ハンセン病のリンク集

                                      
    
ハンセン病の解説資料庫 Ⅱ



法華経
(ほけきょう)

 「法華経」は中国の鳩摩羅什
(くまらじゅう―350~409年・一説には344~413年)がサンスクリット語から漢訳(402年頃)した「妙法蓮華経」がもっとも広く流布されています(他に竺法護(じくほうご)訳「正法華経」、闍那崛多(じゃなくった)訳「添品妙法蓮華経」があります)。「日本書紀 巻第十九」によれば、百済の聖明王が「経論若干巻」を552年に欽明天皇に献上したとありますが、538年説もあり、現在はこちらが有力視されています。この時献上された「経論若干巻」に「妙法蓮華経」が含まれていたと推測されます。(参考:漢字の伝来~法華経が伝来するまで~

 「日本書紀 巻第二十二」にこう書かれています。

    「《推古天皇十四年(六〇六)是歳》是歳。皇太子亦講法華経於岡本宮。天皇大喜之。播磨国水田百町施于皇太子。
    因以納于斑鳩寺。」

    現代語訳「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。
    因りて斑鳩寺に納れたまふ。」

 「皇太子」というのは言うまでもなく聖徳太子です。606年に推古天皇に「法華経」を進講しています。聖徳太子は、それ以前から「法華経」を勉強し、天皇に進講できるまで読み込んでいたと言うことになります。その後615年には、日本最古の書物と言われている
法華経義疏(ほけきょうぎしょ)(「法華経」の注釈書)を著わしているほどです。



 その法華経の中の「癩」の扱いについて、日蓮宗現代宗教研究所の奥田正叡氏が「仏教とハンセン病―「得白癩病」の漢訳をめぐって―
という論文を発表して居られます。その中の第三章で、奥田氏は、「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」の「得白癩病」は現代の「ハンセン病」を指して居らず、「譬喩品第三」の「癩、癰疽」のみが「ハンセン病」と「ハンセン病の白い斑点」を意味しているということを、サンスクリット語の原典との比較から論証して居られます。

 私は私なりに、調べてみました。その結果は「法華経の中のハンセン病」に纏めました。「得白癩病」という鳩摩羅什の漢訳は間違っています。従来言われていた普賢菩薩勧発品第二十八の「白癩」は現在のハンセン病を意味していません。

 「譬喩品第三」の「癩、癰疽」が「ハンセン病」や、「ハンセン病の白い斑点」を意味しています。これが、日本で最初に文字になって現われた「ハンセン病」です。

 ※
「法華経」は上記のように、本来サンスクリット語で書かれたインドの経典です。その漢訳に「癩、癰疽の文字が有るのですから、この時代の日本に「ハンセン病」が有ったことを証明するものではありません。        
                                
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日本書紀 巻二十二
(720年完成)

 原文にはこうあります。

 「《推古天皇二十年(六一二)》是歳。自百済国有化来者。其面・身皆斑白。若有白癩者乎。悪其異於人、欲棄海中嶋。然其人曰。若悪臣之斑皮者。白斑牛馬不可畜於国中。亦臣有小才。能構山岳之形。其留臣而用。則為国有利。何空之棄海嶋耶。於是。聴其辞以不棄。仍令構須弥山形及呉橋於南庭。時人号其人曰路子工。」 
朝日新聞社本から)

 訓み下し文は・・・(日本書紀・岩波文庫p.124による)(ページ画像

 「 是歳ことし 百済国くだらのくに より 化来おのづからにまうく る者有り。其の 面身おもてむくろ 、皆 斑白まだら なり。若しくは 白癩しらはた 有る者か。其の人に なることを にく みて、 海中わたなか の嶋に棄てむとす。然るに其の人の曰はく、「若し やつかれ 斑皮まだらはだ を悪みたまはば、 白斑しろまだら なる牛馬をば、国の中に ふべからず。 また やつかれ いささか なる かど 有り。 山岳やまをか の形を く。其れ臣を とど めて もち ゐたまはば、国の為に くほさ 有りなむ。何ぞ空しく海の嶋に棄つるや」といふ。是に、其の辞を聴きて棄てず。仍りて 須弥山すみのやま の形及び 呉橋くれはし 南庭おほば けと おほ す。時の人、其の人を なづ けて、 路子工みちこのたくみ と曰ふ。」


 現代語訳(「日本らい史」より)によると・・・

 「推古天皇の二〇年(612年)に百済からの帰化人のうちの一人に、顔面に白斑のできた者があり、白癩(ハンセン病)
と疑われて海中島へ島流しになろうとした。しかし、その人は庭造りの名人であったのでこれを許し、南庭に須弥山と呉橋をまねた庭を造らせた。この人は路子工あるいは「しこまろ」と呼ばれた。」


「白癩」に「しらはた」とルビがあることにご注意ください。脚注(ページ画像左上)に和名抄の「白<之良波太>」を引用してありますが、この後「白癩」を「しらはたしらはたけ」と読むときは「びゃくらい」と読むときと意味が変わることになります(参考:「びゃくらい」と「しらはたけ」)。上の記述によれば、牛や馬に見られる「白斑」が有るだけで痛痒や湿潤や潰瘍などには一切言及していないことから
推すと、ここに述べられている白癩しらはたは、むしろ「尋常性白斑」と判断するべきだと考えられます。ルビも脚注もそういう事実を踏まえてのことかと推察します。なお上記脚注には「法華経普賢菩薩勧発品」の「白癩」が付記されていますが、筆者の研究したところによれば「法華経普賢菩薩勧発品」に記されている「白癩」は正確には「ハンセン病」や「尋常性白斑」などの病気を意味する者ではありません(参考:法華経の中の「ハンセン病」)。なのでここに付記するべきではないと筆者は考えます。
                                                  

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令義解
(りょうのぎげ)(833年完成―養老律令(718年成立)の官撰注釈書)

 養老律令の「戸令・第七、第二十八」に以下の通り「悪疾」が有ります。
久遠の絆HPより)

 ●「戶令第七 目盲條:凡一目盲。兩耳聾。手無二指足無三指手足無大拇指禿瘡無髪。久濡。下重。大隰隲。如此之類。皆為殘疾癡。隴。侏儒。腰背折。一支癈。如此之類。皆為癈疾惡疾。癲狂。二支癈。兩目盲。如此之類。皆為篤疾。」

 ●「戶令廿八 七出條:凡棄妻。須有七出之狀一無子。二淫隶。三不事舅姑。四口舌。五盜竊。六妬忌。七惡疾。皆夫手書棄之。與尊屬近親同署。若不解書。畫指為記。妻雖有棄狀有三不霖去。一經持舅姑之喪二娶時賤後貴。三有所受無所歸。即犯義絕。淫隶。惡疾不拘此令」


 令義解にはこのような解説があります。

 ●「悪疾、謂白癩也、此病、有虫食人五藏、或眉睫墮落、或鼻柱崩壊、或語聲嘶變、或支節解落也、亦能注染於傍人、故不可與人同床也、癩或作癘也。」(富士川游著「日本医学史」(1904年)ページ画像―文中の「大寶令」は「養老令」の間違いです:リベル)

 ●「悪疾いわゆる白癩なり。此の病人五臓の虫が食う。或いは眉・睫が落ち、或いは鼻柱が崩壊し、或いは言葉声が嘶なき、或いは関節ずれ落ち、亦能く傍らの人に伝染する。」(巻二戸令)


 筆者はここで言う「白癩」は「ハンセン病」であろうと推測します。この件については「白癩について」で詳しく述べています。


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西山御採用願(奈良薬師寺が明治新政府に提出した文書)

 西山光明院(ハンセン病患者収容所)の淵源について以下のように書いてある

 「人皇三十三代推古天皇の御宇(593~628)、初メテ難病人(ハンセン病を含むと考えられる)ヲ憐レミ在シ病院ヲ立テ置カレ、ソノ後飛鳥清見原天皇(天武天皇を指す)ノ御宇(673~686)、西山ヘ病院ヲ、高市郡岡本ヨリ移サレ給フ。ソノ後文武天皇ノ御時(697~707)、難病ヲ深ク御憐アッテ、居住ノ土地ノ租税御免アッテ・・・」  
                                                「日本らい史」より 


                                                   戻る      


施浴伝説(元亨釈書)(げんこうしゃくしょ)


 原文

  「(…略…)乃建溢室令貴賤取浴。后又誓曰。我親去千人垢。君臣憚之。后壮志不可沮也。既而竟九百九十九人最後有一人。徧体疥癩臭気充室。后難去垢。又自思而言。今満千数豈避之哉。忍而摺背。病人言。我受悪病患此瘡者久。適有良医教曰。使人吸膿必得除愈。而世上無深悲者故我沉痼至于此。今后行無遮斉又孔貴之。願后有意乎。后不得已吸瘡吐膿自頂至踵背遍。后語病人曰。我吮汝瘡慎勿語人。于時病人放大光明告白。后去阿閦仏垢。又慎勿語人。后驚而視之。妙相端厳光躍馥郁忽然不見。后驚喜無量。(…略…)」

 現代語訳

 
「光明皇后は浴場を建て湯をわかして希望者に湯浴みさせ、千人の垢を落とそうと誓われた。
 既に九百九十九人を終えた時、最後の一人は全身が皮膚病で、その臭気が浴室に満ちた。
 光明皇后もさすがにへきえきされたが、これで千人の誓いが完成するのだと思い直して、
 我慢してその背中を洗った。すると病人は言った。「私はらいに罹り、
 長い間この皮膚病に悩んでいます。ある医者は、誰かに膿を吸ってもらえば治るだろうと言いました。
 しかしそのようなことをしてくれる人は今までありませんでした。皇后さまはそれをやってくれますか」。
 光明皇后は頼まれるままに、頭から足の先まで全ての傷口を吸っては膿を吐き出し、
 そして病人に言った。「これでみんな吸ってあげましたが、このことは誰にも話してはいけません」。
 するとその時、病人は大光明を放ち、「私は仏である。私がここへ来て湯浴みしたということを
 他人に洩らしてはならない」と言ったかと思うと天に登っていった。
 光明皇后は驚いてこれを見上げたが、その心は喜びでいっぱいだった。」 「日本らい史」より


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今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)(1120年頃以降に完成)

〈巻二十
第三十五話「比叡山ノ僧侶心懐、嫉妬ニヨリテ現報ヲ感ジタル物語」〉(ページ画像(1)(2)

 比叡山東塔の僧侶心懐が嫉妬により白癩にかかり、皆から「穢ナム」と忌まれていたという記述があります。(この僧は源道成や後一条の院と同じ頃と読めるので、1030年頃の僧かと思われます。)

 「而ル間白癩ト云フ病付キテ、祖ト契リシ乳母モ、穢ナムトテ不令寄ズ(中略)厳シキ法会ヲ妨ゲ、ワガ身賤シクシテヤムゴトナキ僧ヲ嫉妬セルニヨリテ現報(現世の報い)ヲ新タニ感ゼルナリ(中略)三日許有リテ死ニケリ。此他ニ非ズ。厳キ法会ヲ妨ゲ我身賤シクシテ止事无キ僧ヲ嫉妬セルニ依テ現報ヲ新タニ感ゼル也。然レバ人此を知リテ永ク嫉妬ノ心ヲ発スベカラズ。嫉妬ハ此レ天道ノ憎ミ給フ事也トナム語リ傳ヘタルトヤ。」       
  
