過去ログ―2007年2月7日〜2月21日


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一郎先生・・・・・・。  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 2月21日(水)18時36分59秒   返信・引用
  昨年の夏、リベルさんのこのBBSで、身勝手な書き込みをさせていただきました・・・。

宮坂道夫先生のことも・・・。

 時間がゆるすなら、目を通して下されば・・・と、思います。


医療倫理学の立場からハンセン病問題を研究する宮坂道夫・新潟大助教授。じっくり読ませていただきました。 投稿者:夕焼け 投稿日: 8月 4日(金)19時33分8秒   引用
 宮坂先生の論考読ませていただきました・・・。

 多くの 提起 を、投じて下さっています。この論考からの 学び が、一市民である我々には必要なものと、考えされました。

 その前に、私がこの「胎児標本問題 」についての、主観的想いの変遷?(もしかして、当初の想いは変わっていないのかも???)について、以下に張り付けさて頂きますので、 志村さんとの問答 と、まではいきませんが・・・、この「胎児標本問題」と「藤本事件」の表面化、「公表するということの重み、重要性」を、今一度、その本質に迫ることが出来ればと・・・。

ここに、私の大好きな人物の言葉を引用させて頂きます。志村康さんの恩師といっても過言ではないものと自負しております!!


「・・・もとより、素人の私などに何かできるなどと思っているわけでなく、それはくらがりにじっとしておれず手探りするようなものに過ぎない。だが、何か真実をさぐりだす端緒になるものでもつかみ出せないものかといったのぞみは捨てきれないのだ」

増 重文  愛憎の村―藤本事件― より抜粋。
 1963年「菊池野」(菊池恵風園自治会機関誌9月号)・・・「壁をたたく音が聞こえる」 ―ハンセン病患者冤罪処刑藤本事件に再審・無罪を― 内より。

★以下の書き込み貼り付けは、時間のゆるす方・・・、是非!ご覧(一読)に、なってください!!
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傲慢、自惚れ の域は所詮脱皮できないのかも・・・、しれませんが。あえて・・・。 投稿者:夕焼け 投稿日: 8月 4日(金)19時27分46秒   引用
Re: 志村康さんとキャッチボール 23 ( No.21 )
日時: 2005/11/30 21:08
名前: 夕焼け


戯言です、そのつもりでお聞きください!

 たった今、「ハンセン病市民学会」のHP内の[2006年度 総会 ・交流集会]の中身を読ませて頂いていたのですが・・・。

 >13日のシンポジウムのテーマについて、事務局としては、「強制断種・強制堕胎・新生児殺・胎児標本作製の真相」を提案いたします。

 このシンポのテーマを読んだ時、血圧が上がるというか!?何かしら頭に血が上るような・・・、嘉子母さんの辛そうな顔が思い出され、身体に異変を感じてしまいました。私の取り越し苦労であれば!?と、感じた次第です。

 事務局の、このテーマでやらなければならない!大きな伏線があってのことだ!と、推察は?されるのですが・・・、シンポジュウムとして語り合う題材としては、些か首を傾げたくなったという訳です。

 嘉子母さん!操さん!そして、志村さん・・・、このおぞましいと思われる殺人行為を実体験されてきた方々は、果たしてこのシンポに進んで参加できるのであろうか?そのことがよぎってしまいました。

 年に一度の大きなシンポで、ハンセン病被差別化問題からの更なる人権文化を構築していく為には、この題材がどうしても必要だったのでしょうか!?・・・、配慮 と、いう言葉がよぎってしまいました。
 私だけの取り越し苦労なら、事務局の方々にお詫び・・・謝罪いたす覚悟で、あえて書き込みをさせて頂きました!!



日時: 2005/11/30 22:57
名前: 志村 康 <kiss-yo@aioros.ocn.ne.jp>


夕焼さん
 断種・堕胎・その上に大学病院に対してハンセン病の病理解剖と称して生検体を提供し大学病院との連携を図るなど、医療の名の下に様々な実験医療が行はれていた事実、医が患者のためにではなく、医のための医療行為がそこから見えたのも事実です。
 二度と繰り返されない為にも発表し、活字として残す必要があるように思います。そうしないと、やがて胎児標本が消え隔離政策が奏功し、ハンセン病が制圧されたと美化されて光田の高笑いが聞こえてくるように思われるのですが・・・


Re: 志村康さんとキャッチボール 24 ( No.83 )
日時: 2006/06/15 07:02
名前: 夕焼け


志村さん、横暴な意見だと聞き流してください!

 厚労省の統括責任者はその代表として、「謝罪」をしてくださいました。
 しかし、

 『謝罪はすれど、検視はせず』 との方針を打ち出し、丁重なる供養を実施するよう指示したと言う事が、報道で全国に流されておりました。

 私はこの胎児標本問題を 世間に問う という姿勢を打ち出した時より、「変死体」という捉え方として、刑事訴訟法に則った過去の不作為が、今の世の中・・・、社会に大きな提起としての 課題 となるべき!と、軌道修正しこれまでの考え方を改めておりました。

 今回の、「お詫び」を受け入れてしまいそうな風潮には、些か疑問を持ち合わせた朝となっています。

 当初、胎児標本にかかわる遺族の心情を考えれば、公にする前に十分すぎるほどの多種多様な方々による論議が成され、「胎児標本問題」がなぜ?起きたのか!!    が、現社会に大きな提起として問われ、市民の課題としての「問題提起」と成る筈!!が、私のこの問題を表面化することの 意義 で有りました!

 刑事訴訟法に基づいた方針が川崎厚生労働大臣の口から聞かれなかった事に、「これで良いのか?」が、頭の中を駆け巡っております!


日時: 2006/06/15 21:21
名前: 志村 康


厚労大臣が確かに謝罪をし再発について触れましたが、法を運用するものを、ハイそうでございますかと信用は出来ません。

恵楓園は以下の態度です、始めの処分昭和35年園内火葬場の最後に償却、その年月日第2回解剖室解体時の焼却年月日、第3回昭和63年までは園長室隣の解剖標本と胎児標本の焼却年月日及び処分標本の数量を納得できる証拠を提示すること。

親が判明した分については早く当事者への告示及び火葬葬儀の方法等協議し謝罪すること。特定できない分についてはDNA鑑定保存すること、カルテ及び業務日誌等は永久保存し啓発及び再発防止の学術的資料として保管すること、各園で大正4年以降昭和23年優生保護法成立前の非合法手術件数を明らかにすること、また優生保護法による
手術は県に対し届け出の義務があり、全容を明らかにした後に胎児標本を火葬に付すこと、新生児標本及び埋葬許可が必要な4月以降については殺人罪が成立する可能性があるが、刑事裁判を起こせば当然支援することになります、胎児問題が取り上げられ老人性欝等が悪化したと言うことも聞いており、慎重にならざるを得ない事もあります。


日時: 2006/06/16 03:36
名前: 夕焼け


Re: 志村康さんとキャッチボール 23 ( No.23 )からの抜粋です!


>医療の名の下に様々な実験医療が行はれていた事実、医が患者のためにではなく、医のための医療行為がそこから見えたのも事実です。<

>ハンセン病が制圧されたと美化されて光田の高笑いが聞こえてくるように思われるのですが・・・<

 上記は、私の 「Re: 志村康さんとキャッチボール 23 ( No.21 )」に対する志村さんからのお言葉です。

 この時点をきっかけに、私の胎児標本問題を表面化(社会・市民に問うことの意義を見つめていくということ)することとは?を、“己に問う”ていたように思います。

 ただの一市民でも、胎児標本問題は他人事ではない!と、いう意識が芽生えたのもこの時期ですし・・・、
ただ菊池先生の仰る『惻隠の情』があるのか?ないのか?については自己判断できずにいます。
 しかし、先生が厚労省に対しての『惻隠の情』を投げ掛けているとするならば私は断固「その必要があるのか?」と、逆に問うてみたい思いです。

 私の一義的な見方なのかもしれませんが、昨年度よりのこの胎児標本問題に対する国側の、17年度内に全ての遺体を供養というなのもとで「処分」するとしか思えない打診には、疑念を持ち合わせておりました!
 しかも、検証会議最終報告書要約版の
提言1  厚労省は関係当局に検視の申し出か異状死体の届出をするよう意見を述べるべきである。

 に対し、厚労省は早くから「検視の申し出などは『事件として立件できる見込みがない』と判断して行わない」と、幕引きを示唆していたように思えます。

 この点も、どうして国側の意向を知りつつその対応が出来なかったのだろうか?が、圧し掛かってきています。「事件としての立件」という問いを、素人の域は出ないまでも、考えていきたい思いです!


日時: 2006/06/16 04:48
名前: 夕焼け


800字をオーバーしてしまいました。読みづらいでしょうが、2つに分けました!

 >>続きです。

菊池先生! 一市民は知らないことが多く有ります。ある意味、先生のお蔭で、私自身は知識を修練するチャンスに恵まれているようです。
 それから、先生のお言葉で、被害者・・・、「当事者」という言葉でなく「被害者」という捉え方が私と共通していたことを、嬉しく思っております。

 先生!この「ハンセン病被差別化問題」の解決は、何を持って 解決した と、言うのでしょうね!

 私は、この胎児標本問題はもとより、この「ハンセン病被差別化問題」の『被差別化』の論点に、○本松夫さん、『F事件』を据えております。しかし、この事件を未だ『F事件』、本名が公に出来ない!などの諸事象を鑑みた時、「世間の問題である!」と、いう捉え方が出来ないでいる我々市民の資質如何である!というところまでは察しているつもりです。世間の理解、社会の理解があれば、「F事件」にする必要も無いのでは?と考えるからです!
 どうも「草の根的な啓発活動しかないでしょう?」と、言う多くの有識者の言葉には 疑問 を感じている自分がいます
「悪いことは悪い!」「いけないことはいけない!」と、言えない社会風土に些か 教育システムの疲弊 なるものを感じていますし、個の尊重と共に、社会で活かされている事の尊重も今以上に、投げ掛けるべきではないか?と、思っているからです!


日時: 2006/06/16 17:21
名前: 菊池 一郎 <GAH03306@nifty.ne.jp>


夕焼け様

 惻隠の情はもちろん、被害者に対してですよ。厚生労働省に対してでは ありませんよ。
 ということで、私はどうも、自治会から怒られそうなことを書いています。

 PTSDを調べていただき感謝します。なお私の意見は 「わかれのやまい」(菊池野)に書いています。手元にないので、何号か忘れました。
 


夕焼け様  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月21日(水)17時17分44秒   返信・引用
  夕焼け様

 お元気で書いておられるようでなによりです。
 短くコメントしたいと思います。

 ●熊本の市民学会でフロアから発表されたものは、極めて重要なことであったが、年報には掲載されていない。また、2006年の年報にもそういう動きがあった?なら、掲載されるべきであると思う。

 ●「胎児標本」問題を考えるためにー生命倫理の視点からー 宮坂道夫教授の文献は重要と思います。(年報2006) 先生は「パターナリズムに基く性の管理」を考えておられるようです。遺体をモノと考える西洋より、中絶や新生児殺は特別に弱者にたいして配慮すべきであると書かれているが、最終的な倫理的、法律的な判断はなお問題があるようです。倫理学を専門とする先生のご意見は貴重です。

 ●年報2006年116ページ。「まさにハンセン病療養所の医師たちは「悪魔の飽食」だったのです。胎児標本問題にたいする、最も手厳しい意見です。しかし この文章に抗議します。以前書きましたが、悪魔の飽食の3部作(昭和56年ー58年)を再読しましたが、この文章は当てはまりません。

過去ログ再読  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 2月21日(水)15時57分32秒   返信・引用
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議論の飛び火 投稿者:おせっかい 投稿日: 9月22日(金)08時53分50秒   引用  編集済
[42386] Re:[42324] 無題 投稿者:きゃっしー 投稿日:2006/09/22(Fri) 06:40


> 話題にしたかったのはね
>
> 薬害エイズも、薬害肝炎も、ハンセン病問題も、みんな同じだ
>
>
>
> ってことね



薬害エイズ、薬害肝炎、ハンセン病問題、これらは共通項が重要だけど
薬害じゃないエイズ患者も、薬害じゃない肝炎患者もおる。
そういう人たちにとっては、総理大臣が控訴断念するとか、
「勝訴」の紙切れを掲げる姿が華やかに報道されるアテはない。

「水俣病の場合、(原因は)明らかに国の失政。
皆さんは何も恥じることはない。堂々と生きてほしい」

これは、胎児性水俣病の患者たちがある療養所を訪れた時の
入園者さんのことば。原告の人だね。

んじゃ、国の失策じゃない先天性の疾患や障害は恥じなきゃなんないのか、
なんてツッコミを入れるつもりはないけど、

いかんのは、おんなじことをうちらがやってしまうことじゃないかな・・・

ハンセン病患者も元患者も差別をする。していた。
今もしている。そんなのあたり前。
偏見の固まりみたいな人もいる。それもあたり前。
だけど、やっぱ、ハンパじゃない被差別体験を生きてきたから
ご破算というのか、免罪符というのか・・・変だけど
そうやって許されてる面はあるかもしんない

うちらまで免罪符が出るわけじゃないのに
知ってるつもりの人間ほど、つい代弁をしてしまうだよな。
気がつくと、錦の御旗を振り回してる。
とにかく伝えろ伝えろと刷り込まれて来たし。
庇ってるつもりかもしらんけど。それもしょうがない。

けど、そういう時に、訴える相手のない、遺伝性や、先天性の
病気や障害があって、ギリギリにがんばってきた人にしたら、
堪えていた水風船みたいな感情が
プスリと針を刺されたようにこぼれ出して行くだよ

華やかな報道を横目でじっと見ていた身にしてみたらきついだよ・・・

ハンセン病にも時間がないけど、
あせび会がカバーしている疾患のほとんどが、平均年齢80歳には
ならないんだよ・・・

長年、ハンセン病患者にも寄り添って、活動もしてきた人なら
なおさら、
裏切られたような気持ちになるのは無理ないと思う。
その口惜しさを、末利光の本が癒してくれたんだろうね・・・


だからそんな本が間違って賞賛されることがないように
せめて、うちらが心配りをしてかなきゃいけないのかも。

心配りってのは、北風さんが「目配り」とか書いてあって
それで思いついただけなんだけど

ハンセン病患者もうちらも、社会の中で進行形で生きてるんだから、
世の中との繋がりを無視して、内輪で自慰してちゃいかん。

佐藤さんみたいな人をあっちにやっちゃ、いかんよ。


もう1年以上も過ぎてしまったたけど、
熊本の市民学会でNさんがあの手紙を出してくれたことを
もっと大事にしなくちゃいけないんじゃないのかな・・・

そうそう、Nさんという名前は、あとから人伝てに聞いた。
伝わってきたということは、他にも心にとめた人たちがいて、
ささやかにでも語り続けられているってことかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑は、「過去ログW」2006年9月22日“おせっかい”さんによる“きゃっしー”さんの他BBSからの転載投稿。
佐藤さん→稀少難病者の会「あせび会」 
http://www.asebikai.com/
 


「知る」という行為にも・・・、  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 2月21日(水)07時04分32秒   返信・引用
   「どこまで、何を知っているのか?」ということも問われているのかもしれませんね・・・。

 知る行為には、その『認知度』も・・・、更に、深めていく!と、いう行為が、求められていることなのかもしれません! このことは、今回の 『映画化』問題 より、私は多くを学ばされているような気がしています。

 「胎児標本問題」が、表沙汰・公(市民学会、第二回総会時のテーマ)に出すという、その行為の前に、この問題が持つ、女性蔑視!(柳沢厚労大臣を本気で恫喝できる方々の存在は如何に?)や、限られた社会制度(隔離の中での運営)が もたらす 様々な疲弊・・・、この理不尽とも思える行為の中より生じた決して表などにも出来るはずも無い、「胎児標本問題」の個々・・・。
 「公」にするという行為が、「ただの可哀そうからの誘発、怒りの矛先が違うと思われるような示唆になってはいないか?」が、垣間見れ・・・、未だ、傍観者の域を脱し切れていない、自分の存在があります。

 公の前に、論じ合う!多くの重い提起があったように思えています。

 映画化する・・・、私には、この行為の先(評価)が、悲しくもこのことと髣髴されます・・・!

 「市民学会」・・・、私たちがつくり上げているもの!と、するなら、大きな問題が生じているようにも思います・・・・・・・・・・・・

 昨年来の「映画化」問題も、市民学会の後押しが無ければ、到底「クランクイン」など出来るはずも無かったのではないか?が、頭をもたげます。ものの見方によれば、冤罪潰し・・・、現・日本の司法上では、再審行為への抹殺につながる行為とも、とられかねません!
 このような私の「暴言」を吐かせる行為には、理解のできない「市民学会の後押し決定」という、事実があることを・・・、忘れてはいけないと、思っています。


 私には、北風さんの昨年の書き込みの中で、とても気に成っている提起があります。


>>ついでに 投稿者:北風 投稿日:12月12日(火)10時26分32秒   引用  編集済
この間のシンポジウムでのフロアからの発言に対し、終了後に(後日)その発言者の発言を非難する動きがあって、その発言者は「発言停止」を求められたという。

たとえ誤った発言であれ、関係者全員がシンポジウムの場に居たのであるからその場で指摘するべきであって、あとでそういうことをするのは、少々陰湿な感じがする。
こういうことが常態となったらフロアからの発言はなくなり、パネリストのお説を拝聴するかになってしまう。<<

 この提起です!

 このシンポ というのは、もしかして「胎児標本」問題でのシンポジュウムではなかったのではなかろうか? という思いです!

