| 年表 日本のハンセン病史 |
| 重要事件への【JumpBar】 (ほぼ10年間隔で重要な事件のあった年を選んでいます.。その後は表の右端の[SkipBar]をお使い下さい)。なお、便利な「どこでもメニュー」を新設しました。ご活用ください | ||||||||
| 1847(弘化4年) 遺伝病とする誤った認識 |
1873(明治6年) ハンセンがらい菌発見 |
1895(明治28年) リデルが回春病院設立 |
1907(明治40年) 癩予防ニ関スル件 |
1915(大正4年) 断種手術始まる |
1923(大正12年) 国際会議で隔離に疑問 |
1931(昭和6年) 癩予防法公布 |
1943(昭和18年) プロミンの有効性発見 |
1953(昭和28年) らい予防法公布 |
| 1963(昭和38年) 新法の改正運動 |
1973(昭和48年) らい菌発見から100年 |
1981(昭和56年) 多剤併用療法開始 |
1990(平成2年) 島比呂志に手紙が |
1996(平成8年) らい予防法の廃止 |
2001(平成13年) 熊本地裁勝訴判決 |
2002(平成14年) 和解が正式に成立 |
2003(平成15年) 宿泊拒否事件発生 |
2004(平成16年) 小鹿島・楽生院提訴 |
| 2005(平成17年) 検証会議最終報告書 |
2006(平成18年) 改正補償法成立 |
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| 西暦(和暦年) | 月/日 | 出 来 事 | ||
| ※世界のハンセン病の起源や歴史は別のページで詳しく解説しています。こちらです | ||||
| 飛鳥時代(5??〜710年) | ※欽明天皇七年(538年:一説には552年)仏教伝来。百済の聖明王が仏像・経典(「法華経」が有ったと推測される)を献ずる ※推古天皇一年(593年)聖徳太子が四天王寺を建て敬田院、悲田院、施薬院、療病院を併設する(最初の公的医療施設) ※606年に聖徳太子が推古天皇に進講した「妙法蓮華経」に「癩、癰疽」の記述が有る。これは現在のハンセン病(及びその白い斑点)を 意味している ※615年に聖徳太子が日本最古の書物とされる「法華経義疏」(妙法蓮華経の注釈書)を著わした。ここにも「癩、癰疽」の記述が推測される |
※時代の概観(飛鳥〜平安時代)※ これらの時代は、仏教の影響によって病者や貧者に対する公的な慈善事業が盛んで、ハンセン病患者も救済の対象であったあったが、一方では仏教の「因果応報思想」によって異端視や隔離が生じた。平安時代の後期には寺院・朝廷の衰退に伴って救済事業も衰微していく (愛媛県HP参考) ■確実な治療法や医学的知識がなかったころ、ハンセン病は、「天刑病」(天が罰している刑であること) 「業病」(過去の悪事に対する報いであること)などと呼ばれていたといいます。また、感染が家族などに広がる例があったことから「らい筋」といった家系的な経緯でうつっていくと解釈されていました (岡山県HPから) |
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| 奈良時代(710〜794年) | ※「西山御採用願」に西山光明院の淵源について「推古天皇の御宇(593〜628年)」との記載有り ※日本書紀(720年完成)に「白癩」(しらはた)の言葉がある ※養老七年(723年)興福寺に施薬院、悲田院を設置 ※この頃から僧行基(ぎょうき−668〜749年)が貧民に食を与え、病人を治療しつつ諸国を行脚する ※元亨釈書(げんこうしゃくしょ−1322年・虎関師錬著)に光明皇后(701〜760年)の施浴伝説がある ※天平二年(730年)光明皇后が皇后宮職に施薬院を作り貧しい病人に施療した |
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| 平安時代(794〜1192) | ※日本霊異記(822年)に「白癩」に関する記述が有り、ここでも法華経の受持者を批判することを厳しく戒めている ※天長二年(825年)施薬院(せやくいん)が独立、以後悲田院(ひでんいん)と並んで施療活動の中心となる ※令義解(りょうのぎげ−833年完成・大宝律令の注釈書)は「悪疾」を「白癩」と表現 ※天安三年(859年)藤原良相が延命院、崇親院を建て施薬院と並行して救済事業を行った ※貞観一八年(876年)清和天皇の皇后正子は嵯峨に大覚寺を建て、その境内に不壊化身院というハンセン病患者の収容所を作った ※医心方(いしんほう−984年・丹波康頼編)は「癩病」の原因は「悪風」と記す ※今昔物語集(1120年)に1030年頃「白癩」に罹った僧の話があるがここでは「業病」と見ており仏教のらい観に変動のあったことが分る(因果応報思想) |
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| 鎌倉時代(1192〜1333年) | ※律宗の開祖叡尊(えいそん・1201〜1290年)が西大寺を基点に癩患者の救済に努める ※叡尊の弟子忍性(にんしょう・1217〜1303年・真言律宗)が1243年奈良に日本最古の救癩施設「北山十八間戸(じゅうはちけんこ)」、 1267年鎌倉に桑谷(くわがやつ)療養所を創設、重症患者を毎朝夕背負って町まで往復した ※時宗の開祖一遍(いっぺん・1239〜1289年)は諸国を行脚しつつ癩患者の救済に当たった ※頓医鈔(とんいしょう-1304年・梶原性全著)は医書でありながら「癩病」を前世の罪業とみなす ※宇治拾遺物語(1212〜1221年頃)の第65話に「智海法印癩人と法談の事 」があり文中に「白癩人」の語がある ※源平盛衰記(鎌倉時代後期)に「癩人」の語がある |
※時代の概観(鎌倉時代)※ 寺院・朝廷の勢力の衰退に伴って仏教の救済事業も衰微していった。叡尊、忍性、一遍などの僧侶が救済活動を行ったといわれているが、その数は多くない(愛媛県HP参考) |
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| 室町時代(1336(?)〜1357年) | ― | ※時代の概観(室町〜江戸時代)※ 渡来した宣教師の中にハンセン病患者の救済に熱心な人がおり、これらの人の影響を受けて、キリスト教を信仰していた大名や豪商などによって、収容施設が設立されるなどの患者救済活動が行われた。しかし全般的には、公的な救済事業が衰退したため、「癩病」の患者は自然に神社の参道や仏閣の門前に集まり物乞いをし、また集落を作って集団生活を行うようになった(愛媛県HP参考) |
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| 安土桃山時代 | ※ポルトガルの貿易商ルイス・デ・アルメイダが豊後府内にハンセン病や外科・内科の病院を設立(1557年)し西洋医学が初めて導入された ※武将大谷吉継(1559〜1600年)は癩を患いながら猛将として活躍した |
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| 江戸時代(1603〜1867年) | ・熊本の本妙寺、上野の草津、甲斐の身延、四国の金比羅などに患者部落ができた ・「かたい」、「かったい」の呼称が有った。「当世気とり草」金金先生著(1773年)に「かったい眉」の記述がある |
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| 1841(天保12年) | 7/29 | アルマウェル・ハンセン生まれる | ||
| 1847(弘化4年) | この年 | ダニエルセン(Danielssen-ハンセンの義父)が疫学調査の結果ハンセン病は遺伝病であると提唱した。 自分や看護婦、看護助士、シスター、梅毒患者らに繰り返しらい結節を接種したが、その結果がことごとく陰性であったのである |
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| 1853(嘉永6年) | 6/3 | アメリカのペリー浦賀沖に来航(開国要求) | ||
| 1867(慶応3年) | 11/9 | 大政奉還 | ||
| 1868(明治元年) | 3/14 | 明治新政府誕生5箇条の御誓文 | ※時代の概観(明治時代)※ 明治の初期には、ハンセン病患者のための公的な施設設はなかったが、一部の医師や外国人宣教師などが熱心な救済活動や病院設立を行った。 しかし、外国人が多くの困難を克服して、ハンセン病患者救済にあたっていたのに、日本政府が何の対策もとらなかったため、外国からのきびしい批判があった。この批判が、この後に「癩予防ニ関スル件」が制定されるに至った大きな推進力のひとつとなった (愛媛県HP参考) ■時代は明治に移り変わり、西洋医学などが持ち込まれようとする中でさえ、ハンセン病への人々の理解は、それまでの歴史的な経緯と無関係ではありませんでした。社会的に冷遇されていたハンセン病患者達は、幕末の頃、神社や寺の参道などで多く見かけられたといわれ、彼らのそうした姿は、開国により来日したキリスト教宣教師たちに強い印象をあたえました。彼らは患者に対して献身的な救済活動を行い、各所に療養施設を設立していきます。彼らの活動は、日本における本格的なハンセン病対策の「礎」となりました (岡山県HPから) |
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| 1870(明治3年) | この頃 | ロンドンの医学アカデミーがハンセン病は遺伝病であるとする報告を出した | ||
| 1871(明治4年) | 8/28 | 「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」との太政官布告により「物吉」などの癩患者への呼称も廃止される | ||
| この年 | 熊本の本妙寺の参道にハンセン病患者が並び始める | |||
| 1872(明治5年) | 10月 | ロシア皇太子アレクセイの来日前日浮浪者300人を本郷加賀邸空長屋に収容、東京市養育院の起源となる | ||
| 10月 | 漢方医後藤昌文が東京柏木成子町に私設の「癩病舎」を設立(後の起廃院) (1871年末又は1872年初めという説もある。市民学会年報2005、p.116) | |||
| 1873(明治6年) |
2月 | ノルウェー(ベルゲン市)の医学者アルマウェル・ハンセン(Gerhard Henrik Armauer Hansen)がらい菌(Mycobacterium leprae-M.leprae)を発見、感染症と判明した。しかし学会の正式の承認を得るのは1897年である(1879年細菌学者ナイセルにより確認され認知されるに至る) | ||
| この年 | アメリカ人長老派女性宣教師ケイト・M・ヤングマン(1841〜1910)が来日する(32歳) | |||
| この年 | ダミアン(Damien)神父(ベルギー)がハワイのモロカイ島に渡る | |||
| この年 | 違式■違条例(いしきかいいじょうれい―国内の風俗改正を定めた)によって「癩者」の「勧進」(物乞い)を禁止した(■は言偏に圭です) |
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| 1874(明治7年) | この年 | 東京市養育院設立される(初代院長渋沢栄一) | ||
| この年 | アルマウェル・ハンセンがらい菌を発表するが学会は承認せず | |||
| 1875(明治8年) | 4月 | 後藤昌文が東京市神田猿楽町に起廃院を設立、後藤は「ハンセン病の感染力はきわめて弱く完治する」と強調した | ||
| 1877(明治10年) | 6月 | 後藤昌文が「起廃病院医事雑誌」を発行。「遺伝」と「自発」が半々で、その「自発」には感染も含まれると書く。 また後藤は「西洋では大に其伝染を恐るヽ事であるが容易に伝染(う つ)る者でもありません」とも書いている |
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| 11/19 | ケート・M・ヤングマンが好善社を設立 | |||
| 1879(明治12年) | 2月 | 仮名垣魯文が「高橋阿伝夜刃譚」に「癩病を天刑病・百薬効なく」などと記す | ||
| 5月 | 河竹黙阿弥が「綴合阿伝仮名書」に「人の厭がる業病」などと記す | |||
| 12/27 | 内務省は「町村衛生事務条項」で赤痢などの感染症とは別分野で「癩病脚気等地方病」と扱っている | |||
| この年 | ハンセンが発見した「らい菌」が細菌学者ナイセルにより確認され認知されるに至る。 国際会議で「感染症」と承認されるのは1897年になる |
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| 1882(明治15年) | 6月 | 後藤昌文の子昌直が「難病自療」で発病は遺伝・自発・感染の三つによるが遺伝は希だとしている | ||
| 1885(明治18年) | この年 | 荒井作が東京衆済病院を開設する。荒井はここで5年間に少なくとも4,000名以上の患者を診察している | ||
| 1886(明治19年) | 11月 | 群馬県吾妻郡草津に湯の沢部落ができる | ||
| この年 | 天然痘・腸チフス大流行 | |||
| 1887(明治20年) | 6月 | 湯の沢をらい患者湯治場として草津本町から分離 | ||
| 1888(明治21年) | この年 | 堺の岡村平兵衛が家業の丁字油製造を応用して大風子油(だいふうしゆ―hydnocarpus, chaulmoogra oil)を精製、我が国のらい治療に貢献する。これは再発率が高く根治薬ではなかった | ||
| 1889(明治22年) | 2/11 | 「大日本帝国憲法」公布(こちら) | ||
| 4月 | ダミアン神父、モロカイ島で死去(享年49歳) | |||
| 5/16 | フランスの「パリ外国宣教会」神父テスト・ウィード(テストウィド)が日本初のハンセン病療養所神山復生病院(こうやまふくせい)を静岡県富士岡村(現御殿場市)に設立 | |||
| 1890(明治23年) | この年 | 荒井作は著書「治癩経験説」で「不治ノ症ニ非ス又遺伝病ニ限ラサル事ヲ確診」と述べ遺伝説を否定はしていない。また、「癩病蔓延ノ予防及ビ癩病家ノ注意書」の中で「余ハ癩病患者ヲ数年間取扱ヒ毎日癩病ノ血液余ガ身体ニ触ルヽと雖ドモ更ニ伝染ノ模様ナシ」と伝染説を否定している | ||
| 1891(明治24年) | この年 | 小田不学は「癩病病理弁妄」の中で遺伝病であって感染症ではないと断定している | ||
| この年 | 赤痢・腸チフス流行(計約8万人感染) | |||
| 1893(明治26年) | 4/3 | イギリス人聖公会女性宣教師ハンナ・リデル(Hannah Riddell )が熊本の本妙寺を訪れハンセン病患者にショックを受けその救済を決意する(1890年とする説も多いが間違いのようです) | ||
| 1894(明治27年) | 7/25 | 日清戦争勃発 | ||
| 10/13 | 好善社(ケート・M・ヤングマン)が東京・目黒村に慰廃園を設立(監督大塚正心夫妻) | |||
| この年 | アメリカのルイジアナ州政府がカービル療養所(the United States Public Health Service Hospital in Carville)を開設した。後(1941年)にここで、ファジェットがプロミンの有効性を発見する | |||
| この年 | ロシアの医師ライスネルは22人の臨床例を元に感染説を主張する | |||
| 1895(明治28年) |
4/17 | 日清戦争に勝利 | ||
| 11/12 | イギリス人のハンナ・リデルが熊本市黒髪に回春病院を設立(1923年からリデルの姪エダ・ライト(Eda Hannah Wright)が参加) | |||
| この年 | コレラ流行(死者約4万人) | |||
| 1897(明治30年) | 5/1 | 「伝染病予防法」施行(コレラ、赤痢、チフス、ペストなどを列挙。ハンセン病は対象疾病に含まれていない) | ||
| 6月 | らい患者に関する一斉調査(除く北海道)。23.660人(有病率は一万人当たり5.5人).。徴兵検査の際発見されるらい患者数(「壮丁らい」といわれた)はこの年620人を数えた | |||