    
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日本霊異記(にほんりょういき)
(822年頃成立)

 説話集。景戒編。因果応報の仏教思想に基づいて,雄略天皇から嵯峨天皇の頃(5世紀後半~823年)までの説話を
 漢文で著す。各段末に付する訓釈は,平安時代の国語資料として重要。(大辞林より)

 古い文献を探したらかなり表現が異なっている二件が有ります。
                                                                        
 ●〈第一冊第二十二話「法華経ヲ写ス女ヲ譏リテ白癩トナル事 」の章近代デジタルライブラリーより)

 
「粟国名東郡植村に女人あり、名を多夜須古(たやすこ)と云う。白壁天皇(=光仁天皇、709~781年)の御宇に
 此の女麻殖郡蒙山寺に於いて法華経を写し奉る時に、麻殖郡の人忌部連板屋(いんべのむらじ、いたや)と
 云者、彼女が過ちを揚げて訕(そし)りしに、忽ち目口ゆがみ面後ろにもじれて愈(いえ)ず。見る者法華書写の人を
 譏る故に白癩の病を得たりと憎みしとなり。」



 ●〈下巻・第二十「法花経を写し奉る女人の過失を誹りて、以て現に口喎斜みし縁 」「完訳日本の古典」小学館p.197より)

 「粟国名方郡埴の村に、一人の女人在りき。忌部首なり。字は多夜須古と曰ひき。白壁の天皇のみ代に、是の女、
 法花を麻殖の苑山寺にして写し奉る。時に、麻殖郡の人忌部連板屋、其の女人の過失を挙げ顕して、以て
 誹謗るが故に、即ち口喎斜み、面、後に戻りて、終に直らざりき。法花経に云はく、「此の
経を受持する者を謗らば、
 諸根暗鈍に、矬陋攣躄となり、盲聾背傴にならむ」とのたまへり。又云はく、「此の経を受持する者を見て、
 其の過悪を出さば、若しは実に、若しは不実なるも、此の人は、現世に白癩の病を得む」と者へるは、其れ
 斯れを謂ふなり。当に慎みて信心すべし。彼の徳を讃すべし。其の欠を謗らざれ。大きなる災を蒙るらむが故なり。」

 
 山本俊一氏が著書「日本らい史」の中でこう書いておられます。「たとえば奈良朝時代に書かれた『日本霊異記』
 には、仏教の背信者の受けるべき現報には らいはあげられておらず、らいの業病観は未だ成立していなかった
 とみられる。」

 これは、恐らく上の一話の見落としであり、実際には奈良時代に、仏教の背信者の受けるべき現報に「らい」が上げられてい
 ます。「業病観」は成立していたのです。


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宇治拾遺物語
(うじしゅういものがたり)   (近代デジタルライブラリーより)

説話集。二巻。流布本一五巻。編者未詳。1212~21年頃成立(のちに増補されたか)。仏教説話・滑稽談・民話・説話
など197話を収録。軽妙な和文脈で民衆の生活感情や人間性を語る。(大辞林より)

「六十五 智海法印癩人と法談の事、…近う寄りて見れば白癩人なり」などと記されています。


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源平盛衰記
(げんぺいじょうすいき・―せいすいき)   ページ画像

軍記物。四八巻。作者未詳。鎌倉後期(1300年頃)に成立。「平家物語」の異本の一種。一般に流布した「平家物語」に比べて歴史を精密に再現しようとする傾向が強く,そのため文体も,やや流麗さを欠く。ただし謡曲・浄瑠璃など後世の文芸への影響は大きい。げんぺいせいすいき。盛衰記。(大辞林より)1183年頃までの源氏・平家の盛衰興亡を描く。

「乞者の癩人法師どもなり。」と記されています。


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頓醫鈔(とんいしょう)
〈巻三十四〉

医学書。嘉元二(1304)年に梶原性全が著わした。

 「夫癩病ノ由來、五癩八風、或ハ一百三十種品アリ、或ハ又、先生(前世)ノ罪業ニヨリテ、
 佛ノ冥罸アリ、或ハ食物ニヨリ、或ハ四大(身体)不調ニ依ル、所詮善根ヲ修シ、懺悔ヲナシテ、善ヲ修スベシ。」
                                  (富士川游著「日本医学史」(1904年)より
ページ画像
 

 ハンセン病の病因の一つとして前世に犯した罪をあげ、治療法としては悔い改めて善行を積むことを勧めている。
                                             「日本らい史」より 
   

                                                                   戻る


一休一口ばなし
                 ページ画像12近代デジタルライブラリーより)

藤谷暢吾編、1890年発行のもので、「序」は享保16(1731)年に書かれている。

「一休癩病人の娘に教化し給ふ事」と題した一文がある。


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日本国憲法第一四条


 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

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島比呂志氏の手紙
(一部―1995年9月1日九州弁護士会連合会宛)

 らい予防法については、日本らい学会並びに所長連盟の「見解」発表もあり、
厚生省は現在
らい対策調査検討委員会の答申に基づき、らい予防法廃止に向けて新法作成の準備中であることは、
新聞報道などによってご承知のことと存じます。さて私は、過去十数年に亘り、
日本のらい対策の非人道性を批判し、らい予防法の廃止と優生保護法の改正を訴えてまいりました。
幸いらい予防法については、前述のように明るい方向へ進んでおりますが、ただ一つ気になるのは、
人権に最も深い関係を持つはずの法曹界が何らの見解も発表せず、傍観の姿勢を続けていることであります。


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大風子油(ダイフウシユ・タイフウシユ・タイフシーユ)(oil of chaulmoogra)
愛媛県HPから
出所不明
(Chaulmooga Oil)

 江戸時代に中国から伝わったといわれています。大風子(Hydnocarpus Anthelmintica)というのは、
熱帯や亜熱帯地方に自生するイイギリ科(Flacourtiaceae )の植物で、直径10センチほどの実をつけ、中には
小さな種子がたくさん詰まっています。この種子をしぼった油が大風子油です。これはハンセン病の唯一の
治療薬として、主に筋肉注射で投与されていました。大量に油性物質を注入するため痛みが強く、大人が涙を
流すほど痛かったといわれています。大風子油は江戸時代に中国から伝わったとも、明治12年堺の
岡村平兵衛によって精製された(岡山県HP:PDF)とも伝えられていますが、戦後プロミンが使われるまで
一般的に使用され、一部で効果があったものの、多くの場合、期待できるほどの効果はなかった
といわれています。太田明氏(菊池恵楓園)によれば、1953年頃まで、療養所では使われていたようです。
(参考:大楓子油の広告

 プロミン以前の「大風子油時代に試みられた薬」で注目を集めたものとして、
金オルガノゾール」、「セファランチン」、「虹波」があげられています。
いずれも効果の裏付けはなく、とりわけセファランチンについては、「文献的に、セファランチンがらいに悪影響を与えたという報告はないが、このセファランチンの被験者となった患者たちは、今日でもその恐怖を語っており、らい施設における医師への、また新薬への根強い不信感を植付けたものとして記憶する必要がある」と記されています。『国立療養所史(らい編)厚生省医務局』から(この項「最終報告書」から)

注1、「大風子油」が多く一般に使われています。「大楓子油」という用例も見かけますが、厚労省のHPを参考に当サイトでは「大風子油」を採りました。
 なお、読みは「ダイフウシユ」、「タイフウシユ」が文献には見られますが、菊池恵楓園では「タイフシーユ」と呼ばれていました(同園の志村康氏による)。

注2、「大風子油」の記述については、ブラウン(S.G.Browne)の「聖書の中の『らい』」p.27にも同様に記載されています。しかし編者が「スシュルタ本集」、THE SUSHRUTA SAMHITAで調べた
 結果「スシュルタ・サンヒター」の中に「大風子油」の記述は有りません。

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プロミン(glucosulfone sodium, promin)  

 らい治療に革命をもたらした画期的な治療薬です。
1941年、アメリカ、ルイジァナ州のカービル療養所(the United States Public Health Service
Hospital in Carville )
のガイ・ファジェット(Guy Henry Faget)によってハンセン病への有効性が確認され、1943年に医学誌に発表されました。
1947年には日本でも試用が始まり、その二年後の1949年から予算化されました。これにより、ハンセン病は治療によって速やかに治癒する病と
なったのです。

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多剤併用療法熊本地裁判決文から)

 1981(
昭和五六)年には、WHO(世界保健機構)が、リファンピシン、DDS及びクロファジミン(B663)による多剤併用療法を提唱した。
この多剤併用療法は、その卓越した治療効果だけでなく、再発率の低さ、患者に多大な苦痛と後遺症をもたらす経過中の急性症状(らい反応)の少なさ、
治療期間の短縮等の点で画期的な療法であり、わずか数日間の服薬で菌は感染力を喪失するとされている。
 そのため、現在では、ハンセン病は、早期発見と早期治療により、障害を残すことなく、外来治療によって完治する病気であり、
また、不幸にして発見が遅れ障害を残した場合でも、手術を含む現在のリハビリテーション医学の進歩により、
その障害を最小限に食い止めることができるとされている。

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無らい県運動(むらいけんうんどう)

 らいの無い府県にしようと、1930年頃から全国に広がった運動。愛知、岡山、山口、兵庫、愛媛、鳥取などの各県などで始まりました。しかしながら、
日中戦争が始まった1936年ころから、この運動の様相が変化し、全国的に強制収容が徹底・強化されるようになりました。
 こうして、戦時体制の下、全国津々浦々で、無らい県運動により、山間へき地の患者をもしらみつぶしに探索するなどの徹底的な強制収容が行われ、
これまで手が付けられていなかったハンセン病患者の集落もその対象となりました。
 このような無らい県運動の徹底的な実施は、多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病でありハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な
存在であるとの認識を強く根付かせてしまいました。

【参考:2009.01.03西日本新聞】
無らい県運動: 「らい病」と呼ばれたハンセン病の患者ゼロを目指した運動。愛知県で1929年に始まり、患者の「絶対隔離」を打ち出した改正癩(らい)予防法公布の31年以降は全都道府県に拡大した。運動に合わせて療養所が増設され、40年には「1万人隔離」を達成。その後は新規発症患者の減少などで衰退した。「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書(2005年)は、患者や家族への差別・偏見を助長するなど「社会被害」の一因になったと指摘した。(ここに示された年代は「ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書、熊本地裁判決、山本俊一著「日本らい史」などの記述に依拠していると思われますが、後に「ハンセン病市民学会・年報・2007(p.44~)」に掲載された佐藤労氏著ハンセン病『無癩県運動』の発端についてによって反論が提示されています。リベル)
                                                                                     
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十坪住宅
(とつぼじゅうたく)

この建物は「十坪住宅」(とつぼ住宅)といわれる建物で、光田健輔愛生園初代園長の提唱によって始まった「十坪住宅運動」によって建築された愛生園の特徴ある建物です。 
 
 愛生園は設立当初から定員を無視してハンセン病患者をかき集め、国の無らい県運動に呼応して定員をはるかに超える人員を収容していきましたが、これを居住建物の観点
から可能にしたのがこの建物に代表される「十坪住宅」でした。
 