 ここで言う北風さんの「フロアからの発言」というものが、如何なるものだったのか、は?私の未だ知る由でもないのですが・・・。

 私が「市民学会」に対して初めて疑問を感じた、第一回の設立総会時の、フロアからの発言の、その後の対応と、今回のフロアからの発言からの提起に対する応対とが、重なり、そ・こ・に、本来我々の築いていかなければならない社会形態組織の最重要的要素が、内包しているように思えて成らないのです!


 「知る行為」・・・、この行為は、多くの努力と勇気からの示唆を如何に我がものとできるのか?が、我々市民に問われている気がしています。




やはり、ちょっと違うのかなあ?  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月21日(水)03時22分42秒   返信・引用  編集済
  何が違うかと言いますと、私は、自分の行為に対する弁明を「自己分析」の形を借りて、行っています。そしてそれは、同時に北風さんの「自分の問題」に対する「弁護」にもなっています。

北風さんの言って居られるのは、こういうことです。

『こうしたわれわれの内包する意識(知りつつ放置してきたこちら側の子どもや被害女性への責任)も問題にしつつ、もっともっと権力の責任を追及すべきだと思います。というか、それ(知りつつ放置してきたこちら側の子どもや被害女性への責任)を抜きに徹底した権力側の責任、再発防止(つまり、そういうことを起こす体質)を追求することは出来ないのではないかと思います。』

必ずしも「自省」に終始している訳ではない。そういう反省を肚に据えた上で、そうしてこそ初めて可能になる「本質に迫る追求」をしようという、前向きの呼びかけなのではないか。

「弁明のための分析」は、気に食わねえ!との声が、聞こえて来るような、来ないような・・・?
 


北風さん、遅くなりました。  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月21日(水)02時32分13秒   返信・引用  編集済
  北風さんの二度の投稿を、先ず再掲載します。

胎児標本の存在は「裁判の過程」あるいは「検証会議報告書」で明らかになったわけではなく、みんな暗黙のうちに知っていた。詩や短歌にもうたわれているし、趙根在さんの写真にも撮られている。外部の人間でも知っている人は知っていた。少なくとも小生は70年代の終わりか80年代の初めには知っていました。

しかし、僕も関係者もこれに対して声を上げなかった。ある種の遠慮もあったけれど、意識の未熟さ低さは、自己批判されなければならないとおもう。知りつつ放置してきたこちら側の子どもや被害女性への責任。これを抜きに、園や厚労省の対応ばかり非難しても、この問題の真の意味を問うこと、本当の解決にはならないのではないか。
端折っていえば、こうしたわれわれの内包する意識も問題にしつつ、もっともっと権力の責任を追及すべきだと思います。

というか、それを抜きに徹底した権力側の責任、再発防止(つまり、そういうことを起こす体質)を追求することは出来ないのではないかと思います。



今日も、ICレコーダー片手に、考えながら歩いていました。北風さんの投稿は、キッチリ頭に入っていたので、印刷して居らず、再生しても、いつものような、紙のクシャクシャ音は聞こえてきません。バス停で、20分バスを待つ間に、「アンドレア・シェニエ」の歌詞の裏に、メモを書き付けました。今、読み返しました。少し読み辛いところもあるのですが、敢えてそのままを写します。

(投稿後読み返して、追加投稿です)北風さんは、冷厳な自省の言葉をお書きになっている、と同時に、みんなに呼びかけてもいらっしゃる。私はそう受け取って、自分に向けられた言葉に対する、返事或いは反応、という形で書いています。それを、一応お断りしておかないと、お読みになり難いかと・・・。


『私が、ハンセン病に関心を抱いて、取り組みを始めたのは、2000年の夏だったと思います。北風さんご指摘のように、当初から、この問題に出会いました。写真も見ました。その時、これは何事かと怒り、何とかしなければいけない、とは全く感じませんでした。これはいったい何なのか?それが、今になって、やれ厚労省だと騒ぐのは、それはおかしいぞ。「違和感を感じる」と言われても、一言もありません。

しかし、私には不思議に後悔の念が湧いて来ません。これは何なのでしょう。

事実を「受け止める」ということには二段階有ると思います。先ず事実を「知り」、それから「考える」、という二段階でしょう。(先ず事実を「認識」し、次に「思考・分析」するという意味です。これは只今注釈を。)「受け止める」際には感性と、勉強や、蓄積された経験が働きます。そして、それを土台にして、「知った」事実を「考え」、分析するのだと思います。「知る」段階で未知で未経験であった者が、どう分析し、対処できるのか?これが北風さんの問題提起の根元であり、「違和感」の発生源ではないでしょうか?

だからやむを得ない、と言ってはいけません。これまでに気付き、対処する機会は何度もあったのです。これは緊張感の不足によるものです。その点を深く反省致します。

志村さんがポツリと呟かれた言葉を思い出します。「オタク」と。この言葉を、「所詮は部外者だ」と私は受け取りました、前後関係から。(「志村さんとキャッチボール」2月5日19:10」)その通りでは有ります。ただし、私はこれを「恥」とは思っていません。』

以上が、殆どメモのままです。「」を追加したくらいで。


これが、北風さんの仰有っていることの、真意に沿ったものであることを、願っております。もし、そうでなかったら、ご遠慮なさらず追求なさってくださいよ・・・。(この敬語の使い方、少し違う気がします。求む訂正)
 


そういう読み方は本位ではありません。  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月20日(火)19時35分54秒   返信・引用
  僕は、自分の問題として書いた。
かつて、その問題を知りながら、声を上げなかった自分の問題として書いたのであって、施設の元管理者に「同意」してもらうために書いたのではありません。

これだけは誤解のないようにしていただきたい。
 


Re:一つの違和感  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月20日(火)19時13分40秒   返信・引用  編集済
  たしかに 違和感があります。

「回春病室」では、自分が自費で預けていた患者さんの子供もいたのに、また、夫婦生活が重要だと考えて光田健輔が そういうことになったのか、sex segregationを唱えた宣教師がおられます。と思います。その後の変節の歴史が重要でしょう。A study of history を著したArnold Toynbee は歴史は繰り返さないと 述べました。人々は歴史から学ぶからだというのですが、私にはちょっと疑問があります。必ずしも人々は歴史から学ばないからです。

 また奄美大島の福祉の父 ゼローム神父 もおられます。(前に書きました)
  前略 「あなた方は子どもたちをおろしてはいけません。皆にたいする責任は私達がもちます。」カナダ出身の管区長より、手紙が届いた。そしてフランスの総長より手紙が届いた。そしてシスター達がこられ全責任を引き受けた。これが天使園の開園です。

 牧野正直園長(邑久光明園)が同じ問題について 新聞で語っておられるので紹介しましょう。

 2月20日付け熊本日日新聞朝刊のコラムにでておられます。5段カラー写真付きですから大きい扱いです。

 胎児標本問題について;>6つの施設に計114体の胎児標本が残っていたが、研究に活用された形跡がほとんどなく、無目的に保存されていた。当時の療養所内の倫理観の欠如を象徴している。光明園では49体のうち28体の身元がわかり、数体を親に返すことができた。一方では親がすでに亡くなっていたり、重い認知症を患っていたりする例も多く、もっと早くこの問題について手をつけておくべきであった。残念でしかたがない。光明園では昨年十月に慰霊祭を執り行い胎児を荼毘に付したが、これで終わりではない。園に残るカルテを洗い直し、光明園で何が行われ、この子たちがなぜ命を奪われなければならなかったのか、検証を続け、原因を明らかにしなければならない。<
 


Re: ひとつの違和感  投稿者:匿名希望  投稿日:2007年 2月20日(火)14時30分7秒   返信・引用
  > 端折っていえば、こうしたわれわれの内包する意識も問題にしつつ、もっともっと権力の責任を追及すべきだと思います。

というか、それを抜きに徹底した権力側の責任、再発防止(つまり、そういうことを起こす体質)を追求することは出来ないのではないかと思います。
 


ひとつの違和感  投稿者:匿名希望@北風  投稿日:2007年 2月20日(火)10時33分12秒   返信・引用  編集済
  胎児標本の存在は「裁判の過程」あるいは「検証会議報告書」で明らかになったわけではなく、みんな暗黙のうちに知っていた。詩や短歌にもうたわれているし、趙根在さんの写真にも撮られている。外部の人間でも知っている人は知っていた。少なくとも小生は70年代の終わりか80年代の初めには知っていました。

しかし、僕も関係者もこれに対して声を上げなかった。ある種の遠慮もあったけれど、意識の未熟さ低さは、自己批判されなければならないとおもう。知りつつ放置してきたこちら側の子どもや被害女性への責任。これを抜きに、園や厚労省の対応ばかり非難しても、この問題の真の意味を問うこと、本当の解決にはならないのではないか。
端折っていえば、こうしたわれわれの内包する意識も問題にしつつ、もっともっと権力の責任を追及すべきだと思います。
 


胎児問題について!  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 2月20日(火)01時48分9秒   返信・引用
  6体の胎児標本の件で舌足らずで誤解が生じないように再度書き込みいたします。

私が言っている事は、再度厚生労働省宛に要請書を出すなりまたは行動を起こすことはないのか問いたいからです。宗教部会では、以前奄美和光園の宿泊所拒否問題を公に昨年の市民学会等で、確かでなかったと記憶してますが?私の間違いですかね。
私自身市民学会の会員ですが?いまいちすっきりしないです。
 
    (リベル) 宗教部会でなく、市民学会から厚生労働大臣に「要請書」を出すべきだと、仰有っているのですね。ルリカケスさんの仰有るとおりだと思います。「ニュース速報」にも取り上げました。(2.20 03:00)  


胎児問題について!  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 2月20日(火)01時28分34秒   返信・引用  編集済
  >非道すぎます。認識のギャップで済む問題ではないです。有川園長が悪いのでしょうか?官僚が出来損ないなのでしょうか?国の在り方が悪いのでしょうか?私は、心底、腹が立っています・・・ (;`つ´)怒!
上記の文はリベルさんのBBSです。



さてこの度「市民学会&宗教部会」から、星塚敬愛園の胎児&標本の件で、「緊急声明&要請書」が園当局に出されました。本当に真摯に考えているのなら、厚生労働省にも出すべき要請書ではないですか?と一人考えています。
今後残された6体の標本の再調査等で何か新しい考えはないのか、これで最後の胎児が荼毘に付された後で、何を国求めるか?或いは身元が解るまで、6体の胎児を荼毘に付さない様強く要請するべきではないでしょうか?私自身の考えはそれが先だと思いますが、皆さんはどう思いですか?このままでは官僚の思うままです。有川園長は前医務局長です。本省とのパイプはあるでしょう。
 


余談:脳のクオリア  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月20日(火)01時10分35秒   返信・引用  編集済
  先日も取り上げましたが、最近茂木健一郎さんのblog、「クオリア日記」も毎日のように覗いています。その中にこんな文章があって、ギクッと足を止めました。

  「英語で全ての教養を再構築する」というモットーの下に、英訳で読んでいるのだけれども

日本語では、ニーチェを完読した、と言うことか。私は高校生の時に、「ツァラトゥストラかく語りき 」を買いましたが、難しくて放り出したまま今日に至っています。教養を英語で再構築する、という話は、しかし良く分かります。凄い人だなあと、思います。痛む片腹では、どうせならドイツ語で読めよ、と呟いていますが。


話は変わるようですが、「峠の我が家」というアメリカ民謡があります。(厭な人間だなあ、今夜の自分は)原題は「Home on the Range」。

英語の歌詞はこう始まります。

  ♪ Oh, give me a home where the buffalo roam, Where the deer and the antelope play,

が、日本語の訳詞は様々で、例えばこうです。

久野 静夫訳詞    ♪ 空青く 山は緑 谷間には花咲き

龍田和夫訳詞     ♪ 空は青く 緑の野辺(のべ) なつかしの わが窓

岩谷時子訳詞     ♪ あの山を いつか越えて 帰ろうよ わが家へ


どうでしょうこれは・・・?buffaloはどこへ逃げていったのか?鹿は?羚羊は?

私の育った家の前の道路は、牛や馬の糞が、だから出来立てのが、ゴロゴロしていました。私にとってのふるさとは、だからやはり「Oh, give me a home where the buffalo roam」なのです。親友と戯れていて、べったりした馬糞を投げたら、首筋に命中して襟首から流れ込んで、泣き出してしまって、お母さんが怒鳴り込んで見えました。別の子の場合は、パチンコで絶対に当たらない筈が、小石が額に命中して、血が出て、母と謝りに行ったり、そんなことが多かったのです。

ニーチェなんか、糞食らえ・・・です。
 


F事件から”現代”を考える会の・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月20日(火)00時02分2秒   返信・引用  編集済
  「社会派映画の数々」を読みました。

100%、同感しました。

1)権力や裁判への疑問・問題点をストレートに訴えても良いのではないか?(「制作資金を確保するため、権力や裁判に対する批判を控えめにしているという感想があるようですが」)

2)「赤貧洗うがごとき」の制作費は、当初6000万円を予定していたが、4000万円以下であった。

3)「監督自身のブログで、映画の主旨や制作の苦労、迷いと決断などを正直に吐露しています。」というように、HPやblogを有効に使って、人の心を掴んだ。
こういう制作ニュースも発行していたようです。

こういうのを、中山さんや、関係者が読んで、真摯な対応を見せて欲しいです。中山さん自身の気が抜けてしまったのかなあ?と思ってしまいます。どこからも、熱気が伝わって来ないので・・・。
 


偏見の強い地域(?)  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月19日(月)20時26分43秒   返信・引用  編集済
  偏見の強い地域

 偏見が強い地域は、ハンセン病療養所などの近くである、ということは前にも述べました。
 これも偏見かもしれませんが。

 なお患者様とそれ以外の住民が渾然としている所は偏見は少ないようです。

 それに関連して、牧野正直園長(光明園)が述べられている。
      楓 2001年9月10日 (邑久光明園慰安会発行)

 療養所近辺の市町村は一つの会があり、持ち回りで会を開いている。 一つは国からご苦労さんということで特別な予算があろとのことである。
(全国ハンセン病療養所所在市町村連絡協議会という名前だそうだ。)
 その時は邑久光明園が担当であったので園長の牧野先生がその会に出席された。前に挨拶された人びとの話を聞いてびっくりされたという。

 >たった今、皆様の話を聞き、私はたいへん驚きました。私は耳を疑いました。ハンセン病の差別がもっともひどいのは、なんといっても地元であると私は思っています。私はほとんどの療養所の話を聞いて知っています。本当に皆様の言われるとおりであれば、こんな会は必要ないのですよ。地元に差別が残っていることには、いろんな理由がありますが、これは事実であります。最も強い差別は地元にあるのです<

 この話で雰囲気ががらっと変ったという。

>岡山県で問題となった小学校の副読本の問題でもほとんど理解されていません。邑久町で開かれた啓発講座でも、訳のわからない質問で出て、私達はいつまでハンセン病の啓発を続けなくてはならないのだろうか」と本気で悩んでしまいます< と、園長先生は書かれていました。2001年の話ですから、今はもっといい状態ではないかと思います。

北風様

 失礼しました。小生が知りたい女医先生に会われたとのことで、よろしかったら、教えて戴けませんか。メールででも結構ですが。
 


F事件から”現代”を考える会が更新  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月19日(月)12時04分27秒   返信・引用
  こちら「社会派映画の数々」です。未だ読んでいませんが・・・  


(無題)  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 2月18日(日)19時25分32秒   返信・引用
  DNA鑑定で親子関係を証明するためには、親が鑑定を希望し、DNA採取ができなくてはいけませんよね。(園や自治会が勝手に鑑定するわけにはいかないでしょう?)