| 10/11 | 第1回国際らい会議(ベルリン、北里柴三郎・土肥慶蔵両医博出席)@らい菌による感染症(伝染病)であること(細菌学者ナイセル)、A隔離が有効であるが、絶対、唯一ではないこと しかもB伝染力は微弱であること が確認される | |||
| 1898(明治31年) | 10月 | フランス人神父ジョン・マリー・コールが待労院を熊本市花園(中尾丸)に設立(院長メール・マリー・コロンバ他フランシスコ修道会の5人の修道女が参加) | ||
| 10月 | 警察本部に衛生課が設置される | |||
| 1899(明治32年) | 3月 | コレラ・ペストなどの急性伝染病対策以外にハンセン病が初めて国会の議題に上がり、「取り締まり」が必要とされる(第13回帝国議会・根本議員) | ||
| 3月 | 東京市養育院内にらい患者のための隔離施設回春病室を開設(院長渋沢栄一、主任光田健輔) | |||
| 7/17 | 外国人の「内地雑居」が許可される。らい患者の姿を外国人に見られることは国家の屈辱という発想が生じることになる | |||
| この年 | 赤痢・肺結核流行(死者計約10万人) | |||
| 1900(明治33年) | 12月 | 内務省(現厚生省)が第一回らい全国一斉調査。30.359人(有病率は一万人当たり6.70人)主に警察官によって行われ把握洩れも相当あるとされる | ||
| 1902(明治35年) | 2/28 | 第16回帝国議会に斉藤寿雄議員より「癩患者取締ニ関スル建議案」が提出され、立法措置の必要性が唱えられたが会期切れのため廃案となる | ||
| この年 | ウルバノビッチは「メーメル地方におけるこれまでのらい治療経験について」という論文の中で「らいが接触伝染をすることは、今日では全く確実」と述べる | |||
| この年 | 台湾島民日本国籍へ編入 | |||
| 1904(明治37年) | 2/10 | 日露戦争勃発 | ||
| 2/23 | 日韓議定書調印(植民地支配への第一歩。1910年の韓国併合に至る) | |||
| 1905(明治38年) | 9/5 | 日露戦争に勝利(「大国意識」高まりをみせる。「民族浄化」「国辱論」の萌芽であり、隔離絶滅政策を招くことになる) | ||
| 11/6 | リデルの要請から「ハンセン病救済講演会」が開かれる(渋沢栄一・内務省衛生局長窪田静太郎・東京市養育院医官光田健輔他25・6名主席―銀行会館) | |||
| 11/17 | 日韓協約調印 | |||
| この年 | 第21回帝国議会に山根正次議員より伝染病予防法にハンセン病を含むべきだとする「伝染病予防法改正案」が議員立法として上程される。 内務省の反対で廃案となる |
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| 1906(明治39年) | 7/25 | 増田皮膚病院長増田勇が横浜の「乞食谷戸」(患者数32人)で治療活動を開始する。後に人道的見地から「癩予防ニ関スル件」を「失政の遺残物」と難ずる | ||
| 10月 | 山梨県身延山に日蓮宗僧侶綱脇龍妙により身延深敬園(じんきょうえん)が設立される | |||
| この年 | 光田健輔は「養育院月報」に「ハワイの如き絶対的隔離法は未開専制の時代の事業に属し、…人民は却って蔓延を助長する結果を来すが故に吾人はノルウェーの隔離法以て何れの邦国にも行われる可き良法なるを信じ…」とノルウェー方式を推薦していた | |||
| この年 | 第22回帝国議会で山根正次他2名の議員立法で「らい予防法案」が提出されたが廃案となる | |||
| この年 | キルヒナーは「らいの蔓延と予防」の中で「らいは分泌物によって人から人へ伝染するが・・・らい菌は人体外では比較的急速に死滅する」と述べる | |||
| 1907(明治40年) |
2/4 | 足尾銅山暴動化 | ||
| 2/12 | 第23回帝国議会で法律第11号「癩予防ニ関スル件」が政府案として提出され可決される。ここでは国の財政上の理由もあり、療養の途がなく救護者のない者のみが対象とされた。ハンセン病が文明国として不名誉であり恥辱であるとする 「国辱論」の影響を強く受け「患者隔離」を基本とするが、むしろ放浪患者(浮浪癩)の救済・取締を目的としていた | |||
| 2/26 | 貴族院の質疑で窪田静太郎内務省衛生局長(医師ではなく法律家)は「伝染力は微弱」「浮浪らい患者の救護が目的(これは後日、自身の気持ちを明らかにした)」と答える | |||
| 3/18 | 「癩予防ニ関スル件」が公布される | |||
| 4月 | らい予防事業費補助金が計上される | |||
| 7/22 | 「道府県癩療養所設置区域」が公布される | |||
| この年 | 神山復生病院第五代院長のドルワール・ド・レゼー神父は「ハンセン病の感染力は微弱である」と述べる | |||
| 1908(明治41年) | この年 | ドイツで最初のスルフォン剤DDS(4,4'-diaminodiphenylsulfone)が合成される。使途不明のまま1941年まで放置される | ||
| 1909(明治42年) | 2月 | 内務省訓令第45号「在宅患者消毒規定」が公布される(コレラ等急性伝染病同様の厳しい防疫・消毒の対象とする) | ||
| 2/3 | 1907年の「癩予防ニ関スル件」により全国を五区に分けて府県連合立(公立)癩療養所が設立される | |||
| 4/1 | 「癩予防ニ関スル件」が施行される | |||
| 4/1 | 全国に5つの公立癩療養所を開設(全1100床−1900年の調査によれば全患者数は30,359人)。 第一区(東京都を中心とした関東信越地方):全生(ぜんせい)病院(東京・350名・後の多磨全生(ぜんしょう)園)(9/28) 第二区(北海道を含む東北地方):北部保養院(青森・100名・後の松丘保養園) 第三区(大阪府を中心とした近畿地方):外島保養院(大阪・300名・室戸台風により壊滅、復興されず―邑久光明園の前身) 第四区(中国四国地方):大島療養所(香川・170名・後の大島青松園) 第五区(九州地方全域):九州療養所(熊本・180名・後の菊池恵楓園)。 実態は「患者作業」を強いる強制収容所である。この使役により患者の病状が悪化することになる(写真・少しスクロール)。 国策としてのハンセン病対策「強制隔離政策」の出発点である |
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| 9/10 | 第一区府県立全生病院の医長に光田健輔が任ぜられる | |||
| 9/28 | 全生病院が開院した。東京府属大野徳太郎が院長事務取扱となる | |||
| 10/26 | 伊藤博文(韓国統監府統監)射殺される(ハルピン駅で安重根に) | |||
| 12/2 | 第2回国際らい会議(ノルウェー・ベルゲン)が開催される第1回会議での決議内容(らい菌の感染力は微弱であること・相対隔離方式―ノルウェー方式=絶対隔離ではない)が確認される | |||
| 1910(明治43年) | 3/30 | 医療宣教師アービンが慶南道東莱郡西面に癩病院設立 | ||
| 3月 | 全生病院の大野徳太郎が院長事務取扱を解かれ池内才太郎(警視)が院長となる | |||
| 8/29 | 日韓併合宣言(韓国を植民地支配下に置く) | |||
| この年 | 九州療養所の周囲に逃走防止用の濠が堀巡らされる | |||
| 1911(明治44年) | 3/3 | 大島療養所(現青松園)で患者と職員がもめ、朝日新聞が「癩患者大暴行」と報道 | ||
| 1912(明治45年) | 2/17 | アルマウェル・ハンセンが死去(享年71歳) | ||
| 1913(大正2年) | 11/29 | 「癩(らい)患者の処分 警察が手古摺(てこず)る」と読売新聞が報道 | ||
| 1914(大正3年) | 2/9 | 光田健輔が全生病院院長に就任。毛涯鴻が書記として就任、懲戒検束権を楯に辣腕を振るうことになる。この頃療養所から逃走する患者が増え全患者の19パーセントを占めるに至る | ||
| 7/28 | 第1次世界大戦勃発 | |||
| 12/22 | 光田健輔が中央慈善協会で「癩予防に就て」の題で講演し、患者の逃走防止のため、離島に療養所を設置することを求めるとともに、入所者のなかの「不逞の徒」への制裁を加えることの必要を訴えていた | |||
| 1915(大正4年) |
2/13 | 全生病院院長光田健輔が内務省に「癩予防法ニ関スル意見書」を提出。療養所拡充・全患者を離島に隔離・管理者に懲戒検束権という「絶対隔離論」である | ||
| 4/24 | 全生病院で結婚を認める条件として断種(ワゼクトミー―Vasektomie)を実施(院長光田健輔。これをきっかけに全国の療養所に広がる) | |||
| 6/5 | 「身の上相談」コーナーに「癩(らい)の血統と知(しら)ずに」の見出しの記事が掲載される | |||
| 6/10 | 上欄の答えとして「癩病は遺伝しない」の見出しの記事が掲載される | |||
| 1916(大正5年) | 2月 | 朝鮮総督府により(朝鮮総督府令第七号)全羅南道に小鹿島慈恵医院(定員100名―昭和9年小鹿島更生園と改称)が設立される。院長蟻川亨 | ||
| 3/10 | 法律第21号(「癩予防ニ関スル件」改正案)が施行される。 療養所所長に「懲戒検束権」が付与され、裁判無しで患者を処罰できるようになる。「浮浪者救済から懲罰に代わった」と称される | |||
| 4/20 | イギリス人聖公会女性宣教師コンウォール・リーが草津に定住する | |||
| 4月 | 菊池恵楓園では2〜3年前に発行した所内通用券(所内通貨)制度をいち早く廃止した | |||
| 6/2 | 内務省令第6号により「癩予防ニ関スル件」の施行規則一部改正される(減食・監禁等の罰則を定める) | |||
| 6/27 | 第2 次大隈内閣は、内務省に「保健衛生調査会」を設置、新たな衛生政策の指針を求めた | |||
| 6月 | 入所者の遵守すべき規律・規範として「患者心得」が施設ごとに制定される | |||
| この年 | 各療養所に監禁のための監房が作られた | |||
| この年 | 全生病院(光田健輔)によって「特殊部落調・附癩村調」を各道府県及び警察に対しておこなった。全国の被差別部落と癩村とされる集落の世帯、人口調査が行われた(参考) | |||
| この年 | 各療養所で入所者に 「園名」 という別名を強制するようになる | |||
| この年 | 8世紀に行基が作ったと言われる西山光明院が最後の収容者西山ナカの死去を機に廃止される | |||
| 1917(大正6年) | 1/10 | 光田健輔が内相後藤新平に「保健衛生調査会委員 光田健輔 沖縄県岡山県及台湾 出張復命書(出張報告書)」を提出している。この中で光田は、離島隔離の候補地として沖縄県の西表島、岡山県の鹿久居島・長島を調査した結果として、西表島を最適と結論づけている | ||
| 5月 | 日本初の公立結核療養所開設 | |||
| 7/7 | 全生病院で患者集団陳情「門破り」事件が起る | |||
| 12/3 | イギリス人聖公会女性宣教師コンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Leigh)が草津・湯の沢に聖バルナバ医院設立 | |||
| 12/12 | 「懲戒検束に関する施行細則」制定(備品の毀損、風説の流布、命令違反などと細かく規定し、強制収容所の性格を強化しかねない) | |||
| この年 | 光田健輔主導で、西表島への「3万人収容計画」を内務省が計画していた | |||
| 1918(大正7年) | 11/11 | 第1次世界大戦終結 | ||
| この年 | 外島保養院で患者の自治制度が四年間の運動の後認められる | |||
| 1919(大正8年) | 3/1 | 朝鮮京城で独立運動勃発、全土に拡大(3.1運動) | ||
| 8月 | 光田健輔が所謂「光田反応」の基になった論文を著す | |||
| 9/1 | 「結核予防法」施行 | |||
| 9/28 | 全生病院で開院10周年記念日に「院内通用券」使用開始。これ以後各療養所で「園内通用券(園券)」が発行される | |||
| この年 | 内務省が患者一斉調査、総数16.261人。これに対し収容所の収容能力は約2.000人である | |||
| 1920(大正9年) | 1/10 | 国際連盟発足 | ||
| この年 | 内務省保健衛生調査会は「根本的癩予防策要項」を定め隔離目標を10,000人とする | |||
| 1921(大正10年) | 1/25 | 「癩は天刑病ではない 斯んな名詞は人道上遠慮したい」と本田増次郎の署名入り記事が掲載される | ||
| この年 | 内務省はらい療養所拡張10ヶ年計画を立てる(病床数を5,000床とする「第1期増床計画」) | |||
| 1922(大正11年) | 3/25 | 別府的ヶ浜焼き打ち事件起こる | ||
| 4/22 | 健康保険法公布 | |||
| 1923(大正12年) |
7/28 | 第3回国際らい会議(フランス・ストラスブール)開催(光田健輔出席)この会議で「絶対隔離」に対する疑問が出始めた。施設を用いた強制隔離は全く推薦されていない。なお光田はここで「日本のらいの統計」「らいの皮膚反応」、大風子油の効果等を発表している | ||
| 9/1 | 関東大震災 | |||
| 1924(大正13年) | この年 | 内務省の指示で外島保養院は収容人員を1,000名に”増床” | ||
| 1925(大正14年) |
4/22 | 治安維持法公布 | ||
| 4月 | 三上千代が草津に鈴蘭村を開設 | |||
| 6/10 | 日本MTL(Mission To Lepers)設立される。後に「無らい県運動」に加わる | |||
| 7/10 | 「女工哀史」刊行 | |||
| 11月 | 内務省が患者一斉調査、総数15,351人。人口1万人に対し2.57人。入所者数2,176人、病床数2,308床 | |||
| この年 | 内務省は衛生局長の地方長官宛の通牒により事実上全患者を入所の対象にすることとする | |||
| 1926(大正15年) | 5月 | 内務省(衛生局予防課長高野六郎)は「民族浄化のために」という論稿を発表。「民族浄化」の観点から「絶対隔離」を説き、未収容者15,000人を全て療養所へ収容するのが最善であるとする | ||
| 6/19 | 九州療養所(現菊池恵楓園)で自治会が発足 | |||
| 9/19 | 小鹿島慈恵医院で拡張反対の住民騒攘事件が発生(患者数240名) | |||
| 9/24 | 三上千代が「癩患者に女神と仰がれる鈴蘭村の女村長さん」と読売新聞が報道 | |||
| 1927(昭和2年) | 9/24 | 日本癩学会が設立され、第1回日本癩学会総会が東京で開催される(光田健輔、村田正太出席) | ||
| 10月 | 国立癩療養所官制公布(勅令第308号―国立癩療養所設置に関する建議案である。3年後長島愛生園が誕生する) | |||
| 1928(昭和3年) | 2/20 | 初の普通選挙投票(男子のみ) | ||
| 7月 | 九州療養所でタバコ、砂糖、麺類の販売。売店の始まり | |||
| 9月 | ペニシリン発見される | |||
| この年 | 小鹿島慈恵医院の患者数750名 | |||
| 1929(昭和4年) | 10/24 | 世界恐慌始まる(暗黒の木曜日) | ||
| この年 | 九州療養所で逃走防止のため、西側と北側を高さ約2メートルのコンクリート塀及び素堀の濠によって患者の居住地区を囲み始める | |||
| 1930(昭和5年) | 10月 | 内務省衛生局は「癩の根絶策」を策定し、全員を終生隔離・絶滅すべしとして「20年根絶計画」等を起案する。 これが国民の恐怖心を煽り立てることになる (しかしここでもやはり、「癩菌の感染力は弱く」と記されている) | ||
| 11/10 | 貞明皇后が御手許金(内帑金)248,000円をハンセン病医療のため下賜する。そのうち100,000円が癩予防協会の基金の一部となる | |||
| 11/20 | 日本最初の国立癩療養所長島愛生園(岡山県―園長光田健輔)が発足(公立から国立へ) | |||
