過ぎさればT
過ぎさればT
夢とうつつがまだ分かれていなかったころ、私たちが人間であるという意識のなかったころ、
さらに以前の、私たちが今のような肉体をもたなかったころ、霊魂だけが私たちを知っていた。
 
そのころ、夢は夢ではなく、うつつはうつつではなく、すべては霊的空間のなかに在った。
苛酷な荒波に翻弄されても、森羅万象ことごとくおさまるべきところにおさまるのである。
砂の上に何を描こうとも、何を刻印しようとも、波と風がそれを消しさってゆく。
だが、魂に描かれたもの、魂に刻印されたものは永久に消しさることはできない。
 
ここにある5枚の写真は、病とたたかいながらなお生き生きしていたつれあいである。
 
 
過ぎさればU
過ぎさればU
「過ぎされば すべて夢のごとし」‥とつれあいが言ったのは平成3年夏のことだったと思う。
たのしかったことも、かなしかったことも、過ぎてみれば遠い記憶のなかに朦朧として在るだけで、
現実におきたことなのか、夢のなかに出てきたことなのか定かでないほど曖昧になってゆく。
 
つれあいは十年に及ぶ出口のみえない病との苦闘に疲れはて、思わずそう言ったのだ。
 
 
過ぎさればV
過ぎさればV
「外国も勿論いっぱい見たいけど、住むならこの町がいい」‥といえる町、そんな町に住みたい。
いつだったか、つれあいはそう言った。ずいぶんと昔のことである。こうも言っていた、
すぐれた映画は、俳優も演出も映像も音楽も素晴らしいし、最初の数分で良さがみえる、
でも、すぐれた映画の一番すぐれているところは文章だと思う、字幕の深い文章を目で追い、
そして酔い、全身に充実感がみなぎり、こころが昇りつめてゆくような名文、せりふ‥。
 
近松やシェイクスピアのせりふが四百年を経て色あせるどころか、なお精彩をはなっているのは、
それらが単なるせりふではなく、永遠の生命の息吹を与えられた名文だからなのである。
 
 
 
過ぎさればW
過ぎさればW
いい文章に出会ったら、いつまでもその文章をこころにとどめておきたいと思う、そういう文章を書いてください。
いつだったかそんなことをいわれたような気がする。つれあいはそんなことはいっていないと言うのだが‥。
 
 
過ぎさればX
過ぎさればX
たのしかった時はつらかったことが夢のように、つらかった時はたのしかったことが夢のように思える。
たのしかったことは比較のしようもあるが、つまり、たのしかったことAと、たのしかったことBやCとの比較。
 
しかし、つらかったことを較べるのは困難だ。つらいことはできるだけ忘れようという思いがはたらき、
記憶の引き出しを封印するからである。そしてまた私たちは、いまのいま遭遇している「つらいこと」が
一番つらいのである。過去はすでに過ぎたことであり、いまのつらさは進行中のことであってみれば、
その現在進行形のつらさが身にこたえるのである。出口がみえなければなおさらこたえるのである。
 
つれあいは重篤な病を経てこういう風に思ったそうである。明るく生きても、暗く生きても同じ一日なら、
明るく生きてゆくほうがいい、過ぎさればすべては夢のごとしなのだから‥と。