でも、「DNA鑑定などを試みたが」と言っている。
ということは、鑑定希望を名乗り出て鑑定してもらった夫婦が何組かはいて、その範囲では親子関係が証明できなかった、ということなのかしら?
どのような手法で鑑定したかも書かれていないし、調査に関する詳細は“プライバシー保護”といえば公開しなくてもすむ(と踏んでいるのでしょうが)。
どうも…ムニャムニャ…“身元確認”をではなく、“火葬”を急いでいる、としか思えない。
 


見落とし Re: クリオン島の市長さん  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月18日(日)16時43分44秒   返信・引用
  > 一定時間調査の真似事をして、結局わからなかったということで荼毘に付すのであれば、リベルさんの憤慨する「官僚的」な対処だということになります。
> 再調査というならば、もっとも有効な方法をなぜ取らないのか。
>
http://www.christiantoday.co.jp/society-news-538.html#

DNA鑑定などを試みたが最後まで身元が判明しなかったという。同園は残り6体の身元確認を急ぎ、早急に火葬を実施する予定。
 


Re: クリオン島の市長さん  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月18日(日)15時57分15秒   返信・引用
  >
>  北風先生

先ずお願い。「先生」はやめてください。そう呼ばれるような人間でも職業でもありませんので。

>  要求に関しては、よくわかりません。
>  ちょっとうかがいますが ご本人たちは希望されているのですか。
>  もしそうであれば何とかしなくては。費用の問題もあるのかな。

「ご本人」はわかりません。「ご本人」を探す調査ですから。
しかし、今回、両親の不明な遺体を荼毘に付すことは中止し、再調査の上、三月ごろに合同慰霊祭をする予定と聞いています。

一定時間調査の真似事をして、結局わからなかったということで荼毘に付すのであれば、リベルさんの憤慨する「官僚的」な対処だということになります。
再調査というならば、もっとも有効な方法をなぜ取らないのか。

費用の問題ではないでしょうね。
 
    (リベル) 調べ方、などという技術的な方法論も追求されるべきかと思いますが、その元になる「心」がどうにも、我慢できないと思うのです。こうなのです。

>「星塚敬愛園では、葬儀・告別式を行い・・・(中略)式の中で

有川園長は

「長い間、保管してきたことを心からおわびしたい」と謝罪。

山口文夫自治会代表は

「母親の胸に抱かれることなかったあなたを、母は長い年月忘れなかったでしょう。今日を境に狭い空間を飛び出し安らかにお眠りください」

と小さな命の無念さを思いやった。」

国の代表は「長い保管」を詫びています。殺された胎児の魂は、その空疎な言葉をどう聞いていることでしょうか?(ここまで下の引用です)

この心の隔たりは、修復が不可能な域にあると思うのです。これは何を持ってきても、救い難い、救い得ないことですよね。やはりもう一度言います。「官僚」は・・・やはり止めます・・・。(2.18 17:35)
 


クリオン島の市長さん  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月18日(日)15時23分1秒   返信・引用  編集済
  2月18日付朝日新聞

 かって世界最大のハンセン病療養所があったフィリッピンのクリオン島の話題である。

 Hilarion Guia(ヒラリオン・ギアさん)はフィリッピンのクリオン島の自治を勝ち取り
 95年から市長さんである。1月下旬マニラで開かれたハンセン病回復者の国際会議でその経験を語った。
 「普通の島」になり、家族が島にいるのを隠さない人も増えた。だが、100年積み重なった差別が簡単に消えるわけはない。「少しずつ、一歩づつ進むだけです」と語った。

 北風先生

 要求に関しては、よくわかりません。
 ちょっとうかがいますが ご本人たちは希望されているのですか。
 もしそうであれば何とかしなくては。費用の問題もあるのかな。
 


両先生(笑)  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月18日(日)15時01分4秒   返信・引用
  ありがとうございました。

ではなぜ、療養所(厚労省)サイドはやろうとせず、自治会も要求しないんだろう?
いろんな問題があるのだろうけれど、希望者だけでもやったらいいと思うのですが。
 


(無題)  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 2月18日(日)14時47分22秒   返信・引用
  日本法医学会の「親子鑑定の指針」、日本DNA多型学会の指針を遵守して
信頼性の高いDNA鑑定をしている民間企業にSRLなどがある。

SRLのURL 
http://www.srl-group.co.jp/service/dna.html

(完全長のDNAが採取できればOKじゃないでしょうか。これは親の側は口腔粘膜から簡単に採取できる。子の側もヌクレオチドシークェンスわかればよいわけですから、可能でしょう。)鑑定の信頼性と精度はかなり高い。
 


北風先生へ  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月18日(日)14時02分57秒   返信・引用  編集済
  DNA鑑定は

 技術的に可能かどうか よくわかりません。
 しかし北朝鮮からもってきた頭蓋骨から DNA鑑定ができるようですから、
 希望者がおれば 出来るのではないかと想像します。
 私に聞かないで、北風先生、調べてくださいよ。
 


DNA鑑定は  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月18日(日)13時32分20秒   返信・引用
  「胎児標本」の親子鑑定にDNA鑑定は使えないのですか?

時間はかかっても可能性があるならするべきだと思いますが。
「技術的」にはどうなんですか?Ichro先生?
 


水子への慰霊 (南静園)  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月18日(日)07時37分21秒   返信・引用  編集済
  おはようございます。Ichiroです。

 ウイキペデイアはまだ訂正できないでおります。勉強しなくては。

 例えば Ridley-Joplingの分類からして あれは 病理学的の分類ではないのです。
 あれは菌に対する細胞性免疫による分類であります。病理学的は ペケです。
 たしかにリドレー先生は病理学者ですが、病理学的分類と考えている人はいないと 思います。それでT型は tuberculoidの略です。即ち、菌に対する細胞性免疫がある 方の極といえます。なぜ tuberculoidになったのでしょう。

 それは 病理学的に結核の組織に似ている(tuberculoid)、ちょっと間違えました、 結核結節に似ているのです。それは ラングハンス型巨細胞が 出現するからです。
 この細胞の出現は 菌にたいする細胞性免疫があることを意味しています。それは ハンセン病以外でも同様です。
 菌にたいする細胞性免疫がある場合は 症状は軽く、他の人に伝染させる可能性は少なわけです。Jopling先生も T型の人を隔離するなら 裁判に訴えようと 私に手紙を呉れました。

 もう一つ追加します。光田反応(光田健輔の研究で結果的に明らかになった)は、細胞性免疫の有無を調べる検査となりました。光田反応陽性は T型、正常人、陰性は らい腫型 lepromatous L型、陽性と陰性の中間が borderline型、B型です。これはこの種の世界最初の検査法です。確かに光田先生は ハンセン病隔離政策で批判されていますが、医師は違った目でみていると感じるでしょう。それは この事がある、と私は思います。

 沖縄タイムスの最近の報道は 間違いではないのですが 宮古南静園では 平成14年以来、毎年慰霊祭がある度に、水子の霊の慰霊を行っています。具体的には、祭文で触れ、子どもが喜ぶ何か(風車であったと思いますが)を 祭壇に供えていたのです。

 これも報道して欲しいですね。私は平成15年3月まで いましたので 確かな話です。
 


この「へだたり」は何なのでしょう  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月17日(土)17時44分11秒   返信・引用  編集済
  以下はルリカケスさんのBBSからの引用です。

「星塚敬愛園では、葬儀・告別式を行い・・・(中略)式の中で

有川園長は

「長い間、保管してきたことを心からおわびしたい」と謝罪。

山口文夫自治会代表は

「母親の胸に抱かれることなかったあなたを、母は長い年月忘れなかったでしょう。今日を境に狭い空間を飛び出し安らかにお眠りください」

と小さな命の無念さを思いやった。」

国の代表は「長い保管」を詫びています。殺された胎児の魂は、その空疎な言葉をどう聞いていることでしょうか?

何ですか、これは、一体!

非道すぎます。認識のギャップで済む問題ではないです。有川園長が悪いのでしょうか?官僚が出来損ないなのでしょうか?国の在り方が悪いのでしょうか?私は、心底、腹が立っています・・・ (;`つ´)怒!


これを書いた後で、こんな記事が有ることに気付きました。ここでも「お上」のものの考え方を、厳しく批判しています。
 


(無題)  投稿者:エリカ  投稿日:2007年 2月17日(土)15時17分3秒   返信・引用
  Ichiro様、皆様

Ichiro様返信ありがとうございます。
Ichiro様がおっしゃるように確かに療養所には宗教施設が作られ、いろんな宗教に帰依し、心のささえにしておられる入所者の方がたくさんおられるようです。
わたしは「母の愛」はなんと強く深いものか。またその「母の愛」がこの回復者の方の心のささえになっているということに感動を覚えたという趣旨のことを述べました。たまたま天理教新聞にそのことが記されていたわけで、宗教の宣伝ではありません。
何卒誤解なきようお願いいたします。
 
    (リベル) 私は、テッキリ、天理教の宣伝だと思いこんでいました。というのは全くの嘘で、誰もそんな風には受け取っていないと思っています。どうぞ、そんなご心配は、なさらないでください。エリカさんならではの細かいお心配りに、感服しました。(2.17 17:17)  


清貧な患者様  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月17日(土)13時47分22秒   返信・引用  編集済
  2人の天理教信者で 清貧の方でタイヘン感銘をうけたことがあります。Ichiro です。

 一人は韓国で民間会社に働いておられ、応召されハンセン病に罹られました。昭和17年ころです。内地に帰られ農業をしていましたが、昭和21年ある療養所に入所。幸いT型で症状も軽くてすみました。
 元軍人ですが、当然軍人恩給の資格がありますが、今後自分の家族にこの病気がでないことを祈念し(本人の話。遺伝説ですが)雑念を絶ち、資格を断念しました。ほかの人から、お前はバカだなあと言われたそうです。(すみません 禁句でしょうか)

 彼の部屋もガランとしていました。彼に尋ねたら”軍人恩給でお金がじゃんじゃん入った人はバタバタと死んでしまった”と語りました。

 (私の昔の作文を見ながら書いています。実はある人(私の作文をみてやるといわれた人)にこれを見せたら、色々文章的に欠陥があり、文句をいわれました。発表していません)

 もう一人の人は完全失明ながら昔の話が好きで、旅行がすきという陽気なお爺さんです。前の人と同じように部屋はガランとしています。他の人のためにはお金を使い、自分のためには使わないので色々なものがないのです。清貧の思想といっていいでしょう。

 (当時は清貧の思想とかいう本がありました。)

 完全な失明でも、旅行が好きというのは、どういうことなのでしょうか。それは連れて行く人の景色などの説明をよく聞いて、心に刻み付けるのです。

 こういう話は療養所では よく聞いていました。なおこの二人は前に書いたように天理教の信者さまでした。こういう方もおられたという趣旨の発表で、こういう人が望ましいという趣旨ではありませんので、その点は宜しくお願いします。
 
    (リベル) >幸いT型で症状も軽くてすみました

Ichiroさんは専門家ですから、よくご存知ですが、私は「T型」を知らないので、検索して、あちらこちら読んでみました。どれも、難しいのです。一番分かり易いのが「Wikipedia」のようですので、紹介しておきます。

Ichiroさん、この「Wikipedia」の説明で、間違いは無いでしょうか?お教えください。(2.18 01:31)
 


エリカさまへ  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月17日(土)08時31分58秒   返信・引用  編集済
  天理教はハンセン病療養所と深い関係があるようです。

 Ichiroと申します。

 私は以前菊池恵楓園と宮古南静園に勤務していました。

 天理教というとなつかしいですね。信者さんもおられ、たいへん清真な生活を送っておられました。また、夏ごろ、天理教の方からも多数の方が 奉仕にこられていました(菊池の方)。宮古には 天理教の教会がありました。沖縄県の通例として 仏教寺院はありません。そこにあるものは、3つのキリスト教(宮古発祥のもの、日本基督教団、カトリック)の教会以外には、天理教の教会しかありません。いかに天理教が重要な位置を占めているかおわかりと思います。天理教と聞くと、たいへん懐かしく思い出されるので 書いてみました。入所者に聞くと(菊池の方)昔は歩いて天理までいった、という凄い話を聞いたことがあります。
 


タイヘン失礼しました  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月17日(土)08時16分33秒   返信・引用  編集済
  リベル様

 タイヘン失礼しました。インターネットで調べたら、岡村の方も記載されていましたね。ぜひ人名の方にも記載されるように希望します。

 大風子油は あまりに有名なのでよく調べませんでしたが(これが失礼ですね)、リベルさんにより、たいへん 正確に記述されているので 感銘を受けました。あの写真は愛生園のものでしょうか。

 菊池恵楓園の方では だいぶあとまで 大きな釜が医局にあり、溶かして使用したようです。筋肉注射ですが、注射の跡が 残りますね。また化膿したり、注射されたものが出てきたり、固まったりということです。多くの方が痛かったと書かれていますが、他に余り信用できる治療法が無かった時代ですので、タイヘンだったと思います。

 らい予防法のあと、いろいろ在宅で昔治療された人を診察しましたが、この注射の跡を 一つの重要な、ハンセン病を治療したという根拠にしました。
 
    (リベル) 大風子油の写真は、無断転載していました。ご免なさい。今出典を書いてきましたが、一つの方はネット上から消えていて、Googleでは、私のサイトが出てしまいます。ほら、堂々たる確信犯も「必要」でしょう?(笑)(2.17 12:33)  


怠慢というか・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月17日(土)04時43分1秒   返信・引用  編集済
  「以前はらい菌の名から、癩病(らい病)と一律に呼ばれていた。」

(言葉の歴史についての文章なので、古い病名を使うことをお許しください)

これは、Wikipediaの「ハンセン病」の冒頭「名前」の項の書き出しです。いや、でした。長い間、このままでした。Yahoo!でもGoogleでも「ハンセン病」で検索すると1位か2位に来る「Wikipedia」がです。

えーと、と疑問に感じたのは、数日前です。待てよ、らい菌が発見されたのは1873年。らい菌は学名が「Mycobacterium leprae」。でこの命名の元になった「lepra」という言葉がいつ生まれたのか?これはB.C.250年頃、ヘブライ語の旧約聖書の「ツアラアト(tsaraath)」をギリシャ語に訳する時に生まれたのです。これは「起源と歴史」にも書いています。この「lepra」から「Mycobacterium leprae」が命名されたのに違いはないでしょう。

だから、やはり「らい菌」という名前は1873年に生まれた、で正しいのです。

では日本で古くから出てくる、「白癩」(聖徳太子の「法華経義疏」)の「癩」はどこから来たのか?です。これはどこにも書いてないので、分かりません。しかし、「韓非子」(B.C.233頃)に「氏iらい)憐王。」とあって、白川静さんの「字通」によれば氏≪嘯ニありますから、中国では、この頃からあった。それが私の調べた限り、初出なのです。

だから、Wikipediaの「らい菌の名から」というのは、やはり間違いです。あえて言うなれば「韓非子」から、なのです。なので、私は先日その部分をカットしておきました。長い間気付かなかったのは、怠慢でした。緊張感の欠如というか、あまりにも堂々と書いてあったので・・・(恥)

「韓非子」以前の記述が有れば、お教えください。宜しくお願いします。「起源と歴史」に追加しなければなりません。
 


患者さんと、回復者の受け入れ  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月17日(土)02時11分37秒   返信・引用  編集済
  このテーマが登場してから、もう5日経ちます。「とても詳し」くはないのですが、私なりの整理をしてみました。先ず頂いた投稿を再掲載します。

【1】1960年ごろの鹿児島でのハンセン病者  投稿者:tubaki  投稿日: 2月12日(月)11時57分31秒

  1960年ごろ、私の故郷である鹿児島の小さい温泉町の温泉銭湯で、よくハンセン病の女性が入浴されるのと一緒になりました。もう治っているし、感染しないとの触れが入浴客に行き渡っており、何回か浴室で一緒になりました。しかし、この頃の「らい予防法」に代表されるハンセン病への社会的、公的偏見を思えば、この方がどういう経緯でこのように普通に生活できたのかが、今大きな疑問となってきました。退所して、このように生活されているかたも多かったのかどうかがわかりません。プロミン治療による軽快退所者が1951年に第一号として熊本から出ていることは年表により確かめられますが。しかしこの方も地域に住んだのは、長い年月ではなかったと思います。強制隔離政策の中で、彼女はどのような意志でと思うと、大変気になります。どなたかコメントお願いします。56歳

【2】(無題)  投稿者:あずき  投稿日: 2月14日(水)17時33分29秒

   最近偶然に、島尾ミホ(島尾敏雄夫人)の「祭り裏」というエッセー集を読みました。ミホの少女期の七編の回想録です。舞台は郷里の奄美大島の南端にある「加計呂麻島=かけろま島」です。ミホは多分一九二〇年生まれですから、書かれた時代背景は一九三〇年頃と思われます。初出は一九七〇年後半です。

このなかでは「ニジロおじ」という癩者が、普通の島民として登場していますね。

(エッセーからの無断孫引き:
http://www.haizara.net/~shimirin/blog/akiko/blosxom.cgi/book/20070202223707.htm#writebacks より)
『辺境では中央の及ばない文化があったのだと思います。地方名は忘れたけれど、療養所にいくと帰ってこられなくなるからと村ぐるみ(役場も含めて)匿ってくれたという記述を読んだ記憶があります。特に共同体の意識の強い離島では、大いにありうるというより、普通だったと思います。』



【1】は回復者に対する小さな町の温泉銭湯の冷静で、暖かい接し方です。これは先日引用した庵治町の例(ページの下の方の質疑応答のところ)や、黒川温泉の宿泊拒否とは、対極にある対応です。

前に私は「「下手な」問題意識は、事態を逆に悪くする。自然に醇化されていく例もあるではないか」と書きました。庵治町や、黒川温泉の場合は、「下手な」問題意識が事態を悪化させています。

このケースのように、冷静で、暖かい対応が、問題を醇化した例は、他にも実は沢山あるのだと思います。

【2】は時代が遡って、治癒していない患者さんの場合です。この場合は、前に書いたように、「地域社会の自己防衛・自己保全」の原理も働いたのではないかと、私は推測しています。ですから、これも表には出ないで、数多く存在したと想像します。


ところで、こういう対応が、動機や現象こそ違え、何故起こったのか?これらの事実が代表する二つのケースに通底するものは何なのだろうか?