| 12月 | 台湾総督府が癩療養所楽生院を台北に設立(院長川上豊) | |||
| この年 | @国際連盟癩委員会(バンコク)で治療による予防を原則にした「らい予防の原則」が作成される。 この中でハンセン病は治療可能だから患者の社会復帰を前提とした外来治療を可能とする制度を確立せよとし管理的・警察的な取り締まりの修正を求めた A第8回大日本医学総会で国連保健委員ピウネル博士は、日本政府の無差別的絶対隔離政策を批判(内務省が翻訳・紹介) B医学博士青木大勇の論文「癩の予防撲滅法に関する改善意見」などにて「絶対隔離」否定論が明確化される |
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| この年 | 内務省調査によれば療養所の定員3718床・入所者数3261人・充員率88%である | |||
| この年 | 日本癩學會の会誌「レプラ」発行される | |||
| この頃 | らいの無い県にしようと、「無らい県運動」が全国に広がった。愛知、岡山、山口、兵庫、愛媛、鳥取などの各県でスタートした。恐怖宣伝のスタートとなる(写真少しスクロール) | |||
| 1931(昭和6年) |
1/9 | レナード・ウッド記念財団(Leonard Wood Memorial)國際癩学会総会(マニラ)が開かれた。 @今後のらい問題(管理、治療、研究)に関する国際的標準となるべき決議案、報告書の作製。A国際らい学会の創設。B国際的らい学雑誌の刊行」等が計画決定された |
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| 1/30 | 「国立療養所患者懲戒検束規定」明文化・公布される(これにより所長の一存で患者の人権が左右されるようになる) | |||
| 2/14 | 赤木朝治内務省衛生局長の貴族院答弁 「らい菌と申しますものは、非常に伝染力から申しますれば弱い菌であるようであります。従ってらい菌に接触したからといって、多くの場合必ずしも発病するという訳では無いのであります」 | |||
| 3/7 | 沖縄県立宮古保養院(後の宮古南静園)設立 | |||
| 3/8 | 大島療養所で「ラジオ」をめぐる「患者騒動」(1月15日)が発端となり、患者自治会が生まれた | |||
| 3/16 | 長島愛生園の園長に光田健輔が就任 | |||
| 3/18 | 貞明皇后の内帑金を基に(財)癩予防協会(後の藤楓協会)設立(会長渋沢栄一―事務所は内務省衛生局内) | |||
| 4/3 | 「癩予防ニ関スル件」(法律第十一号)を改正、「癩予防法(旧法)(法律第58号)」公布 @従来放浪者(「救護者なき者」)に限られていたのが全患者(癩患者)を隔離の対象とするA行政権限(職業従事の禁止・消毒廃棄処分・強制入所等)の強化 この法により「らい予防は名目で実態は浮浪らい患者の救護収容」という趣旨から「らい患者の地域社会からの根絶」へと基本理念が大転換することとなる |
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| 5/5 | 全生病院院長に林芳信が就任する | |||
| 6/25 | 「癩予防デー」(後の「救らいの日」)・「らい予防週間」発足(大正天皇の后貞明皇后(1884-1951)の誕生日)。これにより@「皇恩」の力説A伝染の恐怖心を煽って隔離強化を正当化B無らい県運動の推進を図る | |||
| 8/1 | 癩予防協会の初事業として愛生保育所を開設 | |||
| 9/18 | 満州事変勃発 | |||
| この年 | 国際連盟らい委員会が「らい予防の原則」を作成 | |||
| この年 | 京大の小笠原登講師が「癩に関する三つの迷信」(不治の病ではないとする)を発表 | |||
| 1932(昭和7年) | 1/10 | 第1回療養所協議会開催(高松市) | ||
| 2/3 | ハンナ・リデル熊本の自宅で死去(享年77歳) | |||
| 5月 | 長島愛生園で光田健輔初代院長の発案により「十坪住宅(とつぼじゅうたく)」が出来る。4.5〜6畳2間に6〜8人が詰め込まれた。この後12年間に143棟が建てられた(9月説あり) | |||
| 5/15 | 5・15事件発生 | |||
| 6/15 | 台湾で「癩予防法」が施行される | |||
| 11/10 | 貞明皇后「つれづれの友となりても」の御歌を詠まれる | |||
| 11/16 | 国立療養所栗生楽泉園設立(草津) | |||
| 12/27 | 朝鮮癩予防協会設立される(小鹿島慈恵医院の患者数1212名) | |||
| この年 | 第5回日本癩学会で九州療養所の河村正之は講演で「伝染の危険性の無い患者を療養所に留め置くのは無意味である」と説く | |||
| 1933(昭和8年) | 2/20 | 小林多喜二拷問死(当局は心臓麻痺と発表) | ||
| 2月 | 外島事件起こる(大阪・外島保養院)急進グループの高い意識・当局の思想弾圧・所長の尊い決断を見るべし | |||
| 3/27 | 国際連盟脱退 | |||
| 6/23 | 台湾癩予防協会設立される | |||
| 6月 | 三上千代がナイチンゲール賞を受賞 | |||
| 9月 | 小鹿島慈恵医院、第1次拡張工事着工 | |||
| 10月 | 国立療養所宮古療養所(沖縄)設立される(後の宮古南静園) | |||
| 1934(昭和9年) | 4月 | 「三井報恩会」発足無らい県運動の財政基盤となる | ||
| 5/11 | 愛生園に万霊山納骨堂建設される(東本願寺の寄付による) | |||
| 9/21 | 室戸台風により外島保養院が高潮に襲われ壊滅する。患者173名職員・職員家族14名計187名死去。患者416名は各地六療養所へ分散収容される | |||
| 10/1 | 小鹿島慈恵医院、国立小鹿島更正園に拡大改編 | |||
| この年 | 京大の小笠原登助教授はらいの感染力は甚だ微弱である旨論じる 論文「癩の極悪性の本質について」 | |||
| この年 | 北部保養院の中條資俊院長は「感染力は微弱であり絶対隔離は再考すべし」と論じる | |||
| この年 | 東北地方大凶作(欠食児童・娘の身売り) | |||
| 1935(昭和10年) | 3/14 | 衆議院で「療養所は外部との交通が容易でない離島又は隔絶地に設置するべし」建議案が提出・可決される | ||
| 7/5 | 松本馨全生病院の門をくぐる | |||
| 4/20 | 朝鮮癩予防令公布 | |||
| 9/15 | 小鹿島更正園に光州刑務所小鹿島支所開設 | |||
| 10/28 | 国立療養所星塚敬愛園設立される(鹿児島県鹿屋市) | |||
| この年 | (財)癩予防協会(後の藤楓協会)が九州療養所に「未感染児童保育所」を設立する | |||
| この年 | 1930年からの5年間で入所患者が5倍になる(定員6,033床・入所者数9,735人・充員率161%)。無らい県運動の結果である | |||
| この年 | 第8回日本癩学会で小笠原登は「伝染力は微弱・栄養不良の影響」と隔離政策を批判 | |||
| 1936(昭和11年) | 2/15 | 内務省は全国衛生部長と療養所長の合同会議を招集し、「らいの根絶策」(昭和5年)を受けて「らい根絶20年計画」を策定。10年後に病床数を10.000床にし(一万床計画)、更にその後10年間でハンセン病を根絶する としている | ||
| 2/26 | 2・26事件発生 | |||
| 5/22 | らい患者受刑者収容のための専用刑務所設備に関する建議案が衆議院に提出される | |||
| 8/11 | 長島愛生園で長島事件発生(〜8/28) 定員オーバー(1.5倍)による生活環境の劣悪化に抗議し、作業放棄・ハンスト・園長等の辞任要求などを行った。 岡山県・内務省の調停により待遇改善、作業慰労金値上げ、一定の自治が認められた | |||
| この年 | 窪田静太郎(前出)は「伝染病には相違ないが伝染力は強烈なものではない」と論文中で述べる | |||
| この年 | 「無らい県運動」は官民一体となって組織化され、虱潰しの「患者狩り(狩り込み)」が全国規模に拡がる | |||
| この年 | 敬愛園で断種の強制に反抗した在園者を追放処分し、河原に放置した安村事件発生する | |||
| この年 | この年北条民雄が「いのちの初夜」を発表するが | |||
| 1937(昭和12年) | 4/5 | 結核予防法改正(医師の届け出義務・道府県に療養所設置―'35〜'50死因順位のトップ) | ||
| 4月 | 京大医学部皮膚科に入院可能な特別研究室設立される(主任小笠原登) | |||
| 7/7 | 日中戦争(支那事変)勃発(廬溝橋事件) | |||
| 10/15 | 小鹿島更正園に納骨堂竣工 | |||
| 12/5 | 北条民雄死去。川端康成全生病院に弔問 | |||
| 12/13 | 南京大虐殺起こる?(30万人の無辜の市民が虐殺されたとされる) | |||
| 1938(昭和13年) |
1/11 | 厚生省発足(戦時体制下の健民健兵策が推進される)国立療養所の管理が内務省から厚生省に移管される | ||
| 4/1 | 国民健康保険法公布(戦時下の健兵健民策の推進) | |||
| 4月 | 外島保養院が邑久光明園(岡山)として再建される。6〜7月、分散収容されていた416名の内309名が帰園する | |||
| 6月 | 第4回国際らい会議(カイロ)開催@感染力が極めて微弱と確認A強制隔離に疑問が呈される | |||
| 11/10 | 沖縄県立国頭愛楽園が設立される(後の沖縄愛楽園) | |||
| 11月 | 小川正子「小島の春」(長崎書店)発行される | |||
| 12/24 | 栗生楽泉園内に「特別病室」(重監房)設置される(写真)。保温の設備無く(冬季は−17度〜18度)、食事は麦飯の握り飯と梅干し各一個または2片の沢庵、夜具は薄い敷き布団一枚・掛け布団一枚だけである。 1947年までに93人、内 凍死、餓死、自殺等で延べ22人が死亡する。懲戒検束権の恣意的運用である |
|||
| 1939(昭和14年) | 9/1 | 第2次世界大戦勃発(独軍ポーランドに進軍開始) | ||
| 9/30 | 栗生楽泉園の「特別病室」(重監房)の使用が開始される。鹿児島県からモルヒネ患者等5名を連れてきた。 | |||
| 10/27 | 国立療養所東北新生園(宮城県)が設立される | |||
| 11月 | 満州国立同康院設立される | |||
| この年 | 東大伝染病研究所の日戸修一は「癩と遺伝」で、成人における感染例の稀少さを論じた | |||
| この年 | 京大の小笠原登が「癩と体質」で感染性の問題を説く「菌の輸入が起った後、或る少数の特定な人のみが発病する疾患である」 | |||
| この年 | この年までに全国の療養所で断種手術を受けた患者は1,003人に及んだ | |||
| 1940(昭和15年) | 2/27 | 「国民優生法」成立(断種の対象を遺伝病に限定し、ハンセン病は対象疾患から除外されている。にもかかわらず療養所内での断種手術は続けられた) | ||
| 7/9 | 午前5時熊本県本妙寺のらい部落に対し県警署員等計220名による強制執行。本妙寺は解散し146名が各療養所へ分散収容される(写真少しスクロール) | |||
| 7月 | 映画「小島の春」(監督豊田四郎)封切られる | |||
| 9/27 | 日・独・伊三国同盟締結 | |||
| 12/9 | 「その客車は「お召し列車」であると言われていることは後で知った」と聞き書きにある(1963年まで存続) | |||
| この年 | 厚生省が各都道府県に「無らい県運動」の徹底を指示する さらに徹底的な「患者狩り」が行われる | |||
| この年 | 大島青松園では患者638名に対し、医師5名、看護婦11名。そのため「患者看護」が強制され軽症者のみならず重症者にも課せられた | |||
| この年 | 全患者の内78%の隔離が終了。入所者数9,190人一万床計画に近づく | |||
| 1941(昭和16年) | 2/3 | 回春病院が「敵国人」としての弾圧と経営難から解散。入院患者(58名)は九州療養所へ。なお閉園後敷地は癩予防協会(藤楓協会)に寄贈され、翌年ここに「未感染児童保育所」竜田寮が開設された(1942.6.26) | ||
| 2/22 | 「中外日報(浄土真宗系の新聞)」に「癩は不治ではない−伝染説は全信できぬ 小笠原登博士談」という記事がでた。小笠原と長島愛生園医官早田皓の論争のきっかけである | |||
| 3/10 | DDS の誘導体である結核治療薬プロミン(glucosulfone sodium, promin)がハンセン病治療に有効であることがアメリカのルイジァナ州のカービル療養所(the United States Public Health Service Hospital in Carville )のガイ・ファジェット(Guy Henry Faget)によって発見される。これは先ずフランク・マクリアリー (Frank McCreary) 博士が6人のボランティア患者に注射して効果を発見したことから始まった(参考) |
|||
| 4月 | 草津聖バルナバ医院が経営難から解散。患者(44名)は栗生楽泉園へ | |||
| 5/18 | 草津湯ノ沢部落が解散。患者(574名)は栗生楽泉園へ | |||
| 6/6 | 全生(ぜんせい)病院で山井道太事件(洗濯場事件)発生、当然の長靴要求で「重監房」送りとなる | |||
| 7/1 | 全国五個所の「公立 癩療養所」が「国立 癩療養所」へ組織変更 (松丘保養園、全生病院→多磨全生(ぜんしょう)園(以後全生園と省略)、邑久光明園、大島青松園、菊池恵楓園) |
|||
| 7/3 | 朝日新聞紙上に、「癩は伝染病にあらず、「体質病なり」と京大から新説」と大きく報道された | |||
| 7/4 | 「中外日報」に早田皓が、「癩は伝染病なり」という論文を発表する | |||
| 9/1 | 山井道太が重監房から解放された直後死去 | |||
| 12/8 | 太平洋戦争勃発(真珠湾攻撃) | |||
| 11/14 | 第15回日本癩学会(大阪)で小笠原登は癩は遺伝病でも不治の病でもなく、また感染力も微弱であるから、患者らへの迫害を止めるべきだと主張。徹底的に攻撃され孤立する | |||
| この年 | 藤本松夫は一斉検診で恵楓園の医者からハンセン病との診断を受ける | |||
| この年 | 鳥取、岡山、福岡、山口、宮城、富山、埼玉が無らい県となった | |||
| この年 | 三上千代が宮城県に患者家族の児童保育所「第二鈴蘭園」を開設 | |||
| この年 | 朝鮮総督府は国内患者数を 13,772名と発表 | |||
| 1942(昭和17年) | 6/20 | 小鹿島更正園長周防正季が患者に刺殺される | ||
| 6/26 | 回春病院跡地に癩予防協会の事業で竜田寮が設立される | |||
| 8/5 | 目黒慰廃園が経営難から解散。患者(55名)は全生園へ | |||
| 8/25 | 海軍がオーストラリア領ナウル島を占領。ここにはハンセン病専門病院が有り39人が入院していた | |||
| この年 | 大島青松園の「大島学園」が国民学校令に基づき「庵治第二国民学校養護学級」として認可された | |||
| この年 | アウシュヴィッツにガス室完成(以後250万人がここで殺された) | |||
| 1943(昭和18年) |
4/5 | 国立療養所奄美和光園が設立される(鹿児島県名護) | ||
| 11月 | アメリカ(カービル療養所のガイ・ファジェットによる)でプロミンの有効性が医学誌に発表される(カービルの奇跡)。これにより、完治が可能になった(1941年3/10の項参照) | |||
| この年 | この頃大風子油に代わる物として金オルガノゾール、セファランチン、虹波(こうは)が登場した | |||
| 1944(昭和19年) | 3/1 | 沖縄国頭愛楽園米軍に爆撃され主要な建物が壊滅される | ||
| 5月〜 | 沖縄では日本軍が銃や銃剣の威嚇で強制収容開始(沖縄愛楽園、宮古南静園へ多数収容) | |||
| 12/15 | 駿河療養所が傷痍軍人駿河療養所として発足 | |||
| 1945(昭和20年) | 3/10 | 東京大空襲(死者12万5000人) | ||