 十坪住宅」は1932(昭和7)年5月に第1号が建設され、その後1944(昭和19)年までに143棟、1047坪が建設されています。 当時の「十坪住宅運動」を宣伝する為に作られた
パンフレットには、「十坪住宅運動」とは「愛国献金」という項目が記載されています。要は、建設資金を民間の寄付に求め、建物は患者作業で建設し、建設後は国に寄付するという
運動でした。 (※注:藤野豊編「近現代日本 ハンセン病問題資料集成 〈戦前編〉第6巻p.347」によれば1932(昭和7)年9月に岡山県の「慈岡寮」が竣工したとあります:リベル)


 典型的な「十坪住宅」は500円の寄付で建設され、6畳2間と台所・便所・玄関からなる建物でしたが、実際は4畳半2間というものも多かったようです。 

 「十坪住宅運動」は、らい根絶のため療養所に多くのハンセン病患者を収容しようという愛生園初代光田園長の考え方によって進められ、無らい県運動同様伝染性の強調
による患者の強制隔離の世論喚起に利用されました。

                                                                             長島愛生園入所者自治会HPより


(参考)

十坪住宅は、1930(昭和5)年に定員400人で開設され、1931(昭和6)年から入園が始まった、国立療養所長島愛生園の光田初代園長の提唱によって始まった
「十坪住宅運動」によって建築された入所者の住宅のことです。
 この運動は、開園の年に開始され、長島愛生園では翌1932(昭和7)年5月に第1号の住宅が竣工、主に所内結婚している入所者を入居させました。

 〈定員400名で出発した愛生園は4カ月後にそれを超過した。予想を上回る早さであった。入所を乞う患者はその後も引き続き、断りきれないで入所させるケースも増えた。
こうした状態は絶対隔離論者である光田園長にとって放置できないことであったが、国からの予算の計上は容易に期待できなかった。十坪住宅運動はそうした背景から
生まれたものである。
十坪住宅運動とは、建築資金を民間の寄付に求め、患者作業で建築し、建築後は国に寄付して経常費の支出を受けるというものである。…〉

 〈十坪住宅運動は医療救済運動としては戦前の日本において稀にみる国民的な広がりをみせた。この運動によって建てられた患者住宅は149棟にのぼり…〉

 〈十坪住宅寄付は、1938(昭和13)年以降次第に減少していったが、入所者は増加する一方で、1941(昭和16)年度に三井報恩会から250床の拡張寄付を受けて、
定員1,450人の定員となったが、なお4~500人を超過する状態がつづき、苦慮した園は関係の県知事などにあてて病者建築費(金額明記)の助成を懇請し、
「大阪寮」その他を建てた。〉

                    ( 『隔絶の里程 長島愛生園入園者五十年史』長島愛生園入園者自治会―「大阪府ハンセン病実態調査報告書」資料編から抜粋)


■ 十坪住宅運動とは・・・・
 社會に悩む氣の毒な癩患者を、一人でも多く、一日も速やかに、療養所に入れるため、簡易な住宅を療養所に建てる運動である。
その資金は社会の同情に依り、その建築は入園者たる大工、左官等の奉仕による。而して相互の協力に依つて祖國日本より癩を潔めんとするものである。

 ■ 愛国献金
 十坪住宅一棟は、五百圓で出來る。六畳敷二室と臺所、便所を備へた瀟洒な建物である。そこには、六人乃至八人の病者が住めるから五百圓あれば六人乃至八人の
病者が暗黒より救はれ、社會は六人乃至八人の癩者に依る傳染の危檢から免れることゝなる。即ちこの運動は、單に患者の保護だけでなく、健康なる一般國民の
保護である。愛国献金の名のつけられた所以である。

(「愛生パンフレット第三輯」1934( 昭和9 )年3月5日、長島愛生園慰安会 代表者光田健輔 『近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦前編>』不二出版 収録

                                                                          「大阪府ハンセン病実態調査報告書」資料編から

                                                                                                      戻る


懲戒検束権


 療養所の入所者はかってひどい待遇を受けていたので、待遇の改善を求めて抗議活動を行うこともありました。これを封じるため、
政府は1916年に法律を一部改正して(「癩豫防ニ関スル件」改正案)各療養所の所長に入所者に対する懲戒検束権をあたえたのです。
これによって、30日以内の謹慎・監禁などの処分を所長の決裁で自由に行うことが出来るようになり、
各療養所にそのための監禁室(監房・重監房)が設置されました。政府のやり方が「浮浪者救済から懲罰に代わった」わけです。
 さらに1931年には「国立療養所患者懲戒検束規定」が出来て懲戒検束権が明文化され、公布されました。
これで裁判などの司法手続きが全く無しに、所長の一存で患者の人権を簡単に左右できるようになってしまいました
入院者心得にそむいた者、秩序を乱したり職員に反抗した者、逃走しようとした者だけでなく、無断外出や衣服を捨てたり、
草木を伐採した者まで監房に入れられました。 30日の監禁は2か月まで延長でき、療養所独自の罰則も設けることができるなど、
管理が著しく強化されたのです。

                                                                               戻る


重監房(特別病室)

 1938年に国立ハンセン病療養所栗生楽泉園に設置された、患者のための監禁施設のことを言います。正式には「特別病室」という名前でしたが、
その内容から一般に「重監房」と呼ばれました。1916年に生まれた懲戒検束権に基づいて設置され、1947年までの9年間にわたって試用されました。
建物はコンクリート、鉄材、木材による頑丈な独房で、
電灯も保温の設備も無く(冬季は-17度~18度)、食事は麦飯の握り飯と梅干し各一個または
2片の沢庵、夜具は薄い敷き布団一枚・掛け布団一枚だけという粗末な「病室」でした。9年間に全国から93名のハンセン病患者が収監され、
その内 凍死、餓死、自殺等で延べ22人が死亡するというひどい状況でした。このように、施設の性格は「病室」ではなく「監禁・懲罰」目的に設計
された収容所・監獄そのものだったのです。
 1947年8月に栗生楽泉園で患者大会が開かれて問題化し、ついに厚生省や国会が調査団を派遣し、閉鎖されるに至りました。
参考宮坂道夫氏HP

 1938年、全国13カ所の国立ハンセン病療養所で、規律違反を犯したとされる入所者の監禁施設として、栗生楽泉園に設置。国は「特別病室」と
呼んだ。閉鎖される47年まで10年間に少なくとも92人が収監され、22人が死亡した。職員の指示に従わなかっただけで収監された人もおり、懲罰房
の側面があった。戦後、実態が分かってハンセン病隔離政策の象徴となり、02年に復元運動が開始。復元を求める約10万7000人分の署名が04年、
厚生労働省に提出された。(毎日新聞 2007年9月9日から)

                                                                                戻る


園内通貨園内通用券・園内通用票・園券・園金

写真は長島愛生園のものです

 

 
これは、1919年全生園で使用が開始されたもので、「園券」(多磨全生園、沖縄愛楽園)、「園金」(長島愛生園、大島青松園、星塚敬愛園)、「通知銭」(松丘保養園)、「コマ」(邑久光明園)、「札銭」(宮古南静園)などとも呼ばれました。日本銀行券の使用は許されず、入所した時の所持金や家族からの送金は、園側に「保管金」として取り上げられ、代わりに園内だけで通用するこの通貨を、施設の決めた額だけ渡されました。入所者の逃亡を防止するため所内でしか通用しない金券を作り流通させたのです。この制度は1955年邑久光明園を最後に無くなりました。
※菊池恵楓園では1916年 所内通用票(所内通貨)制度廃止とされています。2~3年間のみ存在したようです。

 


                                                                                 戻る


患者作業

 1909(明治42)年全国に5つの公立癩療養所(後の国立ハンセン病療養所)が作られました。しかしその療養所では十分な予算がないこと、職員の数が少ないことなどから、運営を成り立たせるため、患者さんの労働力に依存することが考えられました。そこで課せられた作業を「患者作業」と呼びますがこれは実に多くの種類に及び、しかも非常な苦痛を伴う場合が多いものでした。掃除洗濯は勿論のこと、外科手術の手伝い、重症の患者さんの看護、から、土木工事、養豚、製塩など、あらゆる仕事が押しつけられました。「患者作業」は極端な低賃金で、重症者を除く全ての患者さんに強制され、過酷な重労働に成ることもしばしばで、その為に病状を悪化させ、手足を失い、失明に至る患者さんも数多くありました。
 そのため、何度か患者さんからの抗議や抵抗が有りましたが、無くなることはなく、1960年、大島青松園で「患者作業」を変換したのを皮切りに、ようやく全療養所から姿を消していきました。

                                                                             戻る
 


乞食谷戸


 乞食谷戸(こじきやと)とは、明治時代から昭和時代初期まで現在の神奈川県横浜市南区の低地に存在した、
史上最大ともいわれる貧民街の名称ある。 豚谷戸(ぶたやと)とも呼ばれることがあった。いずれも正式な地名ではなく、通称である。
大規模な貧民街が東京ではなく当時の新興都市である横浜に存在したのは、元々この地域の貧民街として
乞食谷戸が相当な規模で存在し、横浜港開港後は東京の貧困層を受け入れるという形で拡大したためである。
明治期の東京発展による貧富の差の拡大にシンクロして貧民街はさらに拡大していったと考えられている。
大規模化に伴い朝鮮人やハンセン病罹患者などさまざまな社会的弱者がこの地区に住み着き、地区は密集度を増していった。
乞食谷戸は関東大震災を経て縮小し昭和期に解体された。(ウィキペディアより)
                                                 
 山王山から久保山に亘つて、森の中は静かではあるが、空気は冷たくない、森の
を開けて入ると、
地形がおのづと幾つもの室を作つてゐる、森の茂つてゐるところは、大概高地で、そこから落ち窪んだところは、
池になり、畑になり、又谷戸にもなつてゐる、豚谷戸だの、乞食谷戸だのといふ
綽名があつて、
特殊の部落も、その窪地にある、かういふ部落が、新開港場の横浜にあるのは、珍しい、
さうして下町の「文明人」よりは、彼等の方が、土地の草分けをした先入主人ではないかと思はれる。
                                                 (亡びゆく森/小島烏水著―青空文庫より)
 新横浜の隣駅の小机や菊名は安っぽい住宅と田畑しかないクソ田舎だよ。
特に小机のあたりは「乞食谷戸」と呼ばれた戦前の日本最大の朝鮮部落があったところだよ。(2chより)

参考
 谷(やと・やつ)
 (関東地方でいう。特に鎌倉辺に地名として多く現存。アイヌ語からか)低湿地。やち。(広辞苑)
 やと
 (方言)部落。神奈川県津久井郡。(大辞典)

                                                                            戻る


お召し列車


 
患者だけを乗せる専用車両で、患者以外は乗れない。皇族関係者だけが乗る貸し切り列車でもある
「お召し列車」と皮肉って称した。1940年(昭和15年)に乗せられたという記録がある。1963(昭和38)年まで存続する。
患者を強制収容するときや通学のとき(邑久高等学校定時制課程新良田教室)などに用いられた。