それは「無らい県運動」や「らいの根絶策」や「国際世論を無視したらい予防法の存続」、などの形をとった「お上の押し付け」に対する「市民のささやかな反抗」だと、(これまた大胆に)推測します。単なる中傷が発端の強制収容も有ったようです。市民の意志を顧みない頭ごなしの押し付けに対して、「それでよいのか?」という素朴な疑問と反発から生じた、ごく自然な「お上に対する抵抗」なのでしょう。


またまた、お前は、結論を「国」や「厚労省」に持ってくる、と言われそうです。でもこれは結構自然な結論でしょう・・・?牽強付会ではないと、私は確信していますが・・・。

あえて、火中の栗を拾いました。おあとがよろしいかと、存じます・・・
 


新聞の記事を読んで  投稿者:エリカ  投稿日:2007年 2月16日(金)22時01分1秒   返信・引用
  わたしの家では天理教新聞をとっています。
わたしは天理教ではありませんが、祖母が天理教だったので、毎月送られてきます。たまたま手にとってみるとハンセン病の記事が掲載されていました。「ハンセン病療養所の教友たち」というタイトルで、読んでみると、美しい親子の情愛が描かれ、深い感銘を覚えましたので、記事を転載しました。
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckaty207/tenri.html
 
    (リベル) ここにも、入浴の話が出てきますね。

>その夜、母は入所者と同じ風呂に浸かった。入所者の一人が心配顔でいった。「そんなことをしたら、病気がうつってしまいますよ」。母は毅然として応えた。「息子と同じ病気にかかって死んでも本望です」

有り難うございました。(2.17 01:02)
 


?  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月16日(金)12時24分2秒   返信・引用  編集済
  当時は そう思っていましたが

 今では書きすぎであると批判されていまして(月子さんからです)
 反省しています。
 ええとどなたが送ったのかな。教えてください。

 リベルさんへ

 反省して 書いたり、検索したりしながら、訂正などしました。
 順序が違いますね。
 岡村さんも 出ていましたか?姓名の ところですが
 
    (リベル) 下の文章は「ハンセン病のリンク集」に記載させて頂いているものです。

先程の「大風子油」もそうですが、私のサイトを良くお読み頂いていないのを、知ってガックリしました。せめて関係のお有りのところは、お読み頂いていると信じて、お話しさせて頂いていましたから。

先ず、人が書いていること、それをお読みにならないで、自分の書きたいことだけを、ズバリ書くのは、如何なものでしょう。私は方針として、何でも、お書きになりたいときに、お書きくださいと、申し上げていますが、人の書いていることを先ず読むのは、当然のことだと思って書いていません。当たり前のことを書くのは、失礼だと思って、書きません。でも如何でしょう、先ず何が書かれているかを読んでから、投稿するのが、最低限の礼儀ではないかと思います。このあたりの「言わずもがな」のことを申し上げるのは、大変失礼なことなのですが、こんなに親しくして頂いている以上、言わないのは、かえって失礼だと思いまして。

私は、体育系なので、こういうことをかなり平気で、書いてしまいますが、Ichiroさん、私の気持ちを、お汲み取り頂きたい、と、泣きたいほど、思っています。よろしくお願いします(2.16 18:07)
 


菊池先生  投稿者:   投稿日:2007年 2月16日(金)11時56分24秒   返信・引用
  http://www.okinawa.med.or.jp/old/kaihou/k0105/p118.htm  


ありがとう  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月16日(金)10時47分29秒   返信・引用  編集済
  北風さん ありがとう。

 悪乗りではなく どしどし指摘してください。
 この方の情報は いろいろ インターネットにありました。
 コメントが付いたのは そのままにします。
 
    (リベル) 私も、「ハンセン病のリンク集」の「用語集」で「大風子油」を解説しています。こちらの方はご覧頂いていないようなので、膝元が、ガクガクしております・・・(苦笑)

「岡村平兵衛」で検索したら、私のサイトが8番目、9番目に出てくるのですが・・・(涙)(2.16 12:20)
 


悪乗り  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月16日(金)09時56分0秒   返信・引用  編集済
  泉州境の岡村製薬所→泉州堺の岡村製薬所  


すみません  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月16日(金)08時46分22秒   返信・引用
  リベルさんへ

 また 間違えました。その通りです。
 火へんでした。ローマ字でKaro-Tosen とあります。自家出版です。
 著者は1931年生まれで、西尾市民病院長を定年まで勤め、その記念に作られた本です。医史学にくわしく、今まで私が参考にしたのは、周防博士のことでしたが、後藤昌文親子、遠山道栄親子、小笠原登、瀉血から屁の功罪など面白いことがたくさんかかれています。
 
    (リベル) 「絽」というのは夏用の織物ですから、洒落て作られた題名かな?と思っていましたが。 (2.16 12:24)  


菊池恵楓園 旧本館(2)  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月16日(金)07時16分29秒   返信・引用  編集済
  社会交流会館 (歴史資料館)(2)

 薬学研究室の主について調べた。

 故 佐竹芳継先生

 菊池恵楓園で治らい剤を研究された先生。熊本薬学専門学校卒業、九州大学、満鉄病院勤務の後、中華人民共和国で留用、その国の製薬会社で指導されている。昭和30年11月から昭和49年11月まで菊池恵楓園に勤務。 治らい薬の合成をされた。 その中でDDSのアセチール化誘導体DADDSはその後広く使われるようになった。(恵楓園でアセタミンといっていた)その後、西九州大学教授、副学長。

 平成9年12月21日に逝去され 日本ハンセン病学会雑誌 67(3)411-415,1998に、 写真が掲載され、追悼の言葉が述べられている。

 昭和42年に第12回櫻根賞受賞。

 平成になっても時々こられていた。治らい薬の開発についての話を承った(前に書いた)

岡村の大風子油

 プロミン出現以前の治らい剤大風子油は泉州境の岡村製薬所のものが品質が優れ、従って広く使用された。

 夏絽冬扇 佐久間温巳(はるみ) 平成9年による

 岡村平兵衛は偶然みつけたらい患者を助け(明治21年ころ)、自宅で救済した。千数百名(一説によると1400名)という。(他の本でこういうことは書いてあったのか)所蔵の本草書を読み大風子油の有効性を知った。明治34年、最後の2人の患者は復生病院に運んだ。
 岡村の大風子油は500ml入りの壜に詰め主として塩野義製薬、明治41年以降は藤澤薬品から発売された。岡村家にはこれは残っていず、ラベルが1枚あるだけである。

 (私が運んだものは貴重品というわけだ!)

 昭和7年、大風子は30000キログラム輸入。岡村の生産は数千キログラムであったから、本邦の生産の大部分と考えられる。昭和19年に輸入がとだえ、プロミン時代になり、数百年の大風子油時代の幕が降りた。

 ある先生から、岡村の大風子油の新聞広告を戴いた。菊池恵楓園社会交流館に寄付しよう。

 追加:ホームページをみますと、岡村の大風子油は愛生園にも保存されていました。

 宮崎園長で思い出したこと:ハンセン病問題は園長は医学だけの問題でないと断定した。そしてらい研究所は 社会的に研究する人々もいれるべきと述べている。しかし実際はそうならなかった。私としては宮崎園長の先見の明に驚くとともに、園長の言われた通りにならなかったのは、残念なことだと思っている。医学薬学化学の専門家は どうしても入園者のおかれた立場への理解が少なかったのではないか。

 追加:双見美智子さん ほんとうにお元気ですね。大分前ですが、そこの図書館で資料を読みたくて、会いました。お仕事にご熱心な方でした。雑誌投稿もあり、お世話になりました。ご長寿をお祈りします。
 
    (リベル) Ichiroさん、「夏絽冬扇」は「夏炉冬扇」の間違いではないのですか?検索しても有りません。なんかの洒落なのかとも訝りますが。(2.16 08:06)  


リベルさんへ。  投稿者:あずき  投稿日:2007年 2月16日(金)02時09分43秒   返信・引用  編集済
  わたしへのお返事はしなくていいと思います。無理はいけませぬ。
ではおやすみなさい。
 
    (リベル) 有り難うございます。元気になってきましたので、今、下にレスを書いてきました。

お心遣い、有り難うございました・・・m(_ _)m (2.16 02:20頃)
 


鹿児島でのハンセン病者  投稿者:tubaki  投稿日:2007年 2月15日(木)17時49分52秒   返信・引用
  リベルさん、気になっておられるようですので正確な場所を明らかにしましょうね。
薩摩川内市入来町副田温泉場の柴垣湯です。現在も存在します。湯源は同じですが、建物や内装は確か2回改装されて、現在も小さいながら町営風呂として営業しています。100円です。湯上りが何ともすっきりと爽快な温泉ですよ。
私はこのことをエッセーに書いたことがありますが、「副田温泉」と呼ばれたこの温泉の文書上の初見は建徳二年、(1843年)『入来文書』に付された資料の渋谷重門の置き文の中にあります。160年前には「湯治客が絶えることなく、多い時は数百人に及ぶ」との記述が物の本にあるそうです。源泉で56度〜60度。そのままでは熱くてはいれません。
 副田には現在3つの町営温泉銭湯が存在しますが(全部100円)、入浴客は老人が主です。淋しい事ですが、大変寂れてしまいました。
 その白いマスクの人はあるとき突然現れ、しばらくして見えなくなってしまいました。このことも気になります。どこに行ってしまわれたのかと。個人風呂のほとんどない時代でしたから、例えば、寝たきりの老人や、全介護状態の女の子なども常連でした。数名で連れてきて入れるわけです。
 私がそのマスクの人と数回同じ風呂場で入浴したのは事実です。その人は痩せた体を片隅でマスクを取って洗っていることもありました。その人を見ると、不安にさせまいとしてか母は必ず「もう治っていて移らんらしかよ」と言いました。2003年のアイレディース黒川温泉ホテル宿泊拒否事件は、ですから複雑な気分でした。私としては、柴垣湯の管理人あるいは町が入浴拒否しなかった背景に何かあったのか、又は、病名も知らないほど無知な昔人だったか・・・。そんなはずはないと思います。実は昔は日本のあちこちで、人々は殊更言わないが、このような寛容なつながりがあったのかもしれません。この病気にとても詳しい皆さんのご意見を伺いたくて投稿したのです。
 
    (リベル) いま、返事を書きかけましたが、一杯やってしまった後で、ボキャヒンに陥っていますので、一寝入りしてから、また改めて。ご免なさい。(2.15 18:12)

下の、あずきさんの投稿の欄に書きましたが、町ぐるみで庇ったという例が紹介されています。柴垣湯の場合は、「寛容なつながり」なのでしょう。「暖かい思いやり」に発したものかと思います。しかし、下のあずきさんご紹介の「ニジロおじ」については、歴史か社会学の専門家にお聞きしなければならないと思いますが、「地域社会の自己防衛・自己保全」の面が有るのかも知れません、軽々に断定は出来ないと思います。史実として冷静に捉えなければいけない問題だ、と思います。

こういう事実が存在した理由は、この二つに大別されるかも知れませんが、余り詳しくない人間の考えていることなので、「とても詳しい皆さんのご意見」を待ちたいと思います。


北風さん、決して催促している訳では有りません。これも書かないでおこうかと思ったのですが、それも何か変でしょう、で、仕方なく・・・(苦悶)(2.16 02:38)
 


菊池恵楓園 旧本館  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月15日(木)17時38分5秒   返信・引用  編集済
  社会交流会館 (菊池恵楓園 旧本館)


 先日菊池恵楓園の社会交流会館にいった。たまたま その日に映画監督に会ったり(報告した通り)などしたので これについて触れることが遅くなった。

 この古い大きい2階建ての建物は旧本館である。昭和30年7月1日に国立らい研究所分室が出来たとあるので、その頃完成したのであろう。らい予防法のお陰である。当時の全体の長は小林六造であった。分室長という記録はない。2年1ヶ月後、昭和32年7月31日に分室は廃止になった。経緯はよくわからない。

 ハンセン病研究50年のあゆみ 国立感染症研究所ハンセン病研究センター 2005年 による


 宮崎園長は昭和33年9月に退職した。その経緯も私にはよく判らない。1900年生まれであるから58歳で働き盛りである。

 私が知っていることは、当時は学位制度が変るので研究が盛んに行われたことだ。大学の例えば解剖学の雑誌を見るとすぐわかる。たしか昭和35年を境に凄く厚かったのが薄くなった。博士様になった人達は 恵楓園をすぐ離れてしまった。話を聞けば当時の医師の待遇は最低であったという。

 この建物の立派さをみれば、当時は宮崎園長の力が相当強かったことがわかる。らい研究所分室として、厚生省の予算をたくさん分捕って作った。そういう理由で、外の療養所からの怨嗟の声があったと聞いている。2階建て、中は木造だが、木材は厚く、がっちりしていて、私は昔の兵舎を思い出した。

 (蛇足ですが、中学、高校、大学、就職してからの合計3年半、旧兵舎を使ったのが私である、最初の2つは熊本の第6師団、大学は鹿児島の伊敷の兵舎、あと国立熊本の兵隊の学校の跡で看護学校の講義に使った)

 私が昭和39年から45年にかけて大学から仕事にいった時は(診療援助)旧本館の2階に医局があった。物凄く大きい図書館があり、別室には資料が乱雑に置かれていた。その中には強制収容の顛末を書いたり、園長の演説の草稿などもあった。図書館には鳩の糞が大量にあった。

 建物の前に高い塔があり、宮崎園長時代、退所者があると鐘が鳴らされたというがすぐ鳩が棲みついて鳴らなかったという。

 平成元年に今度は正式の定員として、再度ここに入った。ということで私にとっては懐かしい建物である。医局はまさに大部屋であった。平成5年5月、新しい本館ができてホッとした。旧本館は介護員などの控え室などにも使用された。今回は資料室として、再生である。

 入園者と色々なモノを保存する意思があるか、当時話しあったことがあるが、あまり熱心でなかった。現在の話ではない。昔は歌舞伎の道具などあったが、と言う話は聞いた。

 平成の初めであったが、高松宮記念ハンセン病資料館ができるので調査にきた。勿論入園者とは話し合われたのであろう。私のところにきたので 壁を移築してくれといった。無理な話である。資料として重要なものを保存しようということで、当時の本館の2階の薬学研究室(正式の名前ではない)にあった、岡村の大風子油●をかかえて成田先生にもっていったのは私である。熊丸園長の許可をえて持っていった。

 ●岡村の大風子油は使用当時最も高級品であった。提出した時はなんとなくすっきりしなかったので、菊池恵楓園とワープロで記載した。長く高松宮記念ハンセン病資料館にあったが、最近みていない。
 社会交流館に並べてあるものは 残りの品々である。
 


Re: 島尾ミホ氏が書かれたこと  投稿者:あずき  投稿日:2007年 2月15日(木)14時14分49秒   返信・引用
  >  あずき様 こんにちは。Ichiroと申します。
>
>  加計呂麻島には先日ボランテイアさんのご好意で行ってまいりました。

Ichiroさん。こんにちは。そうでしたか。偶然ですね。

島尾敏雄・ミホ夫妻のことは、自分のサイトに書きましたのでここにリンクをつけておきます。自分のサイトの紹介はちょっと心苦しいのですが、お時間のある時にどうぞ。ほとんどIchiroさんのお書きになったことと重なるかとおもいますが。。。

http://www.haizara.net/~shimirin/blog/akiko/blosxom.cgi/book/20070202223707.htm#writebacks

http://www.haizara.net/~kirita/takata/

 
    (リベル) あずきさんのサイトを訪問してきました。充実した感じを受けて帰ってきました。今一杯やった後なので、一寝入りして、また、書き込ませて頂きます。ご免なさい。(2.15 18:17)

サイトへ伺って、「ニジロおじ」のこと読みました。無断でご免なさい、転載させて下さい。《この時代のこの土地のおおらかさを表すように「癩病やみのニジロおじ」もそこに特殊な存在として描かれていないことでした。この時代には癩者の「強制隔離」があったはずです。

この点につきましては、F氏にお願いしてご意見を頂きましたので、追記いたします。氏に感謝致します。

『辺境では中央の及ばない文化があったのだと思います。地方名は忘れたけれど、療養所にいくと帰ってこられなくなるからと村ぐるみ(役場も含めて)匿ってくれたという記述を読んだ記憶があります。特に共同体の意識の強い離島では、大いにありうるというより、普通だったと思います。』》

tubakiさんの投稿を受けてのお話しだったのですね。有り難うございました。(2.16 02:16)
 


島尾ミホ氏が書かれたこと  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月15日(木)12時25分54秒   返信・引用  編集済
  島尾ミホ氏の書かれたこと

 あずき様 こんにちは。Ichiroと申します。

 加計呂麻島には先日ボランテイアさんのご好意で行ってまいりました。

 その節は有難うございました。

 島尾敏雄氏は九州大学を繰り上げ卒業、特攻隊を指揮するために加計呂麻島に派遣されました。特攻艇を隠した壕もあります。(見てきました)そこで恋に落ちて夫人と結婚、戦後数々の文学作品を書かれました。特に夫人の病気を扱った「死の棘」が有名ですね。東京にもでてこられ、たしか後では鹿児島県立奄美図書館長をされたと思います。ミホ氏も土地に密着した作品があり、最近書かれた、対談もある本を読みました。私はハンセン病の患者さんが出てくる、その本は読んでいませんが、土地柄を考えると、納得できるのであります。

 画家田中一村は、ひょうひょうとしていて、和光園にいた小笠原登の好意で、一時は和光園の官舎に住んでいました。(その頃はそんなことも可能だったのでしょうか。)ハンセン病裁判の後、入所者にお金が入ったので家族が入所者を訪れた際に、家族は入所者にプレゼントされた田中一村の画を持っていったそうです。ちょっと寂しい話題でした。
 (いまでは田中一村の絵はお宝であります)

 死の棘は読みましたが、タイヘン重い本でした。加計呂麻島は観光にもお勧めです。奄美大島の山からみると、水雷を使う特攻隊は、いかにもこんな所を選ぶだろうという地形でした。私は宮古島でも、水雷艇を隠す壕をみてきました。また加計呂麻島は、寅さんが最後にロケした地があります。


リベル様

  また また 失礼しました。
 
    (リベル) 「失礼しました」などと、とんでもありません。お好きなときに、お好きなことを、書き込んで下さい。(2.15 18:21)  


余談:アリア「母の死を」  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月15日(木)03時37分33秒   返信・引用  編集済
  このアリアを初めて聞いたのは、トム・ハンクスがオスカーを取った「フィラデルフィア」の中ででした。YouTubeでそのシーンが視聴出来ます。親切にもこちらに字幕を書き出しました。読みながらお聞き頂くと、入りやすいと思って。(デンゼル・ワシントンが、最初は全く関心がないのに、その内徐々に引き込まれていく様を、巧みに演じているのを見るのも一興ですが)

私は、初めて聴いた時、母親の死を嘆く歌、くらいに軽く受け止めて、ほとんど聞き流していました。それから随分たってから、近所のスーパー前広場で半額の「マリア・カラス」のCDを見付けて、(そのころ、人間の声こそ最高の楽器であるとか、そそのかされていたので)聴きました。