| 4月 | 宮古南静園では空爆と栄養失調で110人死亡、国頭愛楽園は誤爆を受ける | |||
| 8/6 | 午前8時15分原爆が広島に落下(死者約20万人) | |||
| 8/8 | ソ連対日宣戦布告(北満州・朝鮮・樺太への侵攻開始。これが中国残留孤児を生んだ) | |||
| 8/9 | 午前11時2分原爆が長崎に落下(死者約12万人) | |||
| 8/15 | 第2次世界大戦終戦(日本兵士の死者行方不明者256万5898名・一般市民約60万人−朝日新聞'01.12.29) | |||
| 8/21 | 小鹿島更正園で朝鮮人職員らによる患者の大虐殺起こる(死者84名) | |||
| 9/2 | 降伏文書調印(ミズーリ号艦上) | |||
| 10/24 | 国際連合発足 | |||
| 11/26 | 奄美・沖縄・宮古の3園が米軍政下におかれる | |||
| 12/1 | 国立療養所駿河療養所(静岡県御殿場)が設立される(13療養所が揃う) | |||
| 1946(昭和21年) | 2/28 | 沖縄では米軍指令により完全施設隔離政策が採られる | ||
| 3/5 | チャーチル「鉄のカーテン」演説・「冷戦」始まる | |||
| 4月 | 東大薬学部石館守三教授がプロミン合成に成功 | |||
| 6/24 | 選挙法の改正により衆院補欠選挙で入所患者が初めて選挙権行使 | |||
| 11/3 | 「日本国憲法」発布 | |||
| 11/1 | 勅令514号により「国立癩療養所」の呼称を「国立療養所」に改称 | |||
| この年 | 第2回汎アメリカらい会議(リオデジャネイロ)でプロミン・プロミゾール・ダイアゾンの有効性が高く評価される | |||
| この年 | 伝染病大流行(発疹チフス・天然痘・コレラで死者6940人) | |||
| 1947(昭和22年) | 1/10 | 厚生省が長島愛生園で患者10名にプロミン試用開始、特効性が評価される。しかし療養所幹部には効果に懐疑的な者や、隔離政策の崩壊を危惧する者もいた | ||
| 2/7 | 各療養所にララ物資が贈られる | |||
| 3月 | 全日本患者生活擁護同盟と国立療養所全国患者同盟が統合して、結核患者の全国組織「日本患者同盟」が結成された | |||
| 4/1 | 6・3・3制の実施に伴い各療養所に中学校が設置され教育委員会から教師が派遣される | |||
| 6/1 | 生活保護法の適用により入所患者に「患者慰安金」(月額150円-牛乳1合10円)が支給される | |||
| 5/3 | 「日本国憲法」施行 | |||
| ↓8/15 | 栗生楽泉園で「特別病室事件」発生 | |||
| ↓8/22 | 第1回患者大会開催。「特別病室」・強制労働・劣悪待遇・不正職員に関して追求 | |||
| ↓8/29 | 厚生省が調査団派遣 | |||
| ↓9/9 | 栗生楽泉園入所者2名が全生園と共闘大会開催 | |||
| ↓9/15 | 栗生楽泉園庶務課長等が厚生省に解雇される | |||
| ↓9/21 | 国会が調査団派遣 | |||
| ↓ | 朝日新聞・NHKの報道により社会問題化する | |||
| ↓10/11 | 古見園長休職等の処分 | |||
| 11/6 | 以上の「特別病室事件」の実態を衆院厚生委員会で東龍太郎医務局長が報告。なお「らい治療に大きな光明(プロミン)が見いだされつつあり 治療を目的とする収容を国策としたい」と。 ★この年以降国会の議事録がここから検索出来ます(例:昭和22年11月06日・衆議院・厚生委員会・東龍太郎・特別病室とインプット) |
|||
| 9/21 | 全生園で施設の補助機関としての「全生常会規約」の廃棄を宣言。新たに入所者の手による自治会規約の起草始まる | |||
| 10/27 | 国家賠償法施行 | |||
| 11月 | 第20回日本癩学会でプロミンの治療効果が3例報告される(愛生園、楽泉園、東大石館教授より) | |||
| この年 | 静脈注射によるプロミンに代わって経口薬 ダプソン(dapson-DDS-diamino diphenyl sulfone)が作られる。これにより初めて医療現場におけるハンセン病治療が可能となる | |||
| 1948(昭和23年) | 1/1 | 五療養所(星塚、菊池、駿河、栗生、松丘)患者連盟発足 | ||
| 6/10 | 長島愛生園で光田健輔園長の胸像除幕式 | |||
| 7/13 | 「優生保護法公布」(旧優生保護法)―9月11日施行(患者の優生手術=断種・人工妊娠中絶は「本人及び配偶者の同意が有れば」可能であると明文化される―3条1項参照)。1996年の法廃止までに 断種が1,400件以上、中絶は3,000件以上に及んだ | |||
| 8/15 | 大韓民国政府樹立 | |||
| 9/1 | WHO(世界保健機関)発足 | |||
| 9/3 | 大韓癩予防協会創設される | |||
| 10/3 | 長島愛生園で第一回瀬戸内三園入園者役員懇談協議会開催 | |||
| 10/28 | 全生園内に「プロミン獲得促進委員会」発足 請願書を提出するなど積極的に政府・関係方面へ働きかけ全国へ波及する | |||
| 11/27 | 国立療養所の在園者3.276名が衆議院に対し「らい予防法」の改廃を求める請願を行う | |||
| 11/27 | 衆院厚生委員会で武藤運十郎の質問に対し、プロミンとプロミゾールに関連して東龍太郎医務局長の答弁 「もし十分な予算があれば全ての患者に対してこの進んだ治療を・・・」「療養所は治療をするところであると私共も考えて居ります」(国会議事録検索) |
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| 11月 | 第5回国際らい会議(ハバナ)開催@らいが治癒可能であることの啓蒙の必要性を強調A経口薬ダプソンやプロミンなどスルフォン剤の有効性が実際の試用により確認されるB社会復帰の際の援助の必要性も強調している | |||
| 12/10 | 第3回国連総会で「世界人権宣言」が採択された | |||
| この年 | 星塚・菊池・駿河・栗生・松丘の5療養所に患者連盟が発足した | |||
| 1949(昭和24年) | 1/5 | 奄美和光園に米国カトリック教会よりプロミンが寄贈され7人に試用される | ||
| 1月 | 京都軍政部衛生課長(軍医)を務め、京都府内の医療行政を統括したジョン・グリスマンが開業医の父あての手紙(49年1月25日付)で日本の隔離政策について「ハンセン病はうつりにくい病気で結核のほうが恐ろしい。無理解から生じる恐怖と嫌悪感を取り除きたい」と述べ、外来病院では入手困難だった特効薬プロミンを私費で28ドル分、日本に送るよう依頼している。が除隊(4月)までの一時的なものに止まった | |||
| 2/24 | 厚生省がプロミン予算6,000万円を要求一旦大蔵省により1,000万円に減額されたが各療養所で断食・ハンスト等「プロミン獲得運動」が展開され池田勇人大蔵大臣にも面談、結局要求通りに通過する(4月15日) | |||
| 5/19 | 厚生省が実施した「三〇年計画」でこの年2,000床、翌年2,600床の大増床と、潜在患者の発見(住民からの聞き込み・投書を含む)などの方針により、30年計画でらいを撲滅するとしている。昭和28年度までに5,500床の増床が実現、ほぼ全患者の収容が可能となる | |||
| 6/24 | 厚生省で全国療養所所長会議開催される。「第2次無らい県運動」の実施、未収容患者の収容徹底を決議。尾村療養所課長によって先の東医務局長の国会答弁は全面否定される。軽快者の退所を提案した小川予防課長に対し光田健輔は「生兵法は大けがのもと、軽快者だとて出してはいけない。遺言としておく」と発言する | |||
| 10/6 | 第22回日本癩学会(松丘保養園)で病名「癩」の呼び方の変更が提案・協議されるが実らず(〜7) | |||
| この年 | 朝日新聞社は光田健輔に「朝日賞」を贈る | |||
| 1950(昭和25年) | 1/10 | 奄美で軽快退所者7名が社会復帰 | ||
| 1/16 | 栗生楽泉園で殺人事件発生 | |||
| 2/21 | 全生園自治会は星塚・菊池・駿河・栗生・松丘の5療養所の患者連盟(代表星塚敬愛園患者自治会)に対し、全国組織にするよう意見書を送付した | |||
| 2/15 | 衆院厚生委員会で光田健輔等が患者の取り締まりの強化を訴える。園の周囲に柵を巡らす、現行懲戒検束規定が新憲法下でも違反でない(3月17日)等 | |||
| 5月 | 田中文雄が「愛生」誌に「ライ病」を「ハンゼン氏病」と改称することを主張した | |||
| 5/20 | 「全国国立癩療養所患者協議会(仮称)結成並びに設立準備委員会設置について」の議案を、評議員会、舎長会ともに承認する | |||
| 6/25 | 朝鮮戦争勃発 | |||
| 7/8 | 警察予備隊創設(75.000人・マッカーサーが指示) | |||
| 7/24 | GHQレッドパージを指示(民間11.000人・政府機関1.200人) | |||
| 8/31 | 熊本県の八代郡の山村で一家心中事件 57歳のらい患者の父を24歳の息子が射殺して自害 | |||
| 8月 | らい患者の全国調査実施される。登録患者13,805人、入所患者11,267人、未収容患者2.538人、収容率75.04%、有病率は1万人当たり1.65人(50年前―「6.92人」の4分の1) にもかかわらず厚生省は各都道府県に患者の一掃を指示、報告を義務付ける(「第2次増床計画」)(データ集の患者数は年末・除く沖縄) |
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| 10/5 | 「全国国立癩療養所患者協議会(全癩患協)」規約草案、自治会機関で決定される | |||
| *12/26 | (当時29歳)に「ライ病患者として翌年2月7日より国立療養所菊池恵楓園に収容する」との通知書が届く。「藤本事件」のキッカケである。(以後「藤本事件」関連の項には「*」を付す。1962年まで)(「藤本事件年表」参照) | |||
| 1951(昭和26年) | *1/9 | 藤本松夫に先ず最初の療養所への入所勧告がなされた | ||
| 1/11 | 「全国国立癩療養所患者協議会(全癩患協)」規約草案を各園自治会に諮り、修正再提出、各園一致の賛同を得る(瀬戸内三園は未加盟) | |||
| 1/12 | 全癩患協(現全療協)が発足(本部全生園)。旧法の改正に向けて気運が高まる。「予防法闘争」の始まりである.。この時入所者は11,116人 | |||
| *1/15 | 藤本松夫は家出をし、熊本、博多、小倉、下関各市の大病院を回り「らい」では無いという診断書を3通得て2月10日帰宅、祝杯をあげる | |||
| 1/19 | 厚生省と法務省の間で代用刑務所に関する協定が成立 強権による収容や逃亡に対する罰則の強化の顕れである。2年後に実現することになる | |||
| 1/29 | 山梨県で保健所による消毒が発端で一家9人の心中事件発生。23歳の長男がハンセン病だと診断され、家中を消毒すると通告されたことを苦にして長男と両親と姉6人が全員、青酸カリにより服毒自殺した | |||
| 1/30 | 「全癩患協ニュース」第一号発行 | |||
| 2/10 | 全癩患協、発会式(多磨礼拝堂)開催 | |||
| * 2/21 | 藤本松夫は九州大学へ行き、「らいに非ず」との診断書を得ている | |||
| * 2/24 | 藤本松夫に二度目の入所勧告がなされた | |||
| 3/1 | NHK「私たちの言葉」で多磨全生園長の訴えが放送される | |||
| 3月 | 沖縄救らい協会設立される | |||
| 4/3 | 第24回日本癩学会でプロミン、プロミゾール、ダイアゾンの治療効果が正式に確認される(〜4) | |||
| 4月 | 私立らい療養所への国庫補助が開始される | |||
| 4月 | らい予防事業費(思想普及費等)を計上、(財)藤楓協会へ委託 | |||
| 5/18 | 第1回全癩患協書面会議開催。研究所の設立、待遇改善、患者保護法など10項目を採択する | |||
| 6/10 | 菊池恵楓園で1000床増床落成式が行われた。収容能力2,100名の最大規模の療養所となった | |||
| 6/10 | 瀬戸内三園が全癩患協に加盟 | |||
| * 8/1 | 熊本県菊池郡(現菊池市)で深夜2時頃、F宅の寝室で竹竿に結びつけられたダイナマイトが蚊帳の裾から差し込まれた。しかし完全に爆発しなかったので、Fと次男が1週間から10日の怪我を負うにとどまった。「藤本事件」の発生である | |||
| * 8/3 | 上記ダイナマイト事件で藤本松夫が犯人として逮捕され、恵楓園内の菊池拘置所に勾留される | |||
| * 8/20 | 藤本松夫が殺人未遂・火薬取締法違反で起訴される。恵楓園内の特設法廷で3回の公判が開かれる | |||
| 11/3 | 光田健輔文化勲章受章 | |||
| 11/8 | 参院厚生委員会らい小委員会で光田健輔(愛生園)、林芳信(全生園)、宮崎松記(恵楓園)による三園長証言が行われる。 強権による患者の完全収容の徹底と、そのための強制権限の付与、懲戒検束権の維持・強化、無断外出への罰則規定の創設などを求めるもの。入所者から大いに糾弾を受ける |
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| 11月 | 恵楓園からプロミン治療による軽快退所者第1号が退所する | |||
| この年 | 「癩予防デー」を「救らいの日」と改める(貞明皇后死去に伴い) | |||
| この年 | 全国の軽快退所者35人 | |||
| この年 | 第3回汎アメリカらい会議(於ブェノスアイレス)で伝染性患者と非伝染性患者の処遇を区別することを確認 | |||
| 1952(昭和27年) | 4/1 | 琉球政府発足 | ||
| 4/1 | 国頭愛楽園が沖縄愛楽園へ名称変更 | |||
| 4/14 | 全生園で園内通用券廃止。この際職員の不正(74万円不足)が露呈。不正糾明患者大会開催(4/23)される | |||
| 5/4 | 待労院が琵琶崎待労病院へ名称変更 | |||
| 5/24 | 全癩患協第1回支部長会議が施設側の妨害を排除して開催され@「らい」を「ハンゼン氏病」に改めるA「らい予防法」の改正試案(強制収容条項の削除、懲戒検束規定の廃止、退園・一時帰省の促進等)を決議し政府に要望する | |||
| * 6/9 | ダイナマイト事件で藤本松夫は菊池恵楓園出張法廷にて懲役10年を宣告される。藤本松夫は福岡高裁に控訴 | |||
| 6/13 | 1931年に設立された「(財)癩予防協会」が「(財)藤楓協会」として発足 | |||
| * 6/16 | 藤本松夫が恵楓園内の菊池拘置所を脱走する | |||
| * 7/7 | 熊本県菊池郡の山道でFの惨殺死体が発見される | |||
| * 7/10 | 藤本松夫の逮捕状が請求された | |||
| * 7/12 | 藤本松夫が単純逃走・殺人の容疑で逮捕される。逮捕時に警官に撃たれ全治七週間の傷を負う | |||
| 9/10 | 全生園内で自治会が三園長証言への抗議と「らい予防法」の改正促進を決議 | |||
| 9月 | 全癩患協は、「全癩患協ニュース・21号」で「ハンゼン氏病」に統一する、と宣言した | |||
| 10/10 | 全癩患協が「らい予防法改正促進委員会」を発足。らい予防法闘争の始まりである | |||
| 10/15 | 保安隊発足(警察予備隊を改組) | |||
| 11/13 | 衆議院議員長谷川保が「癩予防と治療に関する質問主意書」を提出(現行法は人権を無視した極めて非民主的なものであり且つ憲法違反であるとし15項目の質問をつきつける) | |||
| 11/19 | 結婚の条件だった優生手術が廃止される | |||
| 11/21 | 長谷川議員の質問主意書に対し吉田茂首相が「現行法は憲法違反ではない」と答弁 | |||
| 12/8 | 朝日新聞「今日の問題」欄で「ここにも人権を」とハンセン病を取り上げる | |||
| この年 | WHO第1回らい専門委員会開催(リオデジャネイロ)@スルフォン剤(特にダプソン(DDS―DDSの飲み薬がダプソン)の治療効果の確認A「強制隔離は再考を要す、一般の公衆保健医療を行うべし」と決議 | |||
