在京中、都電に乗るのはちょっとしたたのしみだった。
早稲田から駒込方面、神田須田町から浅草方面。
 
路面電車はひどくゆっくり走る、それがいいのである。
電車がゆっくり走れば会話の時間も十分にとれた。
カーブを曲がるときの、きしむような金属音もよかった。
 
それよりもなによりも、いちばんよいのは排気ガスゼロ。
 
路面電車に乗ると窓外の景色をゆっくり見ることができる。だから町の概要も人もすぐに把握できるのだ。
人類が速度のはやい乗り物から外をみるようになったのはごく最近のことで、長い間歩いてみていた。
脳の装置は早急に変化するものではない、歩きながらみた景色は記憶にのこりやすく、数十年たった今も
鮮明におぼえている。
 
同じ景色をみても、みる人によって印象は異なるし、その人の持つ感性や体験によっても印象の強弱や深浅
は異なったものとなる。景色といい風景といい、他人が(あるいは本が)決めたものより自らが発見したものの
ほうが深く長く記憶の底にとどまるのである。他人が決めた世界遺産ではなく、自分が決めた自分遺産‥‥
こそがその人にとって真の遺産となるべき風景なのである。
 
旅をするとは、そうした風景を発見することにほかならないのではないだろうか。
 
             ★上の画像はフライブルクの旧市電です。画像をクリックするとプラハの路面電車へ移動します
 
 
 
 チュ−リッヒにかぎったことではない、少なくとも私の見てきたヨーロッパの町では4列横隊になって
わがもの顔でのし歩く女子中高生に出会ったことはない。また、コンビニの前でべた〜と尻をつけて
座りこみ、飲食物をそこいらじゅうに食い散らかしている光景も目にしたことはない。
 
 世間の人は云う、親の躾(しつけ)がなっていない、学校教育が悪いなどと。
たしかに世間の指摘は当たらずしも遠からずという側面を持っている、だが、問題は彼女自身にある。
彼女らは要するに美と醜の識別ができないのである。躾などという文字からして身を美しく保つと書く
のであったが、美醜の区別さえおぼつかないとあってみれば、心身にそなわる美学も異なろう。
 
 人の迷惑になるかならないかも実は彼女たちの美醜への思い、あるいは美学と密接に関係しているの
ではないだろうか。美醜に鈍感、無頓着な輩(やから)は他人に迷惑をかけることにも無頓着である。
美醜に無頓着な輩は状況判断ができない、そういう類の人間が近年異様に増えた。
自己の言動が美しいか美しくないか、そのことを常にチェックしている者なら考えられないことである。
状況判断できるかできないか、そこが問題なのだ。状況判断できない者に責任感の生じようはずもない。
 
 こういう話はいわば年寄りの繰り言にすぎない、だからというわけでもないが話題を変える。
 
 スイスは精密機械、とりわけ高級時計でつとに有名であるが、スイスの時計職人の先祖はフランス人だ。
16世紀の宗教改革盛んな折、カトリックの宗教弾圧から逃れたフランスの新教徒の時計職人はスイスの
小さな町に移り住んだ。当時、時計は王侯貴族にしか手に入らぬ高級品で、もっぱら王や貴族の受注に
よって生計を立てていた時計職人は移住を余儀なくされたのだ。
それがスイスに幸いしたというべきで、スイスの今日あるのは四百年以上前の歴史が貢献したのである。
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