 
                                                                  戻る


ハンセン病国賠訴訟(「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」)

 1907(明治40)年に「癩予防ニ関スル件」が制定されそれをきっかけに、国の強制隔離政策が断行されて行きました。それによってハンセン病の患者は、国立療養所に強制隔離され、その後約90年にわたって実に様々な、そして数え切れぬ、非人間的な扱いを受け続けて来ました。
 1996(平成8)年、「らい予防法の廃止に関する法律」が出来、厚生大臣が謝罪したものの、国は、ハンセン病元患者に対してとってきた誤った政策について何らの反省も示しませんでした。

 そこで、島比呂志氏の呼びかけが起爆剤になって、1998(平成10)年7月に、国立ハンセン病療養所の入所者13名(平均年齢は当時71才)が国を相手取り「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」を熊本地裁に提訴(西日本訴訟)したのです。これは、「らい予防法」に基づく国の隔離政策は違憲として、一人当たり一億千五百万円の国家賠償を求めたものでした。翌1999(平成11)年には、東京地裁(東日本訴訟)、岡山地裁(瀬戸内訴訟)にそれぞれ提訴されました。
 激しい法廷闘争の後、2001年(平成13年)5月11日、熊本地裁(杉山正士裁判長)は国の隔離政策の継続は違憲であるという判断を下し、国を断罪しました。5月23日、当時の首相である小泉純一郎は控訴することを断念し、これを受けて、国はこれまでのハンセン病政策に対して責任を認めて謝罪しました。6月22日にハンセン病補償法(「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」)が成立し、裁判に参加した元患者らには800万~1400万円の賠償金(総額約18億2000万 円)が支払われることになったのです。

 裁判の結果と、それに続いて出された首相談話を受けて、原告団や弁護団などが構成する「統一交渉団」が、厚生労働省と具体的な今後の施策(例えば真相究明・在園保証)を、話し合おうとします(「ハンセン病問題対策協議会」)が、厚労省の理由のない抵抗を受け、なかなか順調には進行しません。
 2002(平成14)年10月には、「ハンセン病問題に関する検証会議」が発足し、強制隔離施策の原因、それによる人権侵害の実態、医学的背景、社会学的背景などを、多方面から科学的、歴史的に検証を行い、最終報告書にまとめ、9項目の提言を添えて、厚労大臣に提出しました。現在は、その提言を実現させるための、
「ハンセン病問題に関する検証会議の提言に基づく再発防止検討会」(略称「ロードマップ委員会」)が定期的に開かれ、協議が続けられています。これも厚労省側の誠意有る態度が全く無く、はかばかしい進展は見られていません。(2007年10月現在)。(参考:判決後の闘いの歴史

 
                                         (参考:読売新聞5月11日読売新聞5月6日・クマニチ・コム5月11日・毎日新聞5月11日

                                                                                        戻る


韓国・台湾ハンセン病訴訟 と ハンセン病補償法
「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」


【ことば】韓国・台湾ハンセン病訴訟(毎日新聞 2005年11月9日から) 

 
朝鮮総督府が開設した「小鹿島(ソロクト)慈恵医院」(現・小鹿島病院)の入所者117人と台湾総督府が開いた「楽生院」(現・楽生療養院)の25人が、
ハンセン病補償法に基づく補償を日本政府に求めた。東京地裁は10月25日「補償法は広く入所者を救済する特別な立法で、国外施設というだけで
補償対象から外すのは違法」として、台湾訴訟だけを原告勝訴とした。韓国と台湾の入所経験者で補償対象となるのは400人余で、補償額は最大でも
約40億円と原告側は主張している。



【ニュース百科】韓台ハンセン病訴訟(東奥日報 2005年11月8日から)

 
ハンセン病補償法に基づき補償金を申請したが認められなかった台湾の「楽生院」(現楽生療養院)の入所者ら25人と韓国の「小鹿島(ソロクト)更生園」
(現韓国国立小鹿島病院)の117人が提訴。法や告示で明示されていない総督府の下にあった2施設が補償対象かどうかが争点となった。
東京地裁は10月25日、台湾訴訟は「平等取り扱いの原則上好ましくない」と請求を認め、韓国訴訟は「国会の審議過程などから、外地療養所の入所者が
補償の対象になることは認識されていない」と退けた。




【ニュースな言葉】
ハンセン病補償法
毎日新聞 2005年10月25日 東京夕刊から

 らい予防法(1996年廃止)に基づく国の隔離政策を人権侵害と認めたハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決(2001年5月)を受け、
元患者の被害回復のため2001年6月に施行。戦前・戦後の時期や国籍、現在の居住地を問わず、一度でもハンセン病療養所への
入所経験があれば補償対象、入所時期に応じて1400万~800万円が支給され、今年1月1日までに3445人が支給を受けている。



【ニュース百科】ハンセン病補償法東奥日報 2005年11月5日から

 国の隔離政策でハンセン病療養所に入所した元患者に対する補償金支給を定めた法律。2001年5月の熊本地裁判決を受け、議員立法で同年6月に施行された。
受給者は国籍、居住地、入所時期を問わず「国立ハンセン病療養所その他の厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所(国立ハンセン病療養所等)に
入所していた者」と規定。同法に具体的な施設名はなく、厚労省の告示に全国の国立ハンセン病療養所や国に移管されるまでの沖縄県立の施設、
私立療養所などが列挙されているが、韓国と台湾の2施設は記載されていない。補償金額は療養所への入所期間に応じ、800万―1400万円。
請求期限は施行日から5年以内。


 【讀賣新聞子供のニュースウィークリー
 【更に詳しいことは・・・
 【韓国・台湾のハンセン病補償訴訟の経緯は次項↓です】
                                                                                         戻る


韓国・台湾のハンセン病補償訴訟の経緯
 (補償法の簡単な解説はこちらです

 2001年5月11日、熊本地裁は「ハンセン病違憲国賠訴訟「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」)の判決で国の隔離政策の継続は違憲であると判断しました。
これを受けて小泉首相は5月23日、控訴しないことを決定し、6月22日には直ちにハンセン病補償法ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に
関する法律
)が成立しました。対象とされる元患者らには800万~1400万円の賠償金が支払われることになったのです。

 しかしこの補償法は、補償の対象についての細かいことは「厚労省告示厚生労働省告示第二百二十四号)」に定めることにしていました。その告示には、
日本国内の国立・私立の療養所や、米軍占領下の琉球政府が設置した施設は列挙してありますが、韓国と台湾の二つの施設(韓国小鹿島更生園・台湾楽生院
―現・楽生療養院)は明示してなかったのです。(明示しなかっただけで、実質は国内の療養所と全く同様に厚生省の管轄下に有ったことは史料からも明らかなのです。)

 vしかし、戦前に日本の植民地であった韓国・台湾に、政府は国内と同様の療養所を作り、同じ強制隔離によって、強制労働や断種を初めとする残酷な被害を
与え続けていたのです。

 そこで、この二つの療養所の入所者(以後「原告側」と略します)はハンセン病補償法による補償をするようにと日本政府に請求しました(2003年12月25日に
ソロクト厚生園・合計117名、2004年8月23日に台湾楽生院25名)。ところが日本政府(厚生労働大臣)は「ソロクトや楽生院は補償法の言う国立療養所には
当たらない」として、その補償請求を全て棄却しました(ソロクトは2004年8月16日、楽生院は同年10月26日)。

 そこで、原告側はこの棄却処分(不支給決定)の取り消しを求めて相次いで(ソロクトは2004年8月23日に、楽生院は同年12月17日に)東京地裁に
提訴したのです。そしてその判決が2005年10月25日言い渡されたのですが、驚いたことに判決は二つに分かれたのです。ソロクトは棄却処分を取り消さない
(訴えを認めない=補償法による補償はしません)、楽生院は棄却処分を取り消す(訴えを認める=補償法による補償をします)、ということになったのです。

  これを受けてソロクトの原告らは10月26日、棄却処分を取り消さないとした25日の東京地裁判決を不服として東京高裁に控訴しました。
また川崎厚生労働相は2005年11月8日の会見で、棄却処分を取り消すとしたした台湾訴訟について東京高裁に控訴することを正式に表明しました。

 その後原告側は台湾訴訟の控訴の取り下げを求めると共に、両訴訟の政治的判断による早期解決を求める活動を進めました。この間にも
高齢の原告団の方々の中には、亡くなられる方が続出していて、一刻も早い解決が必要な状態でした。

 その後、与党では補償額を国内入所者の水準に合わせて「一人800万円」とするハンセン病補償法の改正案を、2006年1月20日からの通常国会に提出する方針を決め
一方、厚生労働省は(韓国、台湾の)ほかにパラオ、サイパン(米国)、ヤップ(ミクロネシア連邦)、ヤルート(マーシャル諸島)の4地域についても調査をし、
必要に応じて追加するという可能性も考えられる状態になりました。

 原告側弁護団は上記与党の改正案を受け入れる旨の声明を発表、政府の迅速な対応を求めていましたが、2006年1月31日改正案は衆院本会議で可決、
続いて2月3日参院本会議で全会一致の可決され、2月10日改正ハンセン病補償法(ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律
―平成18年2月10日法律第2号)」が遂に成立するにいたりました。 

 なお厚労省は2006年2月10日、「国外ハンセン病療養所入所者に対する補償金」についてのお知らせ-楽生院・小鹿島更生園に入所していた皆様へ
と題しこのような書類を省のサイトに掲載しました (PDF:163KB)


 2007年3月28日、厚労省はパラオ、ヤップ(ミクロネシア連邦)、サイパン、ヤルート(マーシャル諸島共和国)の各療養所を新たに補償の対象施設に指定すると
発表しました。現地調査や当時の文献から、患者を強制隔離していた事実が確認できたためで、厚労省は4月上旬から補償の申請を受け付けるとしています。(参考

                                                                                                     戻る
                                            


「ハンセン病を正しく理解する週間」を改訂
(「癩予防デー」から現在まで)

 日本では1931年から「ハンセン病の日」の形のものが有りました。その移り変わりを見てみましょう。
 
 1931年
、6月25日(大正天皇の后、貞明皇后の誕生日)を 「癩予防デー」と定め、
「らい予防週間」を設けることになりました。これは貞明皇后が御手許金(内帑金)248,000円をハンセン病医療のため
下賜するなど救済事業に力を注がれたからです。
しかし、実際はこれにより ①「皇恩」の力説 ②伝染の恐怖心を煽って隔離強化を正当化 ③無らい県運動の推進 
の三つを図ろうとしたのです。

 1951年、貞明皇后死去に伴い「癩予防デー」を「救らいの日」と改めました。

 1963年6月25日、藤楓協会は「救らいの日」を「らいを正しく理解する日」と改めました。

 1964年6月25日、6月25日を含む1週間を「ハンセン病を正しく理解する週間」と定めました。(参考
 この週間では、ハンセン病に対する正しい知識の普及と、ハンセン病療養所入所者等の福祉の増進を
目的として、様々な行事や活動がなされています。