| この年 | 優生保護法一部改訂によって優生保護法指定医の判断、本人・配偶者の同意だけで中絶可能になった | |||
| 1953(昭和28年) |
1月 | 国産の経口薬ダプソン(DDS―DDSの飲み薬がダプソン)による治療が始まる | ||
| 2月 | 全患協は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」に名称変更。全癩患協」を「全患協」に改称する。(厚生省は「癩」を「らい」に修正するのみ) | |||
| 3/10 | 熊本刑務所菊池医療刑務支所(ハンセン病患者専用、定員75名)が菊池恵楓園に隣接して設立される | |||
| 3/14 | 長谷川議員が全患協草案による「らい予防法案」の提出準備を進めた これに驚いた厚生省は長谷川議員に圧力をかけ独自の「改正案」を作成提出する。しかし「バカヤロー」解散により廃案となる | |||
| 6/30 | 「らい予防法案」政府案再び提出される | |||
| 7/1 | 全患協が国会へ陳情団を送り出す(当初48名規模) | |||
| 7/3・4 | 衆院厚生委で審議、通過。全患協陳情団が抗議行動(国会前に座り込み・作業スト・ハンスト等一ヶ月以上・221名)(写真) | |||
| 7/6 | 参院厚生委で審議(プロミン等の治療薬の卓効は認められるが、山県勝見厚相は「勧奨に応じない場合は強制収容が必要」と) | |||
| 7/8 | 参院厚生委で審議(山口正義公衆衛生局長談「伝染させるおそれ」がはっきり診断出来る者はこれを隔離する方針」) | |||
| 7/23 | 朝鮮休戦協定調印 | |||
| 7/30 | 全患協国会前で再び座り込み(全生園の患者380名が正門を突破して園外デモを行い警官200名と対峙) | |||
| 8/6 | 「らい予防法」参院通過。9項目の付帯決議が付された。(待遇改善・福祉の充実などを求めるもので更に「近き将来本法の改正を期する」とされる) | |||
| 8/15 | 「らい予防法(新法)(法律第214号)」制定・公布される。強制隔離政策は踏襲される | |||
| * 8/29 | 熊本地裁恵楓園出張法廷における第一審で藤本松夫に死刑判決下る | |||
| 9/16 | 厚生省より「らい予防法の施行について」通達(各療養所長、知事宛。@外出制限を許可制にするA「患者療養心得」による私生活の規制B勧奨に応じない患者の強制入所措置と罰則等) | |||
| * 9/25 | 全患協は第2回支部長会議(栗生楽泉園)で藤本松夫の減刑救護運動をすることを決定する | |||
| 10/3 | 第6回国際らい会議(マドリッド)開催される スルフォン剤の効果は(過去12年の臨床実験から)確定的とされる。しかし日本では国立療養所でしか投与しないためこれが実際上は隔離収容を強制することとなる | |||
| 10/30 | 厚生省が外出に関して通達(療養所間の親善団の派遣は職員付き添いでも療養上不適当と各療養所長宛) | |||
| 11月 | MTL国際らい会議(インド・ラクノー)(犀川一夫出席)開催される@特別ならい法令の廃止=一般の公衆衛生上の問題処理A速やかな社会復帰B外来治療の制度化 を確認する | |||
| 11月 | 「竜田寮児童通学拒否事件」(黒髪校事件)発生。菊池恵楓園宮崎松記園長は黒髪小学校に対し竜田寮児童の通学拒否撤回を申し入れる | |||
| * 12/1 | 藤本松夫、福岡高裁に控訴する。 | |||
| 12/4 | 宮崎園長は熊本地方法務局・中央児童福祉審議会に「らい患者と親族関係にある者に対する教育上の差別的取り扱いの撤廃について」を申し入れる(1954年1月27日に続く) | |||
| 12/11 | 熊本日々新聞「癩患者家族の通学問題について」に恵楓園宮崎園長が意見発表 | |||
| 12月 | 水俣病の認定第1号患者が発症した | |||
| この年 | 昭和24年度から昭和28年度までに5500床の増床が実現し、療養所の収容定員が13,500人となった。そして、この年の調査で、未登録患者を含む推定患者数が約13,800人とされたので、この時点でほぼ全患者の収容が可能になり、増床が終了した | |||
| 1954(昭和29年) |
1/27 | 龍田寮問題(黒髪校事件)で「共学は差し支えない」と九州大学医学部皮膚科樋口教授が熊本地方法務局の照会に回答。 | ||
| ↓2/16 | 「通学拒否は適当でない」厚生省・法務省・文部省が宮崎菊池恵楓園長と会議 統一見解発表 | |||
| ↓3/1 | 「竜田寮児童の通学拒否」町民大会で決議され、市内でデモ | |||
| ↓3/11 | 「通学許可の決定」熊本市教育委員会 | |||
| ↓3/18 | 「通学は妥当、反対運動は人権侵害の恐れあり」と熊本地方法務局 | |||
| ↓4/6 | 菊池恵楓園患者自治会とPTAの会談、決裂 | |||
| ↓4/8 | 黒髪小学校入学式。竜田寮の4名の児童が行こうとしたが、PTAにより校内外にポスター (「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬようしばらくがっこうをやすみましょう」)が貼られ一般児童の登校を阻止する活動が行われる。 | |||
| ↓4/9 | 熊本地方法務局がPTA会長に警告 | |||
| ↓4/13 | 「児童の登校を一時見合わせよ」熊本市議会より菊池恵楓園側に要請、園側は拒否 | |||
| ↓4/20 | 「通学拒否は不当である」熊本大学医学部学生自治会が声明を発表 | |||
| ↓5/10 | この問題を苦にして佐賀県下の患者家族が服毒自殺 | |||
| ↓5/18 | 「通学支持」のハンストを恵楓園家族会が実施 | |||
| ↓8/21 | 「通学を9月以降許可しない」熊本市教育委員会が決定、園長が激しく抗議 | |||
| ↓9/27 | 通学問題の報告会に反対派が乱入、傷害事件に(熊本市内浄照寺) | |||
| 10/7 | 通学賛成派・反対派を国会文部委員会へ参考人招致するに至る(国会会議検索でどうぞ)(黒髪小学校、龍田寮どちらでも検索できます) | |||
| 2/2 | 韓国で伝染病予防法が制定公布される | |||
| 3/1 | 3時50分、第五福竜丸ビキニ環礁水爆実験で被爆(久保山愛吉無線長死去・40歳) | |||
| 4/1 | 「患者看護」を廃止し病棟看護は職員のみでと厚生省が指示するが職員の絶対数が不足 | |||
| 4月 | らい予防法による患者家族への生活保護を開始する (法律第77号) | |||
| 5月 | 和歌山県海南市亀川村において、「生長の家」 M布教師が差別布教をする(亀川村差別事件) | |||
| 6月 | 韓国で大韓ハンセン総連盟創設。この頃より国内各地で「定着村」が作られる | |||
| 7/1 | 自衛隊発足(陸・海・空三軍) | |||
| 7/20 | 第一次インドシナ戦争終結(ベトナム独立) | |||
| 9/26 | 洞爺丸転覆死者1155人(日本最大の海難事故) | |||
| 11月 | ゼローム・ルカゼフスキー神父が名瀬市に未感染児入所施設を開設 | |||
| *12/13 | 藤本事件は福岡高裁で控訴棄却される | |||
| この年 | WHOが「近代癩法規の展望」を発表、隔離政策の正当性・有効性を大いに疑問視する | |||
| この年 | 日本皮膚科全書発行 「癩の伝染力は他の伝染病より遙かに弱く、重症者と長らく同居しながら感染しなかった例は多い」、「プロミンは大風子油が遠く及ばないほどの卓効を示す」 | |||
| この年 | 日本でPCB生産開始 | |||
| 1955(昭和30年) | * 2/12 | 藤本事件、最高裁に上告する | ||
| * 2/13 | 日本国民救援会が藤本松夫救援を取り上げる | |||
| 2/22 | 竜田寮問題が事実上解決 熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り、通学させることになる | |||
| 6月 | 邑久光明園でようやく園内通用券が廃止になった。これが最後となる | |||
| 7/1 | 国立らい研究所(現国立多摩研究所)設立 (らい予防法闘争の際の「付帯決議」の一つ) | |||
| 9/16 | 長島愛生園に岡山県立邑久高等学校定時制課程新良田教室(にいらだきょうしつ)が開校(一学年30名) (これも「付帯決議」の精神の実現である。しかし通学は所謂「お召し列車」によった(1963年まで)) | |||
| この年 | スルフォン剤投与の効果によって国立療養所でのらい菌陰性者が約76%に急増(1948年は約26%) | |||
| この年 | 患者総数12.169人(以後減少に向かう) 収容者数11.057名(90.86%) 無らい県運動による強制収容と増床の成果 | |||
| 1956(昭和31年) | 4/9 | 厚生省は療養所内の高校入学式に他寮の患者が参加する場合の外出禁止制限(予防法15条による)を通達 | ||
| 4/16 | ローマ会議開催される (「らい患者の救済と社会復帰のための国際会議」―マルタ騎士修道会主催・51カ国250名参加) 「らいの伝染性が低いこと及び治療しうる病気であること」従って「全ての差別的な特別法の撤廃」「在宅治療の推進」「社会復帰の援助」などを決議(ローマ宣言)(〜4/18) |
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| 6/24 | らい予防週間にあたりNHKは「らいの今昔」を放送 | |||
| 11/3 | 水俣病が公式に発見される(熊本大学研究班が第1回報告会) | |||
| この年 | 厚生省は「らい患者の暫定退所決定準則」を定める(国立療養所課長から医務部長にマル秘密扱いで交付)。 しかし@極めて厳格(長期間の経過観察・頻回の菌検査等)であって退所機会を適正に保障するものではなく、しかもA当初入所者に極秘とされている | |||
| この年 | 「内科書・中巻」発行される「本病の伝染は余り恐るるに足らない。患者と永く共棲することが必要条件であり貧窮・不潔その他の非衛生生活がその誘因となる」「プロミンは格段の優秀性を具え」「明らかに著明な軽快を示す」と記す | |||
| この年 | 全患協の入所者実態調査によると 平均収入は慰安金・作業賃等計1550円。支出は食品・日用品・娯楽費等計1830円。赤字であった | |||
| 1957(昭和32年) | 2/27 | 退所した高校生が、生きる術なく希望を失って自殺する事件が発生 | ||
| 3/1 | 「全患協ニュース」に邑久光明園職員森幹郎が「濫救惰民」を掲載、議論を呼ぶ | |||
| 5/17 | 衆院社労委で有馬輝武議員に「付帯決議」の「退所者に対する更生福祉制度の整備、更生資金の支給」の実行を追求され、中垣厚生政務次官は予算化に努力する旨答弁する(国会議事録検索) | |||
| 6/1 | 長島愛生園に入所者用外部電話開通 | |||
| 8/12 | 重度結核患者朝日茂氏提訴(朝日訴訟=人間裁判) | |||
| * 8/23 | 藤本事件は最高裁で上告棄却され死刑が確定する。弁護団は直ちに判決訂正申立を行い、本裁判を暗黒裁判として弾劾。反対運動が巻き起こる | |||
| * 10/2 | 藤本事件について熊本地裁に第一次再審請求 | |||
| 11/23 | 優生手術を受けずに結婚出来るようになる | |||
| この年 | 大島青松園で24畳の大部屋を12畳2部屋に分ける | |||
| 1958(昭和33年) | 1/20 | サリドマイドが日本で発売される | ||
| * 3/8 | 「藤本松夫を救う会」が著名人らによって結成される | |||
| 4/1 | 厚生省、軽快退所者世帯更生資金(生業資金・退所支度金・技能修得資金)貸付を開始する。しかし額が極めて僅少で実効性の乏しいものである | |||
| 6月 | 元全生園婦長三上チヨナイチンゲール賞を受賞する | |||
| 7/1 | 沖縄らい予防協会設立される(皮膚科検診の強化・啓蒙活動などを行う) | |||
| 8/12 | 韓国で大韓癩学会創設される | |||
| 8/23 | 奄美和光園に山下清画伯来る、個展開催 | |||
| 10月 | 長島愛生園で「園独自の軽快退所基準」を作成(11月には菊池恵楓園でも) | |||
| 11/12 | 第7回国際らい会議(東京)開催される @早期発見・早期治療・外来治療の周知A強制隔離を定めている法律の全面的廃止を決議。 しかし出席した小沢龍厚生省医務局長は 「流行は最盛期を過ぎたが在宅の未収容患者が相当数ありこれらが感染源になっているので早期収容が望ましい」 と日本の隔離主義を間違って誇っている。 社会問題分科会会長ジャガディサンについてはこちら | |||
| 12/2 | 「らい予防法」はいらない」とアーヴェン・H・マーシャル大佐が明言(国際らい会議に出席した沖縄民政府社会福祉部長が琉球新報で)、大きな反響を呼ぶ | |||
| 12/27 | 改正国民健康保険法公布(国民皆保険の基礎) | |||
| この年 | 入所者は12,2148人であり、強制隔離のピークとされる | |||
| 1959(昭和34年) | 3月 | 長島愛生園で新基準による退所者が出る | ||
| * 7/31 | 「藤本松夫を救う会」が40,700人の署名を持って嘆願書を法務大臣に提出 | |||
| 8/1 | 全患協ニュース136号が「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会」へ名称変更(「ゼ」→「セ」。「氏」は残る)を提唱し、全患協も9月から正式に改めた | |||
| 11/1 | 国民年金制度発足 | |||
| この年 | WHO第2回らい専門委員会開催(ジュネーブ) @強制隔離は廃止し、治療は一般外来医療活動の中で行うべしA特別法は廃止すべし と強調(報告書は1960年に発行される) | |||
| この年 | 国民年金法により患者作業の出来ない不自由者に福祉年金支給が開始される | |||
| 1960(昭和35年) | 1/8 | 全生園で女性患者殺人・死体遺棄事件発生 @読売新聞は「野放しのライ患者」と掲載(1月11日)、全患協が抗議するA厚生省国立療養所課長は「外出制限を厳重にする」と紙上で発言 | ||
| * 2/1 | 「藤本松夫を救う会」が藤本事件特報を発行 | |||
| 3/5 | 国民年金支給開始。障害福祉年金(1500円)入所者の34%、老齢福祉年金1.4%に | |||
| 5月 | 在日朝鮮・韓国人ハンセン氏病患者同盟結成される | |||
| 10/19 | 朝日訴訟一審で原告勝訴 | |||
| 12/15 | 長島愛生園で患者・職員1.000人が「医者よこせ」総決起大会開催 | |||
| 12/20 | 南ベトナム解放民族戦線結成(ベトナム戦争開始) | |||
| *12/20 | 藤本松夫の死刑延期を法務大臣に嘆願。熊本地裁に第2次再審請求 | |||
| この年 | 大島青松園で「患者看護」が廃止された 以後全国で職員への看護切替促進運動が活発化する | |||
| この年 | 沖縄読谷高校で元患者の合格取り消しがある | |||
| この年 | 沖縄八重山保健所で外来治療と在宅治療を試行する | |||
| 1961(昭和36年) | 2月 | 国鉄鹿児島本線で浮浪者をハンセン病患者と間違えて強制下車させる 恵楓園自治会が抗議 | ||
| 3月 | 各園で自動車運転免許講習開始 | |||
| *3/24 | 藤本事件、第二回再審請求が却下される | |||
| 4/25 | 長島愛生園で医者不足対策として岡山大からのパートによる診療開始 | |||
| 6月 | 「国立らい研究所」を「国立多摩研究所」と改称 | |||
| 8/26 | 琉球政府沖縄独自の「ハンセン氏病予防法」を公布 退所規定、在宅治療規定を明文化(ローマ会議の趣旨にかなう画期的なもの) | |||
| 9月 | 神山復生病院婦長井深八重、ナイチンゲール賞受賞 | |||
| 10/24 | 沖縄らい予防協会が「沖縄ハンセン氏病予防協会」へ名称変更する | |||
