の湯の業はなんと仕りたるや、さてこの度の功はその方にはめずらしからずおもう」と言葉を賜りました。というのも、宗箇と家康・秀忠父子は、太閤の時代から面識があり、秀忠とは互いに私邸を訪れあい歓談した仲でした。 これが布石となって、後に長子・重秀が徳川家に召し出されることになるのです。
   この後、宗箇は浅野家の広島移封に従い、彼の地で一万七千石を与えられ、以後、子孫も代々国老として仕え、明治維新後は男爵に叙せられました。




 宗箇の完成した武家茶は、江戸期を通じて浅野家中に伝えられ、今も”上田宗箇流”と称して、広島県を中心に多くの門人がそれを学んでいます。現在の家元は十六代で宗冏と号されています。
 上田宗箇流の茶道教室は広島、岡山、山口などをはじめ、京都、大阪、奈良、和歌山、東京などで開設されています。

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