 2008年8月27日の「平成20年度ハンセン病問題対策協議会」での
確認事項で、6月22日(2001年に
ハンセン病療養所入所者に対する補償金の支給等に関する法律
(補償法)」が公布、施行された日)を
「ハンセン病隔離政策を反省し、被害者を追悼する日」と定めることとしました(2009年から実施)。
この日には追悼式典も行われます。

なお世界では世界ハンセン病の日」が1月の最終日曜日と定められています。


                                                                     戻る


世界ハンセン病の日(世界ハンセン病デー)
(World Leprosy Day)

 フランスの著述家、ラウル・フォレロー氏(Raoul Follereau、1903‐1977年)が「世界にはハンセン病に苦しむ人々が沢山いる。一年に一日、この人々のことを思い、祈り、手を差し伸べよう」と呼びかけ、1954年の1月31日(日)を第一回の 「World Leprosy Day」 として、世界の各地のキリスト教会での礼拝と献金を呼びかけたのが始まりです。毎年1月の最終日曜日がその日と定められており(参考:日本財団HP)、ハンセン病に対する正しい啓発と患者の幸せを願って、世界の多くの国で様々な行事が行われます。日本ではほとんど知られていませんが、広く世界で行われています。

日本では、別に6月25日を含む一週間を「ハンセン病を正しく理解する週間」としています。

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全療協
全国ハンセン病療養所入所者協議会

 1907年の「癩予防ニ関スル件」の施行、1931年の「癩予防法」の施行と、国は患者の強制隔離政策を強化し続けていました。

1943年にプロミンの有効性が明らかになり、ハンセン病は治る病気、普通の病気となりました。1945年第二次世界戦争が終わり1947年には
新憲法が施行されて基本的人権が確立しました。

 ところが国は「第二次無らい県運動」(1947年)、「優生保護法」(1948年)、「第二次増床計画」(1950年)、「三園長証言」(1951年)というように
医学的知見や国際的趨勢に逆行する政策や行動を次々と打ち出します。

 そこで遂に、患者自らが立ち上がらざるを得なくなりました。自治会活動を通じて、療養所・園側と対立する力を獲得し始めたのです。
そして「栗生特別室事件」(1947年)、「プロミン獲得委員会」(1948年)、「藤本事件」(1950年)、「全生園の不正糾明患者大会」(1952年)などを
経るにつれ、さらに全国規模の患者組織の必要性が生じてきました。

 先ず1948年に星塚・菊池・駿河・栗生・松丘の五療養所に「患者連盟」が結成され、それが全国的組織にまとめられて、ついに1951年1月
「全国国立癩療養所患者協議会」(全癩患協⇒全患協=現在の全療協)として結実したのです。

 その後、1952年の「らい予防法闘争」を初めとして、1996年の「らい予防法廃止」の活動、2001年の「熊本判決」の際の活動など
様々な場面で患者、入所者の意見を主張する機関として重要な役割を担いながら現在に至っています。

                                                                   (参考「名称の変遷」「略年表」

                                                                                 戻る


「癩予防ニ関スル意見」


 光田健輔が、1915年2月13日、内務省にこれを提出し、ハンセン病予防の第1案として全患者の離島隔離をあげている。

 この中で光田は、「論者或ハ人権問題ヲ云為シテ患者ノ絶対的隔離ハ困難ナラント云フ者アレドモ今日迄ノ経験ニヨレバ
一旦患者療養所ニ来リタル者ハ決シテ再ビ家郷ニ復スルモノアラズ、譬ヘ或ル事情ノ為メ一旦逃走スルコトアルモ
必ズ再ビ帰院スルカ若クハ他ノ療養所ヘ入院スル者ノ如シ、故ニ人権ヲ云為スル者極メテ少数ニ過ギザルベシ」と述べ、
光田は全患者を離島隔離しても、人権問題とはならないと豪語する。

 また光田は、この意見書のなかで、ハンセン病予防の第2 案として、連合道府県立療養所の拡張・新設をあげているが、
「無籍乞丐癩」は「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ念ヲ絶ツニ如クハナシ」とも述べている。
放浪する患者を「絶海ノ孤島」に隔離せよということで、光田はその「絶海ノ孤島」の例として小笠原諸島をあげていた。

                                                                            
                                                                            戻る


保健衛生調査会
検証会議最終報告書より)

 1916年6月27日、第2次大隈内閣は、内務省に保健衛生調査会を設置、新たな衛生政策の指針を求めた。

 当初、調査会は各部会に編成され調査をおこなうこととされ、調査項目は第1 部「乳児、幼児、学齢児童及青年」、
第2 部「結核」、第3 部「花柳病」、第4 部「癩」、第5 部「精神病」、第6 部「衣食住」、第7 部「農村衛生状態」、第8 部「統計」であった。
 
 調査項目を一覧してわかるように、これまでの防疫中心の衛生政策から国民の体力強化を軸にした衛生政策への転換が図られていた。

 結核や「花柳病」=性病、そしてハンセン病という慢性の感染症対策が重視され、さらに精神障害への
新たな対策の提示も求められていた。長期的に心身ともに優秀な国民を培養するうえで、これらの疾病の予防は不可欠とされ、
また、乳幼児・青少年の健康管理や兵士の供給源とされた農村の衛生状態の改善は、将来の優秀な人口確保のために不可欠とされた。
第4 部の主査委員は山根正次で光田健輔も委員に名を連ねた(『保健衛生調査会第一回報告書』、1917 年)。

                                                                            戻る



ハンセン病市民学会
 毎日新聞(2006年5月13日)より 

 2005年5月、回復者を中心に市民レベルでハンセン病問題への理解を深めようと、
熊本県の国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園で設立総会を開催。講演会や年報発行のほか、
宗教界や家族などの関係者が各部会を立ち上げ、残された課題を検証している。

 市民学会HP
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検証会議
(正式名称=ハンセン病問題に関する検証会議)


 国家賠償請求訴訟の裁判では、2001 年5月11日、熊本地方裁判所において、らい予防法の違憲と、隔離政策の違法を認めた画期的判決が
出されました。この判決後、坂口厚生労働大臣の国会における答弁や、統一交渉団(全原協・全国弁連、全療協によって組織されています)と
国との間の協議(ハンセン病問題対策協議会)の結果などから生まれたものです。
 この会議は、厚生労働省から日弁連法務研究財団が委託され、2002年10月16日、その第1回会議が開催されました。
 この検証会議の目的は、強制隔離施策が長期間にわたって続けられた原因、それによる人権侵害の実態、医学的背景、社会学的背景、
「らい予防法」などの法令等、多方面から科学的、歴史的に検証を行い、このような政策や事実の再発防止のための提言を行うこと
にあります。
 2年半に及ぶ会議の結果、「最終報告書」がまとめられ、2005年3月1日に、厚労省へ提出されました。
 この報告書には9項目に渡る提言が為されており、それを受けて厚労省では、2006年3月29日に
「ハンセン病問題に関する検証会議の提言
に基づく
再発防止検討会の第1回会合が開かれました。これは関係者の間では「ロードマップ委員会」と呼ばれ、回を重ねて居ます(2007年
7月現在第6回)。しかし、厚労省は「患者・被験者の諸権利の法制化」などを盛り込んだこの提言の誠実な実行に、強く難色を示しており、会議は
難航を続けているのが現状です。



【新聞の解説】
1)ハンセン病患者への隔離政策が90年間も続いた原因や隔離被害の実態を究明する第三者機関。
隔離政策を違憲と断じた熊本地裁判決後、国が有識者らに委託して02年に設置された。
昨年3月、厚労相に提出した最終報告書では、厚生省(当時)が療養所の予算を維持するため隔離政策を続けたことを挙げ、
医療界や法曹界、マスコミなど多方面に人権侵害を助長する要因があったと指摘した。(毎日新聞 2006.5.12)

2)国の隔離政策の誤りを認めた2001年5月の熊本地裁判決を受け、原因解明のため厚生労働省が設置した第三者機関。学術経験者や
弁護士らがメンバー。旧厚生省担当者への聞き取りを実施した昨年4月の中間報告では、法改正を先送りした国と、誤った医学知識を
広めた専門医の責任を指摘。7月に発表した入所者への聞き取り調査では、8割が自殺を見聞きした経験を持つことなどが明らかにされた。
東奥日報 2005.1.27)


 検証会議の設置と活動について2004.7.1発行JLF NEWSから)
 詳細⇒「ハンセン病問題に関する検証会議」(当サイト内)
                                                                               戻る


断種
(ワゼクトミー―Vasektomieと人工妊娠中絶(熊本地裁判決から)
  
 1909(明治42)年に開設された療養所では、当初、男女間の交渉を厳重に取り締まりましたが、それでも所内での男女交渉は絶えず、出産に至ることも少なくありませんでした。
そのため、療養所内での出生児の養育を許さない方針であった療養所側は、その扱いに苦慮するようになりました。それでも、男女間の交渉を認めることが療養所の秩序維持に
役立つと考えた光田健輔(当時全生病院長)が、1915(大正4)年から、結婚を許す条件として断種(精管切除)を実施し、それをきっかけとして、全国の療養所でこれが普及する
ようになり、1939(昭和14)年までに1,003人の患者に断種が実施され、妊娠した女性に対しては、人工妊娠中絶が実施されました。この人工妊娠中絶が、後に「胎児標本問題」
として取り上げられる「胎児の標本」を作らせるもとになったのです。
  なお、1948(昭和23)年の優生保護法患者の優生手術=断種・人工妊娠中絶は「本人及び配偶者の同意が有れば」可能であると明文化される―3条1項)の制定前に
患者本人及び配偶者の同意を得ないで優生手術が行われることが少なからずあったこと、および、優生保護法制定後も同様のことが皆無ではなかったことは、明らかです。
  なお、1940(昭和15)年の国民優生法では、断種の対象を遺伝病に限定し、ハンセン病は対象疾患から除外されています。にもかかわらず療養所内での断種手術は続けられ
ました。つまり、このような優生手術は、1948(昭和23)年の優生保護法制定まで、法律に明文の根拠がないまま行われていたものだったのです。
 その結果、1996年の「らい予防法の廃止に関する法律」の制定までに、 断種が1,400件以上、中絶は3,000件以上に及びました。
                                                                                                      戻る


「胎児標本問題」 新聞解説
                                               「胎児標本問題の推移」

1)療養所では長く、患者の隔離を政策の基本にしていた。原則として出産、子育ては許されなかった。結婚すると男性は断種手術を施され、
妊娠した女性は中絶させられた。楽泉園では入園者の子どもの保育施設が隣接し、入園の時点で子どもがいたり、気づかれずに出産した場合などに、
そこで育てられる例もあった。
 厚労省が設置した第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」は05年1月、中絶された胎児・新生児をホルマリン漬けにした標本が
療養所など6施設に114体(後に115体と判明)残されているという調査結果をまとめ、正常に生まれた後に殺されたこともあると指摘した。
調査後も新たな標本が見つかり、数は増えている
(朝日新聞・群馬 2006.7.13)