| 1962(昭和37年) | 1/3 | 琉球政府がハンセン病回復者を病院・保健所に職員採用すると発表 | ||
| 2/1 | 全患協ニュースが医師不足から来る低医療を数字で示す「ハンセン氏病療養所医療従事者白書」 | |||
| 3/13 | 東北新生園で「社会復帰研修道場」東北農場の鍬入れ式 | |||
| 3/18 | NHKで「日本の顔―閉ざされた島(長島愛生園取材番組)」放映 | |||
| * 4/23 | 「藤本事件」熊本地裁に第三次再審請求。アリバイの主張もこの日までなしえなかった(偏見と予断に満ちた事件である) | |||
| * 6/15 | 全患協ニュース「藤本事件特集号」発行 | |||
| * 8/8 | 国民救護会主催「藤本松夫を救う会」が法務省に死刑延期の申し入れを決定 | |||
| * 9/11 | 中垣國男法務大臣が死刑執行命令書に許諾の押印をなす | |||
| * 9/13 | 熊本地裁で第三次再審請求が却下される。深夜福岡刑務所への移送命令が出る | |||
| * 9/14 | 藤本松夫、朝7時45分菊池医療刑務所を出発。10時30分福岡刑務所着。午後1時7分死刑執行される(享年40歳―福岡拘置所にて) | |||
| * 9/16 | 全患協は藤本松夫処刑に対し抗議声明文を発表 | |||
| * 9/21 | 全生園で藤本松夫処刑の抗議集会を開催する | |||
| * 9/22 | 全患協は藤本松夫処刑に対し厚生省へ抗議 | |||
| *11/10 | 衆院法務委員会で坂本議員が中垣法務大臣を追求(内容はここから検索出来ます。1947年の欄参照) | |||
| 6月 | 国立らい研究所を国立多摩研究所へ名称変更 | |||
| 9/13 | サリドマイド販売中止 | |||
| 10/22 | キューバ危機(ケネディー大統領海上封鎖を声明) | |||
| 12/10 | 全患協「らい予防法研究会」を発足 | |||
| 12/10 | 琉球政府はハンセン病患者家族に生活保護法を適用 | |||
| この年 | 台湾はWHOの方針などの国際的趨勢にかんがみ「らい予防法」を廃止した | |||
| この年 | レイチェル・カーソン「沈黙の春」発行 | |||
| 1963(昭和38年) |
2/9 | 韓国で伝染病予防法改訂される(隔離主義から在家治療に転換) | ||
| 2/28 | 「昭和の厳窟王」吉田石松半世紀振りに冤罪を晴らす (1913年の強盗殺人事件)裁判長が「われわれの先輩が犯した過ちをお詫びする。終始一貫無実を叫んできたあなたの崇高な態度と生命力に深甚の敬意を表したい」と。 |
|||
| 5/1 | 狭山事件発生(長期闘争に発展する)2006年2月6日に狭山事件の再審を求める東京集会が開かれている(2006.4.26記) | |||
| 6/20 | 全患協は第8回支部長会議(星塚)で@強制隔離政策によって受けた損失の補償A医療の充実B患者作業制度の見直しC予防法の改正などを決議 | |||
| 6/25 | 藤楓協会が「救らいの日」を「らいを正しく理解する日」に変更 | |||
| 7/15 | 全患協は@医療の体系化A在宅治療の促進B退所者の保障を三本柱とする「ハンセン氏病予防法」改正草案を発表した | |||
| 8/9 | 全患協、厚生省に陳情。若松公衆衛生局長は「学問の進歩に伴って予防法を改正するのは当然であるが・・」と発言 | |||
| 9/13 | 第8回国際らい会議(ブラジル)開催 「ハンセン病の特別法は不要」「無差別の強制隔離は時代錯誤」と決議 | |||
| 9/27 | 全患協は支部長会議で 「強制隔離政策によって受けた損失の補償要求」 を議決、厚生大臣に19項目からなる「らい予防法改正要請書」を提出。強制隔離政策撤廃・退所者保護・在宅治療の充実等を強く要求した | |||
| 10月 | 全患協は厚生省・大蔵省・参院社労委に陳情 小西宏結核予防課長(ハンセン病を所管する)は「法改正を考えるために「らい予防法制度調査会」を作るべく予算を要求している」「このことは偏見除去のPRにもなる」と語る | |||
| 11/4 | 朝日訴訟控訴審で原告逆転敗訴 | |||
| この年 | 長島愛生園で屎尿汲み取り他7種類の「患者作業」を返還する | |||
| この年 | 藤楓協会が愛知県に外来治療所を設立 | |||
| この年 | 「お召し列車」が無くなったとされる | |||
| 1964(昭和39年) | 2/14 | 朝日訴訟原告朝日茂氏死去 | ||
| 3月 | 全患協が厚生省と国会に陳情 長谷川保議員「治るようになったのだから政府も早急に法改正を」。田口衆院社労委委員長「このような予防法は国として恥ずかしい。いっぺんには行かないが一歩一歩努力したい」 | |||
| 3月 | 厚生省(結核予防課)が「らいの現状に対する考え方」をまとめる 医学の進歩に即応したライ予防制度の再検討(@社会復帰A医療体制B現行法の見直し)及び社会一般の深刻な恐怖心の除去のための啓蒙活動を主張する。しかし省内の厚い壁に阻まれる | |||
| 5/14 | 光田健輔死去。一つの時代終焉の予兆?朝日新聞は天声人語で「日本のシュバイツァー」と書く | |||
| ↓ 6/5 | 全患協・各支部代表等200人が「看護切替」完全実施を陳情。厚生省会議室に座り込み(六・五闘争) | |||
| ↓ 6/6 | 各支部で決起大会・作業放棄・ハンストに突入 | |||
| ↓ 6/7 | NTV「朝のニュース」が座り込みを報道 | |||
| ↓ 6/8 | 厚生省、局長等が雲隠れ・全患協に退去命令・警官介入・険悪化・局長等詫びる | |||
| 6/9 | 更生大臣と交渉、解答を得る | |||
| 6/25 | 1931年以来の「救らいの日」を改め、「ハンセン病を正しく理解する週間(6月25日を含む日曜日〜土曜日の1週間)」とする | |||
| 8/2 | アメリカ軍ベトナム参戦(トンキン湾事件−後日捏造と判明) | |||
| 8月 | 全生園内で授産施設ホッチキス工場が操業開始 | |||
| 10/10 | 東京オリンピック | |||
| 11/4 | 鳥取県出身の長島愛生園及び邑久光明園の入所者4名の里帰りが実現(県衛生部長加倉井駿一の努力による)。以後各都道府県が追随する | |||
| 11/15 | フジTV「社会世相学」で駿河療養所の患者作業や社会復帰の訴えを放映 | |||
| この年 | 菊池恵楓園の患者が朝日新聞熊本支局のアマチュア囲碁戦に出場拒否される | |||
| この年 | 回復者に対する就労助成金制度発足。しかし額が僅少で実質的なものではない | |||
| 1965(昭和40年) | 2/14 | 「朝日訴訟を勝ち抜く会」に愛生園他の支部が参加 | ||
| 6/6 | 日本棋院の肝いりで第1回ハンセン病囲碁全国大会が栗生楽泉園で開催される | |||
| 6/22 | 日韓国交正常化(日韓基本条約に調印) | |||
| 6/22 | 青森市民会館で松丘保養園入所者の作品展開催 | |||
| 9/27 | 星塚敬愛園が看護切替のための職員を要求して九州地方医務局に陳情 | |||
| この年 | 菊池恵楓園で1人4.5畳の個室を備えた居住棟完成 | |||
| この年 | 沖縄屋我地村で愛楽園入園者の選挙権是非論争(村議会が入園者の投票権は不適当との決議をした為強く抗議) | |||
| 1966(昭和41年) | 7/1 | 長島愛生園で授産施設畳工場が操業開始 | ||
| この年 | 長島愛生園で不自由独身患者部屋の個室化(一人当たり3.75畳)が実施される | |||
| 1967(昭和42年) | 1/30 | インドのアクラ市に「インド救らいセンター」完成(所長宮崎松記) | ||
| 4/5 | イタイイタイ病は三井金属の排水と判明 | |||
| 5/24 | 朝日訴訟で最高裁、原告敗訴の判決 | |||
| 6/24 | 青森市内松木屋デパートで患者作品展開催される | |||
| 6/25 | 藤楓協会が「らいを正しく理解する集い」を開催、以後毎年各地で同様の集いが開かれる | |||
| 7/30 | 回復者の社会復帰のための宿泊施設「交流(むすび)の家」が奈良に竣工(FIWC関西委員会による) | |||
| 9/1 | 四日市喘息初の大気汚染公害訴訟 | |||
| 9/26 | 藤楓協会が日本橋で「療養作品展示会」を開催する | |||
| 11/21 | 藤楓協会がスポンサーの映画「柊の垣の中より」の試写会が全生園で開催される | |||
| 1968(昭和43年) | 2/14 | 朝日訴訟の「人間裁判記念碑」が岡山に建立される | ||
| 2/20 | 柴田健治衆院議員の呼びかけで超党派の「ハンセン病対策議員懇談会(議懇)」38名で発足。患者給与金制度の創設・処遇改善・園内の施設整備等に取り組む | |||
| 9月 | 政府が水俣病をチッソの有機水銀による公害病との公式見解発表 | |||
| 10/15 | カネミ油症事件(PCB食品公害で患者14.000人) | |||
| 12/27 | 日本ハンセン病盲人テープ・ライブラリーが設立される(全生園・日本MTLの援助による) | |||
| この年 | 長島愛生園で軽症患者部屋の個室化に着手 | |||
| この年 | 長島愛生園と邑久光明園がある長島と対岸の虫明(距離わずか30メートル)に橋を架けることが両療養所自治会で話し合われる | |||
| 1969(昭和44年) | 2/18 | ハンセン病をテーマに銀座で写真展開催される | ||
| 4/1 | 厚生省は各施設に対し「患者支給金等支給要項」を指示する | |||
| 6/10 | 星塚敬愛園に授産施設大島紬工場開設 | |||
| 8/7 | 菊池恵楓園で自主映画「あつい壁」の制作実行委員会発足(社会復帰者を主人公にした中山節夫監督作品) | |||
| 10/3 | 藤楓協会は各界有識者15名による「らい調査会」を発足。第1回委員会開催 | |||
| 10/13 | 「らい調査会」第2回会合に全患協が「過去の行政にけじめを付け抜本的な改善を図るよう申し入れる | |||
| 10月 | 星塚敬愛園で「不自由者付添作業」を返還する | |||
| この年 | 大島青松園で個室化が完了する | |||
| この年 | 「日本MTL」が社団法人日本キリスト教救癩協会(Japan Leprosy mission-JLM)に改称 | |||
| 1970(昭和45年) | 1/9 | 岩波ホール(東京・神田)で映画「あつい壁」試写会開催 | ||
| 3/14 | 日本万国博覧会開催 | |||
| 5月 | 大島青松園が団体旅行のため貸し切りバスを申し込んだが伝染の恐れを理由に一度断られる | |||
| 8/9 | 「らい調査会」が外来治療の必要性と入所者の「自用費」(「患者慰安金」と「生活物品費」をこれに一本化する)の問題を厚生大臣に答申する | |||
| この年 | 長島愛生園長高島重孝監修の「らい医学の手引き」に「患者との接触による発病も極めて稀であり、絶対隔離政策はナンセンス」とある | |||
| この年 | 全患者の93.65%が収容される、これが収容率のピークであった。有病率は一万人当たり1人を下回る | |||
| 1971(昭和46年) | 1/25 | 「らい調査会」解散する | ||
| 2/23 | 山口鶴男議員が衆院予算委で「沖縄のハンセン病対策費を本土並にするよう」質問する | |||
| 4/1 | らい調査会答申の「自用費」方式に沿って、「患者慰安金」、「生活物品費」が一本化し「患者給与金」となる。また、金額を増額し「国民年金拠出制障害年金」1級相当額へ改める | |||
| 6/24 | 熊本日日新聞が「ハンセン氏病問題は終わったか」と問題提起(ハンセン病を正しく理解する週間) | |||
| 6/30 | イタイイタイ病訴訟で住民側全面勝訴 | |||
| 7/20 | 「沖縄2園の全てを本土並に」と沖縄・全生園代表が総理府・厚生省・藤楓協会に要請 | |||
| 8/16 | 映画「あつい壁」が群馬県予算で県内各地で上映される | |||
| 10/30 | 映画「あつい壁」が鹿児島大医学祭で上映される | |||
| この年 | 厚生省は療養所の患者がいつ全員死亡するかの調査を行っている | |||
| この頃 | この頃からクロファジミン(clofazimine-B663)が使用されはじめた。DDSとの併用事例もある | |||
| この頃 | この頃からリファンピシン(rifampicin-後に多剤併用療法の中心的薬剤)も使用が開始される。(数日の服用で菌の感染力を失わせる。これにより「伝染させるおそれ」(1953.7.8の項参照)が無くなった訳である) | |||
| この頃 | 沖縄愛楽園では病棟の壁に大きな亀裂・激しい雨漏り 犀川一夫園長は「台湾・インド等より非道い」と | |||
| 1972(昭和47年) | 2/18 | NHKはドキュメンタリー「人間列島・ある結婚」(全生園から社会復帰した青年と同園看護婦との困難克服のストーリー)。の放映を中止。全生園は社会復帰者への正しい理解のためにと放映を要請、放映に至る | ||
| 2/19 | 藤楓協会の斡旋により療養所巡回胃検診車「ひかり号」完成 | |||
| 2/25 | 厚生白書が「患者数が15年間で2.600人減少、新患者数も年々減少」と報告 | |||
| 4/17 | 第1回沖縄ブロック会議開催(愛楽園)沖縄タイムス、琉球新報が大きく報道 | |||
| 4月 | 長島愛生園の患者団体がバス会社に配車を依頼、消毒の問題を理由に断られる。抗議を受けて謝罪する | |||
| 5/15 | 沖縄本土復帰 | |||
| 5/15 | 琉球政府は1961年公布の沖縄独自の「ハンセン氏病予防法」を廃止(本土の「らい予防法」に吸収され消滅する) | |||
| 5/29 | 長島愛生園の「青い鳥楽団」大阪朝日座で演奏会 | |||
| 5月 | 大島青松園の船舶「まつかぜ」が進水。自治会の事前の申し入れにも拘わらず職員席と患者席を区別して造船。療養所の職員でさえ偏見を払拭出来ていなかった証拠である | |||
| 6/1 | 全患協、13療養所の患者総数9.520名、平均年齢55.5歳と発表 | |||
| 6/14 | インド救らいセンター 宮崎松記 初代所長が飛行機事故で死去 | |||
| 6月 | PCB日本で生産禁止 | |||
| 7/3 | 全患協と友好団体が「ハンセン氏病療養所の医療を充実させる総決起集会」を開催(東京・虎ノ門参加者400人)。総理大臣・厚生大臣に陳情、デモ行進を行う。差別と低医療の実態を訴える | |||
| 7/24 | 四日市喘息、原告勝訴 | |||
| 7月 | 星塚敬愛園では看護婦の制服が普通の病院の白衣に変更になった(「支えられた今」田之上和子著から) | |||
| この年 | 全患協は療養所作業の職員への「作業返還」を厚生省に要望、一年待って欲しいとの返事 | |||
| この年 | 長島愛生園では「患者作業」を全て返還した | |||
| この年 | 邑久長島大橋架橋促進委員会が組織される | |||
| 1973(昭和48年) |
1/8 | 第1回読売医療功労賞をハンセン病関係者4名が受賞 | ||
| 3/4 | 第10回国際らい会議、ハンセンのらい菌発見100年を記念してノルウェーのベルゲン市で開催 | |||
| 3/14 | 宮城県唐桑町長選挙に回復者鈴木重雄立候補、惜敗する | |||
| 3/20 | 大島青松園で海底ケーブル設置により、外部へ直接電話が可能となる | |||
| 7/17 | 衆院社労委で寺前巌議員が中学保健体育教科書に差別的記載(伝染力の強い急性伝染病)が有ると追求、訂正させる | |||
| 7/18 | 全国ハンセン病療養所所在地自治体代表者会議第1回総会開催される(東村山市庁舎) | |||
| この年 | 厚生省療養所課の課長補佐「本省としては作業返還に対応する措置は考えていない」と発言 | |||
| この年 | 長島愛生園で火葬など11種の「患者作業」を返還する | |||
| 1974(昭和49年) | 1/18 | 物価急騰と物不足のため全患協が食料費と燃料費の緊急措置を厚生省に要求 | ||
| 3/19 | 「砂の器」の映画化に際し全患協は橋本プロデューサーに慎重な配慮を要請 | |||