お察しの通り、「ある晴れた日に」以外に、聞き咎めたのがこの曲でした。何処かで聴いたことがある。ひょっとして、と「フィラデルフィア」のビデオテープを早送りして、左にCDプレーヤー、右にビデオデッキを置いて、聞き比べました。シンクロしたことは言うまでもありませんが、私にとっては、ちょっと神がかった、ドラマティックな出逢いだったのです。

最近、講演の録音を目的に、ICレコーダーというものを買いました。これにアイポッドやウォークマンのような機能が有るとは知らなかったのですが、早速散歩の時のマーチとして、ラテンのアルバム、カーペンターズ、武満徹、メンデルスゾーン(こんな程度なのです、私にとっての音楽は)と取り込んで、最後に「母の死を」を付け加えました。

ところが、今毎日聴くのは、この「母の死を」だけになってしまいました。5分弱なのですが、一日に4〜5回は聴きます。とてもドラマティックで、奥深いものが引き付けるのです。歌詞の意味は勿論全く分からないまま、聴いていました。映画のシーンや、トム・ハンクスの解説など、覚えていませんから、ひたすら何か、「懐かしい」という感覚で、毎日聴き続けました。

そしてある日ついに、調べまくって「アンドレア・シェニエ」のあらすじを見付けて読み、歌詞を見付け、英訳、和訳を見付け、印刷して持ち歩いて、時々取り出して見ています。今では、10%〜15%は、イタリア語で歌えるかな、くらいになっています。

悲劇のどん底にあって、「自分は愛する人にまで、不幸をもたらしてしまう」、と悲痛な叫びをあげたとき、呼びかけて来るものがあった。それは「神」であり「愛」であった。というところで松本馨氏を思い出しました。魂の根っ子の所に、訴えかけてくるアリアです。心を和らげ、否応なしに心を純にしてくれます。それが「懐かしい」という感覚を呼んだのでしょう。これはやはり、芸術だ、と思います。

なんといま、私の書架の片隅には、白水社の「新伊和辞典」が違和感を醸しながら、鎮座ましましています。


この写真、一昨年の暮れにも紹介したものです。これは最高!

http://www.mariacallas.de/galerie.html

 


(苦笑)  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月14日(水)19時11分43秒   返信・引用  編集済
  リベルさん、本当に時間をください。
なにか、われわれが見落としてきた、とても大事な問題が含まれているような気がするのです。

【閑話休題】
このデータベース(まだデータが粗く校正しては入れ替えています。また、目録を原稿にしているので重複があります。その辺をご承知の上)で「癩」を検索すると88件ヒットします。
http://www.annex-net.jp/ks1/
なかには青木大勇の「癩療養所を隔離し監禁本位より治療−−研究本位へ(上、下)」なんていう論文があったこともわかります。
ただし「隔離し監禁本位より」というのは[隔離監禁本位より」の誤植だと思います(苦笑再び)。また巻号の表記もおかしい(原因はわかっています)。
 
    (リベル) 北風さん、決して催促はしていません。気持ちの中は別にして。じっくり練り上げてから、ゆっくりお書きください。何とか、年内には・・・、程度で結構ですので。

1998年7月7日に香川県庵治町で町職員が、大島青松園に対し町営公衆浴場の使用を「特定の日に」と申し入れた事件が有りました。これは予防法廃止後、ごく最近の出来事です。それに触れられた森和男氏の文章がここにあります。

「下手な」問題意識は、事態を逆に悪くする。自然に醇化されていく例もあるではないか。
「とても大事な問題」というのは、ヒョッとしてこの辺なのかな?と、これって、やはり催促ですよね。もう、やめとこうっと・・・。


雑誌記事索引データベースで、しばらく遊ばせて頂きました。前に書いたこともある、私の祖母の弟(大叔父ですか)の菅井竹吉も7件有りました。先日読ませていただいた、「婦人公論」の「救癩献身の聖者に訊く」も有りました。無きゃ、おかしい、のですね・・・(笑)(2.15 01:36)
 


(無題)  投稿者:あずき  投稿日:2007年 2月14日(水)17時33分29秒   返信・引用
  最近偶然に、島尾ミホ(島尾敏雄夫人)の「祭り裏」というエッセー集を読みました。ミホの少女期の七編の回想録です。舞台は郷里の奄美大島の南端にある「加計呂麻島=かけろま島」です。ミホは多分一九二〇年生まれですから、書かれた時代背景は一九三〇年頃と思われます。初出は一九七〇年後半です。

このなかでは「ニジロおじ」という癩者が、普通の島民として登場していますね。
 
    (リベル) 貴重な情報を有り難うございました。島尾ミホという名を、初めて知りました。Amazonで「祭り裏」他の著作を調べました。島尾敏雄さんも恐らく初めて聞く名前です。不勉強を思い知らされました。

1935年生まれの私は、同和問題で、中学一年の時、強い強い思い出になる事件を、当事者として体験しました。親友との仲を、彼が同和地区の人だと言う理由で、頑固な田舎弁護士の父に、全く生木を裂くように裂かれてしまいました。同和地区の存在さえ明確には認識していなかった自分にとって、それは本当に驚天動地の出来事でした。

しかし、ハンセン病に関する出来事の記憶は全くないのです。(2.14 18:06)
 


北風さん Re: 1960年ごろの鹿児島でのハンセン病者  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月14日(水)15時19分42秒   返信・引用  編集済
  > > 1960年ごろ、私の故郷である鹿児島の小さい温泉町

>この投稿すごく気になっているのですが、すぐにまとまりません。落ち着いてよく考えて書こうと思っています。

>栗生楽泉園のある草津の町の例や、僕らの小学校の頃には障害のある子と机を並べて休み時間は一緒に遊んだけれど、今はみんな養護学校に入れることなど断片的に思い浮かべます。
>必ず書くと予告編。自分を縛らないと怠けるからね。

1960年ごろ、私の故郷である鹿児島の小さい温泉町の温泉銭湯で、よくハンセン病の女性が入浴されるのと一緒になりました。もう治っているし、感染しないとの触れが入浴客に行き渡っており、何回か浴室で一緒になりました。しかし、この頃の「らい予防法」に代表されるハンセン病への社会的、公的偏見を思えば、この方がどういう経緯でこのように普通に生活できたのかが、今大きな疑問となってきました。退所して、このように生活されているかたも多かったのかどうかがわかりません。プロミン治療による軽快退所者が1951年に第一号として熊本から出ていることは年表により確かめられますが。しかしこの方も地域に住んだのは、長い年月ではなかったと思います。強制隔離政策の中で、彼女はどのような意志でと思うと、大変気になります。どなたかコメントお願いします。56歳

この投稿ですね。期待してお待ちしています。

tubakiさん、もう少し、お待ちください。
 


貝塚茂樹氏  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月14日(水)15時07分18秒   返信・引用
  たしか湯川博士の弟さんではなかったかな。

 伯牛だったですか。どなたかが ハンセン病ということは うろ覚えがあります。

 顔のつく人では、なかったですね。古い時代ですから 括弧してハンセン病とする方法もありましょう。版権を持っている人が決定していいのでは。
 
    (リベル) 貝塚さんは湯川秀樹のお兄さんです。Ichiroさんは学者なのですから、この辺は良く確かめてからお書きにならないと、小学生ならずとも、間違って覚えてしまいます。現に、私もあれっ!と思って調べたくらいです(恥)

顔のつく人というのは顔回だと思いますが、この人がハンセン病に関係があったというのは初耳です。豊富な蔵書の中からお探し頂ければ有り難いのですが。よろしくお願い致します。(2.14 15:17)
 


光田健輔がWikipediaに有りました  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月14日(水)14時57分25秒   返信・引用
  こちらです。2005年1月11日に執筆開始が「履歴」から読み取れます。長い間気付きませんでした。ご免なさい。

最初の執筆者(時間をかけて、多くの人の加筆などによって、出来上がりますので)が感想に「書いているうちに怒りで悪意が籠もってしまったので、中立的かつ批判的な記述を加筆して下さい。」と書いて居られるのを、面白いと思ったので、紹介させて頂きました。
 


素朴な疑問  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月14日(水)14時38分51秒   返信・引用  編集済
  「歴史と起源」の注の部分に、貝塚茂樹氏(1987年没。奇妙な偶然。しかし問題有りなので記入)の「論語」の注解を追加しようとして、気付きました。持っているのは、1999年第76刷と有ります。この本の121頁に注解として「門人冉伯牛が悪疾にかかって命が危ない。悪疾は、ふつうの病気ではなく、癩病のことだといわれています。」と書いてあるのです。

講談社現代新書の係へ電話したら、現在(2006年7月13日付)88刷で、その記述はそのままだと言います。貝塚氏は亡くなっておられる。この本はよく売れる。間違った表現は、さあ、どうなるのでしょう?

この本の担当の方がいらっしゃらなかったので、メールを頂くようお願いしておきましたので、起きている内に、来るかも知れません。「講談社として、どうなさるかを知りたい」と申し上げておきました。


正に打って付けのご指南番がいらっしゃいます。北風さん、お教えください。出版社が勝手に表現を訂正するわけにもいかず、ご遺族なりの著作権者の了解を取り付けて「修正」するなどということが、可能なのでしょうか?それとも絶版に?これは無いだろうし?と悩んでおります。宜しくお願いします。
 


リベルさんへ  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月14日(水)12時22分56秒   返信・引用
  もう一度メールします。

>いわゆる<壮丁らい>の年次推計は、1887年から1937年にいたるまでに

 となっていました。小生のメールは無視されています。

  一番いいのは 原本をさがすことです。
 探しました。
 日本らい学会雑誌 64,3,273−275

 第68回日本らい学会総会における「らい予防法」についての学会見解の口述全文

 学会の前に渡された文章と口述の文章は異なります。その点をつかれて閉口したらしく、この文章の中では 口述のみの部分は 括弧で わかるようにしています。

 文章は当然 1897年から 1937年です。
 
    (リベル) なるほど、そうでした。でもIchiroさん、これは直し損ないですよ。無視されたら変更は無かったはずです。私の調べでも1897年になっていますから。もう一度メールなされば、お詫びが来ると思います。

日本ハンセン病学会のHPに、「原本」があります。それは正しく「1897年」となっています。また、
国賠最終準備書面にもこう書いてあります。『1、日本における疫学的減少の事実  徴兵検査の際に発見されたらい患者、いわゆる壮丁らいの年次推移は、一八九七年から一九三七年にいたるまでに、急速な減少傾向に向けての明らかな漸近線を示している。一九三一年の癩予防法制定以前の時点でも同じである(和泉調書一回一二六ないし一三五項)』

どうぞご安心ください。(2.14 12:28)

Ichiroさん、ほら、チャント直っていますでしょう。矢張り、直し損ないだったでしょう。(2.15 01:47)
 


Re: 1960年ごろの鹿児島でのハンセン病者  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月14日(水)11時53分43秒   返信・引用
  > 1960年ごろ、私の故郷である鹿児島の小さい温泉町

この投稿すごく気になっているのですが、すぐにまとまりません。落ち着いてよく考えて書こうと思っています。

栗生楽泉園のある草津の町の例や、僕らの小学校の頃には障害のある子と机を並べて休み時間は一緒に遊んだけれど、今はみんな養護学校に入れることなど断片的に思い浮かべます。
必ず書くと予告編。自分を縛らないと怠けるからね。
 
    (リベル) 北風さん、首を長くして、お待ちしています。tubakiさん、もう少し、お待ちください。(2.14 12:16)  


素早い反応! Re: 訂正について  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月14日(水)11時38分27秒   返信・引用  編集済
  >  そうでした。早速当該HPへ 訂正すべきであると送信しました。

流石、Ichiroさんですね。

日本らい学会の見解、もうチャント直っていました。感謝、感服、です。見事に「借りを作」ってしまいました・・・(>_<)
 


訂正について  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月14日(水)01時56分25秒   返信・引用  編集済
  リベル様へ

 そうでした。早速当該HPへ 訂正すべきであると送信しました。

 ある先生の書かれた内容の間違いを指摘したことがあるのですが、HPの管理人と書かれた人が別人で なかなか通じなくて そのまま というのがありました。指摘のしかたも心したわけですが。

 まあ、一番タイヘンなのは当然、厚生労働省が相手の時でした。

 外国のHPで 訂正追加してもらったことは あります。
 


ハンセン病療養所  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月13日(火)17時25分23秒   返信・引用  編集済
  最初、療養所探検という題にしましたが、不穏当と思い訂正しました。

すでに色々の写真集やホームページで紹介されているのであるが.............

 療養所を探検するということは、長年の歴史に触れるという側面もある。また各所に記念館とか資料館とか社会交流館ができつつある。 小生は現存する13国立療養所のうち12の療養所を訪れた。(東北新生園はまだである)。

 大阪を訪れた際に外島保養院跡地の碑(●大きな川に面している)を捜した。タクシーを使ったが、なかなか見つからなかったが、年をとった町内会長さんを見つけた。そして昭和9年9月20,21日の大水害の思い出話を聞いた。(この大水害で犠牲者が多くでて、療養所はなくなった。日本らい史には患者173名、職員同家族14名の殉難者と書かれている。) そのあと大阪の人権博物館を訪れた。(ハンセン病の資料があった)

 探検すべき、お勧めの場所をちょっと書いてみたい。全生園では、武蔵野の雰囲気を残す散歩道、神社(●菊池の恵楓神社に比べて庶民的である)、農園、各県の木が心に残る。菊池恵楓園では長い壁を全周に亙って歩いてみよう;古い方の刑務所などであろうか。トンボの池で、トンボを探す。(コフキヒメイトイトトンボがいる。ちょっと間違ったかな。季節や、時間があわないと見つからない)

 宮古南静園ではもちろん、入園者が戦争中隠れたヌスドガマ(正確にはヌスツウガマ)であるが、米軍上陸に備えて掘った機関銃をすえつけた洞窟とか(簡単に入れます)、拝所などもある。拝所は個人的に作ったので今も残っているかどうかあやしい。初期の水利用の場所も海岸に残っている。恐らくここで洗濯をしたのであろう。

 あとでいろいろ書いてみたい。

 ●恵楓神社の写真は「壁をこえて」にある。(2006年)
 ●ヌスドガマ訪問は「検証会議」にある。(2005年)

 ●蛇足:大きな川に面した療養所として、外島保養院の外に、カーヴイルの療養所(小生はいったことはない)、バンコックの療養所、長江(揚子江)に面した泰興県療養所、 また川の中州にあるチェンマイのマッキーン療養所がある。外島保養院の悲劇は真に残念であった。


リベル様へ  医学的知見の中で どこからかの引用かどうか わかりませんが、平成7年の日本らい学会のステートメントで 8と9を間違えています。
>いわゆる<壮丁らい>の年次推計は、1987年から1937年にいたるまでに

の最初の年は1897年です。これは訂正できませんかね。
 
    (リベル) おお、確かに間違っています。これは実は駿河療養所のHPに書いてありますので、そちらへ話をすれば修正して頂けるのではないかと思います。これは私の仕事ですが、Ichiroさん、如何ですか、一肌脱いでは頂けませんか?そうして頂けると本当に助かるのですが。借りを作らせて下さいませんか?図々しいお願いで、ご免なさい。

勿論、上手く行かなかったら、私がやりますので・・・。(2.13 23:04)
 


一段落。  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月13日(火)03時47分11秒   返信・引用  編集済
  「医学的知見の変遷」、一応判決文からの読取りは終了しました。形式の統一などが未だですが。とにかく、堅い文章を自分の言葉にするのに疲れます、これは・・・。

これからの楽しみは、和泉眞蔵氏の「医者の僕が・・・」からの読み込みです。こちらは文章が平易なので、楽しさのみ・・・であることを、期待していますが。和泉氏の闘いの跡をもう一度辿るだけも、しあわせ感を覚えます。

ご批判や、ご意見や、お叱りをお待ちしております。どうぞ「あら探し」をお願い致します・・・m(_ _)m
 


最新情報!  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月12日(月)18時08分4秒   返信・引用  編集済
  しゅうさんのBBS「東風吹かば」からの転載です。森田隆二さんのBBSにもあります。

『[3135] お知らせ!―星塚敬愛園の赤ちゃんたち 投稿者:やまね 投稿日:2007/02/12(Mon) 17:57


しゅうさん、みなさま、

たった今入った情報では、身元がわかっていない6体については、14日には火葬されないことになったそうです。

中止と書いていいのか、延期と書いていいのか、詳しいことはわかりませんが、午後5時すぎに正式な園内放送があったということです。

とり急ぎ、お知らせいたします。

多くの方たちのお気持ちが届いたことと思います。
皆さま、本当にありがとうございました。』

取り急ぎ・・・。
 


tubaki様  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月12日(月)16時22分41秒   返信・引用  編集済
  1960年というと昭和35年ですね。これは貴重な事実です。

 小生は熊本に住んでいます。本妙寺の周辺にはハンセン病の患者さんが明治4年くらいからおられました。1割?だったかの人が発病されていました。4つの集落がありました。この一帯では ハンセン病患者さんに対する偏見は少なかったといわれます。近くのハンセン病の病院待労病院が戦後火災にあった時は、周辺から たいへん同情を集めました。

 少し離れた周辺には偏見の強い人々がおられました。(青松園の近くに住まれていた先生もそのような傾向があるといわれています)

 回春病院の周辺の黒髪町は、ハンナリデルが直接病院をひらいたので、偏見が強かったといわれます(黒髪校事件がおきました)しかし通学賛成派、反対派渾然としていて、全員が偏見をもっていたわけではないようです。

 鹿児島県のその温泉町のことは貴重な報告と思います。
 
    (リベル) おや?Ichiroさん、「修正」が出来るようにおなりですね。ご努力に脱帽、感服しました。(2.13 00:12)  


1960年ごろの鹿児島でのハンセン病者  投稿者:tubaki  投稿日:2007年 2月12日(月)11時57分31秒   返信・引用
  1960年ごろ、私の故郷である鹿児島の小さい温泉町の温泉銭湯で、よくハンセン病の女性が入浴されるのと一緒になりました。もう治っているし、感染しないとの触れが入浴客に行き渡っており、何回か浴室で一緒になりました。しかし、この頃の「らい予防法」に代表されるハンセン病への社会的、公的偏見を思えば、この方がどういう経緯でこのように普通に生活できたのかが、今大きな疑問となってきました。退所して、このように生活されているかたも多かったのかどうかがわかりません。プロミン治療による軽快退所者が1951年に第一号として熊本から出ていることは年表により確かめられますが。しかしこの方も地域に住んだのは、長い年月ではなかったと思います。強制隔離政策の中で、彼女はどのような意志でと思うと、大変気になります。どなたかコメントお願いします。56歳  
    (リベル) tubakiさん、ご投稿有り難うございました。

黒川温泉の宿泊拒否事件は、2003年でした。1960年頃のお話しとすれば、貴重な事実です。どなたか、情報をお持ちの方は、よろしくお願いします。(2.12 12:38)
 


経過報告がありましたので、転載。  投稿者:しゅう  投稿日:2007年 2月12日(月)11時21分17秒   返信・引用
  http://www.shuu.org/cgi/bbs/kochi03.cgi?