2)
誤った国の隔離政策の原因を追及した第三者機関「ハンセン病問題検証会議」が1月、国立感染症研究所ハンセン病研究センターと
療養所の計6施設で114体(後に115体と判明)の胎児標本が存在する、と公表。発見されなかった療養所でも過去に存在したとされる。29体は
妊娠8カ月をすぎ、うち16体は9カ月以後のため、妊娠中絶ではなく出産後に療養所職員らに殺された可能性が高い。検証会議は「医学的常識を著しく
逸脱しており、生命の尊厳をいたく冒涜(ぼうとく)するもの」と医師ら関係者を断罪した。胎児以外にも、入所者が死亡後に解剖された2千体以上もの
標本が見つかった。
(東奥日報 2005.6.3)

3)
ハンセン病患者を隔離していた国の誤った政策を検証していた厚生労働省の第三者機関「ハンセン病問題検証会議」が2005年1月、
国立感染症研究所ハンセン病研究センターと全国5カ所の療養所で計114体(後に115体と判明)の胎児標本が存在する、と公表した。
作製時期は1924―56年ごろで、16体は妊娠9カ月以後だった。検証会議は、人工妊娠中絶などによるもののほか、出産後に療養所職員らに
殺害された可能性にも言及した。胎児以外にも、入所者が死亡後に解剖された2千体以上もの病理標本が見つかった。
(東奥日報 2006.6.14)

4)ハンセン病患者を隔離していた国の誤った政策を検証していた厚生労働省の第三者機関「ハンセン病問題検証会議」が2005年1月、
国立感染症研究所ハンセン病研究センターと全国5カ所の療養所で計114体(後に115体と判明)の胎児標本が存在する、と公表した。
作製時期は1924―56年ごろで、16体は妊娠9カ月以後だった。検証会議は、人工妊娠中絶などによるもののほか、
出産後に療養所職員らに殺害された可能性にも言及。胎児以外にも入所者が死亡後に解剖された2000体以上もの病理標本が見つかった。
(西日本新聞)

5)ハンセン病患者の隔離政策を検証していた厚生労働省の第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」が平成17年1月、国立感染症研究所
ハンセン病研究センターと全国5カ所の療養所で計114体(後に115体と判明:リベル注、以下同じ)の胎児標本が存在すると公表した。
作製時期は大正13~昭和31年ごろで、16体は妊娠9カ月以後だった。検証会議は、人工妊娠中絶などによるもののほか、
出産後に療養所職員らに殺害された可能性にも言及した。入所者が死亡後に解剖された2000体以上の病理標本も見つかっている。
(産経新聞)  
                                                       「胎児標本問題の推移」

                                                                       新聞・テレビ報道2006年2月~6月

                                                                                   戻る
                                                                                              


ノルウェー方式


 19 世紀後半の世界では、ハワイで行われた強制隔離政策と、ノルウェーでハンセンが実践した患者
の権利に配慮した緩やかな隔離政策の2 つのハンセン病対策が並立していたが、1897 年ベルリン
で開かれた第1 回国際らい会議では、ノルウェー方式と呼ばれる限定的な隔離が、医学的に正しい
ハンセン病対策として承認された。「ノルウェー方式」は、次の4 つの柱から成っている。

 1.ハンセン病は一般的清潔法の普及で予防できる。
 2.ハンセン病の隔離は故郷(家庭―リベル注)において十分行われうる。
 3.貧民で自宅隔離が不完全なときは国立病院に救護隔離する。
 4.浮浪患者は絶対隔離とし、他は任意でよい。


なお、これに対しハワイや日本で行われた強制隔離方式は「ハワイ方式」と呼ばれる。

検証会議最終報告書より)

                                                       戻る


人権擁護法


 人権擁護法は日本では初の包括的な人権擁護を目的とする法律です。ただ、その法制度や運用方法、必要性などを巡って賛否両論があるのが現状です。

 この法律の法案は、最初は法務省が人権擁護推進審議会の答申、「人権救済制度の在り方について(2001(平成13)年5月25日)」を受けて作成・立案したものです。
この答申は、現在の人権救済の制度である「人権擁護委員制度」が果たしてきた役割を評価しながらも、実効的な救済という観点からは十分とはいえないとして、
人権擁護委員制度にかわる新たな人権救済制度の創設をもとめています。法案は2002(平成14)年3月8日の第154回国会に提出され、第155回国会、第156回国会と
3会期連続で審議されましたが、2003(平成15)年の衆議院解散の際に廃案となりました。

 その後、2003(平成15)年11月に熊本県黒川温泉で発生した「宿泊拒否事件」を受けて、2004(平成16)年2月熊本県議会で人権侵害事件被害者を救済するための
早期の法整備が必要と決議し、国に要請しました。そして2005(平成17)年2月、政府・与党が一部修正を加えた上で第162回通常国会に再提出する方針を固めましたが、
自民党内で反対意見が噴出した結果、自民党執行部は同年の7月に第162回国会での法案提出を断念しました。しかし、自民党の中川秀直国対委員長は同年9月
に放送された「サンデープロジェクト」で法案が再提出されるであろうと言う見通しを示し、同年9月29日の参議院本会議では民主党の神本美恵子議員の人権侵害の
問題に関する質問に対して、小泉純一郎内閣総理大臣が「人権擁護法案を、出来るだけ早期に、提出出来るように努めて参ります」と答弁して法案成立に意欲を見せました。

 この法律案によって設置される行政機関である人権委員会(仮称)に対して、その権限の大きさ、委員の選出過程の不透明さなどが批判の対象となっています。
それは、たとえば自由な報道を規制する道具に転用される恐れがあるという理由からです。これについては国連人権小委員会より提案された国内人権機構の
地位に関する原則(パリ原則)に沿ったものとなることが求められています。
                                                            (参考:検証会議最終報告書・提言) (参考:Wikipedia

                                                                                             戻る


らいの現状に対する考え方」

 厚生省公衆衛生局結核予防課は、1964(昭和39)年3月、「らいの現状に対する考え方」をまとめており、これには、この当時までの医学的知見及び厚生省の認識が端的に現れている。
 
これによれば、

「従来の医学においては、らいは全治はきわめて困難であり、隔離以外に積極的な予防手段はないとされていたので、患者の隔離収容に重点をおいてきたのであるが、最近におけるらい医学の進歩は目覚ましいものであり、細部においては未だ不明な点は多々あるものの、らいは治ゆするものであること、らいが治ゆした後に遺る変型は、らいの後遺症にすぎないこと、らい患者それ自体にも病型により他にらいを感染させるおそれがあるものと、感染させるおそれがないものとがあること、らいの伝染力は極めて微弱であって、乳幼児期に感染したもの以外には、発病の可能性は極めて少ないことという見解が支配的となりつつあり(中略)らい治療薬の発達により、早期治療を行なったものについては、変型に至るものが少く、又菌陰性になるまでの期間も随分短縮されてきた。」、

「こうした医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行なう必要があるが、その検討の方向としては、第一に患者の社会復帰に関する対策であり、第二は他にらいを感染させるおそれのない患者に対する医療体制の問題であり、第三は現行法についての再検討であろう」、

「本病についての特性として、社会一般のらいに対する恐怖心は今なお極めて深刻なものがあるので、まずこれについて強力な啓蒙活動を先行的に行わなければ、上記各検討結果による措置も実を結ぶことは困難である」

とされている。
                                                                              (熊本地裁判決から)

                                                                                       戻る


ハンセン病問題対策協議会と統一交渉団

ハンセン病問題対策協議会は、熊本地裁判決直後の首相談話を受け、厚生労働副大臣を座長として開かれる、厚生労働省と「統一交渉団」との協議交渉機関です。

統一交渉団
とは、

(1)
原告団(ハンセン病違憲国家賠償訴訟全国原告団協議会)、
(2)全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)
(3)弁護団(ハンセン病違憲国家賠償訴訟全国弁護団連絡会)

の3団体で組織されています。

ハンセン病問題対策協議会においては、両者が事前に議題設定された事項について要求と回答を行い、さらなる摺り合わせを実施し、政策立案・実施に向けた作業を協同して実施する、という形式で議事がなされています。
                                                                                      戻る


声明書(藤本松夫の死刑執行に対する抗議声明)
  
私たちは第7会全国ハンセン氏病療養所患者協議会支部長会議を開き、患者の権利を守り、生活の向上をかちとるための会議の席上、藤本松夫氏の死刑執行の報に接し
深い悲しみといきどおりを感ずるものであります。藤本氏に対する死刑の判決は、まつたくハンセン氏病なるが故の偏見と予断にもとづく不当きわまるものであります。
その裁判も世間の目にふれず暗やみでおこなわれたものでありました。私たちは、守る会、国民救援会、その他国民各層の支援にまもられて再審の斗いをつづけてまいりました。
犯行時のアリバイも明らかになり無罪をかちとる日も近いと確信していたや先、ひそかに死刑執行したことは、人権を無視し、人命を軽んずる検察、法務の反動性を
バクロしたものであります。私たちは、この人命軽視と、人権の侵害をてつてい的に追及し、無実の人命をうばつたものに対する斗いを、さらにおし進める決意であります。
                                                                       1962年9月16日    
                                                                                     全国ハンセン氏病患者協議会
                                                                                          第7回臨時支部長会議


                                                                                  (「全患協ニュース」1962年10月15日号より)

                                                                                                       戻る


藤本事件を報じる、当時の「全患協ニュース」

◇遺書かく時間も与えず真実の叫びを圧殺
  ―関原勇主任弁護士談―
 藤本氏の処刑はまつたく抜きうちのむちやくちやなやり方だ。家族にも兄弟にも弁護人にも、そして本人にも知らせず、ヤミからヤミに ほうむつたのだ。
真実の叫びを一こともいわせぬように圧殺してしまつたのだ。
福岡刑務所の豊田教育部長は、三回“お別れ”を言つたとき、はじめて藤本氏が“死”を知つたようだというが、無実であり、再審の申立てをし、
無罪を確信している人が、“お別れですね”といわれてピンとこないのはあたりまえだ。遺書を書く時間も、心の余裕を与えず、殺してしまつたのだ。
藤本氏の処刑は、きわめて計画的に綿密におぜん立てをしたとしか思えない。人を殺すために官憲が一体となり、極端な秘密主義と官僚主義のなかで
事を進め、殺したあとも事実をかくそうとしている真実をおしつぶそうとする黒い意図が裏に働いているのだ。

◇“再審請求中でも処刑”
  ―国民救援会・日患・救う会抗議に当局が暴言―
国民救援会と日本患者同盟、藤本松夫を救う会の三団体の代表七名は、九月十八日午後三時、法務省を訪れ、当局に厳重な抗議を申し入れた。
勝尾秘書課長はまず「死刑執行命令にいつだれが、押印したかはいえない」と責任回避したうえで、①最高裁判決後は一回目の再審申し立て中であつても
二回目であつても死刑は執行する。②処刑の決定は法務当局が資料を検討したうえで再審事由なしと認定した場合に行なう。③藤本氏の場合、熊本地裁が
再審請求を却下することを確信していた。④減刑助命嘆願の却下や再審却下の通知を受刑者に通知する必要はない。⑤裁判で決まつたものをいつまでも
ずるずる処刑延期することは妥当でない、藤本氏は判決から五年もたつているとのべた。
各代表は、課長の発言は従来会見のたびに当局がいつてきた「再審の請求があるときは処刑しない」との言明とまつたく違う点を注目「最高裁の判決が
あつても、このような死刑にあたつては、当人は勿論のこと、当人を取りまく善意のひと、国民全部が充分納得、理解し得るだけの審理をつくし、
処刑にあたつてはその説明と根拠が明らかでなくてはならない」「無実と信ずるから再審を申し立てるのだ、殺されてから真実が発見されても無意味だ。
尊い人命を尊重する立場から慎重すぎるほど慎重に対処すべきだ」と要求した。
                                                             (「全患協ニュース」No.201(1962年10月15日発行)より