| 5/10 | 足尾鉱毒古川鉱業が賠償金1億5000万円を支払う調停成立−百年公害に幕 | |||
| 5/31 | 全国ハンセン病囲碁選手権第10回記念大会が天理市別所母屋で開催される | |||
| 7/25 | 衆参両院の議長に「療養所職員増員についての請願」を行う | |||
| 10/1 | 東北新生園で「社会復帰研修道場」が「藤楓協会東北農場」として12年目にして正式発足 | |||
| 10月 | 全患協が「全国ハンセン氏病患者協議会」へ名称変更(「国立」「療養所」がなくなる) | |||
| この年 | 「砂の器」上映開始 | |||
| 1975(昭和50年) | 2月 | 大島青松園で「看護作業」の返還が完了 | ||
| 5/14 | 全患協が第22回支部長会議を開催(星塚)。予防法改正を視野に@医療看護A施設整備B職員増員等を討議する | |||
| 8/18 | 駿河療養所で大阪歯科大、岐阜歯科大により8日間の診療奉仕活動 | |||
| 9/19 | 全患協が「将来の療養所の在り方研究会」を開催(駿河)。1963年の「らい予防法改正要請書」を基本的にふまえ、@隔離主義による条項(従業の禁止、消毒、質問及び調査、外出制限など)の削除、A在宅治療の促進、B退所者及び家族に対する援護措置等の具体的法制化を改正要求としてとりまとめた(〜9/20) | |||
| 9/21 | 宮古南静園で日本棋院平良支部により全島囲碁大会開催される(70名参加) | |||
| 9月 | 厚生省国立療養所課は「国立療養所史(らい編)」発行 石原駿河療養所長の言葉「治療を受けるためには療養所へ入る他無い。これは強制隔離に他ならない」を記す | |||
| この年 | 入所患者は10.199名(収容率89.87%) | |||
| この頃 | リファンピシンの強力な効き目もあって「伝染させるおそれ」を理由に退所を妨げるのが減少する | |||
| この頃 | 無断外出の積極的取締りは無くなり、外出許可も緩やかで入所者の拘束感は次第に減少する | |||
| 1976(昭和51年) | 6/19 | 教育TV「福祉の時間・ハンセン氏病回復者の願い」で全患協会長等が訴え | ||
| 9/1 | 「全国ハンセン氏病患者協議会」規約実施される | |||
| 9/8 | 台風17号による集中豪雨で愛生園、光明園が壊滅的被害を蒙る | |||
| 10/5 | 長島愛生園、光明園が厚生省・議懇に台風被害復旧対策を要請 | |||
| 11/24 | 東北新生園の盆栽愛好家が国鉄二駅に展示、仙台鉄道管理局から感謝状を受ける | |||
| 11/26 | 長島愛生園新良田分室の生徒が初めて邑久高校(本校)の授業に参加 | |||
| この年 | PCB米で使用禁止 | |||
| この年 | 「日本癩學會」が「日本らい学会」へ名称変更する | |||
| 1977(昭和52年) | 2/4 | 松丘保養園の松丘会館が豪雪で倒壊 | ||
| 6/24 | 全患協は創立25周年を記念して「全患協運動史」を発刊 | |||
| 7月 | サッコとバンゼッティ無実公表される | |||
| 10/5 | カネミ油症事件原告全面勝訴 | |||
| この年 | 奄美和光園で2室制の夫婦舎ができる 入居出来るのは2割だけで8割は23年前の建物である | |||
| この年 | 100床当たりの看護職員数は国立病院49.2人、個人病院28.4人、療養所11.6人(厚生省の「病院調査」による) | |||
| この年 | 日本らい学会の会誌「レプラ」を「日本らい学会雑誌」へ名称変更する | |||
| 1978(昭和53年) | 3/23 | 奄美和光園の朝日中学校双葉分校から女子生徒1人卒業し閉校となる | ||
| 4/2 | 全生園に人工透析設備正式認可される(東部医療センター) | |||
| この年 | 三上千代死去(享年85歳) | |||
| 1979(昭和54年) | 3/20 | 全生園の中学校卒業式、2名を邑久高校へ送り全国で最後の閉校となる | ||
| 3/28 | スリーマイル島原発大事故発生 | |||
| 4/19 | 星塚敬愛園が「医者よこせ」と九州医務局へ陳情、座り込み | |||
| 6/27 | NHK教育TV「昭和回顧録」で「長島愛生園-昭和10年前後-」が放映される | |||
| 8/31 | 『倶会一処――患者が綴る全生園の七十年』発刊 | |||
| この年 | 松丘保養園から青森の協和病院の理解を得て初めて一般病院への入院実現 | |||
| 1980(昭和55年) | 4/24 | 東北新生園で高齢者(65歳以上127人)の「長生会」発足、前後して各園でも | ||
| 10/12 | 長島架橋実現にむけ、愛生園・光明園の43名上京陳情、園田厚生大臣が明年度予算でと約束 | |||
| 1981(昭和56年) |
3/31 | 全生園で消防団解散式挙行 | ||
| 6/27 | 名古屋三越で藤楓協会主催の療養所作品展開催 | |||
| 11/11 | 秋田市でシラクモをハンセン病と思いこんだ20代母親が一家心中を図り、子供2人絞殺し自殺未遂をはかる。 保養園園長は「従来の国家的偏見を除去するためには、どうしても法改正が必要」と訴える | |||
| この年 | WHOが多剤併用療法(MDT-multidrug therapy)を推奨する リファンピシン(rifampicin)・ダプソン(dapsone)(DDS)・クロファジミン(clofazimine)(B663)の同時併用が@卓越した治療効果A再発率の低さBらい反応の少なさC治療期間の短縮 等の点で画期的であるとする | |||
| 1982(昭和57年) | 3/18 | 厚生省三浦大助公衆衛生局長は衆院社労委で答弁@対策の手を緩められないA患者に対する有る程度の人権制限はやむを得ない | ||
| 4/15 | 菊池恵楓園で九州医療センター発足 | |||
| 8/14 | 日本橋三越で療養所作品展開催 | |||
| 10月 | 水俣病関西訴訟提起(関西訴訟関連年表) | |||
| この年 | 琉球大学付属病院で外来治療開始(しかし初診人数は年間25人がピークであった) | |||
| 1983(昭和58年) | 3月 | 奄美和光園で皮膚科を中心とした外来治療が開始される | ||
| 4月 | 沖縄愛楽園が名護市ゲートボール協会へ加盟を申し入れるが拒絶され続ける | |||
| 5/7〜9 | 第30回支部長会議が開かれ、全患協会長が18年振りに小泉孝之から曾我野一美へ。「全国ハンセン病患者協議会」へ名称変更(「氏」がなくなる)。厚生省は「らい」を続ける | |||
| 11/8 | 浦和美術館の「ダミアン神父像」を全患協が調査「病醜」を外す | |||
| この年 | 宮古南静園が保険医療機関の指定を受ける | |||
| この年 | 香川県で小学3年の女児をハンセン病と思いこんだ36歳の母親がガスで無理心中を図る 女児は死亡 自分は意識不明に陥るが夫に発見されて無事 | |||
| 1984(昭和59年) | 3月 | 大島青松園に海底送水管が敷設される(それまでは井戸からの汲み上げであった−写真・少しスクロール) | ||
| 5月 | 中村哲医師がパキスタンのペシャワール・ミッション病院に赴任し治療を開始する | |||
| 8月 | 全国ゲートボール大会で長島愛生園男子(10月)・女子(8月)両チームが優勝する | |||
| この年 | 昭和50年代には軽快退所が自由になって行ったが、逆に軽快退所者の数は減少して行く@入所による生活基盤の喪失A高齢化B社会に残る強い偏見C後遺症D社会復帰支援事業の不備 が理由である | |||
| 1985(昭和60年) | 2/16 | 大谷藤郎著「叫び出ずる者なし」出版記念会 | ||
| 3/22 | 国内初のエイズ患者、厚生省が認定 | |||
| 6/16 | 全生園で第1回園友カラオケ交歓会開催される | |||
| 7/6 | 沖縄愛楽園で沖縄全島角力大会が開催される | |||
| 9/5 | 全患協主催により「らい予防法問題学習会」開催(全生園にて) | |||
| 12/16 | 長島架橋第一期工事の起工式が厚生大臣を迎えて挙行される | |||
| この年 | 菊池恵楓園で「患者作業」が完全に職員に返還される | |||
| 1986(昭和61年) | 4/24 | 第1回全国選抜ゲートボール選手権大会で星塚敬愛園チーム優勝 | ||
| 4/26 | チェルノブイリ原発大事故発生(直後だけで31人死亡、放射線障害で55000人死亡) | |||
| 9月 | 奄美和光園で「医師招聘」の要請運動(署名集めなど)展開 | |||
| この年 | 熊本刑務所菊池医療刑務支所建て替えられる | |||
| この年 | 英国で狂牛病が発見される | |||
| 1987(昭和62年) | 3/3 | 邑久高校新良田教室で一人だけの卒業式と閉校式が行われる (卒業生合計307人,32年間にわたった) | ||
| 3月 | 「全国国立ハンセン病療養所所長連盟(以後所長連盟)」が「らい予防法の改正に関する請願書(強制措置の撤廃等を求める)」を厚生大臣に提出 | |||
| 3月 | 栗生楽泉園が群馬県ゲートボール協会から加盟を拒絶される | |||
| 6月 | クロイツフェルト・ヤコブ病、国が第一症例を認める | |||
| 11/24 | 日本のエイズ感染者1.000人に迫る | |||
| 1988(昭和63年) | 5/9 | 「人間回復の橋」邑久長島大橋開通式 一ヶ月前に開通した瀬戸大橋より意義は大 と山口鶴男議懇事務局長挨拶 | ||
| 8/21 | 沖縄愛楽園で沖縄全島囲碁大会が開催される(参加63人) | |||
| この年 | WHOは「らい対策の方針」で「'50年代の初めまでにスルフォン剤の顕著な効能によりらい対策は全面的に方向転換した。隔離はもはや不要となり患者は在宅のままで外来治療が可能となった」と表明 | |||
| 1989(平成元年) | 1/5 | 沖縄ハンセン病予防協会理事長・犀川一夫さんが88年度朝日社会福祉賞を受賞 | ||
| 1/7 | 天皇、午前6時33分崩御さる(85歳・十二指腸部腺癌) | |||
| 1/8 | 午前0時より元号が「平成」に改まる | |||
| 1/30 | 東村山市社会教育委員選挙に全生園の鈴木禎一(元全患協事務局長)初当選する | |||
| 2/27 | エイズ予防法施行 | |||
| 5/8 | 大阪HIV訴訟提訴 | |||
| 5/15 | 井深八重天に召される、享年92歳 | |||
| 6/26 | NHK教育TV「病気と差別」がハンセン病を取り上げる | |||
| 10/27 | 東京HIV訴訟提訴 | |||
| 11/1 | 定期路線バス(両備)が長島愛生・邑久光明両園へ乗り入れ。園船が廃止される | |||
| 11/9 | ベルリンの壁崩壊 | |||
| この年 | 昭和天皇の「大喪の儀」に伴う大赦の対象にらい予防法28条「患者の外出制限行為」が含まれていた。全患協が厚生省に抗議し大赦対象から除外される | |||
| 1990(平成2年) |
6月 | 星塚敬愛園の島比呂志はエイズ裁判原告赤瀬範保から「癩患者はなぜ怒らないのか?」という手紙を受け取る。これが島を動かすことになる | ||
| 8/15 | 全生園で採れた小松菜の種4.000袋を市役所・公民館・図書館等で窓口配布 | |||
| 1991(平成3年) | 1/17 | 湾岸戦争火蓋切る(〜4月6日) | ||
| 3/4 | 天皇・皇后両陛下が全生園をご訪問になる | |||
| 4/18 | 全患協より下条厚生大臣に「らい予防法改正要請書」を手渡す | |||
| 5月 | WHOの第44回世界保健総会で「ハンセン病を公衆衛生問題として2000年までに制圧(有病率を一万人当たり一人以下に)する」と宣言 | |||
| 7/9 | 朝日新聞「ゼロへの道・ハンセン病」掲載、Q&A方式でハンセン病の知識を紹介する | |||
| 9/29 | 全生園と駿河療養所で職員の週休二日制の試行に入る | |||
| 12/30 | ソ連邦解体(ペレストロイカ終了) | |||
| 12月 | 中村哲医師がアフガニスタンのダラエ・ヌールに最初の診療所を開設した | |||
| 1992(平成4年) | 4/9 | 全患協内に「国に「らい予防法」の早期改正を促す特別委員会」が発足する | ||
| 7/14 | 名護市主催の第1回市民ゲートボール大会が沖縄愛楽園で開催される(43チーム) | |||
| この年 | 厚生省は藤楓協会に委託して「ハンセン病予防事業対策調査検討委員会」を設置した。座長は同協会理事長の大谷藤郎 | |||
| この年 | 北極熊から高濃度のPCB検出される | |||
| 1993(平成5年) | 1/14 | 長島愛生園の谷川秋男が宮中歌会始に入選。「なえし手に手を添えもらひわが鳴らす鐘はあしたの空にひびかふ」 | ||
| 1/26 | 大谷藤郎がWHOよりレオン・ベルナール賞を受賞する | |||
| 3月 | 身延深敬園が閉鎖される | |||
| 6/25 | 全生園内に高松宮記念ハンセン病資料館完成、落成式 | |||
| 10/25 | 在日英国大使夫人がリデル縁の恵楓園を訪問 | |||
| 11/10 | 長島愛生園で手術で断たれた手足を祀っていた地蔵を復座法要、公園化する | |||
| この年 | 在所患者6.729名(収容率89.7%) | |||
| 1994(平成6年) | 1月 | 全患協との懇談会で大谷藤郎「ハンセン病予防事業対策調査検討委員会」座長が「現行予防法は改正ではなく廃止し、新法制定で人間回復を求めるべき」であるとの個人的見解(大谷見解)を発表 | ||
| 4/18 | この「大谷見解」を受けて全患協が「らい予防法改正運動のすすめ方」をテーマに支部長会議開催。改正でさえ慎重論を唱えていた一部の支部は、急速な展開に困惑。結論は翌年に持ち越しとなった | |||
| 6/25 | シンポジウム「らい予防法改正問題をめぐって」開催される(全生園にて) | |||
| 11/8 | 所長連盟が「らい予防法改正問題についての見解」を発表 廃止を含む抜本的見直しを厚生省に要求 | |||
| 1995(平成7年) | 1/17 | 阪神淡路大震災(被災者6439名) | ||
| 1/24 | 全患協が「らい予防法改正を求める全患協の基本要求」を支部長会議で採択 改正と九項目の基本要求 | |||
| 3/20 | 地下鉄サリン事件 | |||
| 4/22 | 第68回日本らい学会総会で「らい予防法についての見解」発表。「隔離強制へ向けて恐怖心を煽ったのは取り返しのつかない重大な誤りである「現行法」はその立法根拠をまったく失っているから、医学的には当然廃止されなくてはならない」 |
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| 5/12 | ハンセン病予防事業対策調査検討委員会が「(医学的・国際的に多くの問題を抱えている)予防法の抜本見直し」を求める中間報告書を厚生省に提出。厚生省はらい予防法廃止の方向で検討する | |||
| 7/6 | 「らい予防法見直し検討会」(厚生省保健医療局長の私的諮問機関 座長大谷藤郎)設置される(全患協会長も参加) | |||
| 7月 | 菊池恵楓園内にスーパーが出店、地域住民との交流促進される | |||
| 7月 | 「患者の権利法をつくる会」事務局長池永満弁護士のもとに島比呂志(星塚敬愛園)の手紙が届いた。これが国賠訴訟のキッカケとなる | |||
| 7/20 | 「けんりほうnews」48号に島比呂志が「法曹の責任」を発表 | |||
| 9/1 | 星塚敬愛園島比呂志が九州弁護士会連合会(九弁連)へ申立書「らい予防法・優生保護法について」を提出 | |||
| 10月 | 水俣病訴訟、村山内閣は未認定患者へ「最終解決案」として医療費支給 | |||
| 11/7 | 九弁連は上記申立書を受けて人権擁護委員会(池永満委員長)が星塚敬愛園を訪問。島比呂志に聴き取りを開始 | |||
| 11/24 | 「らい予防法見直し検討会」第7回会合で予防法廃止法の素案が示される | |||
| 11/27 | 朝日新聞「ハンセン病隔離の88年、らい予防法廃止へ」掲載 | |||