日付が変わってしまいましたが11日は都内で開かれた2.11東京集会でアピールの時間を取っていただくことができ、3名で出向きました。皆さん真剣に耳を傾けてくださいました。終わって、近くにいた年配の女性に、一番大きい赤ちゃんは身長が49センチ(新生児の標準的な身長は50センチ前後)だと話をしたら、びっくりされていました。

9日には面会にも応じなかった有川園長が、11日は自治会長さんも同席で話は聞いてくれたそうです。けれども、マスコミにももう発表されている、「18体」だと報じられている、などを理由に受け入れられなかったとの知らせを聞きました。

園長と鹿屋、鹿児島の各支援会の代表の方たちとの面談は実現することになったようです。わずかな望みをつなぎます。

身元が判明した赤ちゃんたちについては14日に荼毘にふすにしても、身元が確認できていない子たちを一緒に火葬しなければならない理由はありません。園長の裁量で、暫定的な措置は可能であろうと考えます。

そこで、お願いしている厚生労働大臣への要請に加え、敬愛園・有川園長へも、ぜひ、皆さんの声を届けてください。

有川園長宛ファックスの送り先は、

星塚敬愛園 園長 有川 勲 様
FAX番号:0994−49−2542(敬愛園)


のこり2日間になりました。どうかよろしくお願いいたします。


http://www7.tok2.com/home/infantem/
 
    (リベル) 分かりました。良く分かりました。有川園長にも送りましょう。早速送ります。(2.12 12:02)  


北風さん、ドン・キショットさんへ  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月12日(月)01時43分15秒   返信・引用  編集済
  全く仰有るとおりだと思います。

読売新聞の記事の中には、藤本事件の「F」も、冤罪の「エ」も出てきません。報道管制のようなものが有るのかと思わせるほどです。でも毎日新聞は先日の社説で「藤本事件」、「冤罪の可能性」と明確に書いています。

読売新聞のああいう記事を「提灯記事」と言うのでしょう。この記事を書かせたものは何か?と問いたくなります。「正義」も「自由」も、そのカケラも見当たりません。スーパーのチラシと何ら変わりがありません。何も訴えていません。夕焼けさんの、良くお使いになる「言霊」、正しい意味での「言霊」が無い。私が、ここで喚き立てても、何も変わらないでしょうけど。

思えば「江川卓問題」の時、スポーツ部長が、全七段か、全十段を費やして江川擁護論を書きました。私は猛烈なジャイアンツファンだったので、新聞も読売新聞でした。その記事を二度、三度、赤鉛筆まで使って読みました。そして、怒って、読売新聞とジャイアンツファンと、この両方を止めました。

今でも、その決断は正しかったと、再確認しなければならないのは、悲しいですよ、読売新聞さん。


レールを切り替える「ポイント」という装置があります。(映画について触れないといけません。)私はポイントが切り替えられて、違う線路上を機関車が走り出してしまった、と考えています。文化庁(2000万円の助成金を得たと聞いています。間違っていたらご指摘ください)や全療協の了解を取り付けています。たとえその前に身を投げ出しても、列車は止まりません。飛び乗って、運転士に「何故こっちへ来たのか?」「何故そんなにお金を集めなければならないのか?」教えてくれと叫ぶことしか出来ません。

「だから、今、私はそうしている」、と言うのが、正確な、気持ちの伝え方かも知れません。


映画の問題に関連して、最近「自分の場合も、これに近いのかな?」と思いながら読んだ文章を紹介させてください。

『最近つくづく思うことは、最初から自分に近しいもの、全面的に肯定すべきものとして近づいてくるものよりも、敵であると知覚されるもの、強烈な違和感を感じさせるもの、これ、ダメじゃん、と思わせるようなもののほうが、もしその後に共鳴の回路を見いだせるのならば、深いレベルでの自分の糧になることが多い、ということである。』(「やわらか脳」茂木健一郎)
 


(無題)  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 2月11日(日)22時37分44秒   返信・引用  編集済
  >無実を訴えながら死刑になったハンセン病元患者をモデルにした映画「新・あつい壁」(中山節夫監督)が、国立のハンセン病療養所・菊池恵楓(けいふう)園(熊本県合志市)などで撮影中だ。

「無実を訴えながら死刑になった」人をモデルにしながら“冤罪”に触れない、というのは「無実」の「訴え」を取り上げないに等しい。それはかつて司法が犯した過ちを問わずにすますことで、真実を覆うことに寄与することにもなりかねないではないか?
真実は追究いたしません、しかし“啓発”はやります、できます――それでいいんでしょうか?
 


これは重要! Re: 立ち止まって考える  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月11日(日)12時02分6秒   返信・引用  編集済
  >昨日の読売新聞の記事

>今回のモデルになったのは、52年、元村職員殺人で元患者が逮捕された事件。死刑判決に対して支援運動も起きたが、再審が認められないまま62年、刑が執行された。

「死刑判決に対し支援運動が起きた」のか、「冤罪に対し支援(抗議〕行動が起こされたのか」では雲泥の差。
捜査や訴訟指揮が「偏見差別」に満ち、量刑が不当(ひとり殺して死刑は稀)だからハンセン病差別の裁判というのか、藤本さんは「冤罪」であるというところから映画を作るのでは、全く違う。
下手をすると藤本さんは「偏見差別」の犠牲者かもしれないが、犯人であったかもしれないということにされてしまう。
そうなると、藤本さんはかつては「権力による殺人の犠牲者」であり、今度は「啓発運動」の犠牲者になってしまう。

>入所者自治会の工藤昌敏会長も「人権無視で人間らしい扱いを受けなかった裁判。事件のことを広く知ってもらいたいと、映画に全面協力しています」と語る。

本当に上記のようにコメントしたのならやはり「おかしい」といわざるを得ない。かつて菊池の自治会も全患協も明確に「冤罪」を主張した。「冤罪」に触れず、「裁判」だけを問題とする自治会長の発言は映画の製作側の説明に沿うもので、あきらかに当時の自治会、全患協などの主張から「後退」している。


これは、ポイントを厳しく咎めた、重要なご指摘が多く含まれていますね。じっくり考えさせて下さい。また印刷して、早春の畦道を歩きながら、読ませて頂きます。
 


菊池恵楓園の面積:縮小  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月11日(日)10時17分22秒   返信・引用  編集済
  菊池恵楓園の面積が 縮小されました。

 各地のハンセン病療養所の面積は たいへん広い。私は勤務していた時の菊池恵楓園の広さを実感している。そして それは 1単位になっている。現在では 甲子園とか 東京ドームとか 東京駅前(1万坪といっていた)その面積を測る単位(何倍とかいう)であったが、マア そんな感じで恵楓園の面積を受け止めていた。

 面積は19万坪であったが 最近18万坪になった。東官舎の土地が更地になり、管理が変わったからである。

 菊池恵楓園をメグル一周道路を正確に測ると3.7キロであった。一キロ四方より狭い(1キロ四方だと36万坪)東官舎と元刑務所は一周道路の外側である。

 例えば中国の天安門広場は 恵楓園より狭いし、ロマンチック街道(ドイツ)の城壁都市の一つを訪れたときは、なんだ、恵楓園よりは狭いのだなと計算した。

 モット広い療養所もある。長島は100万坪だったかな。宮古南静園は5万坪である。恵楓園では広いので事務にお願いして自転車を手に入れてもらった。(いろいろ落ちていたので)園の中にも自転車屋さんがあったが いつの間にかなくなった。
 
    (リベル) なるほど、減った部分が「一万坪」なのだから、これは広大な土地ですね。(2.11 12:32)  


立ち止まって考える  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月11日(日)08時59分39秒   返信・引用  編集済
  http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/topics/20070210et01.htm

> 今回のモデルになったのは、52年、元村職員殺人で元患者が逮捕された事件。死刑判決に対して支援運動も起きたが、再審が認められないまま62年、刑が執行された。

「死刑判決に対し支援運動が起きた」のか、「冤罪に対し支援(抗議〕行動が起こされたのか」では雲泥の差。
捜査や訴訟指揮が「偏見差別」に満ち、量刑が不当(ひとり殺して死刑は稀)だからハンセン病差別の裁判というのか、藤本さんは「冤罪」であるというところから映画を作るのでは、全く違う。
下手をすると藤本さんは「偏見差別」の犠牲者かもしれないが、犯人であったかもしれないということにされてしまう。
そうなると、藤本さんはかつては「権力による殺人の犠牲者」であり、今度は「啓発運動」の犠牲者になってしまう。

>入所者自治会の工藤昌敏会長も「人権無視で人間らしい扱いを受けなかった裁判。事件のことを広く知ってもらいたいと、映画に全面協力しています」と語る。

本当に上記のようにコメントしたのならやはり「おかしい」といわざるを得ない。かつて菊池の自治会も全患協も明確に「冤罪」を主張した。「冤罪」に触れず、「裁判」だけを問題とする自治会長の発言は映画の製作側の説明に沿うもので、あきらかに当時の自治会、全患協などの主張から「後退」している。
 


確信犯  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月11日(日)01時25分39秒   返信・引用  編集済
  「ハンセン病の起源と歴史」をチェックしていたら、今度は「Science」誌が「登録」を求めてきました。膨大なアーカイヴなので、これはやむを得ないと思いますが。

が、念のため、と、また例の悪い癖を出しました。登録して、画像も含めて、我が家(ホームページビルダー)に取り込みました。だからいつでも、お読みになれます。お暇な方は、これをどうぞ。

左上方の「Account Information」に、犯人の名前が出ています。この辺が、憎めないところ・・・(>_<)
 


お詫び!  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月10日(土)23時45分15秒   返信・引用
  「余談:クオリア日記のコメントは、死にませんでした 投稿者:リベル 投稿日: 2月10日(土)17時50分29秒」は削除しました。

「余談」を書いている場合ではないし、タイトルも不謹慎なので。<(_ _)>
 


「新・あつい壁」、読売新聞の報道  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月10日(土)18時19分1秒   返信・引用
  ご存知かも知れませんが、読売新聞にこういう記事が。  


緊急行動の宛先&要請書サンプル  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月10日(土)12時12分23秒   返信・引用  編集済
  北風さん、有り難うございました。心当たりへは、転載させて頂いてきました。(2.10 12:48)


下の投稿から、まとめなおしたものです。

【厚労省関係】

●厚生労働大臣執務室 柳澤 伯夫 様 FAX番号:03−3595−2020

●厚生労働省医政局局長 松谷 有希雄 様 FAX番号:03−3592−0710

●厚労省宛てメール(投稿フォーム):https://www-secure.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html


【星塚敬愛園】

●国立ハンセン病療養所星塚敬愛園園長 有川 勲 様 FAX番号:0994−49−2542



要請書 サンプル:下の北風さんご紹介のものと同じものです。念のため。
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           緊 急 要 請 書


厚生労働大臣 柳沢伯夫殿


 国立療養所星塚敬愛園では突然、数日後の2007(平成19)年2月14日という友引の日に、遺族の承諾もないまま、「胎児等標本」(人工妊娠中絶もしくは自然流産または人工早産などによる胎児・新生児のホルマリン漬け標本)という名称の子ども達の最後の火葬焼却が行われようとしています。

 2年前に貴省に報告された「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書によれば、「中には新生児に対し療養所職員による刑法上の殺人が行われていたのではないかと考えざるを得ないケースも存在する」との報告がされていますように、合法性はもとより、殺人罪の可能性をも問われています。
現在星塚敬愛園に保管され荼毘にふされようとしている18胎児の中には、いまだにご両親が未確定と考えられる子ども達も存在すると聞き及んでいます。

 国家的犯罪と断罪された「らい予防法」とその政策による強制堕胎等の被害の歴史が未だ十分に検証されていないまま、強制堕胎された子ども達が、闇から闇に葬られようとしていることに、許し難い激しい憤りを感じざるをえません。

 そのため緊急要請として、いまだご両親が未確定、または肉親による荼毘の承諾がない子どもたちを荼毘にふし火葬焼却することを中止され、真相解明の調査を継続されますよう、強く要請致します。


 なお、現在、全国各地に退所し生活している退所者は、現在療養所に入所してられる回復者の約半数の1500人近くに及びます。これら退所者のうち、子どもが「胎児等標本」にされていた時期に療養所に入所されていた方々の安否は知るよしもありませんが、厚生労働省の疾病対策課等が掌握中の資料等によるご両親捜しは行われたのでしょうか。火葬焼却される前にお一人でも多くのご両親ご親族を探され承諾を得ることを合わせて要請致します。
緊急を要する事態でありますので、すみやかなるご対処をお願い致します。

何卒、対応可否のご回答を頂きたく伏してお願い致します。

                              2007年2月○○日
 


転載  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月10日(土)11時57分33秒   返信・引用  編集済
  緊急のお願い  投稿者:朝潮太郎  投稿日: 2月10日(土)02時14分41秒

ルリカケス様

星塚敬愛園の赤ちゃんたちの標本が、急遽、来週14日(水)に荼毘にふされてしまうことになりました。年度末と言われていたのに、たいへんショックです。突然のことで星塚の皆さんも混乱されているようです。
14日はいわゆる「友引」の日。一般には葬儀をしない、火葬場はお休みの日です。その日にいっぺんに「焼却処分」をしてしまおうというのでしょうか。横暴な進め方に怒りがこみあげてきます。

療養所に残された赤ちゃんたちの標本はこれで最後です。敬愛園には、まだ身元がわかっていない赤ちゃんたちと、ご自分たちのお子さんを探しておられるご家族がいます。厚労省内も含めた諸資料との照合など、あらゆる方法に手を尽くしたのか、納得できないままです。
なんとかして、まだ身元が判明していない赤ちゃんたちだけでも、待ってもらうことができないものでしょうか。

13日(火)午後には鹿児島の支援の方たちも集まって緊急の抗議集会が行われると聞いています。
私たちは有志で厚労大臣宛てに緊急の要請書を作成し、ファックスで送信しました。
大臣に対応してもらうには、もう連休明けのたった1日しか猶予がありません。これをご覧になっている方々もどうか下の要請文を参考に、この連休中、厚労大臣宛に声を集中させてください。
ご協力、よろしくお願いします。

<<転載歓迎>>
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          緊 急 要 請 書 ★以下は、北風さんご紹介のものと同文なので省略します
 


(無題)  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月10日(土)11時38分17秒   返信・引用
  キリスト者女性のネットワーク 情報No.78

■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「すべての暴力を克服する10年」関連
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

―――緊急―――
★ 胎児標本一斉火葬・埋葬に関して、
    キリスト者女性ネット緊急お願い

昨年、全国のハンセン病療養所に残されている胎児標本
を一斉火葬・埋葬しようとすることに対して多くの市民
の抗議がなされ、一斉火葬は止めることができました。
厚生労働省から大臣ないしは担当者が療養所を訪問して
、「胎児標本が永年にわたって放置されていたこと」へ
の謝罪がなされました。しかし、堕胎が強制されたこと
、中には生きて生まれているのに殺されたと証言する女
性達がいることについては、黙したままです。

この度、最後まで火葬されないでいた鹿児島県鹿屋市の
「国立ハンセン病療養所 星塚敬愛園」に保存されてい
る胎児標本18体が火葬されることになったとの情報が
入りました。この胎児達のうち6体は身元が判明してい
ません。そして4人家族が「堕胎あるいは殺された」自
分の赤ちゃんを探しています。
この6体について詳細な鑑定もしないまま、火葬・埋葬
してしまうことに反対、抗議をお願い致します。「身元
の分からない6体についての火葬・埋葬をやめてほしい」
旨、それぞれの言葉で発信してくださるようお願いしま
す。
火葬が予定されているのは14日朝8時だとの情報を得
ています。大変急を要しますので一人でも多くのご協力
をお願い致します。
                 NCC女性委員会

FAX送り先:

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国立ハンセン病療養所 星塚敬愛園
  園長 有川 勲 様
  0994−49−2542
==================
  厚生労働省医政局
  局長 松谷 有希雄 様
  03−3592−0710
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


=========================

東京都新宿区西早稲田2−3−18−24
 NCC女性委員会
TEL03-3203-0372
FAX03-3204-9495
Email ncc-j@jca.apc.org
 