                                                                                          戻る


癩の根絶策
(編集中)

 1930(昭和5)年10月1日、内相安達謙蔵の命により、内務省衛生局は「癩の根絶策」として3案を発表する。日本のハンセン病患者数を1万5000 人と推定し、そのうち、5000人を従来の公立療養所と新設の国立療養所とに収容し、残った1万人について、20年・30年・50年の3とおりの「根絶計画」を提示した。第1案の「二十年根絶計画」は、新たに1万人を収容する施設をつくり、10年後に全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるというもの、第2案の「三十年根絶計画」は毎年500人分ずつ療養所定員を拡大して20年後には全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるというもの、第3 案の「五十年根絶計画」が新たに5000人収容の施設を10か年で完成し、その後30年間で全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるというものであった(内務省衛生局編『癩の根絶』、1930年)。いずれも、隔離収容後、患者は10年以内に死亡するという前提である。結局、1936(昭和11)年度より第1案が実施されることになるが、絶対隔離に向けて内務省は動き出していた。
 そして、1931(昭和6)年、日本のハンセン病対策に大きな転換が訪れる。1月21日、内相官邸において癩予防協会の創立総会が開かれ、3月27日には前11月に園長に光田健輔を迎え、岡山県長島に開園した最初の国立療養所長島愛生園で患者の隔離収容が開始され、そして、第59回帝国議会に浜口雄幸内閣から提出された法律「癩予防ニ関スル件」の大幅な改正案が可決、同年8月1日より施行されたのである。このとき、法律の名称も「癩予防法」と変わる。「癩予防法」の成立後、その施行を前に、内務省衛生局予防課長高野六郎は「癩予防法」と国立療養所と癩予防協会の三者による「癩の根絶」の展望を示している(高野六郎「癩の根絶」、『公衆衛生』49巻8号、1931年8月)。「癩予防法」には、患者が「業態上病毒伝播ノ虞アル職業」に従事することの禁止、隔離収容された患者の家族への救護、患者の使用物の消毒、「病毒伝播ノ虞アル」患者の国公立療養所への収容、ハンセン病に関係する公務員の守秘義務などの規定が加えられ、それまでの「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」という隔離収容の条件を削除した。すなわち、隔離収容の対象は全患者となった。
 これにより、患者は就業する自由を失い、周囲を消毒され、もはや隔離に応じるしか道を選べなくなる。患者の隔離への不安を改称するために残された家族への救護や守秘義務が法に明記された。まさに、「癩予防法」は絶対隔離に対応する法である。


 1930(昭和5)年10 月、内務省によって発表された「癩の根絶策」(20 年根絶計画、30 年根絶計画、50年根絶計画)は、「癩予防法」の制定(1931(昭和6)年4月公布)によって根拠法を得た。ただし、同計画が実施に向けて大きく動きだしたのは、制定からしばらく経った後の昭和10年頃からで、1936(昭和11)年2月、官公立「らい療養所」所長並びに所属府県衛生課長会議は「らい根絶20 年計画」を公表し、その第1段階として昭和11年度から10年間に患者1万人の収容施設整備拡充を決定した。
 もちろん、これには、日中全面戦争に突入(1937(昭和12)年7月)、太平洋戦争の勃発(1941(昭和16)年12 月)というような戦時体制の進行が大きく関わっていた。これらにより、1 万人収容(療養所の収容定員8000 床)が実現されることになった。しかし、それは、光田らが主張した「全患者」収容の達成を意味するものではなかった。1950(昭和25)年8月に実施された厚生省全国らい調査によれば、推定患者数1万5000人のうち入所患者数は1万100人、未収容患者数は2526人という結果であった。また、1951(昭和26)年11月、参議院厚生委員会「らい小委員会」において参考人として証言した林多磨全生園長も、「まだ約6千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。」と述べているからである。
 むしろ逆に、敗戦の混乱により、「現住患者」は戦前よりも戦後の方が増加したのではないか。このような指摘も存在した。たとえば、愛知県『らいの話』(昭和25)年は、次のように記している。「本県が無らい県運動を展開したのは昭和二十二年であった。らい関係事務が警察部から新設の衛生部に移管された昭和二十二年、県内に於けるらいの全貌を知るため台帳に依って整理をして見ると、・・現住患者四八四人という数字が出て来た。この数字は・・昭和十四年の三六○人よりは一二四人も多く、前月の救護月報よりは二○七名も多い。」
 そこで、1950年頃、厚生省は「全患者」収容の方針を打ち立て、これに基づき、「全患者」収容を前提とした増床を行い、患者を次々と入所させていった。昭和24年度から昭和28年度までに5500床の増床が実現し、療養所の収容定員は1万3500 人となった。1953年(昭和28)年の調査によれば、推定患者数は約1万3800 人とされたので、この時点でほぼ全患者の収容が可能となり、増床が終了したことになる。

                                                                (ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書第三・第四から)

                                                                                                    戻る


太平洋地域のハンセン病とナウル島

日本は、1919(大正八)年以降、マリアナマーシャルパラオカロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年12月の対米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した。こうしたなか、1942(昭和17)年8月25 日、海軍はオーストラリアの委任統治下にあったナウル島を占領した。ナウル島にはナウル行政府が設置したハンセン病専門病院(Leper Station)があり、日本軍占領時、39人の患者が入院していた。敗戦後の1948(昭和23)年、ナウルの行政官マーク・リッジウエィは、占領から1年後、「日本軍は彼らを1隻のボートに追い集め、そのボートは海に向かって曳航され、銃撃により破壊された。ひとりの生存者の痕跡もない」という衝撃的な証言をおこなった(NEWSITEMS, International Jou nal ofLepro y,Vol16,No.4,1948)。


さらに、1952(昭和27)年に発表されたレオナード・ウッド記念研究所のH・W・ウエイドとナウル政府医官ウラジミル・レドウスキーの共同研究も、次のように記している。日本の占領はナウル島のハンセン病患者に激烈な変化をもたらした。1943 年6月頃、隔離施設のすべての入院患者はどこか他の場所に移送するという口実のもとに穴の空いたボートに乗せられ、ランチに曳航されていった。たった3人の者だけが見送ることを許された。これらの患者の運命についてはまったく不明である。しかし、彼らのうちひとりとて2 度と姿を見せることはなかった(H.W.Wade & Vladimir Ledowsky, The Leprosy Epidemic at Nauru; AReview with Date on The Status since 1937, International Journal of Leprosy,Vol.20,No.1,1952)。1943(昭和18)年の夏、ナウル島のハンセン病患者は日本軍により虐殺されたことは疑い得ない。ナウルの事例は、占領地における隔離政策の帰結として記憶しておくべきであろう。

                                                                  (検証会議最終報告書から)

                                                                               戻る


ハンセン病補償、パラオなど追加 厚労省、4施設指定(朝日新聞 2007年03月28日22時09分)

 日本の植民地統治時代に南洋諸島のハンセン病療養所に入所させられていた人たちの補償問題で、厚生労働省は28日、パラオやサイパンなど4カ所の療養所を新たに補償の対象施設に指定すると発表した。現地調査や当時の文献から、患者を強制隔離していた事実が確認できたためで、厚労省は4月上旬から補償の申請を受け付ける。

 指定されるのは、パラオ、ヤップ(ミクロネシア連邦)、サイパン、ヤルート(マーシャル諸島共和国)の各療養所。

 昨年2月施行の改正ハンセン病補償法は、国外療養所の元入所者も補償金(1人800万円)の支給対象とした。これを受けて韓国と台湾の各1施設を指定し、補償の認定が進んでいるが、南洋諸島は当時の記録が残っていないことなどから指定が遅れていた。
                                                                              戻る


一塩基多型
SNP(スニップ) 

シングル(一)・ヌクレオチド(塩基)・ポリモルフィズム(多型)の略称です。(single nucleotide polymorphisms )
DNAの4種類の塩基の並び方が1カ所だけ違っている状態を指します。
遺伝情報は、DNAの中の塩基と呼ばれる4種類の化学物質(A:アデニン、T:チミン、C:シトシン、G:グアニン)の配列で記録されています。ヒトの場合には約30億個の塩基があり、1000~2000個に1個の割合で、各個人によって異なる配列部分が存在するのです。これを一塩基多型といい、肌の色や体質の違いなど、人間の個人差は、SNPが原因と考えられています。

参考動画
:再生をクリックして下さい。説明が分かりやすくなります。
                                                                              戻る


「らい予防法廃止に関する法律」の第二条
らい予防法廃止に関する法律

第二条  国は、国立ハンセン病療養所において、この法律の施行の際現に国立ハンセン病療養所に入所している者であって、引き続き入所する
ものに対して、必要な療養を行うものとする。(注は省略してあります)

※将来、民間施設を併設するとか、ほかの機能(老人ホーム、商業施設など)を取り入れようとかする場合、この条項がそれを妨げることになります。

                                                                              戻る


多磨全生園医療過誤訴訟


 多磨全生園の元入所者で、現在退所者の山下ミサ子(仮名)さんは、1981(昭和56)年ごろ、再発の症状が出たため、治療を受けましたが、患者蔑視の考え方が強い、主治医の小関正倫医師によって、10年にわたる不十分な治療を受け、そのため、後遺障害1級の障害者となってしまいました。
 山下さんは、「全生園の医療を良くするためには、裁判をするしかない。医療ミスの被害者たちを闇に葬り、入所者や看護師に対するセクハラ行為を繰り返し、患者蔑視の治療態度を改めない主治医の小関正倫医師は、人間として許すことができない」と考え、勇気を奮って2003(平成15)年4月23日提訴に踏み切りました。これは療養所に於ける初の医療過誤訴訟です。
 その後群馬・栗生楽泉園の並里まさ子医師、和泉眞蔵医師などが山下さん側の証人として、証言し、裁判は進行し2005(平成17)年、全面勝訴の判決が出ますが、国は控訴します(同年2月9日)。最終的には2006(平成18)年1月31日、東京高裁の控訴審で国が責任を認め、3000万円支払うことで正式に和解が成立しました。
 この事件は、療養所に於いて、非常に杜撰な医療行為が行われていたことを明らかにし、それが糾弾されたことで、大変重要な意義を持つものです。
  
 
                                                                      (参考:ハンセン病ニュース
                                                                      (参考:国賠訴訟関連年表
        
                                                                              戻る 


国立ハンセン病資料館

 これは、1993年6月25日 「高松宮ハンセン病資料館」と言う名前で、藤楓協会の創立40周年の記念事業の一つとして多磨全生園の
敷地内に開設された資料館であり、強制隔離された患者の苦難の歴史と、患者救済に尽くした多くの先駆者の資料を展示する場所でした。
 ですから、この資料館の配布パンフレットには冒頭にこう記されています。
 「『資料館』の展示資料について特筆されるのは、ハンセン病に対する偏見と差別の犠牲者、つまり絶対隔離(すべての患者の終生隔離)を強制された患者白身が、資料を独自に意味づけていることであり、いわれのない苦難の歴史を赤裸々に暴露している」と。