| 12/8 | 「らい予防法見直し検討会」が最終報告を発表「らい予防法を一刻も早く廃止し、優生保護法のらい条項を削除し、 患者隔離主体のらい予防行政に終止符を打つべし」 |
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| 1996(平成8年) |
1/18 | 日弁連土屋会長が「らい予防法の改廃に関する声明」を出す | ||
| 1/18 | 菅直人厚生大臣は「らい予防法」の見直しが遅れたことなどを全患協に謝罪 @予防法の見直しが遅れたことA予防法が今日まで残ったことB優生手術などで多大な身体的・精神的苦痛を与えたこと。加えて通常国会への新法廃止法案の提出を表明する | |||
| 1月 | 九弁連が敬愛園、恵楓園、和光園、愛楽園、南静園の計2,299人にアンケート調査実施 | |||
| 1/22 | 公衆衛生審議会伝染病予防部会(会長大谷藤郎)は「らい予防法の廃止について」の諮問を受け答申を行う | |||
| 2/3 | 新党さきがけ鳩山由紀夫代表がらい予防法放置について謝罪 | |||
| 2/9 | 「らい予防法廃止法案」が閣議決定される | |||
| 3/19 | 九弁連は1月のアンケートの結果等に基づき「見解と提案」を採択発表、弁護団の結成に向かう | |||
| 3/25 | 英政府は狂牛病の人間への感染の可能性を認める | |||
| 3/26 | 参院厚生委員会で「らい予防法の廃止に関する法律に対する附帯決議」がなされた | |||
| 3/27 | 「らい予防法廃止に関する法律」が参院本会議で全会一致で可決、成立(「国会会議検索でどうぞ) | |||
| 3/29 | 薬害エイズ訴訟 東京・大阪各地裁で和解成立 | |||
| 4/1 | 「らい予防法の廃止に関する法律」(法律第28号)施行(3月31日公布) ※法廃止当時… ☆療養所患者数6.000人弱(全患者の約90%)・平均年齢70歳以上・在所者の7割以上が在所歴30年以上 ☆1949年以降の断種1.400件以上・中絶3.000件以上 ☆軽快退所者2.000人未満・療養所に眠る遺骨23.000柱 ☆九州の五療養所の「園名」使用経験者は45.6%・使用中の者は31.1% |
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| 4/6 | 真宗大谷派が謝罪声明 | |||
| 4/13 | 菅厚生大臣、全生園を訪れ謝罪 | |||
| 4/26 | 第69回日本らい学会で「らい」を「ハンセン病」と改めることを決定。「日本ハンセン病学会」に改称。 | |||
| 4/30 | 草津町ゲートボール協会が栗生楽泉園入所者と草津町老人クラブにより設立されるが群馬県ゲートボール協会から加盟を再拒否される | |||
| 5/16 | 厚生省も「らい」を「ハンセン病」と改める | |||
| 5/23 | 水俣病訴訟チッソと和解(関西訴訟は継続) | |||
| 5月 | 全患協は「全国ハンセン病療養所入所者協議会」(全療協)へ名称変更 | |||
| 6/15 | 九弁連は九州大学法学部との共催でシンポジューム「らい予防法廃止問題を考える」を開催 |
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| 6/26 | 「優生保護法」を改め「母体保護法」成立(らい条項は削除される) | |||
| 8/28 | 西尾鳥取県知事が長島愛生園を訪問、遺憾の意を表明 | |||
| 8/29 | 薬害エイズ問題で逮捕者(安部英前帝京大副学長・ミドリ十字三社長―9.19・松村明仁元生物製剤課長―10.4) | |||
| 11/5 | NHKラジオ「深夜便」で「実名で生きる日が来た」放送 | |||
| 11月 | クロイツフェルト・ヤコブ病損害賠償訴訟(薬害ヤコブ病訴訟)提訴される(大津) | |||
| この年 | ティオ・コルボーン「奪われし未来」発行 | |||
| この年 | 日本ハンセン病学会会長高屋豪瑩弘前大学教授が「ハンセン病と改称したため、治療ができない医師が増える」「国際化に伴い、在日外国人労働者の中に ハンセン病患者が横浜で多発」などと東奥日報に投稿。毎日新聞の取材にも差別発言を続け内外の批判を受けて学会長を辞任する |
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| この年 | 日本聖公会総会で、「らい病」という言葉を使用することを止めるよう日本聖書協会に申し入れることが決議された。 同様な申し入れは日本カトリック司教協議会や日本基督教団東中国教区総会からもなされ検討に入る |
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| 1997(平成9年) | 4/1 | カトリック・プロテスタント両教会は聖書の「らい」を「重い皮膚病」に改める。新共同訳聖書では4月以降に販売する分からは暫定的に「重い皮膚病」に改め、口語訳聖書および新改訳聖書でも同様の方針で検討中である | ||
| 4/8 | 予防法廃止後初めての全療協定期大会が菊池恵楓園で開かれた | |||
| 5/21 | 南海日日新聞「ハンセン病は特別な病気でない」掲載 | |||
| 6/3 | ハンセン病の診断を苦にして90歳の女性が自殺する | |||
| 7月 | 熊本刑務所菊池医療刑務支所廃止される | |||
| 10/30 | 「生きる−尊厳の確立−」ハンセン病展示会がニューヨーク国連本部で開催される | |||
| 11/11 | 朝日新聞「偏見と闘い続けねば-ハンセン病と半世紀」が掲載される | |||
| 1998(平成10年) | 2/28 | 九弁連は九州大学法学部との共催でシンポジウム「人権の回復をめざして」を開催。この時、志村康氏が「らい予防法の憲法違反を追求する裁判を引き受けてくれるような弁護士は居るのだろうか?」という問いかけを発し、徳田靖之弁護士が「九州の弁護士が100人以上立ち上がる」と答えた。これが「国賠訴訟西日本弁護団」の事実上の発足といえる | ||
| 3/4 | 政府が「社会復帰支援事業実施要項」を発表、あまりにも僅少(退所者に計150万円)で入所者から怒りの声が上がる | |||
| 3/7 | 九弁連のメンバーが初めて療養所(星塚敬愛園)を訪問・聴き取り、帰りの船中で弁護団準備会の立ち上げの話が起こった(詳細参考) | |||
| 5/3 | 「けんりほうnews」82号に島比呂志が「やっと燃えた怒りの火--ハンセン病訴訟・告訴宣言」を発表 | |||
| 6/20 | らい予防法廃止記念事業として「ハンセン病回復者の国際交流会議」が開催される(東京) 7ヶ条の「東京宣言」採択 | |||
| 7/7 | 庵治町の職員が大島青松園に対し町営公衆浴場の使用を「特定の日に」と申し入れあり | |||
| 7/16 | サリドマイドがアメリカの食品医薬局(FDA)でハンセン病薬として認可される | |||
| 7/31 | 星塚敬愛園・菊池恵楓園の入所者13名(平均年齢は71才である)が国を相手取り「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」を熊本地裁に提訴する(西日本訴訟15次で計589人) | |||
| 9/7 | 第15回国際ハンセン病学会(旧国際らい会議)が開催される(北京) | |||
| 10/2 | 「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」公布(前文に「過去にハンセン病等感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在した…」と記された) | |||
| 11/6 | 13時30分熊本地裁大法廷にて第一回口頭弁論始まる | |||
| 1999(平成11年) | 3/26 | 栗生楽泉園・多磨全生園の入所者等21名が東京地裁に提訴する(東日本訴訟、7次で計126人) | ||
| 4/1 | 「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(新感染症法)施行 |
|||
| 4/6 | 全療協定期支部長会で訴訟の支持を決定 | |||
| 6/17 | 熊本地裁で和泉真蔵(大島青松園外科医長)が医学的知見について客観的証言を行う | |||
| 6/18 | 各地で訴訟を支持する会が発足。「訴訟を支持する会全国連絡会」も結成される | |||
| 6/20 | 島比呂志社会復帰する | |||
| 8/27 | 大谷藤郎元厚生省医務局長が「らい予防法は誤りだった」と証言(熊本地裁) | |||
| 9/24 | 栗生楽泉園の栗生ゲートボール・クラブがようやく群馬県ゲートボール協会に加盟できる | |||
| 9/27 | 長島愛生園などの入所者・退所者11人が岡山地裁に提訴する(瀬戸内訴訟、6次で計64人) | |||
| 11/19 | 熊本地裁、菊池恵楓園に現地検証(療養所に初めて司法が足を踏み入れた) | |||
| この年 | 10大ニュース:時事通信(国内)(世界) | |||
| 2000(平成12年) | 1/28 | 犀川一夫(元日本らい学会会長・沖縄愛楽園名誉園長)証人尋問(熊本地裁) | ||
| 2/24 | 薬害エイズ大阪地裁 ミドリ十字に有罪判決 | |||
| 6/13 | 初の南北朝鮮首脳会談開催 | |||
| 6/15 | 熊本地裁大島青松園出張尋問、以後10月まで各園に行う | |||
| 11/10 | 熊本地裁における国側証人・長尾栄治副園長(大島青松園)は「立場上、非常に言いにくい。しかし在園者が受けた苦しみ、差別をわかっていただきたい。法が存在してレッテルがはられたこと自体が損害だったのです」と逆転証言 | |||
| 10/30 | 岡山地裁は原告らの申立てにより、光明園での解剖霊安棟解体を前に、緊急の証拠保全を行う。胎児のホルマリン漬け標本が発見されるなど、嬰児殺しの実態が明らかになった | |||
| 12/8 | 弁護団最終準備書面提出(熊本地裁) | |||
| この年 | 10大ニュース:《国内》時事通信 《世界》 時事通信 | |||
| 2001(平成13年) 2001(平成13年) 2001(平成13年) |
1/12 | 熊本地裁、第4次提訴までの127人について結審 | ||
| 3/28 | )薬害エイズ東京地裁 医師安部英に無罪判決(何故?) | |||
| 4/5 | 超党派の国会議員による議員懇談会結成される(総員101名、会長江田五月) | |||
| 4/14 | 三地裁の原告が統一原告団を結成する「全国原告団協議会」(全原協-会長曾我野一美) | |||
| 5/9 | 成田稔(全生園名誉園長)証人尋問(東京地裁) | |||
| 5/11 | 熊本地裁判決(1階101号法廷)。西日本訴訟(原告127名)で原告勝訴!(讀賣新聞) | |||
| 5/18 | 政府方針は「控訴後和解」である旨各メディア報道する | |||
| 5/19 | 坂口厚労相の控訴反対方針、神崎公明党代表の控訴断念表明の報道有り | |||
| 5/21 | 全国一斉提訴(923名が追加)、1702人に達する | |||
| 5/21 | 全療協・原告団・全国弁連(ハンセン病違憲国賠訴訟全国弁護団連絡会)が厚労省前・官邸前で要請行動開始 | |||
| 5/22 | 各メディアは「控訴決定」を報じる。小泉首相はこの日深夜、福田康夫官房長官に「控訴しない方向で調整するように」と指示、翌朝、福田氏から古川貞二郎官房副長官に伝えられた | |||
| 5/23 | 16時から原告9名、首相と面談(実際に面談した原告は、口々に「総理はずっと泣きながら我々の話を聞いていた。控訴はない。これで控訴したら人間でない」)。18時過ぎ政府は控訴を断念する! | |||
| 5/25 | ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話発表 | |||
| 5/25 | 熊本判決確定!(午前零時控訴期限経過をもって)しかし、全面解決は以下の通り縺れ込み2002年1月30日に至った | |||
| 6/1 | 坂口厚生労働相が正式に謝罪、過去の施策の誤りを検証する事を約束する | |||
| 6/5 | 原告団・全国弁連が三地裁に和解勧告申し入れ | |||
| 6/7 | 「ハンセン病問題に関する決議」が衆院本会議で採択される | |||
| 6/8 | 「ハンセン病問題に関する決議」が参院本会議で採択される。これを受けての原告団・弁護団声明 | |||
| 6/12 | 東京地裁は原告と国側双方に和解を勧告 | |||
| 6/14 | 厚労委で曽我野一美、谺雄二、志村康、高瀬重二郎、神 美知宏が社会保障にかんして参考人発言 | |||
| 6/15 | 「ハンセン病療養所入所者に対する補償金の支給等に関する法律(補償法)」が成立する。これは対象が入所者に限られていた | |||
| 6/16 | 坂口厚労相菊池恵楓園訪問、謝罪する | |||
| 6/19 | 岡山地裁は原告と国側に和解を勧告する | |||
| 6/21 | 日弁連は「ハンセン病の患者であった人々の人権を回復するために」との勧告を国宛に行った | |||
| 6/22 | 「ハンセン病療養所入所者に対する補償金の支給等に関する法律(補償法)」公布、施行 | |||
| 6/22 | 熊本地裁は原告と国側に和解を勧告する | |||
| 6/29 | 厚労省と原告・全国弁連による第1回「ハンセン病問題対策協議会」(於厚労省講堂)開催される。官僚の認識不足暴露される | |||
| 7/16 | 第2回「ハンセン病問題対策協議会」開催。「退所者」に関する認識の隔たりが大きい | |||
| 7/17 | 東京地裁公判(103号大法廷)で厚生労働省と原告の双方が和解の基本合意(恒久対策-真相究明等を明記)を受け入れる | |||
| 7/19 | 熊本地裁で初の和解成立 (西日本訴訟の原告総数1.151人の内94人に対し一人当り800万円〜1.400万円を支払う) | |||
| 7/23 | 「ハンセン病国賠訴訟」の(厚労省・全原協の)和解の基本合意書調印式が厚生省で開かれる。 (坂口力厚生労働相と曽我野一美・全原協会長が合意書に調印して、握手する) | |||
| 7/24 | 岡山地裁で第一回和解成立(瀬戸内訴訟の原告356人の内339人に対して) | |||
| 7/26 | 第3回「ハンセン病問題対策協議会」(於法曹会館)でまたも官僚的答弁続発する | |||
| 7/27 | 東京地裁で第一回和解成立 | |||
| 7/27 | 熊本地裁で二度目の和解(西日本訴訟の原告187人に対して。計281人となる) | |||
| 7/27 | 熊本地裁永松裁判長は「非入所者と元患者の遺族についても和解が図られるべきである」との所見を述べる | |||
| 7/31 | 東京地裁で二度目の和解(東日本訴訟の原告82人に対して。659人の内568人が成立) | |||
| 8/13 | 熊本地裁で更に677人が和解(958人が成立) | |||
| 8/21 | 東京地裁で三度目の和解(東日本訴訟の原告659人の内601人が成立。未成立の原告は58人となった) | |||
| 8/24 | 熊本地裁で新たに40人が和解(1.301人中998人成立(非入所者と元患者の遺族は「検討中」、今後の課題) | |||
| 9/6 | 西日本訴訟で新たに63人が熊本地裁に提訴(入所者2名、退所者7名、元患者19人の遺族54名) | |||
| 9/7 | 由布園長が既に熊本の小学校でこんな講演をしている | |||
| 9/11 | 非入所者と遺族原告に関して坂口厚労相は和解協議は中断し、判決を求めると発言(記者会見) | |||
| 9/11 | アメリカで同時多発テロ発生(犠牲者数) | |||
| 9/12 | 国は「遺族・非入所者原告については熊本地裁判決において直接に判断されていない部分であり和解には応じられない」とする意見書を熊本地裁に提出した | |||
| 9/13 | 熊本地裁で17名の和解成立(総数1342名中判決確定127名和解総数1015名残り200名となる | |||
| 9/21 | 退所者について桝屋副大臣と交渉、一定の理解を得る(200人参加) | |||
| 9/28 | ||||