Re: 転載  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月10日(土)11時35分25秒   返信・引用
  > [3125] 緊急のお願い 投稿者:やまね 投稿日:2007/02/10(Sat) 10:05
>
>
> ○○さん、こんにちは。
>
> 星塚敬愛園で最後に残っていた「胎児等標本」が、来週14日(水)に急きょ荼毘にふされることになりました。
>
> 私たちは有志で緊急の要請書を柳沢厚生労働大臣宛てにファックスを送信し、緊急の対応を求めています。まだ身元が判明していない赤ちゃんたちも含まれており、その子たちだけでも、何とか、火葬(焼却)を中止できないものでしょうか。残された時間はわずかしかありません。どうかみなさまも、下記の緊急要請書をお読みの上、大至急、それぞれの声を届けていただければと思います。
>
> -----------------------------------------------
>
>            緊 急 要 請 書
>
>
> 厚生労働大臣 柳沢伯夫殿
>
>
>  国立療養所星塚敬愛園では突然、数日後の2007(平成19)年2月14日という友引の日に、遺族の承諾もないまま、「胎児等標本」(人工妊娠中絶もしくは自然流産または人工早産などによる胎児・新生児のホルマリン漬け標本)という名称の子ども達の最後の火葬焼却が行われようとしています。
>
>  2年前に貴省に報告された「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書によれば、「中には新生児に対し療養所職員による刑法上の殺人が行われていたのではないかと考えざるを得ないケースも存在する」との報告がされていますように、合法性はもとより、殺人罪の可能性をも問われています。
> 現在星塚敬愛園に保管され荼毘にふされようとしている18胎児の中には、いまだにご両親が未確定と考えられる子ども達も存在すると聞き及んでいます。
>
>  国家的犯罪と断罪された「らい予防法」とその政策による強制堕胎等の被害の歴史が未だ十分に検証されていないまま、強制堕胎された子ども達が、闇から闇に葬られようとしていることに、許し難い激しい憤りを感じざるをえません。
>
>  そのため緊急要請として、いまだご両親が未確定、または肉親による荼毘の承諾がない子どもたちを荼毘にふし火葬焼却することを中止され、真相解明の調査を継続されますよう、強く要請致します。
>
>
>  なお、現在、全国各地に退所し生活している退所者は、現在療養所に入所してられる回復者の約半数の1500人近くに及びます。これら退所者のうち、子どもが「胎児等標本」にされていた時期に療養所に入所されていた方々の安否は知るよしもありませんが、厚生労働省の疾病対策課等が掌握中の資料等によるご両親捜しは行われたのでしょうか。火葬焼却される前にお一人でも多くのご両親ご親族を探され承諾を得ることを合わせて要請致します。
> 緊急を要する事態でありますので、すみやかなるご対処をお願い致します。
>
> 何卒、対応可否のご回答を頂きたく伏してお願い致します。
>
>
>
> -----------------------------------------------
> 大臣執務室 FAX番号:03−3595−2020
> ===============================================
>
> 厚労省宛てメールは
>
https://www-secure.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html
 


ゼローム神父  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月10日(土)10時52分0秒   返信・引用  編集済
  「奄美の使徒ゼローム神父記念誌」

 編集委員の方よりいただきました。ありがとうございます。写真がたくさん含まれた大きな本です。ハンセン病の歴史にも関係すると思い アップします。

  昭和29年11月 ハンセン氏病未感染児収容所「こどもの家」創設
  (子どもを抱いた7人のシスターの写真あり)
  昭和34年 「名瀬天使園」と改名
  (写真あり)
  (ほかに14名の乳幼児と少年、少女、神父さん、シスターたちのカラー写真あり)

 奄美福祉の父 ゼローム神父 (大茂卓郎さん)
  前略 「あなた方は子どもたちをおろしてはいけません。皆にたいする責任は私達がもちます。」カナダ出身の管区長より、手紙が届いた。そしてフランスの総長より手紙が届いた。そしてシスター達がこられ全責任を引き受けた。これが天使園の開園です。

 昭和62年 第38回南日本文化賞 受賞 (ハンセン病未感染児の養育事業にたいして)

 平成元年 南海文化賞 南海新聞社

 私とゼローム神父さま  (嘉元 伸一さん)

 らい予防法が廃止された年、奄美和光園で感謝のミサがあった。「全国のハンセン病療養所のなかで唯一ここだけ子どもが授かり、孫までいる。神父さんありがとう」と言ってくれて、そのことを口にされ、(神父さんは)タイヘン嬉しそうにしておられた。

 ゼローム神父は大正11年(1922年)アメリカのコネチカット州ニューへブンで生まれ、昭和27年奄美にこられ、平成15年(2003年)3月19日昇天された。享年80歳。1992年名瀬市名誉市民。(10人目)
 


転載  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月10日(土)10時19分14秒   返信・引用
  [3125] 緊急のお願い 投稿者:やまね 投稿日:2007/02/10(Sat) 10:05


○○さん、こんにちは。

星塚敬愛園で最後に残っていた「胎児等標本」が、来週14日(水)に急きょ荼毘にふされることになりました。

私たちは有志で緊急の要請書を柳沢厚生労働大臣宛てにファックスを送信し、緊急の対応を求めています。まだ身元が判明していない赤ちゃんたちも含まれており、その子たちだけでも、何とか、火葬(焼却)を中止できないものでしょうか。残された時間はわずかしかありません。どうかみなさまも、下記の緊急要請書をお読みの上、大至急、それぞれの声を届けていただければと思います。

-----------------------------------------------

           緊 急 要 請 書


厚生労働大臣 柳沢伯夫殿


 国立療養所星塚敬愛園では突然、数日後の2007(平成19)年2月14日という友引の日に、遺族の承諾もないまま、「胎児等標本」(人工妊娠中絶もしくは自然流産または人工早産などによる胎児・新生児のホルマリン漬け標本)という名称の子ども達の最後の火葬焼却が行われようとしています。

 2年前に貴省に報告された「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書によれば、「中には新生児に対し療養所職員による刑法上の殺人が行われていたのではないかと考えざるを得ないケースも存在する」との報告がされていますように、合法性はもとより、殺人罪の可能性をも問われています。
現在星塚敬愛園に保管され荼毘にふされようとしている18胎児の中には、いまだにご両親が未確定と考えられる子ども達も存在すると聞き及んでいます。

 国家的犯罪と断罪された「らい予防法」とその政策による強制堕胎等の被害の歴史が未だ十分に検証されていないまま、強制堕胎された子ども達が、闇から闇に葬られようとしていることに、許し難い激しい憤りを感じざるをえません。

 そのため緊急要請として、いまだご両親が未確定、または肉親による荼毘の承諾がない子どもたちを荼毘にふし火葬焼却することを中止され、真相解明の調査を継続されますよう、強く要請致します。


 なお、現在、全国各地に退所し生活している退所者は、現在療養所に入所してられる回復者の約半数の1500人近くに及びます。これら退所者のうち、子どもが「胎児等標本」にされていた時期に療養所に入所されていた方々の安否は知るよしもありませんが、厚生労働省の疾病対策課等が掌握中の資料等によるご両親捜しは行われたのでしょうか。火葬焼却される前にお一人でも多くのご両親ご親族を探され承諾を得ることを合わせて要請致します。
緊急を要する事態でありますので、すみやかなるご対処をお願い致します。

何卒、対応可否のご回答を頂きたく伏してお願い致します。



-----------------------------------------------
大臣執務室 FAX番号:03−3595−2020
===============================================

厚労省宛てメールは
https://www-secure.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html
 


余談:エジソンの言う天才  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月10日(土)01時30分35秒   返信・引用  編集済
  茂木健一郎さんの「クオリア日記」(2004年12月21日―いまこれは「やわらか脳」という本になって徳間書房から出ています)にこう書いてあります。

 『エジソンの、Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration
(天才とは、1%のインスピレーションと99%の努力である)という有名な言葉の意味が
従来よりはっきり判った。

 ひらめきは一瞬で来る。しかし、そのひらめきを実際に形にして、人々の間で流通するようなものに仕上げるには、長い時間と地道な作業の積み重ねが必要となる。
 それが、99%の努力となる。』

私は、えぇっ!と思いました。私はエジソンのこの言葉は「99%の努力の積み重ねが有って、初めて1%の閃きに恵まれる」という意味に解釈していました。例えば湯川秀樹の中間子理論の発想、絵画や音楽のような芸術作品の誕生、などはそうなのだろうと。

しかし、茂木さんに言わせれば、「クオリア」が先ず閃いた。しかし、それを今のように認知して貰うのは、容易でなかった。99%の汗をかいた、ということなのかも知れません。ダーウィンの例を引いて居られます。

両方言える、としますか?

いや、私は、茂木さんが勘違いをなさっていると思います。茂木さんの「クオリア」の閃きは、無から生じたものではない。ダーウィンの閃きも然り。そこに至るまでの、地道な長い努力の下地があって、初めて、素晴らしい閃きが生まれたのだ。そう思います。

真相は、茂木さんはそれを100も承知していて、逆説的に言い換えられたのかも知れない。茂木さんの「謙虚さ」のなさしめたこと、なのだろうと・・・さあ・・・?
 


(無題)  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 2月 9日(金)15時34分25秒   返信・引用  編集済
    見せかけの優しさで
  汝(な)を縊り殺そうとするものを
  拒め
  律法従うに足らざれば
  順わぬ者たれ

拙歌。四句めの「律法」を「司法」と言い換えました。
“確信犯”的行為主体であるリベルさんに頂いていただけて、光栄です。
(チャンチャン!)
 
    (リベル) な、な、なんと!拙歌とは・・・!

エミさんは、詩人でいらっしゃいましたか?お医者さんかと思わせるかと思えば・・・。恰も牛若丸ですね。わたしゃ、恰も弁慶の如く、右往左往で御座います・・・。(2.9 17:37)
 


ロードマップ委員会(加筆、再掲載)  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 2月 9日(金)14時30分17秒   返信・引用
  リベル様へ

 こんにちは、ルリカケスです。早速拝見致しました。小林弁のロードマップ委員会の説明生きてきましたし、重みが出で来ましたですね。さすがお御所ですね。
さて他でもないですが「ハンセン病対策基本法」自体が詳しく書かれていますか?未だ各支部等でも、議論の段階と思います。それに私自信が未だ詳しく把握いたしておりません。
リベル様このHPにて、何処に詳しく書かれていますか?教えて下さい。今日仕事休みでHPを観ています。宜しくお願い申し上げます。
 
    (リベル) 今現在、私は具体的なことは何も承知していません。「ハンセン病問題を考える」のページで「ハンセン病首都圏市民の会」のHPから転載したものの範囲しか知りません。これを機会に、勉強してみます。有り難うございました。(2.9 15:20)  


(無題)  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 2月 9日(金)14時11分35秒   返信・引用  編集済
  > 『どうもわが国民の気風は、国家が無罪と判決しないうちは無罪と認めない体制順応の傾向が強い。しかし無罪判決がマスコミではなばなしく報道される裏には、無罪判決のない無罪が、夜空の星の数よりも多いことを知らなければならない。これがほんとうの冤罪である。今後はそういうものの発掘にこそ努力しなければならない。そして体制側の刑事訴訟手続きでは、どうしようもないものは、私たちによって、人民の名において無罪の判決をすることになるであろう。それはあるいはすでに刑が終ったのちの裁判になるかもしれないが、そういうものであっても、現在の裁判をただすためには、決して無意義ではないとおもう。』(森長英三郎「冤罪の証明」・旺文社文庫・解説から)

・・・・・・・・・・
“有る”ことの証明に比べ、“無い”ことの証明は非常に困難であるといわれる。
司法によって一旦“有罪”の烙印を押されてしまったものについては、その“有罪”判定が過誤である可能性が全く無でない限り、再び司法手続きをもって“無罪”が証明される可能性がある。そして、司法の“有罪”判定が過誤であった場合には、その過ちは正されなければならない。
藤本さんの場合は、再審請求中であるにも拘らず刑が執行された。このことひとつをとってみても、司法は過ちを犯したといわざるをえない。もし司法のこのような過ちを正そうとする志を放棄するのであれば、わたしたちの誰もが、“無い”ことを証明できない場合にはいつでも司法による不当な裁きを執行される可能性があるということを自ら受け入れることになるではないか。もし、わたしたちがある人の「無罪判決のない無罪」を信じるなら、たとえ司法の場での“無罪”証明はできずとも、わたしたちひとりひとりの良心に照らして、いまだ証明されずにいる“無罪の判定”をすべきであろう。

  司法従うに足らざれば 順(まつろ)わぬ者たれ
 
    (リベル) >司法従うに足らざれば 順(まつろ)わぬ者たれ

これは、頂きます。私の「著作権法」も、この伝です。

ところで、この言葉は、どなたのものでしょうか?ソクラテスの逆ですね。お教えください。宜しくお願いします・・・m(_ _)m (2.9 15:08)
 


控訴断念の時の坂口さん  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 9日(金)13時55分34秒   返信・引用  編集済
  公明党のHPに有ったので、拾ってきて、保存しました。「確信犯」・・・(笑)

また、真っ昼間から泣かされました・・・(涙)
 


ロードマップ委員会(加筆、再掲載)  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 9日(金)12時52分14秒   返信・引用  編集済
  西日本弁護団のメールニュースに「ロードマップ委員会を傍聴しましょう」という小林弁護士の一文があることを、「森山一隆氏のBBS」で見付けて、小林氏の許可を得て「ハンセン病問題を考える」に、掲載しました。目次の下から二番目です。

「ロードマップ委員会」は小林弁護士の仰有るとおり、余程真剣にウォッチングしていないと、厚労省が「委員会」の存在自身を有耶無耶にし、抹殺してしまう危険性が大です。

考えてみると、今紹介した「ハンセン病問題を考える」だけでなく、現在取り組んでいる「医学的知見の変遷」にしても、厚労省との「闘いの歴史」です。そう思って振り返ると、これまで作ってきた年表の殆ど全てが「厚労省(内務省・厚生省)との闘いの歴史」なのです。事あるたびに、障害物として立ち塞がってくるのが、厚労省なのです。なにゆえか。公務員・公僕が、何故、国民の利益を最優先にしなかったのか、しないのか、出来ないのか!

お目触りを覚悟しつつ、列挙したくなりました。

「略年表」
「病名の変遷」
「主な法律の変遷」
「国賠訴訟関連年表」
「統一交渉団の歩み」
「検証会議関連年表」
「年表 日本のハンセン病」
「ハンセン病問題を考える」(年表とは言えないかも知れませんが)

私の作った(除く「宿泊拒否問題関連年表」、「藤本事件関連年表」)全ての年表が「厚労省との闘いの歴史」であることに気付いて、唖然とします。どの国の、どんな年表も、このように「官権」との闘いの年表なのでしょうか?

日本の厚労省の、ハンセン病に関する対応が、如何に非道なものであったか?、そしていまなお非道なものであるか? 怒りを禁じ得ないのです。
 


医学教育を受けた最初の女医  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月 9日(金)05時44分42秒   返信・引用  編集済
  忘れないうちに 書きます。

 熊本のハンナ・リデルに関して Lady Julia Boyd がいい本を書かれてから10年以上経ちます。小生は少々加勢したので、たまたま昨年英国にいったので、会いたいと連絡しました。丁度ご主人が大学を辞めたり、大英博物館のチェアマンを辞められた時期にあたり、住居などの関係で会えず、その代わり携帯で何回か電話しました。
 その時に判ったのですが、いい本を書かれていました。世界最初の女医の本です。

  http://bakercenter.utk.edu/Ladyboydflyer.pdf

 Lady Julia Boydは 相変わらずご活発ですね。ドライバーは女史の方が多く、ドライブ中ではご主人がでられて恐縮しました。(Sir Boyd ケンブリッヂのどこかの学長、大英博物館のチェアマン、10年以上前の駐日英国大使)朝出勤前に女史に電話して比較的長く携帯で電話できました。もう、住居がきまり、会えるとは思いますが。

  ハンセン病に関していい本を書かれた方が 世界最初の女医について 本を書かれたということで ハンセン病に関係があるという話は微妙ですね。怒られそうです。
 


余談:福音  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 9日(金)03時08分16秒   返信・引用
  茂木健一郎さんが、経営学者の野中郁次郎氏(著書が全米出版協会「ベストブック・オブ・ザ・イヤー」を受賞)の主催する研究会で話を聞いたときのことを、書いています。

『野中さんは学童疎開で沼津に行って、そこでB29が駿河湾から富士山に向かってまっすぐ飛んでいくのを見ていたそうだ。

「それでね、途中で右折するんですよ」

と野中さんが言われた時、「右折」という言葉に物凄いリアリティがあって、戦慄が走った。

「沼津の途中で機銃掃射してね、逃げながら見上げると、パイロットが笑っていてね、クソ、と思いましたよ。あれが私の人生の原点ですね。アメリカめ、今に見ていろ、と思いましたよ。それがアメリカに実際に留学したら、コロリと好きになってしまって」

部屋の中を魂がよぎっていく気配がした。
その瞬間の空気の変容を、私は、野中さんが与えてくれた福音であるように感じた。』

私は、この最後の2行を何度も読み返しました。「福音」って知っている以外の意味が何かあるのかな、と辞書を引こうかと思いましたが、止めました。立ち上がると何か今掴んだとても大事なものが、逃げていくような気がして。それよりも、今何を掴んだのか、良く確かめなければ。分からないので。
 
    (リベル) 分かりました。茂木さんの持ち合わせている「感性」です。
魂がよぎっていく気配を感じる「感性」、福音であるように感じる「感性」です。

これが私には乏しい。無くはないから、余計気になる。口惜しい。私があの場にいても、同じことを感じたか?否です。そういう「感性」をどうやって磨いたのか茂木さんは?今から、私でも磨けるようなものなのか?これがとても大事なものの正体でした。へへ、もう遅いよ、と言う声が聞こえてきます。クソ、と思わなければ・・・。(2.9 03:29)
 


ロードマップ委員会  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 9日(金)01時03分56秒   返信・引用  編集済
  西日本弁護団のメールニュースに「ロードマップ委員会を傍聴しましょう」という小林弁護士の一文があることを、「森山一隆氏のBBS」で見付けて、小林氏の許可を得て「ハンセン病問題を考える」に、掲載しました。目次の下から二番目です。

「ロードマップ委員会」は小林弁護士の仰有るとおり、余程真剣にウォッチングしていないと、厚労省が「委員会」の存在自身を有耶無耶に消し去ってしまう危険性が大です。

考えてみると、今紹介した「ハンセン病問題を考える」だけでなく、現在取り組んでいる「医学的知見の変遷」にしても、厚労省との「闘いの歴史」です。そう思って振り返ると、これまで作ってきた年表の殆ど全てが「厚労省(内務省・厚生省)との闘いの歴史」なのです。

お目触りを覚悟しつつ、列挙したくなりました。

「略年表」
「病名の変遷」
「主な法律の変遷」
「国賠訴訟関連年表」
「統一交渉団の歩み」
「検証会議関連年表」
「年表 日本のハンセン病」

ここに挙げなかった「宿泊拒否問題関連年表」と「藤本事件関連年表」以外の全てが「厚労省との闘いの歴史」であることに気付いて、唖然とします。どの国の、どんな年表も、このように「官権」との闘いの年表なのでしょうか?