 2001年の国賠訴訟勝訴の判決を受けた総理大臣談話に明言され、統一交渉団と、厚労省の間で合意された確認事項の中で
「ハンセン病資料館については、予算・施設・人的体制の充実に最大限努める」と明記され、それに基づいてその後も拡充が協議されました。
 2003年2月10日に厚労省の「ハンセン病資料館施設整備等検討懇談会」は、高松宮記念ハンセン病資料館を拡充する計画の策定
委員会設置を決めています。そして公開で何回も懇談会は開かれていました。それをキチント、チェックしなかったのがいけなかったのです。
 2005(平成17)年9月1日から新館増築工事に伴い一時休館となり、2007(平成19)年4月1日リニューアルオープンされましたが、新たに
姿を現わした「国立ハンセン病資料館」はガラリとその中味を一変させてしまいました。
 「患者の苦難の歴史」は勿論、「国の侵した大きな過ち」である「強制隔離政策」のことなど、どこかへ姿を消してしまっているのです。
これは、厚労省の、国の立場のみを擁護しようとする、そして、国民の苦難は、隠してしまおうとする、悪い体質の現れに他なりません。
断じて許されないことです。

                                                                 (参考資料集

                                                                              戻る


ペシャワール会

 1983年、パキスタン北西辺境州で貧困層のハンセン病治療をする中村哲医師の支援組織として結成された非政府組織です。寄付を資金に献身的な活動を続け、1986年にはソ連侵攻によるアフガン難民の治療、2000年には大干ばつのアフガニスタンで水源確保事業、2001年には空爆下、緊急食糧配給を行いました。
 同会は2002年、第1回沖縄平和賞を受けました。中村医師も1993年に西日本文化賞、2003年にアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞(平和・国際理解部門)を受賞。現在は同州やアフガニスタンに1病院、4診療所を運営。受診者数は延べ100万人を超えます。会員数約1万3000人。本部は福岡市中央区大名1丁目。(西日本新聞、毎日新聞参考)
 

パキスタンの政情悪化のため2007年11月に撤退し、拠点をアフガニスタンに移す予定です。        
                                                                (参考:Wikipedia

                                                                              戻る


人権擁護法案

 この法案は、最初は法務省が人権擁護推進審議会の答申、「人権救済制度の在り方について(2001(平成13)年5月25日)」を受けて作成・立案したものです。
この答申は、現在の人権救済の制度である「人権擁護委員制度」が果たしてきた役割を評価しながらも、実効的な救済という観点からは十分とはいえないとして、
人権擁護委員制度にかわる新たな人権救済制度の創設をもとめています。法案は2002(平成14)年3月8日の第154回国会に提出され、第155回国会、第156回国会と
3会期連続で審議されましたが、2003(平成15)年の衆議院解散の際に廃案となりました。

その後、2003年11月に熊本県黒川温泉で発生した「宿泊拒否事件」を受けて、熊本県議会で人権侵害事件被害者を救済するための早期の法整備が必要と決議し
国に要請しました。そして2005(平成17)年2月、政府・与党が一部修正を加えた上で第162回通常国会に再提出する方針を固めましたが、自民党内で反対意見が
噴出した結果、自民党執行部は同年の7月に第162回国会での法案提出を断念しました。しかし、自民党の中川秀直国対委員長は同年9月18日に放送された
サンデープロジェクトで法案が再提出されるであろうと言う見通しを示し、同年9月29日の参議院本会議では民主党の神本美恵子議員の人権侵害の問題に関する
質問に対して、小泉純一郎内閣総理大臣が「人権擁護法案を、出来るだけ早期に、提出出来るように努めて参ります」と答弁して法案成立に意欲を見せました。

この法律案によって設置される行政機関である人権委員会(仮称)に対して、その権限の大きさ、委員の選出過程の不透明さなどが批判の対象となっています。
それは、たとえば自由な報道を規制する道具に転用される恐れがあるという理由からです。これについては国連人権小委員会より提案された国内人権機構の
地位に関する原則(パリ原則)に沿ったものとなることが求められています。
                                                                    (参考:検証会議最終報告書・提言) (参考:Wikipedia

                                                                                             戻る


ハンセン病問題基本法

 この法律は、2006年11月のシンポジウムで初めて提案された、議員立法による法律です。これが提案された理由は、ほぼ次の4つに集約されます。
(1)国立ハンセン病療養所の入所者は2007年5月現在で2890名で、平均年齢は79歳を上回ります。厚労省は「確認事項」における「在園保障」の内容を踏みにじるような
所謂
「長尾レポート」などを作成し、入所者の「将来構想」には、暗雲が立ちこめようとしています。
(2)また将来、療養所内に民間機関を併設することによって、療養所の存続を考える場合、「らい予防法廃止に関する法律」の第二条がそれを妨げます。
(3)それに加えて、入所者の生活の基本に関わる法律の名前が「廃止に関する法律」というのも決して相応しいものではありません。
(4)さらに2003年に起きた「宿泊拒否事件」の際に見られた、依然として根強い「差別」を規制する法律の制定は、実現に至っていません。
 これらの問題を一挙に解決するべく、「ハンセン病問題基本法」を制定しようという動きが出て来たのです。立法のためには、国会議員の協力要請も必要ですが、
100万人の署名を集めて国民的運動として盛り上げるのが必要と考えられて、活動が開始されました中心となる団体は「ハンセン病療養所の将来構想を
すすめる会(すすめる会)」で、その構成メンバーは、
全国ハンセン病療養所入所者協議会、ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会ハンセン病違憲国賠訴訟全国
弁護団連絡会、ハンセン病市民学会、全日本国立医療労働組合、ハンセン病首都圏市民の会
の六つです。

 署名運動は順調に進行し、約半年間で919,540筆に達しました(2008年6月6日)。そして遂に2008年6月11日参議院での可決によりハンセン病問題の解決の
促進に関する法律
(通称・ハンセン病問題基本法)が成立に至りました。

                                                                     参考:ハンセン病問題基本法のページ
                                                                                             戻る


「五輪期間における外国人出入国・中国滞在期間に関する法律指針」問題の経緯人民網日本語版・北京週報 2008年06月03日)

『北京五輪組織委員会は6月2日、「五輪期間における外国人出入国・中国滞在期間に関する法律指針」を発表した。北京の日刊紙「京華時報」が伝えた。

同「指針」は、現行の法律法規に基づき編纂されている。オリンピック開催期間中の外国人選手、官吏およびメディア記者が、中国の関連法律法規を理解し、遵守するための参考となるよう、入国・出国、オリンピック競技観戦、観光、宿泊、交通、飲食、娯楽など各分野にわたる8種類57の問題について、詳細な規定と条件が定められている。

「指針」によると、オリンピック開催期間中に中国を訪れる外国人は、中国の法律を守ることが求められている。法律に違反した者は、当事者の行政・刑事責任が追及される。

「指針」の補足説明によると、オリンピック開催中、外国人は一時的な住居の賃貸が可能だが、規定に基づき公安機関に登録しなければならない。故意による焼却、破損、落書、踏みつけなどの行為により、公共スペースで中国の国旗・国章を侮辱した者は、法律に依り刑事責任が問われる。外国人観光客が入国時に持ち込んだ食品は、中国滞在期間中を消費期限とし、一日につき一種類・一箱に限られる。規定量を超えるものについては、税関の入境検験検疫機関に申告しなければならない。

このほか、入国旅客一人一回につき、ペットを一匹に限り同伴することが許可される。ペットの種類は猫・犬のみに限られ、検疫検査を通過した後、入国が許される。

北京五輪組織委員会の担当者によると、開催国が各期のオリンピック開催前に自国の法律に基づき入国外国人に対して法律上の保護と制限を与えることは、オリンピック史上の慣例となっているという。

以下6種類の外国人は、五輪開催期間中の入国が禁止される。

  1. 中国政府により国外追放処分となり、再入国許可期日に達していない
 2. 入国後にテロ・暴力・転覆活動を行う恐れがある
 3. 入国後に密輸、麻薬密売、売春行為を行う恐れがある
 4. 精神病・ハンセン病・性病・開放性肺結核の伝染病に罹患している
 5. 中国滞在中の滞在費を保障できない
 6. 入国後、中国国家の安全・利益を脅かすその他活動を行う恐れがある』(北京週報 2008年06月03日から

 日本では、まず「ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山」が6月11日に駐日本国特命全権大使日本オリンピック委員会宛に要望書を送りました。続いて6月23日には、WHO(World Health Organization・世界保健機関)、IOC(International Olympic Committee・国際オリンピック委員会)、国際ハンセン病学会、北京五輪組織委員会に対し、要望書を出しています。また7月7日、「日本ハンセン病学会」は声明書(日本ハンセン病学会の声明)を出し、「ハンセン病市民学会」も、厚生労働省及び中国の崔天凱駐日大使あてに要望書を出しました。なお2008年7月12日、政府は北京で15、16両日に8年ぶりに開催される「日中人権対話」で、ハンセン病患者を入国禁止とする北京五輪組織委員会の出入国指針について見直すよう中国側に要請する方針を決めました。

 中国はその後、7月22日、入国禁止の取りやめを決定しました。共同通信は「新華社電によると、国家品質監督検査検疫総局は、中国がハンセン病患者の差別撤廃を求めた国連人権理事会の決議を支持しているとした上で「約束を履行しハンセン病患者への差別撤廃を実際の行動で示すため、国外の患者と家族の入国許可を決めた」とした。」と報じています。

                                                                                      戻る



ハンセン病:差別撤廃、国連で決議採択

 【ジュネーブ澤田克己】国連人権理事会は18日、ハンセン病患者らに対する差別を重大な人権侵害だとする「ハンセン病差別撤廃決議」を全会一致で採択した。日本が提案し、オブザーバーを含めた58カ国が共同提案国となった。

 決議は、ハンセン病の患者や家族らに対する差別を重大な人権侵害だと認識して、差別を根絶させるための措置を取るよう各国に要請。各国の取り組みについての調査実施を国連人権高等弁務官事務所に求めるとともに、人権理事会の諮問委員会で来年9月までに差別撤廃へ向けたガイドラインを作成する--ことが盛り込まれた。(毎日新聞 2008年6月19日)


 ジュネーブで開かれていた国連人権理事会は18日、ハンセン病患者やその家族に対する差別を重大な人権侵害だとする決議を全会一致で採択した。この案は日本政府が提案し、中国やブラジルなど58カ国が共同提案国となった。

 決議は、各国政府に同病患者や家族らに対するあらゆる差別を根絶するための措置を取るよう要請。国連人権高等弁務官事務所に実態調査を求めるとともに、の諮問委員会で差別撤廃に向けたガイドラインを作成することが盛り込まれている。(産経新聞 2008年6月19日)

 「ハンセン病・回復者およびその家族に対する差別撤廃決議案」(2008年6月18日)

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