日本の厚労省の、ハンセン病に関する対応が、如何に非道いものであったか?、そしていまなお非道いものであるか? 怒りを禁じ得ないのです。
 


コスモスの花陰で(2)  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月 8日(木)21時19分45秒   返信・引用
  コスモスの花陰で(2)

 横川 つる  (光明園)
 井上 テイ  (敬愛園)
 小川 正子  (愛生園)
 林 富美子  (全生園、愛生園、青松園、復生病院)(林文雄の妻)
 名和 千嘉  (愛生園、宮古南静園で診療援助)
 渡邊芳子   (全生園)
 高橋竹代   (大島療養所、北部保養院)
 松田さだ   (東北新生園)
 高野桑子(島野)(栗生楽泉園)
 竹下 芳    (敬愛園、楽泉園)(光田健輔の長女)
 川原 ユキエ  (待労病院長)
 永井 深    (待労病院長代理)
 岡村和子    (全生園、復生園)
 榎本てい    (敬愛園)
 板倉和子    (待労病院長)
 横田百合子  (愛生園、新生園、小鹿島病院)(林文雄の妹、光田健輔三男横田篤三と結婚)
 田 豊子    (敬愛園、小鹿島病院、新生園)
 神谷 美恵子  (愛生園)
 嶋崎紀代子   (韓国定着村)
 松本淑子    (青松園)
 安藤 智恵子  (光明園)
 湯川 智    (復生病院長)
 鈴木道子    (新生園)
 小原安喜子(おばら先生●千葉大昭和39年卒 大島青松園、光明園、韓国などで働く、韓国医師免許もおもちであった。宮古の学会の時は園で宿泊された)

 光田健輔は仕事上にも縁戚関係を作っている。なかなか仕事に入ることが難しい時代であった。蛇足であるが、小生の経験でも、以前は ハンセン病療養所では職員がなかなか集まらず(スチグマのせいもあろうが)、職員の縁戚などをたくさん採用することになった。そういう理由で、その関係も把握しなくてはならない。
 昔は、女性はあまり医学部に行くことが少なかった。それで東京女子医大出身の女医の先生の比率が多かったのであろう。現在は仕事の上では、医師の出身大学などは、あまり問題にしない。ほかに、小生が知っている女医先生は熊本大学、琉球大学出身である。あと何人か知っているがどこ出身か知らない。
 


コスモスの花陰で(1)  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月 8日(木)21時15分45秒   返信・引用
  コスモスの花陰で(1)

 「らい医療にたずさわった女医達の記録」 東京女子医大皮膚科学教室 (教授 肥田野 信)  (ここの卒業生(前身を含む)のみの女医です、最後に例外あり) 関連の文章などあり、すばらしい本です。らい学会記念平成2年発行。なかなかいい資料である。

 ●ご本人の手記、林富美子先生などの文章、過去に出版された文章、手記などによりなる。名前の表現が一定しない。例えば最初の場合、服部ケサ、服部けさ子、服部袈裟子などある。園の名前も書かれたママにした。
 ●11の文献を挙げてある。その一つは「らい園と女医列伝」桜井方策著(昭和29年)である。
 ●波乱万丈の人生を送られたかたもおられる。服部ケサ先生、田中逸野先生、松田なみ先生などである。
 ●名前と関係療養所などを挙げる。

服部ケサ (明治38年東京女医学校入学。全生病院、草津バルバナ医院開業)
田中逸野(潮崎)(韓国定着村、愛生園など)
西原ツボミ  (全生園、大正14年)
(国立らい療養所最初の女医とあるが、服部ケサ全生病院 大正6年、大政みよし 大正13年より後である)
大政みよし  (外島保養院)
三宅美登  (大島青松園、敬愛園)
梅川ちよの  (光明園、松ヶ丘保養院)
芝 八重子  (光明園)(賀川豊彦が義兄)
五十嵐まさ  (全生病院)
松田 なみ  (九州療養所、愛楽園、敬愛園、愛楽園)

波乱万丈の生涯である。九州療養所へは昭和10年、当時のことも書かれている。医務課長(副園長)は内田守氏であった。昭和13年乞われて国頭愛楽園へ、宮崎園長の許可なく、辞表を提出したという。愛楽園では、地上戦ともなった凄惨な戦いの中で過ごした。医局長であったという。「医局看護科には男性が3名いたが、応召、戦死された。(介護員のことと思われる)三上婦長を中心に7人の白衣群はまるで戦場における七人の武士のように勇敢に最後まで踏みとどまって職務を遂行した。」敬愛園には昭和21年、また愛楽園には昭和41年に転勤。
 続く

●閑話休題:女医の問題です。
 世界で始めて医学教育を受けた女医は誰でしょう?

 ヒント:ハンセン病に関係があるかどうか 微妙な問題です。
 


医師の評価  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月 8日(木)17時45分16秒   返信・引用
  医師の評価

 森鴎外は 医師としては 森林太郎である。陸軍軍医である。
 彼の医師としての業績は惨憺たるものである。それこそ帝国を累卵の危うきに陥れた。彼一人ではないが、彼はその首魁といえよう。
 ご存知の通り、脚気の問題である。彼は陸軍である。
 海軍には高木兼寛がいた。こちらは麦飯で脚気は殆ど0にまで抑えた。日清戦争の時、陸軍は白米を使い、陸軍兵士、17万名、戦死者 453名、脚気患者 41,421名、死亡4,064名。
 海軍では少数の脚気患者が出て、死亡者は3名であった。
 明治天皇自ら脚気になり、海軍の説を重んじた。
 海軍の学者も負けてはいなかったが、すべて出世を妨げられた。
 森鴎外は出世した。

 ということである。森鴎外の文名は矍鑠たるものである。軍医として出世もした。
 責任問題は起こらなかったのであろうか。少々割り切れない。
 


待老ですと!!Re: 先生は結構肝心なところで誤字がおおい(笑)Re: 女医たち:失礼!  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 8日(木)12時15分24秒   返信・引用
  > >  板倉和子院長を忘れていました。琵琶崎待老病院院長です。
>
> 待労。待老だと、リベルさんが反応しそうでしゃれにならない(笑)。

「待老」ですと!!そうではありません。
「既老」、「既老」ですよもはや・・・。昨今の私をご覧頂けば、火を見るより明らかでしょう・・・(笑)
 


失礼しました  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月 8日(木)11時56分7秒   返信・引用
  いつも間違わないように注意しているのですが、そのまま入力する時に間違ってしまいました。板倉先生はよく知っているので 益々 赤面です。
 失礼しました。
 


先生は結構肝心なところで誤字がおおい(笑)Re: 女医たち:失礼!  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月 8日(木)09時20分33秒   返信・引用
  >  板倉和子院長を忘れていました。琵琶崎待老病院院長です。

待労。待老だと、リベルさんが反応しそうでしゃれにならない(笑)。
 


女医たち:失礼!  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月 8日(木)09時00分20秒   返信・引用
  失礼しました。

 板倉和子院長を忘れていました。琵琶崎待老病院院長です。タイヘン失礼をしました。
 コスモスの花陰で らい医療にたずさわった女医達の記録

 が見つかりましたので、一覧表などアップしようと思います。
 


「とつぼ住宅運動」については・・・  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 2月 8日(木)07時48分30秒   返信・引用
   私は多義的な考察が求められていると思っています・・・

 リベルさんが敬意を表していると思えるお方の、まずは論考です!
    
http://homepage3.nifty.com/akito/news885-1.htm

 続いて、
    http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/totubojyuutaku.htm

 この文章の中に僅かですが重い言葉が告げられています・・・「恩賜記念館の背後は断崖で海に面しており,自殺の名所とも言われ,投身自殺をされる方が多々いました。長島愛生園では他園と比較すると自殺をされた方が多いそうです。また,戦中戦後の死・・・・・・
    
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-fujita/data/b-h/h-h/b-aiseien-g-nagasima.html

 リベルさん、私は現在に於いては、「誘導からの 煽動 がとても容易ならざるが如し」と、思っているのです。私も多種多様な情報からの考える行為が成されていなければ、悲しいかな「映画制作推進者」と、なっていただろう、マスコミの映画制作に関する情報からだけでは・・・、そして、志村さんと出会っていなければ・・・!?・・・そう思うのです。
 
    (リベル) 申し訳ありません。私は、72歳の、クタバリカケです。仰有ることが、理解できません。どうかもう、見放して下さい。こんな馬鹿に百万言を費やしても、どうしようもないと・・・。お願いします。夕焼けさんの素晴らしい熱意とエネルギーを、もっと有用な方向にお使いください。本当に、ご免なさい。努力したのですが・・・(涙)(2.8 23:46)  


余談:反省  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 8日(木)02時54分1秒   返信・引用  編集済
  今年に入ってからか、殆ど毎日、何か反省をしている私ですが、もう一つ反省を・・・。

先頃から、2度取り上げた千住博さんの「ルノワールは無邪気に微笑む」を今日読み終わりました。ましたのですが、どうも参りました。先日「決してお薦めはしません」と書いた、その舌の根も乾かぬ内に、またや前言取り消しをしなければなりません。

どうも金持ちのボンボン育ちで、挙げ句の果てに「芸術は平和創造のプロセス、ピースメーキングプロセスだ」と宣うに及んでは、匙を投げかけていたのですが、やはり「人の話は最後まで聞け」でした。最後の章の8頁だけで、ノックアウトを喰らいました。

水が入りすぎて、崩壊寸前のダム状態だった私が、この最終章のワンパンチで、一挙に崩壊してしまったようなものです。この本の題名の意味が一挙に理解できて、何と、やはり「芸術はピースメーキングプロセス」なのかも知れないなどと・・・教祖性があります、この人、千住(?)観音さん・・・。
 


お前もか・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 8日(木)01時38分46秒   返信・引用  編集済
  下の記事の冒頭の、「ひとすじの光へ続く道のはじまりは、九州弁護士会連合会に届いた一通の手紙」というのは、故島比呂志氏の手紙のことです。

1990年6月、星塚敬愛園の故島比呂志氏はエイズ裁判原告赤瀬範保から「癩患者はなぜ怒らないのか?」という手紙を受け取りました。そして1995年7月、島氏は「患者の権利法をつくる会」事務局長池永満弁護士に手紙を書きました。これが国賠訴訟のキッカケとなったというのは、有名な話です。

この経緯について、島氏自身がお書きになった「やっと燃えた怒りの火―ハンセン病訴訟・告訴宣言」という歴史的一文が「けんりほうnews」82号に出ていました。いました、なのです。それは消えるまい、と信じていた私がバカでした、とどこかの歌謡曲かメロドラマみたいなことを口走らざるを得ません。「けんりほうnews」よ、お前もか!です。

どなたか、これを入手する方法を、ご存じないでしょうか?お助けください・・・m(_ _)m
 
    (リベル) URL変更でした。ホッ!

これが故 島氏の文章です。

矢張り、認知症が進んでいました。心配して、既に取り込んでいたのです。このページの下の方です。嗚呼!!!(2.8 02:23)
 


朝日新聞の「人脈記」  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 8日(木)01時14分25秒   返信・引用
  昨日の夕刊か、今日の朝刊の筈です。当地宝塚では今日でした。「弁護士の魂」No.11

「徳田は、だれもいない会議室で机に突っ伏して泣いていた。」に、思わず涙でした。
 


名和千嘉さん  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月 7日(水)16時16分25秒   返信・引用  編集済
  北風様

 文献ありがとうございます。たくさんミスしています。読んでみたいですね。

 名和千嘉さんはどういう感じの方でしょうか。名嘉千嘉さんは 宮古南静園に診療援助にこられ、学童検診もされ、とくに某島における検診をされました。

 宮古島のハンセン病覚書 日本ハンセン病学会雑誌 72,3-9,2003

  昭和43年5月のことです。
 


名和千嘉さんには会ったことがある。  投稿者:北風  投稿日:2007年 2月 7日(水)14時20分36秒   返信・引用
  分類 0800 VIII 人物  No.93
種別 掲載
題名 癩園と女医列伝
原著者 桜井 方策
訳者
掲載誌 愛生第8巻第12号
発行 昭和29年12月1日(1954年)
発行所 長島愛生園慰安会
所蔵者 愛生図書館
内容抄録 服部けさ子、小川正子、田中いつの、西原つぼみ、高橋竹代、林富美子、五十嵐まさ、永井よし子、松田なみ、前田てい、榎本てい、梅川千代の、松田さた、名和千嘉
抄録執筆者 井上
 


療養所を支えた女医たち  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 2月 7日(水)12時31分13秒   返信・引用  編集済
  療養所を支えた女医たち

 福西征子園長、杉山和子副園長、野上玲子副園長、並里まさ子副園長、服部けさ先生、小川正子先生、神谷美恵子先生、小原安喜子先生など療養所を支えた女医は多い。また、男性医師が出征した後の仕事を任せられたこともあろう。
   (名前を挙げるべきで挙げていない人が多いと思います。御免なさい)

 平成2年、東京女子医大の肥田野信(あきら)教授が主催されて、第63回日本らい学会が開催された。その時の出席者へのお土産は 東京女子医大出身の女医でハンセン病にかかわった人たちの記録(本)である。その中に松田ナミがおられる。

 突然話題が変るが、志村さんによると今度の映画出演のケーシーさんの母親は東京女子医専(東京女子医大の前身)出身の女医で、第2回卒業とある。たしかケーシーさんは一時は医学を志しておられた。

 それで思い出したのであるが、松田ナミは1935年九州療養所に勤務、誘いがあり、宮崎園長の許可なく、国頭愛楽園に転じ、医局長として、戦災時そこの患者を支えた7人の女性の一人となった。沖縄に転じた時の心境はいかばかりであったか。沖縄県民は 戦前の最後の沖縄県島田知事のことを崇拝しているのである。私は最後の沖縄県庁といわれる轟壕をたずねたことがある。(島田知事は犠牲になることはわかって行った)

クリスチャンで、菊池恵楓園のある元患者さんが松田ナミ先生の思い出を書いておられた。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/matudanami.html
http://www.eonet.ne.jp/~libell/nihonmtl.html

追加:小原安喜子先生の追悼記事が、日本ハンセン病学会雑誌、73(3)203-206,2004にあります。小原先生は松田ナミ先生から学費の援助を受けたそうです。
 
    (リベル) 折角ご紹介頂いた「MTL」のURLに間違いがありました。正しくはこちらです。[http://www.eonet.ne.jp/~libell/nihonmtl.htm]。(2.7 17:49)  


「プロパガンダ」  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 2月 7日(水)07時56分33秒   返信・引用
   この「プロパガンダ」については、およそ2年前になりますが 恵泉女学園大学・大学院教授、アジア太平洋資料センター共同代表の 内海愛子女史(http://www.taminzoku.com/news/kouen/kou0209_utsumi.html) の、講演を聞く機会を与えられました。アジア太平洋戦争時の戦時プロパガンダより「アジア解放」「桃太郎海の神兵」「アジア解放の聖戦」など、日本が宣伝し国民が誘導されていった事実を 機微 に渡り学ばされたようです。

 時代は変わり、マスコミへのアプローチが如何にことを成すには、有利・便利であるかを様々な事例より感じ取れますが、昔のような一元的な報道とは違い、多元的な情報がもたらすことにより、より意義ある「考える葦」と成りえそうな・・・、我々一市民には大事な要因だと思っています。

 平たく言えば、「誘導からの煽動がとても用意ならざるが如し」といえそうですし、マスコミへの不信という事実も高まっているのかもしれません!

 「十坪住宅運動」の史実はしっかり自分のものとして、残しておきたいと思っています。
 
    (リベル) 一読して、理解できませんでした。よく拝読して、夜中に、レスを書きます。お許しください。(2.7 17:32)

もう一度、良く読みましたが、駄目でした。、「誘導からの煽動がとても用意ならざるが如し」これは「容易」だろうと思いますが、それでも「十坪住宅運動」との関係とか、仰有りたいことが分かりません。

ご免なさい。駄目じゃ、儂はもう・・・(虚ろな笑)(2.8 03:48)
 


やはり、厚労省はロードマップ委員会を・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 2月 7日(水)01時21分16秒   返信・引用  編集済
  やはり、厚労省は丸投げ態勢に入ったようです。第3回ハンセン病問題に関する検証会議の提言に基づく再発防止検討会。厚労省のHPには取り上げず、WAM NETで議事次第・資料を公開しています。

スタコラサッサ、という奴ですか・・・お見事・・・。
 




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